周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

東禅寺文書10

    十 小早川興景申渡状

 

 依蟇沼寺四分一之儀、度々蒙仰分特寄進状披見候、更以雖分別

 候、貴僧之儀者、別而御辛労事候条、為其賞、向後者四百疋之内百疋合力

 申候之間、三百疋御納専一候、弥祈念之儀可肝心之状如件、

     (1535)

     天文四年八月五日        興景(花押)

 

 「書き下し文」

 蟇沼寺より四分の一の儀、度々仰せを蒙る分特に寄進状披見し候ふ、更に以て分別に及ばず候ふと雖も、貴僧の儀は、別して御辛労の事候ふ条、其の賞として、向後は四百疋の内百疋を合力し申し候ふの間、三百疋の御納め専一に候ふ、いよいよ祈念の儀肝心たるべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 蟇沼寺から、四分の一の件に関してたびたびご指示を承った内容については、特別に寄進状を拝見しました。まったくもって道理を考えるまでもないことですが、あなた様の件については、とりわけご苦労なさることがありましたので、その褒賞として、今後は四〇〇疋のうち一〇〇疋を援助し申します。したがって、残る三〇〇疋をお納めになることが第一です。祈祷の件をますます重要であると思わなければなりません。

小坂井敏晶著書 その4

  小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま文庫、2020年) その4

  

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

補考 近代の現原罪

P410

 遺伝/環境論争が心理学で繰り広げられてきた。それは家庭環境や学校教育など外力によって人間の性格や能力を変化できるかという問いだ。遺伝も外因であり、内因はどこにもない。ところが、いつしか遺伝が内因と誤解され、不変/可変の構図が内因/外因のパラダイムにすり替わる。それは偶然ではない。神の死がもたらした近代のエピステーメーがそこに隠れている。超越的源泉が消え、根拠が外部から内部に移動したからだ。

 各人固有の要素が成長を司るという意味では遺伝子決定論は内因説だ。だが、遺伝子は両親から受ける所与である故に、実は外因説である。偶然の作用を加えても外因しかない。つまり各人の身体と精神は外部要素の沈殿物だ。この外発的所与を内因と取り違えることで、遺伝/環境の対立構図が、内部/外部の二元論に変身する。

 

P415

 どんなに拡散され、ダイナミックに形を変えてもシステムは実在物だ(河野哲也の心=主体概念の定義)。対するに私論が言及する虚構は実在物ではなく、解釈である。意志や主体は心理状態でないし、メカニズムやプロセスでもない。殴る・銃撃する・強姦するなど、ある身体行動を受動的出来事でなく、積極的に選ばれる自主的行為だとみなす社会判断そのもの、人間存在のあり方を理解する形式が主体や意志と呼ばれるのである。責任概念の歴史変遷を見たように、近代のエピステーメーが導く社会制度であり、政治装置である。

 こんな比喩が理解を助けるだろうか。主体はどんな構造をしているのかと河野は問いかける。対して私論にとって主体とは構造ではなく、世界を見る眼鏡だ。そびえ立つ摩天楼の屋根に美しい虹が架かっている。虹というシステムを河野は同定しようと努める。対して、虹を錯覚するのは、どのような眼鏡をとして見ているからなのか。これが私論の問いである。

 

P418

 人格や能力は外部の力で変化可能かと科学は問いかけた。だが、内因/外因の思考枠に当てはめられ、意味がすり替えられる。人格や能力の形成責任を当人が負わされ、経済格差が正当化される。貧富の差を個人の資質に帰する社会では、社会構造の変革を目指す集団行動が起きにくい。顕著な格差にかかわらず、米国社会で革命が起きない理由は、各自の能力が公平に評価され、努力次第で社会上昇が可能だと市民の大半が信じるからだ。階層上昇が可能であるか、あるいは実際にはそうでなくとも、可能だという幻想がある時、社会構造の正否は問われない。負け組は自己責任を負わされる。メリトクラシーは不平等を正当化するイデオロギーである。

 過去の桎梏を逃れ、自らの力で未来を切り開く可能性として機会均等の理念が導入された。だが、それは巧妙な罠だった。家庭の貧困が原因で進学できず、出世を断念するならば、当人のせいではない。不平等な社会は変えるべきだと批判の矛先が外に向く。対して、自由競争の下では違う感覚が生まれる。成功しなかったのは自分に能力がないからだ。社会が悪くなければ、変革運動に関心を示さない。メリトクラシーの普及を通して学校制度は不平等を正当化し、近代個人主義の社会の安定に寄与する。平等な社会を実現するための装置が逆に、不平等な社会構造を固定する土台として機能する。

 近代は自由と平等をもたらしたのではない。格差を正当化する理屈が変わっただけだ。自由に選んだ人生だから貧富の差に甘んじるのではない。逆だ。貧富の差を正当化する必要があるから、人間は自由だと近代が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だと宣告する。詐欺まがいの論理が社会を支える。リバタリアンのロバート・ノージックだけでなく、環境の影響と自己選択の区別に依拠するロナルド・ドゥオーキン、そしてジェラルド・コーエンやリチャード・アーネソンらが主張する「運の平等主義」(luck egalitarianism)」もすべて、主体概念を擁護し、格差を正当化するイデオロギーである。政治哲学や法学の様々な試みはどれも、瓦解する砂上の楼閣を押しとどめるための虚しい抵抗だ。正義論の正体は神学であり、自由と平等は近代の十戒である。

