解題
中世、中部瀬戸内海で勢威をふるった因島村上家に伝わる文書で、三巻五十一通からなる。一号から三号までは因島に関するものではあるが当家との関係は明らかではない。
その後は足利将軍家・山名・河野・大内・毛利の各氏から村上氏の歴代にあてた書状・感状・宛行状などが主たる内容をなしている。
金蓮寺は因島村上氏の菩提所であり、同氏歴代の墓がある。当寺には、宝徳二年(一四五〇)の在銘瓦三枚(県重文)があり、その銘文は付録(一一八二頁)に収めた。この寺にはこのほか村上氏に関する遺品が数多く伝えられている。
可早宛賜給田捌段内四斗代 二段
三斗代 二反
二斗代 二反
一斗代 二反
右公文清原守高、可宛賜之状、所仰如件、
(1222)
貞応元年十一月十一日
比良木祢宜鴨県主(花押)
「書き下し文」
早く宛て賜ふべき給田捌段内四斗代・二段、三斗代・二反、二斗代・二反、一斗代・二反、
右、公文清原守高に、宛て賜ふべきの状、仰する所件のごとし、
「解釈」
早々に給与するつもりである給田八段のうち、四斗代・二段、三斗代・二反、二斗代・二反、一斗代・二反のこと。
右の給田を公文清原守高に給与するつもりである。ご命令は以上のとおりである。
「注釈」
「因島庄」
─因島全島を荘域としたと思われる荘園で、後白河院によって形成された長講堂領の一つ。建久二年(1191)一〇月日付の長講堂所領注文(島田文書)に「因島 募臨時所課並預所得分、勤仕女房外居」と記されるのみで立券の時期など詳細は不明。年号不詳の六条殿修理料支配状写(八代恒治氏所蔵文書)には「備後因島庄」と荘号がみえる。
その後因島庄は三ヵ所に分割されて三津庄・中庄・重井庄と称される。建治二年(1276)八月日付の備後国御調郡内諸庄園領家地頭注文(教王護国寺文書)によると「三津庄」は「領家常光院領」「地頭右近将監」とあり、「十町一反百九十歩 加請田三丁定」。「因島中庄」は「領家宣陽門院御領」とあり六丁と記して「地頭相模左近大夫将監殿御給」とする。「重井浦」は「同領家 左近大夫将監入道正円」とあり二反一二〇歩を記して「地頭御家人左衛門尉秀氏伝領也、国ノ大田文前注之、公田之」とする。建久三年後白河院の没後、長講堂領は皇女宣陽門院覲子内親王に伝領されたが、因島庄については三津庄のみ同皇女前斎院式子内親王(のちに白川常光院に入る)に分与されたと推定される。なお中庄については検討の余地がある史料ではあるが、貞応元年(1222)一一月一一日付比良木禰宜鴨県主下文(因島村上文書)にすでにその名がみえ、清原守高なる人物が給田八反の公文職に補任されている。
地頭職は前掲の建治二年の注文にみえるように、中庄は北条宗政、他の二ヵ所もおそらく北条一門が有したと考えられる。さらに元弘三年一一月得宗領因島地頭職は、後醍醐天皇によって浄土寺(現尾道市)に寄進された(前期綸旨)。しかしこの浄土寺領は、杵築氏・衣河氏などの濫妨によって必ずしも安定したものではなかった(浄土寺文書)。所領確保を望む浄土寺は、建武三年(1336)二月一九日、九州下向途中の足利尊氏の安堵を受けた(同年三月七日付「杉原泰綱請文」同文書)。浄土寺領因島庄の内容は建武四年一〇月に作成された浄土寺領因島地頭方年貢注文(同文書)に詳しい。因島三ヶ庄は、塩特産地荘園という特徴があり、公田畠は百姓名に編成される一方、各名ごとに塩を賦課された。そのうち地頭得分は塩四四二俵一斗三合、公田加徴米・地頭名分米合計五八・五八九四七石、同麦四二・九六九三五石と記されている。
建武五年正月十日、足利尊氏は浄土寺領として一度安堵したはずの因島庄地頭職を東寺に寄進(「足利尊氏寄進状案」)。浄土寺との関係は明確でないが、以後因島地頭職は東寺に伝領されることになる。しかし東寺の荘務も容易ではなく、暦応四年(一三四一)三月には豊田郡の生口島甲乙人らが広沢五郎らと共謀して寺領を侵略(浄土寺文書)、貞和三年(1347)一〇月には竹原庄(現竹原市)住人左衛門尉茂重・子息愛鶴丸・小早川氏平らに年貢を押領された(貞和三年一〇月九日付「建長寺雑掌政賢請文」東寺百合文書)。とりわけ小早川一族の因島庄侵略は、以後東寺側を苦しめることとなる。この年に荘務押領に失敗した小早川氏平は、翌年六月、同族千代松丸を年貢一五〇貫文の納入契約で東寺領代官職に就任させた(「東寺雑掌頼勝申状具書案」同文書)。観応元年(1350)一一月には江見道源によって因島雑掌は追放され年貢も押領されたが(観応二年四月日付「東寺雑掌定祐申状」浄土寺文書)、このような海賊押領に乗じて、小早川貞平は軍功の賞として将軍家から因島地頭職を与えられた(年月日未詳「東寺申状案」東寺百合文書)。東寺側は幕府に訴えたが、荘務回復は実現できず、ようやく貞治五年(1366)九月下地半分が返付された(貞治五年九月一四日付「室町将軍家御教書」同文書)。さらに至徳四年(1387)閏五月一二日付足利義満因島地頭職寄進状(同文書)をもって、幕府が先に小早川貞平に付与した下文を召返し、再度東寺へ地頭職を寄進することで決着をみた。
しかし現実に貞平の子息春平が代官職に補任され、そのうえ当初年間三〇〇貫文の東寺得分は七〇貫文に減少し(嘉慶二年「小早川春平請文案」同文書)、南下をめざす小早川一族の因島支配は後退したわけではなかった。翌年九月には早くも春平の押領が表面化し(「因島支証案」同文書)、以後しばしば東寺は幕府に訴訟して失地回復に努めたが(長禄二年四月日付「東寺雑掌寺崎玄雅申状」同文書)、実質的な解決には至らなかった。寛正四年(1463)六月日付東寺雑掌申状(小早川家文書)には、東寺領因島と弓削島(愛媛県越智郡)に対する小早川一族の海賊行為が明らかであるが、とくに因島庄地頭分押領人交名(教王護国寺文書)には「中庄 小早河梨殿」「三ケ庄 小早河備後守」「重井庄 杉原名子木なし・ほかう両人」の名がみえる。以上の過程によって東寺領因島庄は実態を失い、寛正五年一二月二日付の東寺廿一口供僧評定引付抄(東寺百合文書)の記事を最後に姿を消す。
なお、元弘三年五月八日付大塔宮令旨(因島村上文書)に「因島本主治部法橋」の名が見え、因島村上氏ではこれを祖先とするが(因島村上源氏家譜)、詳細については不明部分が多い。文安六年(一四四九)八月吉日付の中庄金蓮寺棟札写(因島村上文書)には、中庄村として「村上備中守源義資の名がみえる。寛正三年には、東寺領因島代官として「村上備中」が補任された様子もあり(東寺百合文書)、因島村上氏の勢力拡大が開始されたと推測される(『広島県の地名』平凡社)。