亀田達也『モラルの起源』(岩波新書、2017年)
*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。
また、誤字・脱字の訂正もしていません。
はじめに
人はどこまでサルなのか
P8
けれども、逆に、人間のことはサル(やほかの動物たち)を研究しないでも分かるのでしょうか。人文学の対象である「人が人である所以」、別の言い方をすれば「人間社会」の成立にとって、数学能力や言語能力だけに尽くせない、サルにはない何らかの特性・能力が必要であることを示すためには、「人はどこまでサルであるのか」、そして「どのようにサルではないのか」を検討しなければなりません。人間本性のユニークさを知るためには、同時に、ユニークでない部分を明らかにする必要があり、二つの作業は言わばコインの表裏を構成しています。サルと人間を比較する立場が、「人をサルの延長として短絡的に捉える」ものでは全くないことは明らかです。
第1章 「適応」する心
P2
生物学では、生き物を「適応」のシステムと捉える立場が主流です。生物種としての「ヒト」の心や行動を適応という視点から考えるということは、人の心や行動を適応という観点から考えるということは、ヒトの心や行動がヒトが生きる環境に適ったものとして進化してきたのだと捉え、考察していくことに他なりません。
1. 生き残りのためのシステムとしてのヒト
P6
これまで論じてきた適応は、生物が進化するのに必要な、かなり長い時間をかけて起こるものでした。このようなスケールの時間を「進化時間」と呼びたいと思います。進化時間の適応のほとんどは、遺伝的なプログラムのかたちで、私たちのDNAに書き込まれています。しかし、もっとも短い時間スケールで生じ、遺伝テシに書き込まれていない適応を考えることができます。たとえば、甘いものへの好みを考えてみましょう。
P7
これは、「歴史時間・文化時間」における適応戦略と呼ぶことができます。このタイプの適応は、遺伝子には書き込まれていないものの、文化的な媒体・経路(伝承、教育、宣伝など)を通じて、個体間で学習・模倣され、「人」の社会に定着します。本書では、この「歴史・文化時間」での適応にも着目していきます。
ちなみに、適応については、もうひとつの時間スケールを考えてみることもできます。今度は、私たちがハイキングの途中で遭難しかかったという状況を考えてみましょう。このような緊急時の遭難環境では、ポケットの中にある一片のチョコレートは極めて貴重な資源であり、積極的な摂取は私たちの生存に有利に働きます。つまり、歴史時間・文化時間よりももっと短い生活時間においても、適応ということが考えられます。
こう考えると、私たちの行動には、「三つの時間軸における合理性」が互いに絡み合うかたちで影響を与えていることが分かります。その結果、私たちの心には三つの時間に由来する異なるベクトルが競合することになります。同じ対象(糖など)に接近したい一方で回避したいとも思う「揺れ動く心」をもつことも、これによって説明できるかもしれません。「接近か回避かのジレンマ」は、それぞれの時間スケールにおける生き残り上の有利さを実現しようとするうえで生じている可能性があるということです。
本書では、ヒトとしての一〇万年以上にわたる長い進化時間によって生じた適応と、そのうえに展開された数百年・数千年という歴史・文化時間における人としての適応の両面から、人間の心の働きについて考えていきたいと思います。
→自殺は、歴史・文化時間における適応でもあり、不適応でもある。自分が死ぬことで、生き残る人に利益を残そうと考えた場合は適応といえ、絶望によって死ぬ場合は不適応と言えるか。生きていることよりも死ぬことに価値があると考えた場合は、社会に適応したと言えるのか、不適応だったと言えるのか。
P12
最後に、システムということに触れておきましょう。ヒトを含む生物は、まとまりをもった一つのシステムとして機能しています。生物を構成するパーツは、身体的なものであろうと行動的なものであろうと、それぞれに独立して機能しているわけではなく、相互に緊密に関係しながら働いているのです。人間社会の行動はとても複雑で、互いに矛盾するように見える場合さえあります。しかし、全体としての行動は「生き残りのためのシステム」として理解できる、という視点が、本書を通底する基本的立場です。
P13
では、適応システムとしてのヒトが適応すべき環境とはいったいどんなものなのでしょうか。
もちろん、自然環境への適応はヒトにとっても決定的に重要です。しかし、生物種としてのヒトにとっての最大の適応環境とは、おそらく群れ生活そのものにあると考えられます。自然環境に適応するための手段として群を選んだ結果、今度は群れの中でどう生きるかについての新たな適応問題が生じてきたわけです。生物学の教科書を見ればすぐに分かるように、群を作り群れの中で生きるやり方は、生物にとってただ一つの生き方ではありません。つまり、ヒトの遠い祖先は、進化的な意味で、群れることを「選んだ」ことになります。
P15
ここで留意すべきは、脳という器官は非常に維持コストの高い器官だということです。脳の消費するエネルギーの量はほかの機関と比べてとても大きく、大きな脳をもつことには相当の大きなコストがかかります。ヒト(成人)では、脳が体全体に占める体積は二%程度ですが、消費するエネルギーは全体の二〇%にも上ります。そのような高いコストがかかるにもかかわらず、類人猿がとくにお大きな脳を獲得・維持してきた理由は、コストに見合うだけの必要があったからだとかんがえざるをえません。そしておそらくその必要とは、群れ(社会集団)の増大に伴う、情報処理量(認知、判断、言語、思考、計画など)の飛躍的な増大だったと考えられます。(中略)
ダンバーは図1−2に見出された関係から、ヒトにとっての本来の社会集団(群れ)の大きさは、だいたい一五〇人くらいだろうとの推論を導いています。(中略)さらに、ダンバーは、現代社会においても、認知的なまとまりをもつ集団、一人の行動が集団全体の遂行と直接的に関連する集団(お互いに認識できる範囲での、日常的な相互依存関係の成立している集団)の大きさは、やはり一五〇人前後であると主張します。