 近代は神という外部を消し去った後、自由意志なる虚構を捏造して原因や根拠の内部化を目論む。その結果、自己責任を問う強迫観念が登場する。

 

 →人格や能力は外部の力で変化は可能。だが、遺伝という外因によって制限も受けているから、無限の可能性をもっているわけではない。少なくとも、突然変異でもしなければ、人間の形を超越することもないだろう。ただ、所与(外因)としての遺伝が、内因と勘違いされたことが問題。

 ここ最近、トランプが人種差別や経済格差を煽ってくれたおかげで、アメリカ人自身が不平等な社会であることを認識しはじめた。デモが頻発しているのはその証拠。日本人などは、完全にこの虚構を信じ込ませられている。

 教育学者はこのことに気づいているのか?気づいていながら、美辞麗句、虚言を交えて、このシステムの固定に勤しんでいるのか?自分たちの立ち位置を守るために?ただ、本当に悪い虚構だとも言えない。多くを望まなければ、食いっぱぐれることのない人生を、経済的に安定した人生を送るための技術と地位を、現代の教育システムは提供してくれるわけだから。いや、ヤングケアラーと塾・予備校にガッツリ通いながら大学に行ける人間との格差を生み出し続けてる現在の教育システムは、かなり問題がある。学資云々ではない。勉強する時間が取れる人間と取れない人間との間で、格差が生じているのことは気の毒な気がする。この書では、虚構システムの是非を問うているわけではない。この是非を考えるのは政治や、現代を生きている我々自身ということか。

 機会均等こそが平等社会の根幹のように見えるが、それ以前、つまり遺伝レベル、育成環境レベルで不平等が起きているわけだから、そうした不平等を前提に、機会を平等に与えても、不平等は是正されない。むしろ不平等が助長されてしまう。

 近代社会という砂上の楼閣(虚構)を維持するために、政治哲学や法学という虚構が必死になって、新たな虚構を生み出し続けている。こういう状況を認識したうえで、テレビの情報番組や討論番組を見ていると、ちょっと恥ずかしくなってくる…。

 

P420

 自由や責任が決定論問題と無関係だと分かっている哲学者は少数だ。シュリックは『倫理問題』第7章「どのような時、人は責任を問われるか」をこう始める。

 

P421

 強制を感じるか否かが自由と不自由とを分ける基準であり、行為の決定論も非決定論も、自由かどうかの判断と無関係である。決定論問題と自由を結びつけるのがそもそも的外れだ。こう論じるシュリックの文章は1930年、つまり1世紀近く前に書かれた。それでも相変わらず多くの思想家がこの疑似問題に囚われている。

 正しさを保証する超越的源泉が失われた今、誰もが安定を求め、どう生きればよいのかと模索する。だが、この強迫神経症に哲学者こそが罹るのはなぜか。それには理由がある。ほとんどの人間は近代の原理的矛盾に気づきもしない。論理飛躍を気にしなかったり、宗教や迷信に逃げ込む。だが、緻密に考える哲学者にそんな安易な解決は採れない。普遍と自由の矛盾の前で右往左往する姿は、彼らの洞察力と誠実さの現れである。それを理解しなければ、近代の奈落は見えない。

 シュリックの考察は決定論との矛盾を避けるための規範論ではない。社会において自由や意志がどのように理解されているかという客観的事実の考察である。第1章「倫理学は何を求めるか」でシュリックは倫理学の課題を明示する。

 

 (中略)規範科学にできることは、規範を知ることだけだ。規範を自ら定立したり、生み出したりはできない。(中略)規範科学にできるのは、人の判断基準の発見だけであり、そこから現在の事実がどう生まれるかの分析だけである。規範の起源は常に科学や知識の外にあり、科学や知識に先行する。つまり科学は規範の起源を認知できるだけであり、規範の根拠は科学の中にない。

 

 →ある概念がどのようなものであるか、どのように生まれるのかを突き止めるだけ。その概念を生み出したものと、生み出した過程を認知するだけで、その概念の是非などの根拠を見つけるわけではない、ということか。

 

P423

 我々は自由をこう理解している。自由という言葉を社会はこう使っている。これがシュリックの分析だ。自由の正しい定義を提案するのではない。具体的に例示しよう。協調箇所に注意されたい。

 

 (中略)自由は強制の逆を意味する。強制なしに行為するとき人間は自由であり、自らの自然な欲望に従う行為を外的手段によって妨げられるとき、人は強制されており、自由ではない。したがって閉じ込められたり、鎖に繋がれたり、あるいはピストルの脅しの下に、そのような命令がなければ取らなかった行為を強要される場合、人は自由でない。このことは完全に自由であり、責任を問われると考えられている。その中間のケースもある。例えばアルコールや覚醒剤の下で行為する。その場合、当人がある程度自由でなかったと社会が宣言し、責任が緩和されるべきだと考える。

 

 →自殺について自由意志を問題にするのは、自殺遂行の責任を誰に取らせるかを問題にしているから、因果を検証したくなる。自殺を疑似犯罪と見なし、自殺者を被害者・加害者のように、理解しようとしているのか。自由意志を捨てて、自殺を検証すると、どういう記述の仕方ができるのか。

 

P424

 すでに参照した黒田亘の立場も確認しよう。

 

