周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

法常寺文書1・2(完)

解題

 この寺はもと新庄(竹原市)にあった。正嘉二年(1258)沼田小早川茂平の二男政景が竹原小早川氏を起こして以来、同氏の菩提所となり、初代政景から十二代興影までを葬った。

 往昔は天台宗であったが、天文十八年(1549)、洞雲寺(佐伯郡廿日市町)の開山金岡用兼の法孫大休登懌を迎えてから曹洞宗となり、洞雲寺の本寺周防の龍文寺末となっている。

 元亀二年(1571)には新庄より現在地へ移った。

 十三代隆景は、竹原小早川家の由緒から当寺で葬式をし、沼田小早川家の墓所米山寺に葬られた。

 

 

    一 毛利氏奉行人連署打渡状(切紙)

 

 (備後)

 三原之内法常寺、十三町半百石足之事、遂披露之処、対貴寺末寺、右之前可打渡

 之由、可申旨候、謹言、

                  

     元亀二              就重(花押)

      七月三日        玉三郎右衛門尉

                     元良(花押)

      (周防)

      龍文寺

         侍者閣下

 

 「書き下し文」

 三原の内法常寺、十三町半百石足の事、披露を遂ぐるの処、貴寺の末寺に対して、右の前を打ち渡すべきの由、申すべき旨候ふ、謹言、

 

 「解釈」

 三原法常寺の十三町半・百石の所領のこと。毛利輝元様に披露したところ、貴寺の末寺に対して右の所領を引き渡せよという、あなた様に申し上げる件がございます。謹言。

 

 「注釈」

「龍文寺」─山口県周南市長穂門前(https://visit-shunan.com/ryuumonji/)。

 

 

    二 小早川氏奉行人連署書状(切紙)

   以上

 (三原)

 法常寺山堺之儀、東者鳥居限、北西者雨落限、御寺家之依景気ニ被仰出候、於以来

 右之御分別可為尤候、門前左右之田畠御隔心之由被仰候条、重而替之地御寄進可被

 成之御意候、右之通東堂様可為御披露候、恐惶謹言、

      (1593)

      文禄二年         井上又右衛門尉

       霜月十七日         春忠(花押)

                   包久内蔵丞(真)

                     景□(花押)

                   鵜飼新右衛門尉

                     元辰(花押)

      法常寺

       納所

          御中

 

 「書き下し文」

 法常寺山堺の儀、東は鳥居を限り、北西は雨落を限る、御寺家の景気により仰せ出だされ候ふ、以来右の御分別に於いて尤もたるべく候ふ、門前左右の田畠御隔心の由仰せられ候ふ条、重ねて替への地御寄進を成さるべきの御意に候ふ、右の通り東堂様御披露を為すべく候ふ、恐惶謹言、

 

 「解釈」

 法常寺山堺の件ですが、東は鳥居を限り、北西は雨落を限る。寺家の眺望の観点から、小早川隆景様がご命令になりました。以後、右のご区分を当然のこととしなければなりません。門前左右の田畠は法常寺領には含めないと仰せになりましたので、重ねて替地をご寄進にならなければならないというお考えです。右のとおり、東堂様がそちらにご披露になるはずです。恐惶謹言。