P17
バーンはここから、自分と同じくらいの知性をもつ個体が身近に存在し、互いが協力したり競争したりするような社会的事態の複雑さこそが、霊長類の知性の主な起源であると主張します。そして、このような知性のあり方を、一六世紀フィレンツェの外交官で、政治における権謀術数の重要性を訴えた『君主論』の著者マキヴェリの名を取って、「マキャヴェリ的知性」と名付けています。
第2章 昆虫の社会性、ヒトの社会性
P24
しかし、ヒト以外の動物種においても動物たちの示す特定の身体姿勢や運動のパターン、発声の仕方などが投票や意見表明と同じ機能をもつことが、近年の生物学の研究から明らかにされています。こうしたかたちでのメンバーの「投票」は、多数決などの「集団決定ルール」を通じて、巣場所の選択や移動の開始など、群れ全体での統一的な行動にまとめられます。言語能力はとても重要であるものの、集団意思決定を行うための必要条件ではありません。
つまるところ、集団意思決定とは、個々のメンバーの意思(「餌場Aに移動したい」、「この巣からそろそろ別の場所に引越したい」などの意思)を、群れ全体の行動選択にまとめあげる集約の仕組みに過ぎません。この意味で集団意思決定は、人間に固有ではなく、社会性昆虫のほかにも、魚類、鳥類、食肉類、霊長類などにおいてかなり広く認められます。
P26
(ミツバチは8の字ダンスで蜜のありかや巣の候補地の方向を他のハチたちに伝えるが、この時のダンスの長さと熱心さが、見つけた巣の候補地の良さを反映している。熱心に宣伝される巣の候補地ほど、多くのハチたちが次に訪問しやすくなる。)
P27
このように、自分がどこに行くべきかを他のハチたちの宣伝に応じて決める行動の仕組みは、人気が人気呼ぶ社会的な増幅プロセス(正のフィードバック)を通じて、探索委員会の間に次第に「合意」を生み出します。
そしてその合意がある教会を超えると(すなわち、ある候補地へ訪問したハチの数が閾値を超えると)、アゴヒゲ状の仮の宿に留まっていたコロニー全体が新しい巣に引越しをします。人間では、たとえば「三分の二以上の賛成による多数決」などといったルールで集団の意思を決定しますが、ミツバチの場合、閾値を超えることがそれに相当するのです。
P29
ミツバチの巣探し行動には、集合知(collective intelligence)が見られるのです。集合知とは、「三人寄れば文殊の知恵」のように、個体のレベルでは見られない優れた知性が、群れや集団のレベルで新たに生まれる集合現象を意味します。(中略)
株式市場ではしばしば、自分のもっている情報よりも、ほかの人の行動を情報源として優先して、それがつぎつぎと全体に広がっていく連鎖現象が見られます。このような現象は、経済学で「情報カスケード」と呼ばれ(カスケードとは階段状に連なった滝のことです)、現在いろいろな分野で関心が寄せられています。情報カスケードが生み出す可能性のあるエラーの連鎖を、ミツバチの集団意思決定はどのように防いでいるのでしょうか。
P30
政治学者のリストらによる最近の理論研究から、ミツバチがエラーの連鎖を防ぐメカニズムについて、鋭い洞察が得られています。リストらの研究は、エージェント・シミュレーションと呼ばれる技法を用いています。(中略)
まず、行為者であるミツバチは、ほかのハチたちの示す行動に「同調」する必要があります。(中略)
しかし、集合知が生じるためには、同時にもう一つの条件を満たさなければなりません。それは、訪れた候補地についての「評価」は、他のハチたちの宣伝に影響されて(=同調して)訪れた候補地であっても、その候補地が巣としてどれだけ良いかに関する評価は、自分の目だけを信じて行うということです。
P31
このように、「行動の同調」と「評価の独立性」をうまく組み合わせた行動の仕組みによって、コロニー全体としての優れた遂行が生まれるようです。このミツバチの行動の仕組みは、次に見るように、ヒトの社会行動の特徴を考えるうえで、非常に重要なポイントになります。
P36
サルガニクの言い方を借りれば、「個人条件で人気の曲は社会条件でひどい売上げにはならない。不人気の曲も社会条件で大ヒットしない。しかし、それ以外のいかなる現象も社会条件では起こり得る」と言う結果でした。これを文化市場での言葉に言い換えると、「本当に素晴らしい作品は大コケはしないし、本当にひどい作品が大ヒットするということもないが、それ以外はなんでもあり得る」ということになります。(つまり、傑作が平均以下しか売れないこともあるし、凡作が大ヒットすることもあるということです)。実際、個人条件で中くらいの人気だった曲は、社会条件では大ヒットしたり、ひどい売上げになったりと、極めてばらつきの大きいマーケットシェアが観察されました。この結果は、文化市場でどの作品が大ヒットするか、誰がスーパースターになるかについては専門家でもなかなか予測できないという知見とも合致しています。
P38
(ヒトと違って、ハチやアリは強い血縁社会で生きている。ハチやアリにとっては、自分の遺伝子を次世代に伝えるためには、たとえ自分が犠牲を払っても、群全体が生き残ればそれでよい。P39:このロジックは、強い血縁社会を作らないヒトには当てはまらない。P40:そのような生活形態で働く自然淘汰は、群れ全体ではなく、主に「それぞれの個体」を単位に生じる。)
P40
したがって、いくら群れレベルで望ましい結果を生むはずの行動でも、当の個人の生き残りに不利になるようなら、その行動は定着しません(この、集団と個人の利益のずれに関しては、次章でくわしく説明します)。したがって、もし「まわりの評価と独立に自分の目だけを信じて判断を下す」ことが、当の個人にとって不利益をもたらす可能性が少しでもあるなら、ヒトは、評価においてまわりに全面的に同調することになります。ヒトは、他者の意図を敏感に察知し、極めて戦略的に反応する「空気を読む」動物なのです。
P41