 (中略)意志という事象が客観的に存在し、作用しているということを立証するのは不可能であると思う。というより、「原因としての意志」はあくまで擬制的存在であって、この事情を見抜くことこそ哲学的行為論の第一歩というべきであろう。だがそれと同時に、意志なるものが存在し、原因として作用するという観念ないし信念が、われわれの生活を動かしている重要な因果的要因である、という事実を直視しなければならない。すなわちわれわれは意志が実在し、作動しているかのように感じ、考え、作動している。(中略)「原因としての意志」という観念は、意志行為を取り巻き、支えている慣習ないし制度の重要な一部であり、その観念の実在性と効力を認めないわけにはいかないのである。(中略)

 

 →本来意志など存在しないが、実際に意志が存在し、それが原因として実社会で機能すると、人間全体が共同幻想し盲信している。つまり、あるはずのないものが実在して、実効性を発揮してしまっているのが人間社会。そうすると、そのことを伝えることだけで研究は役割を果たしたことになり、それ以上の何か(規範論・対策・処方箋)を求めるべきない、ということか。

 

 要するに意志の記述は、その結果とみなされる行為の記述と一致する。(中略)すなわち「記述を同じくする二つの事実の因果結合」という論理形式は、知覚や記述だけでなく、意志行為に対してもたしかに当てはまる。当てはまるのは当然で、意志とは、行為と記述を同じくすることを第一の定義的な条件として設定された制度上の存在以外のものではない。つまり、あの志向的因果の論理形式によって行為を語ることができるように、という目的でわれわれの言語に導入されたのが「意志」というタームであるといえよう。

 黒田もシュリックと同じアプローチであり、規範論ではいのは明白だ。だが、社会問題を扱う本はたいてい規範論を練る。状況分析の後、解決の処方箋が必ず出てくる。対応策が見つからなければ、出版を躊躇するほどだ。一般書はそれでいい。だが、物事の根本を見据える哲学者までもが規範論に惑わされるのはなぜか。

 

 →つまり、実態として自由意志があり、それが原因で行為が生じるわけではない。その逆で、行為が生じたからには、必ず自由意志があるはずだと理解するように、われわれが考えるように仕組まれているだけ。そのように理解するように仕込まれているだけ。

 

P428

 近代は無理な要求を掲げる。普遍と自由は、どういう関係にあるのか。人間が自由な主体ならば、作り出される世界はどんな形をも取りうる。世界の原初が真理に支えられていたとしても、人間が生きながらえるうちに世界は次第に真理から離れてゆく。プラトンが立てるイデア論や、知恵の木の実を囓ってエデンの園を追い出されたというキリスト教の物語が、その典型だ。逆に、時間が経つにつれて真理に近づくと考える思想かもいる。ヘーゲルマルクス、あるいはオーギュスト・コント進歩主義がよく知られている。弁証法により真理に近づくとヘーゲルは考えた。アリストテレスの目的因は万物の本質に向かう運動を起こす。ヘーゲルの着想はこれに似ている。だが、真理が未来で人間を待ち受けるなら、自由の意味がない。自由と普遍は相互排除の関係にある。

 普遍と主体、この原理的に矛盾する二つの信奉が近代を特徴づける。神の臨終を聞いたとき、これからは自分たちが世界を築き上げるのだと人間は誓った。意志の力を信じ、歴史変遷は人間が司るのだと了解した。理性を通じて真理が明らかにされ、世界は次第によくなると確信した。哲学者の多くはこのエピステーメーに搦め捕られ、自由意志を擁護し、普遍を志向する。そこに自由と責任の規範論を練り上げる罠が待ち受ける。

 神がいない世界で秩序をどう根拠づけるか。普遍を求める哲学者にこそ、この問いは深刻になる。神の権威を認めなければ、道徳や法は人間自身が制定しなければならない。ところが人間の判断が正しい保証はない。正しさの根拠が明示された瞬間に、ではその根拠はなぜ正しいのかという問いが繰り返される。これが真理だと議論を力ずくで打ち切る審級はもうない。

 神のいない世界で普遍を求める試みには原理的な無理がある。だから神が化けた個人主体にしがみつき、決定法則と自由意志の両立論のような苦しい言い訳を捻り出す。規範論を旨とする法哲学や政治哲学にとって主体の否定は、神の存在を神学が否定するに等しい暴挙なのだろう。

 脳科学認知科学社会学社会心理学において主体はすでに舞台を降りている。だが同時に、日常感覚の自由や責任は別次元の問題として専門知識と噛み合わない。自由や責任に触れるやいなや、感情的な反応を伴って主体が呼び戻される。時代や世界の相対性を知る歴史家や文化人類学者も同様に、身近な問題となる途端に自由と責任の擁護に回る。行為の因果論を否定し、主体概念を批判する哲学者も市民としては、近代社会で責任を支える自由意志を手放さない。だから主体や責任の虚構性に言及すると強い反発が返ってくる。

 近代のエピステーメーが我々の目を覆う。新奇な事物の受容や異質な解釈の理解を妨げるのは知識不足ではない。逆に知識の過剰、常識が邪魔をする。科学理論や社会に普及する過程で歪曲が起こったり、第三世界への新技術導入がしばしば失敗する原因は人々の知識欠如ではない。学術理論や異文化要素と相容れない通念・宗教・迷信・風習があるからだ。

