解題
この神社は天平元年(729)宇佐より八幡を勧請したのにはじまるという。また鎮座地は神功皇后西征の時に船をつないだ長井浦であるとの伝説もある。隆景時代に小早川氏から厚い保護を加えられていたが、現在も三原の大氏宮で、東野、山中両村と東町の産土神である。
一 小早川氏奉行人連署制札
制 札
(備後)
右当御普請中、いと崎社辺之石大小共竹木之事、少も切取へからす、若於違背之
輩者、為地下人からめしこし、則御法度ニ可申付者也、
(慶長元年ヵ・1596) 井上 (春忠)
六月十八日 伯 耆 守(花押)
鵜飼 (元辰)
新右衛門尉(花押)
粟屋 (元利)
河 内 守(花押)
「書き下し文」
右当御普請中、糸崎社辺りの石大小ども竹木の事、少しも切り取るべからず、若し違背の輩に於いては、地下人としてからめしこし、則ち御法度に申し付くべき者なり、
「解釈」
右、当社ご普請中の、糸崎社あたりの大小の石や竹木のこと。少しも切り取ってはならない。この命令に背く連中においては、地下人として捕縛し、すぐに刑罰を言い付けなければならないものである。
二 福島正則扶持方等給与状
(備後)
御調郡三原糸崎之八幡神主宗左衛門方へ、扶持方参人并為御最花米五石、右ハ当年
(元和四年)
ミの年まてあとハ相渡候間、同むまの年よりまい年可相渡候、以上、
けんわ三年(1617) (福島正則)
十二月廿五日 宰相(花押)
間嶋美作守殿
「書き下し文」
御調郡三原糸崎の八幡神主宗左衛門方へ、扶持方参人并びに御最花として米五石、右は当年巳の年まて後は相渡し候ふ間、同じく午の年より毎年相渡すべく候ふ、以上、
「解釈」
御調郡三原糸崎の八幡神主宗左衛門方へ遣わす、扶持方三人と御初穂としての米五石。右は当年の巳年まで渡しましたので、同じように午年からも毎年渡すつもりです。以上、
*解釈がよくわかりませんでした。
「糸碕神社のクスノキ」