自分一人がみんなと違う考えをもっているのではないかと誰もが同時に思い込み、周囲に同調してしまう社会的な現象を、社会心理学では、多元的無知(pluralistic ignorance)と呼びます。誰一人信じていない、妥当だとは思っていないことが社会的に実現してしまう。その意味で人々は互いの思いに対して「無知」な状態を作りあっています(実体ではない「世間」に、みんなが合わせていて行動している状態です)。そこでは、まわりの沈黙に応じて自分が沈黙を守る行為が、今度は沈黙への圧力を「まわりに対していっそう強化する」社会的な循環プロセスが作動しています。
ここで留意したいのは、いくら社会的に「無知で馬鹿げた」状態が生まれているとは言っても、各個人の立場からすれば、沈黙を続ける行為そのものは合理的(=適応的)であるということです。
P42
このように、ヒトは、ほかの個体の示すさまざまな行動に極めて鋭敏に反応します。さらには行動だけでなく、他者がどのような状態に置かれているか(福利やステイタスなど)に対しても、共感性や利他性などのプラスの反応、あるいは嫉妬、偏見、差別といったマイナスの反応を示します。
P47
三十年戦争などの悲惨な戦争を長い間、何回も繰り返してきたヨーロッパ中世の歴史を承けて、ホッブズは、人間集団の自然な状態を「闘争状態」だと考えました。
P48
つまり、ホッブズは、平和な暮らしをどのように実現するかという問題への解答として、人々がそれぞれ勝手に振る舞うことをやめ(自然権の放棄)、強力な中央集権の仕組みを自ら進んで受け入れること(「社会契約」の締結)が、「人々自身にとってもっとも合理的な選択」であると論じたわけです。当時の絶対王政の妥当性を支える論拠に、それまでの「王権神授説」に代わる全く新しい政治哲学を打ち出したホッブズの議論はとても画期的であり、またそれゆえに、現代にまで続く多くの論争を巻き起こしました。
第3章 「利他性」を支える仕組み
P50
つまり、以前ほかの個体に血を分け与えたことのある個体は、血を与えたことのない利己的な個体に比べて、獲物にありつけなかったときに多くの血を分けてもらえます。さらに、コウモリたちの一部は、以前自分に血を分けてくれなかった相手に対して血の分配を積極的に拒む行動さえ見せたのです。「恩には恩で返す」、「仇には仇で報いる」といった、いかにも人間的な「信義に厚い」行動が、チスイコウモリの社会で観察されたわけです。
チスイコウモリの社会に、ホッブスが考えたような強い中央集権の仕組み(絶対王政のような統治機構)はもちろん存在していません。このような行動パターンは、強いリーダーや王権によって上からコントロールされたものではなく、対等な個体同士が相互作用するなかから自然に生まれた「平和状態」(人文社会学の言葉を使うなら「自生的秩序」)です。
P51
(チスイコウモリは)ファイナンスの言葉を使うなら「リスクヘッジ」をしていることになります。
P52
進化生物学者のトリヴァースは、このような特定の相手との安定した協力関係のことを互恵的利他主義(reciprocal altruism)と名づけています。「利他」という言葉は、ふつう、相手を無条件で利する行為を意味します(たとえばマザー・テレサのように)。しかし、ここでは「互恵的」という修飾語が付いている点がポイントで、将来の見返りがあることを前提に相手を助ける行為を指しています。双方向的な関係が安定して見込まれる場合に生まれる利他性が互恵的利他主義なのです。
P54
しかし、人間の社会で互恵的利他主義が普遍的に見られ、平和な暮らしを築く重要な基盤となっていることは間違いありません。たとえば、政治学のアクセルロッドは、第一次世界大戦の時に、最前線の塹壕で向かい合うドイツ軍部隊とフランス軍部隊の間に「殺しも殺されもしない」やり方がよく見られたことを指摘しています。両軍とも積極的に相手を狙って撃とうとはしない協力関係が自発的に生まれ、その結果、向かい合う部隊の間で暗黙の休戦状態が実現したと言います。
しかし、このようなローカルな平和(自生的秩序)を壊したのは、中央司令部による突撃命令と実行への監視でした。相手の協力が安定的・長期的に見込まれる限り自分も協力する互恵的利他主義にとって、直接のプレイヤーではない(現場にいない)中央司令部の上からの介入は、まさに想定外の妨害要因だったわけです。
P59
霊長類の大脳新皮質進化の項で論じたように、非血縁者を含む群れ生活において各個体に高度の情報処理能力(大きい脳)が必要となるのは、生き残りをめぐって個体同士が複雑に依存し駆け引きを行うからです。
P60
一般に、「〜してはいけない」、「〜であるべきだ」などの、個体間で共有されている信念のことを社会規範(social norm)と呼びます。「目には目を、歯には歯を」といったハードなものから、「損して得取れ」「情けは人のためならず」などの比較的ソフトなものまで、私たちの社会には、相手との等価な行動のやり取りを訴える文化規範が幅広く存在します。規範は人間をほかの動物から区別し特徴づける鍵として、人文社会科学にとってもっとも重要な概念の一つです(規範を論じることは「文系」の最中心のミッションだと言っても過言ではないでしょう)。こうした文化規範は、非血縁の相手との互恵的利他主義という進化的適応をベースに、それぞれの歴史の中でさらに展開され、積極的な社会価値として、世代を超えて脈々と伝達されています。
P63
組織が意思をもつ、群衆が心をもつといった言説は、マクロな社会現象(たとえば、集団ヒステリーなど)を記述するための喩えやレトリックには適しているかもしれません。しかし、それを「説明」するための科学的概念としては不十分だと考えざるを得ないようです。
その理由は、ハチやアリなどの社会性昆虫と違って、ヒトの集団や社会は、少なくとも個人と同じ程度には、それ自体のまとまりや持続的な意思をもち得ないからです(たとえば、学校は、行為者としてまとまった「一つの意思」をもち、いじめを生み出せるでしょうか?)。ヒトの集団や社会は、進化的に考えて、一枚岩の存在ではあり得ません。個人もたくさんの細胞から構成されていますが、集団や社会に比べればはるかに一枚岩のシステムです。社会心理学者オルポートは、この意味で、集団心や集合心などの概念を強く批判しました。オルポートは、集団心・集合心などの概念は、「集団を一つのまとまりや心をもつ実体と捉えた、誤った概念設定である」と批判し、そうした論理的誤りのことを集団錯誤(group fallacy)と名づけています。