 多くの人々が正義を求め、より平等な社会を作ろうと努力する。だが、規範論は人間の現実から目を背けて祈りを捧げているだけだ。集団現象を胎動させる真の原因は、それを生む人間自身に隠され、代わりに虚構が現れる。規範論の素朴な善意の背景に蒙昧、傲慢、そして偽善が潜む。それをまず自覚しなければ、何も始まらない。

 汚れていると信じ、いつまでも手を洗い続ける強迫神経症。疑似問題に惑わされ、偽の解決に逃避する。乗客の半分が死亡する航空機事故が起き、家族の名が生存者リストにあるようにと手を合わせる。受験結果を見に行き、合格を願いながら自分の受験番号を探す。事態はすでに確定しており、今更何をしようと変わらない。それでも我々は祈る。未来だけでなく、過去さえもねじ曲げようと呪文を唱える。規範論は雨乞いの踊りだ。不都合な事実を隠蔽するために動員されるイデオロギーである。

 

 →普遍(世界に共通の本質・真理)と自由(多様・特殊)は、矛盾する。ゴール(普遍的な真理)が決まっているのなら、自由(多様性や特殊性)が途中の過程に現れても、何の意味もない。端から普遍など求めなければよい。そんなものないのだから。日本は先進国で、ずいぶん科学的な発想ができる国民が多いと思っていたが、どうやら未開の先住民族とあまり変わらないようだ。世の中に出回っている生き方本のような新書は、ほとんどゴミだということになる。迷信に囚われた、非科学的な日本人のなんと多いことか…。

 

P434

 禁止のない社会は存在しない。社会に生きる人間にとって禁止行為は絶対悪であり、相対的判断はなされない。だが、何が禁止されるかは時代・社会に左右される。殺人でさえ全面的に禁ずる社会は存在しない。死刑や戦争は国家による殺人だ。ある条件下で殺人を許容し、殺人を命ずる制度である。江戸時代の仇討ちもそうだ。親の仇をうたない選択肢を選択肢は武士にはなかった。殺人は義務だ。人身御供という習慣もかつてあった。供犠の拒否が逆に犯罪をなす。ヨーロッパ中世の魔女狩りも同様である。

 美人の基準を考えよう。顔をどれだけ眺めても美しさの理由はわからない。美意識は社会規範の反映にすぎない。善悪の基準も同じだ。悪いこうだから非難されるのではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれるのである。真理だから受け入れるのではない。共同体に認められた価値観だから真理に映る。第4章(254−260頁)で示したように、真善美は集団性の同義語である。

 普遍的だと信じられる価値は、どの時代にも生まれる。しかし時代とともに変遷する以上、普遍的価値ではありえない。相対主義とは、そういう意味だ。何をしてもよいということではない。悪と映る行為に我々は怒り、悲しみ、罰する。裁きの必要性と相対主義は何ら矛盾しない。人間は歴史のバイアスの中でしか生きられない。社会が伝える言語・道徳・宗教・常識・迷信・偏見・イデオロギーなどを除いたら、人間の精神は消滅する。考えるとは、感じるとは、そして生きるとは、そういうことだ。

 

 →自殺も同じ。時代によって推奨されることもあれば、非難されることもある。自殺における歴史のバイアスを明らかにするのが、研究意義の1つ。

 

P435

 科学認識論における構成主義も誤解されている。相対性が顕わになっては科学が成立しない。知識、少なくとも学問としての知識は普遍性を志向する。科学の定義からし相対主義は受け入れられない。こういう批判がある。だが、それは勘違いだ。構成主義の最も重要な功績は、世界の恣意性の暴露ではない。恣意性が隠蔽される事実の認定だ。

 新しい科学理論が提示され、古い説が乗り越えられてゆく。つまり科学は常に真理を未来に先送りする。科学の本質が反証可能性にあるとカール・ポパーは主張した。科学的真理は定義からして仮説の域を出ない。命題を満たす全要素の検討は不可能だ。「Aという種別はすべての個体が白い」という命題を証明するためには、世界中に現存するAを見つけて、それらがすべて白い事実を確認する必要がある。だが、それでも十分ではない。観察した個体以外にAが存在しない保証はない。どこかに隠れる個体が黒いかもしれない。死に絶えたAの中に黒い個体が含まれていた可能性も否定できない。将来生まれるAの中に黒い個体がないとも言い切れない。しかし、逆に命題を否定するのは簡単だ。白以外のAが一つ見つかるだけで、命題の誤りが証明される。このように科学の真理は原理的に不確定である。反証性は科学的思考の定義だ。

 未来に答えを預ける科学に対して、宗教の真理は過去に刻まれる。ユダヤ教にとってはタナハ(旧約聖書)、キリスト教にとっては旧約・新約聖書イスラム教にとってはコーランが真理の源泉をなす。教義内容が毎日変わるようでは宗教の権威が崩れる。プラトンイデア論のように、宗教では全体構造が原初に与えられる。社会は閉鎖システムとして立ち現れる。普遍的価値は宗教であり、閉ざされた社会に現れる蜃気楼である。

 古代ではプラトンが、近代に入ってからはルソーやカントなど思想家の他にも、ロベスピエールヒトラースターリン毛沢東金日成など多くの政治指導者が正義の理念を掲げた。宗教裁判や魔女狩りを通して中世キリスト教も正しい世界を守ろうとした。善悪の基準や施策を誤ったのではない。普遍的真理や正しい生き方がどこかに存在するという信念自体が問題だ。アイザイア・バーリンの警告を忘れてはならない。「〜への自由」と呼ばれ、到達すべき理念を想定する積極的自由は全体主義につながる思想である。普遍を求める努力に自由の本質があるとする考えは、まさしく近代が罹った病理だ。

 あり得る誤解をもう一つ解いておこう。本書は社会決定論ではない。「お前の本は評判高いが、神の役割はどこにあるのか」と尋ねた皇帝ナポレオンに、「陛下、神などという仮説は私に無用です」と物理学者ラプラスが答えた。同様に、主体も自由意志も無用な仮説である。だが、ラプラスと違い、本書は作動因の一つとして偶然を重視する。自由意志や主体を否定しても決定論ではない。無意識を実体視するフロイトや、遺伝子に主体の位置を与えるリチャード・ドーキンスのように、内なる他者、つまり寄生虫かエイリアンが我々を操るような不気味な認識論とは違う。

 偶然が果たす役割にもっと注目すべきだ。ほんの小さな出来事をきっかけに異なる道を歩み出す。偶然に翻弄される受動的イメージと異なり、予言の自己実現あるいはピグマリオン効果を通して、変革プロセスに人間が積極的に参加する。偶然出会った人や本が人生を大きく変える。才能を発掘する指導者に出会い、スポーツ選手・研究者・芸術家のアプローチや技術が劇的に変化する。自分の隠れた才能に気づき、新しい挑戦を始める。今まで当然視していた思考枠を疑問視して、それ以降、違う人生を歩む。

 人間が知らないだけで、実は過去の状況により全てが決定されている、偶然は存在しないとラプラスは考えた。だが、クールノーが説いたように、独立する二つの系がそれぞれ内部の因果関係によって完全に決定されていても、二つの系が出会う場面では偶然が生ずる。瓦が屋根から落ちて通行人の頭を直撃する場面を考えよう。雨で屋根が次第に傷み、瓦がいつか落下する。その時その場所で瓦が落下した事実は決定論的事象だ。他方、天気の良い日に通行人が散歩に出る。その時その場所を彼が通ったのも決定論的事象だ。だが、屋根の傷み具合と通行人の散歩は互いに独立した系をなす。瓦の落下と通行人の位置は無関係であり、瓦落下による怪我は偶然起きた事故である。宇宙の全素粒子が瞬間に相互作用を起こすことはできない。光速度の限界からも、それは無理だ。独立系は無数に存在する。したがって偶然は実在する要因である。欠如としてだけ偶然を把握してはならない。神秘的な内因を認めなくとも、人間と社会環境の多様性が過去に還元不可能な未来を用意する。

 虚構と表現するから誤解が起きるのであって、フィクションと書くべきだと助言する人もいる。だが、カタカナ言葉を使って意味をぼかしても解決にならない。『般若心経』の章句「色即是空 空即是色」のように本書は実態論を斥け、関係論を採る。世界は夥しい関係の網から成り立ち、究極的な本質はどこにも見つけられない。だが、その関係こそが堅固な現実を作り出す。空は無とは違う。どんなモノも出来事も自存せず、他の原因によって生ずる。本質や実体は存在せず、関係だけが現れる。これが空の含意だ。曖昧な表現でごまかすのではなく、逆に立場を鮮明にする目的で虚構という表現を本書は使う。

 虚構という表現は意味が強すぎるから擬制の方が良い勧める人もいる。だが、擬制と虚構は違う。「事実に反することを事実であるかのように扱うこと。事実に反することが誰にも自覚されていない『神話』や、相手に自覚させないようにする『嘘』と異なり、誰もが、それが事実に反することを知っている点に特色がある」と説明されるように、擬制はその虚構性が意識されている。だが、虚構性が明らかになっては道徳や宗教は機能しない。虚構が生まれると同時に、その虚構性が隠蔽される。支配もそうだ。安定した支配は被支配者の含意に支えられ、支配の存立構造が隠蔽される。理想的な状態で保たれるとき、支配は真の姿を隠し、自然の摂理のように作用する。

 法制度は擬制であり、機能を担保するために警察という暴力装置を必要とする。だが、宗教・道徳・権威は虚構であるゆえに、内面から自主的な服従を促す。擬制と虚構の違いは権力と権威の違いにも似ている。

 

P441

 権力は擬制であり、合理的判断に支えられる。他方、権威は虚構であり、信仰として機能する。権力(暴力と契約)と権威(ヒエラルキー)の違いに関するルイ・デュモンの指摘を思い出そう。

 

P444

 恋と呼ばれるのは、打算や具体的理由を超えて相手自身が好きだという感覚だ。とにかく好きだという、曖昧で同時に揺るぎない確信だけがある。根拠が隠されるおかげで、恋が生まれる。贈与・貨幣・支配も同様だ。虚構性が隠されるおかげで循環運動が成立する。

 社会制度の虚構性を認めた上で、だからこそ、より良い虚構を作るべきだと説く社会学者や哲学者は勘違いしている。道徳は合理的判断と違う。慣習であり、信仰だ。それゆえに強大な力を行使する。パスカル箴言をもう一度思い起こそう(343頁)。道徳・真理・裁きに根拠はない。だがそれにもかかわらず根拠が存在すると勘違いされなければ、人間生活は営めない。