同じように、もし社会規範についての説明が、「ヒトの社会が、自らの存続に役に立つ社会規範を維持している」ことを少しでも意味するなら、それはヒト社会を主体・実体として見る集団錯誤の議論になります。個体が規範に従うかどうかの意思決定はできても、社会が「行為主体として自ら」規範を維持したり破棄したりすることはできないからです。人々が規範に従うかどうかは、社会が決めるのではなく、各人の意思決定の問題なのです。
P64
では各人にどうやって規範を守らせたらよいのでしょうか。第一に社会教育によって規範を個人に浸透させること、そのうえで警察や法などの有効な制裁装置を作り出すことが考えられるでしょう。社会教育はもちろん重要で有効な方法ですが、型破りが生まれてくるのを完全に防ぐことはできません。とすると、どうしても社会的な制裁(sanction)装置を欠かすことができません。
P65
それでは、制裁装置をどうやって維持すればよいのでしょうか。(中略)しかし、ここでの問題は、抜け駆けした者にわざわざ罰を与えるのに、自分にコストがかかる点です。
(個人で掟破りに罰を与える場合、返り討ちされる可能性がある。)
型破りに罰を与えるか、与えない(見て見ぬふりをする)かの選択についても、共有地にたくさん放牧するか、控えめにするかというそもそもの選択と、構造的にはまったく同じ社会的ジレンマが存在することになります。
一方、自警団や警察に取り締まってもらえばよいとする議論に対しては、それを維持するコストを払うか、払わないかをめぐる同型のジレンマが存在します。
P66
こう考えると、どこまでさかのぼってもジレンマから簡単に抜け出せないことは明らかです。こうした無限にさかのぼる「高次のジレンマ問題」を世界で最初に実験で取り上げたのは、北海道大学の山岸俊雄教授でした。この根本的な問題は、モノやサービスに対してコストを支払わずその利益だけを享受する、ただ乗り問題(free-rider problem)と呼ばれ、社会的なシステムをどのように設計するかを考えるうえで重要な鍵を握ります。
結局、特別の罰を与える方法があっても、経済的合理性の観点から誰もそのコストを引き受けようとしないなら、事実上、「社会的に罰は存在しない」ことと同じになります。もし、人間が個人利益の最大化を図ることを前提にするのであれば、「誰も罰しない」ことを冷徹に読み切った村のずる賢い掟破りは、堂々と掟を破り、ただ乗りを続けるはずです。しかし、実際の私たちの社会では、制裁は機能し、規範は維持されているように思います。いったい、これはなぜなのでしょうか。
P67
行動経済学者のフェアとゲヒターは、この点を検証するために、人間を対象とするシンプルな実験を行いました。実験参加者は毎回四人で一組となり、公共財ゲーム(public goods game)を行いました。
P76
そうした不公平な状況に自分が置かれたり、それを第三者として見聞きすると、脳の前島(anterior insula)と呼ばれる部位(96ページ図4―3参照)が強く活性化します。また、ゲーム実験で不公平な分配を実際に拒否したり、非協力の相手を罰する場合にも、参加者の前島の活動が大きくなっていることが分かりました。前島は、情動や自律神経活動に関与する大脳辺縁系(limbic system)と呼ばれる脳部位と密接につながっており、痛みや不快の経験、喜怒哀楽・恐怖などの基礎的感情の体験に重要な役割を果たすことが示されています。
また、規範を逸脱した相手への罰行動が行われた直後には、主観的な満足や報酬の経験と関わる脳領域の活動が大きくなること(不正を罰することは「快」である)ことも分かっています。私たちが直近の経済学的・物質的な利益を無視してまで罰行動をする背景には、不公平に対して「感情に駆られる」心の動きがあるようです。
P81
それでも、私たちは実際、しばしば誰かを助けます。このように、いつ誰からともなく、回り回って援助が返ってくる(かもしれない)かたちでの「二者に閉じない助け合い」は、進化生物学で、間接互恵性(indirect reciprocity)と呼ばれます。間接互恵性は、チンパンジーやボノボなどのほかの霊長類を含め、ヒト以外の動物ではほとんど観察されていません。
P82
狩猟採集民の社会でもゴシップはとても熱心に行われます。
ダンバーによれば、ゴシップはサルの群れにおける毛づくろいと同じ役割を果たすと言います。サルの毛づくろいは、友好な関係を保ったり、壊れかかった社会関係を修復したりするのに役立つことがわかっています。ヒトの場合には、毛づくろいの代わりに言葉を使って「今ここにいない誰か」についての噂話をすることが、互いのきずなや連帯感を強めるという主張です。
しかし、ゴシップの働きはそれだけではありません。ゴシップの一つ一つの情報は面白おかしいいい加減なものであっても、それが積み重なると、ある人の「人間性」を露わにするケースがしばしば生まれ、それがその人の「評判」となります。「評判の良い人」とされるか「評判の悪い人」とされるのかは、その人の利他性によるところが大きいでしょう。なかでも、相手からの直接の見返りが期待できないような場面において、相手に親切にするか、あるいは手のひらを返したように冷淡になるかは、その人のもっている「本当の利他性」の程度をよく表す指標と言えるでしょう。とくに当の本人が計算せずに表出した行動、たとえば、誰も見ていないと思ってやった行動は、情報価が高いと言えます。
P83
私たちは、ゴシップを通じていろいろな他者の本当の利他性についての情報を得ることで、直接知らない相手であっても、評判の良い人とは付き合いたいと思う一方で、評判の悪い人はなるべく避けようとします。ゴシップなどの評判メカニズムは、どの相手とどう付き合うべきかをめぐる「対人マーケット」において、重要な選別の機能を果たしているのです。付き合う相手としてほかの人から選ばれることが、集団での生活を進化的に選択したヒトにとって根本的な適応の要件となるのは、言うまでもありません。このような評判のメカニズムは、ツイッターやラインなどの情報サービスが普及した今日の社会で、とくに大きな影響を発揮します。
結局は人情家が得をする?
近年の研究では、間接互恵性で見られるような自発的な親切行為や援助行動は、このような言語を介した評判のメカニズムを基盤として、ヒトの心に定着したのではないかと考えられています。
P85
こうして私たちは、人情家を好み、また人情化であろうとするように心を適応させてきたわけですが、固定した小集団で暮らしていた時代と異なり、近代化・産業化の歴史は、市場メカニズムの拡大を通して、会社・組織などの自由な対人マーケットを広げました。そこで選ばれるために、「優秀な人」、「能力の高い人」であろうとし、その競争はますます激化しています。これは歴史・文化時間における新たな適応であると言えるかもしれませんが、その一方で大規模で厳しい競争は、進化時間仕様の私たちの心にストレスをもたらします。そんななか、「情に流される人情家」のことを見聞きして私たちがホッとして温かい気持ちがする背景には、計算をしない相手と付き合いたいという、感情に駆動されたデマンドがあるのかもしれません。
ヒトは「仲間」と協力関係を作ることがとくに上手な動物です。そのような協力関係を作る上で、ヒトの極めて敏感な社会的感受性、具体的には、罰の可能性への恐れや、相手との不公平を気にする感情、他人の私生活への強い興味やゴシップ、相手への同情心などが、重要な役割を果たすことを見てきました。そこでは、合理的で冷徹な計算よりも、しばしば「情に流されること」が適応上の意味をもつ可能性を論じました。つまり、私たちヒトの心は、感情の働きを中心として、平和な暮らしを作ることができるように、進化的にうまく調整されてきました。しかし、歴史・文化時間におけるヒトの社会では、協力関係を築く「仲間」の呼ぶ範囲を、一五〇人程度の自然集団から、会社、組織、共同体、国家といった人工的集団に拡張するさまざまな仕組みが作られてきました。「仲間感情」を基盤とする協力(ホッブズの言葉を使えば、平和な「社会的秩序」)の範囲は、いったいどこまで拡張可能なのでしょうか。残る二つの章では、この問題を取り上げ、それが人文社会科学の中心的テーマとどのように関わるのかを考えます。
→時代の変わり目、とくに戦国時代では、この「優秀な人」、「能力の高い人」という基準が優先度を高め、マーケットも大きくなるのではないか。
「仲間」の及ぶ範囲が、自然集団よりも多い人工的集団に拡大したからこそ、「ゴシップ」が必要になってきたのではないか。
第4章 「共感」する心
P89
しかし、近年の研究では、共感とは、こうした「思いやり」だけでなく身体模倣や情動の伝染などを含む重層的なシステム(empathetic system)であり、その一部はヒト以外の動物たちにも共有されているのではないかと指摘されています。
P90
表情模倣は、相手の表情が動き始めてから〇・五秒くらいのうちに立ち上がる、素早く自動的で、反射に近い反応です。この反応は生まれたばかりの赤ちゃんの段階でもみられること、また、マカクザルなどの霊長類にも類似の現象が見られることから、進化論的に組み込まれた生得的反応だと考えられています。
同様の同期・模倣現象は、表情だけではなく、身体の動作や姿勢、話すスピード、声の高さにも認められ(早口や高い声が移る)、感覚・知覚と動作を自動的に協調させる脳の仕組みに基盤をもつとされています。
P93
言い方を換えると、ヒトには、自分の身体を媒体に「相手の動作や表情をコピーする」ことで、相手の意図や感情などの「心的状態」を理解しようとするメカニズム─身体化された認知(embodied cognition)と呼ばれます─が備わっているようです。このような無意識の同期プロセスは、「共感性」のもっとも原初的なレベルに位置すると言えそうです。
P96
さまざまな動物種で広く認められる情動伝染は進化的・神経的な共通基盤をもつと考えられますが、マウスであれヒトであれ、「伝染の起きる自然な境界・範囲は仲間や血縁者」という知見はとても重要です。
P101
この実験で、同じグループの仲間は、チューブに入れられたラットのように、苦境に立たされていたわけではありません。しかし、いずれの実験でも、自分の利益よりも他者の福利を優先する利他行動が、短い時間であまり迷うことなく起きています。利他行動にオキシトシンが関与する神経メカニズムについてはまだよく分かっていませんが、「グループの仲間に対する思いやり行動の多くが、情動に影響され半ば自動的に起こる」ことは、近年のほかの研究からも示唆されています。
P103
またこのタイプの共感が働きやすいのは、とくに母子間や血縁の相手、友人、同じグループの「仲間」に対してだったことを思い出してください。社会心理学で自分の所属する集団のことを内集団(ingroup)と呼びます。家族や親族はもちろん、同じ地域のコミュニティ、チーム、クラブ、学校、会社、ひいては国家なども内集団になり得ます。「情動的共感が内集団を自然な境界(限界)とする」点は非常に重要です。
P104
これまで述べてきた「情動的共感」は、自他の壁をなくしてしまう「自他融合的」なプロセスを特徴としていました。それに対して、詐欺師の共感は、自他間に壁を設ける「自他分離的」なプロセスを前提としています。このようなクールな共感は「認知的共感」と呼ばれます。
P105
心理学で、誤信念課題(false belief task)と呼ばれるテストがあります。次のような課題です。
(二人の子どものうちの一人・サリーが、人形を箱に入れて外出。それをもう一人の子ども・アンがベッドの下に移す。戻ってきたサリーは最初にどこを探すか。)
大人にとって「箱の中」という正答は自明ですが、三歳くらいまでの子供は、「ベッドの下」と答えてしまいがちです(この年齢は課題内容や文化によって変動します)。誤信念課題に正しく答えるためには、観察者として事態の全貌を知っている自分の認識と、サリーのもっている知識とを、切り離して考える必要があります。他者が自分と違う信念をもつ場合があることを理解し、異なる信念に基づく相手の行動を正しく予測するためには、生まれてから思春期にかけてずっと発達の続く大脳新皮質の働きが必要であるようです。
P107
前節で、身体的苦痛を感じたときに働く、脳の痛み回路を紹介しましたが、興味深いことに、この痛み回路は社会的な苦痛を経験するときにも同様に反応します。(中略)「心が痛む」というのは、単なる表現上の喩えではないということです。(中略)