 道徳は人間が作り出した規則にすぎない。その事実を認めながらも、人間の手に届かない、物理法則のような普遍性を生み出すためにはどうすべきか。これがルソー最大の課題だった。第6章で疎外=外化の役割を分析した。ルソーの問いへの答えがそこにある。各人の主観が相互作用を通して普遍的価値を仮現するプロセスである。

 人間行動を律する信仰の力に驚く。宗教・お守り・占い、墓・仏壇・神棚などの社会装置、冠婚葬祭の儀式、割札と女性器切除の風習、性タブー、七五三・元服・洗礼・入学式・卒業式・入社式・成人式などの通過儀礼、豚・牛・犬・猫・蛇の食物禁忌、抑止力を持たない死刑や復讐の制度、原爆犠牲者追悼の祈りやホロコースト慰霊碑、靖国神社参拝、国歌斉唱と国旗掲揚天皇制や王制、信頼や赦しの慣習、自由・平等・正義・人権などの概念…、どれも迷信であり、虚構だ。だが、それら恣意的で無根拠な慣習や禁止抜きに人間社会は成立しない。

 

 →道徳は、ある人間にとって不条理であるにもかかわらず、それを受け入れさせる力を持っている。それは何か。主観の相互作用によって普遍性が生じるということか。

 

P445

 哲学や科学の合理性に人間がしたがうならば、社会学文化人類学・心理学・精神分析は存在意義を失う。倫理は信仰であり、根拠は存在しない。殺人や強姦など、議論の余地ない犯罪だと認識されるのは理由が明白だからではない。逆だ。禁止する本当の理由が分からないからである。「悪いに決まっている」。思考が停止するおかげで規範の正しさが信じられる。ジンメルの循環的推理を思い出そう(342―343頁)。判断基準は歴史・社会条件に拘束される。この答えが正しいと今ここに生きる我々の目に映る。これが真理の定義である。

 

 →普遍性と追究する前者と、個別性・特殊性を追究する後者の違いか。前者こそがすべてであるなら、すべてのものが普遍性に収斂する、すべてのものが普遍性で説明できるのなら、後者の分析視角など不要になってしまう。

 理由はわからないが、とにかくその行為は悪いんだと、思考停止になって信じるからこそ、犯罪だと認識される。

 

P446

 道徳が機能する上で、その虚構性が隠される必要について述べた。残る課題は、(1)なぜ虚構が生まれ、消えないのか、また虚構性が露呈しないのか、(2)人間生活にとって虚構が不可欠ならば、虚構を暴く本書に意義があるのか、という問いに答えることだ。

 虚構性が隠される必要があるからといって、その通りになるとは限らない。必要条件と十分条件は違う。虚構が生まれるのはなぜか。そして同時に虚構性が必ず隠されるのはなぜか。実はすでに各所で説明しているが、正確を期して要点をまとめよう。

 第6章で説いたように、道徳・宗教・言語など集団現象は人間の意図を離れて自律運動する。歴史の偶然に左右されながら人間世界は変遷する。最終根拠は論理的演繹によって成立せず、社会現象に根拠は存在しない。したがって道徳などの社会制度が成立する際、どの形に落ち着くか原理的に不可知である。ところが人間は合理化=正当化せずにいられない。ゆえに、秩序を支える本当の仕組みは明らかにされぬまま、社会と時代の常識に応じた物語が紡がれる。人間の意識に上らない実際の構造と、制度を説明する虚構はこうして齟齬をきたす。

 虚構の不可欠を説きながら虚構を暴く本書は自己矛盾でないかという疑問には、もう少し詳しく答えよう。処罰の仕組みを暴いて何かの役に立つのだろうか。第4章でデュルケムを引いて詳述したように、社会規範からの単なる逸脱が犯罪の本質だ。Aという理由で悪であるなどと、定まった内容で犯罪は定義できない。要点を再び引用する。

 

 禁止行為をしないよう我々が余儀なくされるのは、単に規則が我々に対して当該行為を禁ずるからにすぎない。

 

 すべての人々の精神を支配し、同じ行動を引き出す完全な全体主義社会を樹立する以外、社会規範からの逸脱を防ぐ方法はない。必然的に逸脱が生じ、誰かが処罰される。集団的存在である人間にとって悪と処罰は原罪であり、避けられない。ならば、本書の議論は無駄なのか。

 不平等を隠蔽する虚構はどうだろうか。正義論に戻ろう。ロバート・ノージックのようなリバタリアンジョン・ロックの所有権論を踏襲し、自らの精神および身体の完全な所有者として人間を捉える。したがって各自の能力に応じて貧富の差が生じるのは当然だ。他者の自由を侵害しない限り、獲得した富はすべて自分の労働の産物であり、その所有も消費も正当である。所得への累進課税は富の収奪であり、不当な強制労働に相当する。

 ところで能力の多くは誕生の時点ですでに決まる。その原因が遺伝であれ、家庭環境であれ、どちらにせよ当人に選択できない要素だ。そこで、生まれつきの不運を補償すべきだとロナルド・ドゥオーキンは主張する。家庭環境や遺伝など偶然の外因と、当人の意志決定とを峻別し、自己制御の利かない前者から生ずる格差を不当とする一方、責任を負うべき後者から派生する格差は正当と認める。