心理学者のマステンとアイゼンバーガーが、先ほどと同じ除け者状況を実験参加者が第三者の立場で見ているときの脳活動を調べたところ、参加者の脳の痛み回路は活性化しませんでした。そして非常に興味深いことに、先ほどの認知的共感が起きるときに働くメンタライジング・ネットワークが活性化したのです。しかもその傾向は、成人の参加者に比べて、一二、三歳の中学生の参加者の間でとくに顕著でした。つまり、他者の身体の痛みに対しては情動的に共感するが、他者の社会的痛みには認知的な共感のプロセスが起きるということです。ただし、そこでの「共感」は必ずしも単純なものではありません。
他者が社会的苦痛を経験しているとき、私たちは「なぜ」という問いを発します。この実験では、「なぜ被害者はハブられているのだろう」という問いだけでなく、「なぜ加害者はハブっているのだろう」、「どちらに問題があるのだろう」、「これはいじめなのか、それとも?」という疑問を含めて、関係するさまざまなプレイヤーの考えや気持ちを推論することで、起きている自体を客観的に理解しようとします。そして「ハブ状況」を正確に理解する必要は、成人よりも、「現場に近い」中学生で高いと考えられます。このような舵取りの難しい社会場面(政治的場面と言ってもよいかもしれません)をうまく切り抜けるために役立つのは、自動的に立ち上がる情動的な共感よりも、いろいろな人の視点を取ったうえで適切な判断をするための、より認知的な共感でしょう(第1章で論じた「マキャヴェリ的知性」の話と深く関係します)。
→大人は経験済みだから、活性化の度合が中学生より低いのではないか。ハブる・ハブられる事情が複雑になっているうえに、そういう経験が浅ければ浅いほど、その出来事への関心は高まり、対処を誤る危険性も高いので、活性化しているのではないか。
P111
さらに興味深いことに、実験でこうした自他分離的な整理反応のパターンを示す参加者ほど、日常生活場面でも他者への援助を行いやすいことが分かりました。自動的に立ち上がってくる生理反応を認知的にうまくコントロールできる人ほど(つまり「個人的苦悩」に圧倒されない人ほど)、日常場面で有効で適切な援助を他者に与えられるという可能性を示唆する知見です。こうしたクールな利他性は、有能な医者や行政担当者など、緊急時の対応を担うさまざまなプロフェッショナルたちが備えるべき必要条件でしょう。
また、社会科学の研究から、身体的・精神的な障害のある人々は、しばしば「ノーマル」な人々の外集団(outgroup)として、さまざまな偏見(スティグマと呼ばれます)やステレオタイプの対象となりやすいことが指摘されます。本実験の結果は、「異質な相手」に対する利他性が、自分と同質である内集団に向きがちな情動的共感ではなく、相手の立場を考慮した認知的共感によって担われる可能性を意味するものかもしれません。
本章で論じてきた多層な共感性のかなりの部分は、ほかの動物たちとも共通する、自動的でホットな共感でした。ホットな感情は身近な相手への利他行動を支える重要な基盤となる反面、共感性の働く範囲を「いま、ここ、私たち(内集団)」に限定しがちです。一五〇人程度の小さいグループにおいて進化時間で有効だったホットな共感性は、何百万人が暮らす大都市や七〇億人を超える未知の人々が相互作用する現代社会の問題群、すなわち「未来、あちら、彼ら(外集団)」を含む問題群に対処するためには不十分かもしれません。
P113
一九世紀の終わりに活躍した近代経済学の父・マーシャルは、経済学を学ぶためには、「冷静な頭脳と温かい心(Cool Head, but Warm Heart)をもたなくてはならない」と論じました。マーシャルの構想した経済学は社会の福利をいかに増やすかという問題意識に貫かれていました。共感性の多層な構造は、まさにマーシャルの言葉を現代社会でどう実現するかという問題に通じるのかもしれません。
第5章 「正義」と「モラル」と私たち
P122
限られた資源をどのように分けるかという問いは、分配の正義(distributive justice)の問題として知られています。分配の正義については、これまで法・政治哲学や倫理学を中心に「あるべき分配のかたち」が論じられてきました。功利主義のように、哲学・倫理学の「規範的な立場」からの論考は、実社会でのさまざまな分配の意思決定に指針を与えてくれます。
しかしその一方で、「〜べき」を司令する正義・規範(先ほどの例では、「総量が最大になるように食糧を配給すべき」)が、「〜である」「〜する」という人々の素朴な認知・行動(実際にトラックを止めて、七〇%の住民にすべての食糧を配る)とどの程度なじむのか、どう関連するのかについては、まだほとんどわかっていません。
P125以降
(最後通告ゲーム:実験者から1万円渡されたAがBに何円分配するか。産業社会における分配比率は40〜50%。小規模社会(多くても人口数百名程度の部族や村落)ではバラバラ。)
P128
興味深いことに、分配提案額の違いは、その社会がどのくらい市場経済に統合されているか、日常場面でどのくらい協力が行われているかといった、「社会全体のマクロな特徴」の違いによって統計的によく説明できました。(中略)図から分かるように、市場統合がなされているオルマの社会のほうがハッツァの社会より、平等に近い「フェア」な分配提案が行われています。その一方で、年齢、性別、教育を受けた期間、同じ社会の中で比べた時の富(家畜・現金・土地)のレベルなど、一人一人の「個人としてのマイクロな特徴」の違いは、個人間での分配提案のばらつきを統計的にほとんど説明できませんDEした。
P132
アメリカのジャーナリストだったジェイコブズは、古今東西のモラルは、大きく「市場の倫理」と「統治の倫理」という二つの体系に分けられるという(大胆な)主張をしています。市場の倫理とは、読んで字のごとく、自由な取引を重んじる商人型の道徳規範です。一方、統治の倫理とは、政治・権力関係に基づく秩序を重んじる官僚・軍人型の道徳規範です。
P133
ジェイコブズの「古今東西のすべてのモラルはこの二つの型にまとめられる」という主張そのものは、おそらく単純にすぎるでしょう(同僚の倫理学者・哲学者たちの猛反発が目に浮かびます)。しかし、社会における道徳規範とは、平和で安定した協力関係をどのように作るかというホッブズ以来の問い(秩序問題problem of order)を解く「生き残りのためのシステム」であり、それぞれの文化における道徳規範は、「秩序問題への異なる解き方」(異なる社会の作り方)である、という論点には、傾聴すべきものがあると思われます。
P137
(進化ゲームの結果)倫理がそれぞれ一つだけであれば協力的な社会が実現できるのに、二つの倫理が拮抗すると互いにいがみ合って社会の協力が崩れてしまう、という結果はとても示唆的です。
P139
興味深いことに、人を対象とする脳イメージング実験から、自分と相手の間の不平等が改善される(格差が減る)と、腹側線条体(ventral striatum)などの「報酬系」と呼ばれる脳部位が賦活する(「快」と感じられる)ことが分かっています。しかも、その不平等が自分にとって不利だった場合だけでなく、有利だった場合でも働くことが明らかになっています。
こうした事実は、フェアらの主張と一貫して、相手との不平等は不快に感じられる一方、格差が低減することは「快」(報酬)として経験されること、そして報酬系が「公正」を支える神経基盤の一つとして働くことを示しています。こうした格差を嫌う心の働きは、たしかに分配の正義を実現することに役立つでしょう。
P140
しかしその一方で、自分よりも優れた相手が失敗する場面を見たときにも、観察者の脳の報酬系が賦活するという実験報告もあります。優れた相手の失敗(不幸)は、相手との格差が減る事態を意味するため、とくに「蜜の味」と感じられるのです。逆に、たとえ自分の所得が上昇しても、他者の所得がもっと急激に上がる場合には、却って人は不幸を感じるという、相対的剥奪(relative deprivation)と呼ばれる現象も社会学では昔から知られています。さらには、大きな経済的格差が存在する社会ほど、さまざまな病気・疾患への罹患率や死亡率などの統計が高いという事実が、世界各地での多くの疫学調査から報告されています。経済的格差の存在はストレスとなり、人々の寿命を縮めるという結果です。格差や不平等を嫌う人間の心性は、相手の成功への嫉妬や競争心、社会からの疎外感や病気などのネガティブな側面とも切り離せないことがわかります。
このように、良い意味でも悪い意味でも、他者との比較をつい行ってしまうヒトの(そしてヒト以外の霊長類やほかの哺乳類の一部にも共通する)敏感亜性質は、「心の社会性」の根幹部分に位置しています。こうした心性は、分配の正義を考えるうえで見逃すことのできない基礎的な事実と言えるでしょう。
→格差が自殺の原因になるという点は理解できるが、なぜ「死」を選ぶのかという説明の答えにはならない。
P142
ロールズが一九七一年に公刊した『正義論』A Theory of Justiceは、二〇世紀の「規範的な正義論」の中でもっとも重要な著作の一つだと言われています。
P144
本性の扱う富の分配に限定して単純化すれば、ロールズの思考実験は次のように進みます。
①無知のヴェールの元で自分の個人属性について一切知ることができないときは、人は、社会の中でもっとも不遇・悲惨な立場(ミニマムの立場)に自分が位置する可能性に目を向ける(懸念する)ようになる。
②その結果、人は、「最不遇の立場を最大に改善する分配」のかたちを、自分にとって、もっとも好ましいものと考える。
③全員がそう考える結果、「社会の中でもっとも不遇の人々にとっての利益を最大化する政策」を生み出すような基本原則が、正義の原理として「全員一致」で合意される。すなわち、最小(minimum)を最大化(maximize)するマキシミン原理(Maximin principle)が、社会を作る基本原理として合意される。
P157
狩猟採集社会における平等分配から、近代社会における社会保障や所得再分配制度に至るまで、社会的分配は生存の脅威となるさまざまなリスクを、集団的に減らすための安全装置として機能しています。私たちが生きる社会生態学的環境の中で「自体がどの程度悪くなり得るのか」に気を配ることは、生き残りのための必須要件だと言えるでしょう。つまり、リスクのもとでの意思決定でも社会的分配でも共通して、人々は「不遇な状態の可能性」にとりあえず「身を置いてしまう」(その視点をつい認知的に取ってしまう)わけです。
ロールズ(的な思考)は私たちの心の中に、自然かつ頑健なかたちで存在しているようです。
P159
本章の冒頭で、「セーギの味方」というシラケた感覚の背景のひとつに、正義は個人を超えるか、いわんや「国境」を超えるかという疑問があることを述べました。この問いに対して、現時点までの科学的知識からどのような示唆が得られるのでしょうか。以下では、「セーギの味方」をめぐる根本的な疑問について、経験科学(〜である)の立場から、筆者の考えを述べようと思います。
P161
グリーンはこのように、それぞれの集団内での「私vs.私たち」をめぐる個人間対立は、自然な感情を基盤とする、自動モード(automatic mode)により解かれていると論じています。自動モードとは、あれこれと考えなくても立ち上がってくる(勝手に動いてしまう)生理・心理・行動のプロセスのことを指しています。第3章で見た「人情家」的なマインドは、自動モードの一つの典型です。
自動モードの働きが「正義は個人を超えるか」という問いにどう答えるのか、さらに筆者なりにまとめてみます。どのような具体的なモラル違反が、自動モードを発動させ、怒りや恐れの感情を引き起こすのかについては、それぞれの文化・歴史を通じて「部族」ごとに特有のかたちで調整されています。しかし、それぞれのモラルの維持にとって、進化的適応をベースとする自動的な感情の働きが大事であるという事情は、どの「部族」でも変わりません。場面ごとに自分にとってもっとも合理的な行動を「冷徹に計算する」行為は、長い目で見るとむしろボロを出す可能性があるという点もまったく同じです。
このように、個々の「部族モラル」(適切な振る舞い方)は、大半が脳の感情システムに組み込まれたかたちで、仲間(私たち)との日々の相互作用を通じ、強化・再生産されています。したがって正義は「同じ「部族」に属する限り、個人を超える」と言えるでしょう。進化ゲーム分析の結果も、この見方を支持しています。図5―5では、武士道プレイヤーが大多数を占める集団も、商人道プレイヤーが大多数を占める集団も、メンバー間で繰り返される相互作用を通じて、安定した「平和で協力的な社会状態」をそれぞれ自生的に維持できています。
P162
それでは、もう一つの「正義は「国境」を超えるか」という問題はどうでしょうか?