 だが、意志の強さ、努力する能力、好みも外因が育む。人格形成責任論の詭弁は確認した。自己責任の根拠はどこにもない。ここから三つ目の正義論が導かれる。イングマール・ペルソンは、だから富の均等分配が正義だと説く。だが、勤続30年の熟練従業員と同じ待遇を新人に与え、社長も部長も平社員もすべて同じ給料にすべきだと考える者は少ない。それに、才能に恵まれた者は均等分配を受け入れない。したがって不満が渦巻き、社会が安定しない。それでも均等分配を維持するためには圧倒的な強制力が要る。幼少の頃からイデオロギー教育を施し、造反者は強制収容所に閉じ込め、再教育する。それでも態度が改まらなければ処刑する。つまり全体主義社会でなければ、ペルソンの説く正義は実現できない。

 全員に均等な所得を分配する社会では、高い能力を持つ者の労働意欲を削ぎ、生産性が悪くなる。そこで各人の能力に見合った労働を引き出す誘因を与え、社会全体の富を増やす。そして累進課税を介して富の一部を再分配すれば、能力が低い者も結果として、より良い生活を享受できる。質と量に優れた労働をなす事実から、より多くの富を得る権利が高能力者に付与されるのではない。各自の能力は外因の沈殿物だから、生産物への請求権は誰にもない。下層者の生活を向上させる手段としてのみ、格差は正当化される。これがジョン・ロールズの論法である。だが、すでに確認したように、この構想は自ら墓穴を掘る。秩序原理が完全に透明化した社会は、未来への希望が完全に断たれる過酷な世界だ(367−369頁)。

 

 →累進課税は低所得層による反乱を防止するために、高額所得者が支払っている代償のようなものか。

 

P449

 袋小路から逃れる術はない。封建制に代わり、資本主義が生まれた。一方で家計を基に人間を格付けし、他方では能力による格差を認める。ヒエラルキーを正当化する仕方は違ども、欺きなのはどちらも変わらない。

 マルクスエンゲルスが夢見た共産主義の実験は失敗したが、法の下の平等という理念の欺瞞が誰の目にも明らかになり、他の平等観に取って代られる日がいつか来るかもしれない。

 だが、それでも虚構はなくならない。正義とは何か、公正な社会はどうあるべきかと、人間関係を権利概念によって理解するアプローチにそもそも無理がある。政治哲学は正しい公共空間として社会を構想する。普遍的解を求める以上、時間が抜け落ちる。権利や権力という明示的関係だけでなく、時間を経て沈殿する権威という、宗教に比すべき物語が加わって初めて正統性が感知される。幾何学の公理がそうであるように、最終根拠は論理によって成立しない。根拠は信仰であり、論理を閉じるための虚構である。

 社会は矛盾を内包する関係態であり、多数派支配に少数派が異議を突きつける。支配者と被支配者とを交代させながら、時間が経てば他の支配形態に変わる。だが、支配の具体的な形は変遷してもヒエラルキー自体は決してなくならない。そしてどの支配が正しいのかという問いに答えは存在しない。ならば、私論は無意味なのか。

 

 →普遍とは、いつでもどこにでも存在するものであるから、時間概念が不要になる。でも、そんなものは人間には、人間の営む社会には存在しない。必ず時間の制約を受ける。その時間の制約を受けた、特殊な存在としての人間の姿を明らかにするのが歴史学ということになるか。

 民主主義も、結局は一部の特権層による支配形態にすぎない。被支配層が支配されていることに気がつかない巧妙な仕組みを持っているだけ。それが、平等・自由という虚構。結局は、過去の制度や他国の制度と比較して優れているかどうかを判断しているにすぎない。すべてにおいて相対主義

 

P450

 だが、それは勘違いだ。人間生活に虚構が欠かせないと説きながら、その仕組みを暴くのは自己矛盾だと断ずるのは、本書を規範炉として誤読するからだ。試論を貫く通奏低音は認識論としての相対主義である。道徳や理念は思想家が編み出すのではない。集団現象は人間から遊離して初めて機能する。そうでなければ、恣意性が意識され、普遍性が感じられない。社会規範の遊離は機能するための必須条件である。長い年月がかかって言語が定着し、変遷していくように、旧い常識が崩れては新しい常識にとって替わられる。

 万物は流転する。人間の信ずる価値は時代と社会が作り、また時代と社会が変えていく。食物の好みや恋愛相手、スポーツや芸術の好き嫌いも自分が決めるのではない。だが、外来の欲望だからと切り捨てるならば、タマネギの皮を剝くように後には何も残らない。人間が社会・歴史的存在であるとは、そういう意味だ。

 キリストやカンディーは正しく、ヒトラースターリンは悪人だというのは後世が出した審判にすぎない。キリストもガンディーも社会秩序への反抗者だった。対してヒトラースターリンは当初、国民の多くに支持された。多数派には多数派の立場、少数派には少数派の考えがある。どちらが正しいかを決定する中立な位置はない。両者を超越する神の視点は存在しない。各時代・社会に固有な価値観を超える正義の定立は原理的に不可能だ。歴史とは、時間とは、変化の同義語だ。真理は過去になかったし、未来にもない。人間の堕落ゆえに古の知恵が覆われたのでもなければ、歴史を積み重ねるにしたがって不変に近づくのでもない。正しい社会の形はいつになっても、誰にもわからない。