「私vs.私たち」(Me vs. Us)の間ではうまくいった、感情に導かれた「自然な問題解決」は、ここでは機能しません。どのようなモラル違反が自動的な感情を引き起こすのかが異なっている以上、人々の行動に「部族」の境界を超えた一致は生まれないからです。図5―5の進化ゲームの分析で見たように、二つの倫理が拮抗すると互いにいがみ合って社会の協力が崩れてしまうことになります。
P163
グリーン自身は、この「私たちvs.彼ら」(Us vs. Them)をめぐる困難を少しでも克服するうえで、感情によらない、手動モード(manual mode)の働きに希望を見出しています。手動モードとは、直感的ではない、理性的計算による問題の解決法です。
本章の最初で功利主義の考え方を挙げました。功利主義では、複数の政策のどちらを選ぶかについて、それぞれの政策が社会全体にどれだけの効用をもたらすかを計算し、高い効用を与える政策を妥当なものとして選びます。グリーンは、この功利主義を、「部族」間でのモラル対立を超える「メタモラル」として位置づけます。メタモラルとは、個別のモラルを統合するための、一段上に位置する(メタな)モラルです。
功利主義の考え方は、先に述べた「自動モード」(なにも考えなくても自ずから働くモード)にはなじみません。自動モードが自然な感情の流れに乗っているのに対して、計算に立脚する功利主義は、冷たく、利益重視で、著しく「人間性」を欠いた頭でっかちのものと見られがちです。一般の人々はもちろん、心理学・社会学などの研究者も、しばしば功利主義を、自分たちだけのことを考えて他者のことを顧みず、もっとも利益の上がる行動が何かをいつも計算して振る舞う利己主義(egoism)と同じだと誤解します。グリーンは、まずそのような誤解を解こうとします。そのうえで、感情に基づく「自動モード」に依る限り「部族」対立を超えられない以上、むしろ一見すると「冷たい」功利主義の考え方こそ、頭を使った「手動モード」を通じて、誰もが「部族」の壁を超えて理解できる「共通の基盤」(メタモラル)になり得ると論じます。
P164
功利主義が共通基盤になり得るとグリーンが考えるいちばんの理由は、功利主義には固有名詞がない点です。功利主義は、自分を含めて誰かを特別扱いすることなく、人々の平等を前提として「幸福」の総量を最大化しようとうする考え方です。(中略)そしてこのクールな計算プロセスはすべての人に等しく開かれており、それゆえに、「部族」の境界を超えて皆が使える「共通の通貨」になり得る、と言うのです。
グリーンは、この考え方があくまでも折衷(妥協)であることを認めています。同時に、モラルを異にする「部族」同士の対立が多くの惨状を生み出している今日、共通基盤(メタモラル)を、「どこにあるべきか」ではなく、実際に「どこにあるか(あり得るか)」の観点から求める深い実用主義(deep pragmatism)こそが必要であると論じています。
→「どこにあるべきか」という視点は、理想の(一つの)答えがあって、それを人が探し求める状態のことか。「どこにあるか(あり得るか)」という視点は、理想の答えを、その都度自分たちで設定するという状態(状況によって理想的な答えは変わる)のことか。
P166
先に論じたロールズ実験でのもっとも重要な知見も、私たちは、それぞれの主義・主張(個別モラル)を超えて、最不遇の状態に身を置いてしまう(最不遇の視点を認知的につい取ってしまう)という意味での「共通基盤の発見」でした。
繰り返しますが、功利主義がメタモラルとして実際にうまく働くためのハードルは、高いでしょう。功利主義の計算は「無」人情的で、「自然に反する」からです。メタモラルの構想は、功利主義だけでは完結せず。たとえば、ロールズ流の最不遇状態への共通関心などの認知的傾向との組み合わせ(折衷)が必要なのかもしれません。「深い実用主義」の具体的なあり方はまだ分かっていませんし、そのかたちも哲学的に整然としたものというよりは、妥協的なものになる可能性が高いうように推測されます。
P167
しかし、現実社会での深刻な価格葛藤を前に、殺し合いにも、覇権的な正義の横暴にも、相対主義というニヒリズムのいずれにも陥らないためには、メタモラルとしての功利主義の構想を含む「実用性を重視した深い泥沼」にあえて踏み込む覚悟が必要なのではないでしょうか。「国境」を超える正義のための共通基盤がどこにあるのかを求めて、感情や人情だけに拠るのではない、メタモラル問題の未曾有の解き方とそのための具体的デザインを探ること─「〜である」の研究者として、私たちもこのミッションに日々全力で挑戦する以外、ほかに道はないようです。
→「〜べき」の研究者は形式科学の研究者、「〜である・する」の研究者は経験科学の研究者という意味か。