 思想家の提言はたいてい無力だ。名もない市民の素朴な思いと同様、私論を含め、学問は一つの意見として常識や世論の形成に貢献する。だが、それ以上でも、それ以下でもない。今でも神を信じる人がいるし、迷信もなくならない。科学者にとって当たり前の知見でも、それを受け入れない人は多い。道徳は宗教の一種だ。虚構の内容は変わる。だが、一つの虚構が消えても、他の虚構が必ず生まれる。規範論は問題の根から目を背け、逃げ道ばかり探している。問題の原点にさえ、我々はまだ到達していないのだ。

 

 →物事に普遍性を感じるためには、それが人間から離れた自律性を備えていなければならない。

 

P465

(36)時代を遡ろう。フランス革命により貴族制が崩壊し、ブルジョワジーが勃興した。その後、社会ダーウィニズムがこの支配者交代劇の正当化に一役買った。生物学の分野でダーウィン進化論が成功した後、それが人間社会に応用されてハーバート・スペンサーの「適者生存」という概念が生まれ、社会ダーウィニズムとして発展したと一般に理解されている。だが、事実は逆だ。生物学における進化論の成功が社会ダーウィニズムを導いたのではない。ダーウィン進化論が生物学者に受け入れられたのは社会ダーウィニズムの定着後である。フランシス・ゴルトン、エルンスト・ヘッケル、アウグスト・ヴァイスマン、ユーゴー・ド・フリースなどがそれぞれの説を展開し、自然淘汰概念を別にすれば、進化論にはかなりの論理的混乱が見られ、1915年ごろまではまだ生物学者を納得させる理論でなかった。アダム・スミスなど当時支配的だったブルジョワ経済学の着想がダーウィン進化論を基礎づけ、発展を見たのである。当時の社会学や経済学からヒントを得たとダーウィン自身認めている。

 

(69)互盛央『エスの系譜』(講談社、2010年1−2)より引く。

 

 フロイトの言う「エス」とは何か。第二局所論を初めて公にした『自我とエス』(1923年)では、「エストの関係における自我は、馬の圧倒的な力を手綱を引いて止めねばならない機種と同じである」と言われている。自我を衝き動かし、自我に行動させて、みずからの意志を実現する心的なエネルギーとしてのエス。行動がなされた後、人はこう言うことになる─「なぜかわからないがそうしてしまった」、「まるで自分ではない何かにやらされているようだった」(中略)

 自らの行動の原動力だったことは明らかなのに、それが何なのかは明言できないもの。その得体の知れない力を示すために着目されたのが、ドイツ語の代名詞「es(エス)」だった。英語の「it」に相当するこの語は、他の名詞を受ける代名詞として用いられるほか、「雨が降る(ドイツ語:es regnet /英語:it rains)」あるいは「一時だ(ドイツ語:es ist ein Uhr /英語:it is one o’clock)」のように、天候や時間を示す表現の主語としても使われる。明示できない何か、「それ」と呼ぶほかない何かを示すこの語は、他の事物のようには存在しておらず、それゆえ言語では表せないものの名称である。(中略)そんな特異な語であるからこそ、フロイトは暴れ馬のように自我をふりまわす無意識的なものの名称として、この代名詞から造語された普通名詞「エス(Es)」を採ったのだ。

 

 対して、何度か言及したハイエクのアプローチは個人の内部にも外部にも主体を否認し、偶然を理論に内包する立場である。

 突然変異と自然淘汰という二つの原理の組み合わせで、ネオ・ダーウィニズムは変化のメカニズムを説明する。偶然生ずる突然変異と、その個体がたまたま生まれ落ちた環境条件に応じて淘汰される以上、どの方向に世界が変遷するかは原理的にわからない。だが、いったん進化が起きれば、秩序が形作られ、世界を縛る。今日の世界から過去を振り返ると、種の変遷を司る法則があると錯覚しやすいが、そのような進化法則の存在をまさにダーウィンが否定した。生物が棲む地域内で自然淘汰決定論的に働いても、どの場所に生まれ落ちるかは偶然だ。世界の変遷には内在的理由がなく、未来の行方は誰にもわからない。歴史には目的もなければ、根拠も存在しない。

 野生動物のドキュメンタリー番組に「高い枝の葉を食べるためにキリンのクビが長くなった」とラマルク用不用説が登場する。獲得形質が遺伝子ない事実はすでに常識だ。それにもかかわらず、一般視聴者向けの番組では、このタイプの解説が幅を利かせる。

 現在主流のネオ・ダーウィニズムと必ずしも矛盾するわけではない。突然変異で誕生したクビ長のキリンは、短いキリンよりも高い枝の葉を食べるのに適する。したがって生存率が高く、子孫を残す確率が高い。結果として、短いタイプが長いタイプによって次第に置き換えられ、高い枝の葉を食べるためにキリンのクビが長くなったように見える。しかしテレビの解説を聞いて、そう理解する人は少ないだろう。クビを伸ばして高い枝の葉を食べるうちにクビが長くなり、その形質が子孫に伝わるのだと子どもたちは納得する。なぜ目的論が現れるのか。

 それは単なる誤りや無知のなせる技ではない。これは擬人法だ。意志が世界構築するという信仰の投影だ。進化に法則はない。生物の未来は偶然に委ねられる。適者生存の意味を誤解し、より良くなることが進化だとする歪曲は、主体と普遍を信じる近代が誘導する論理的帰結である。

 

 →普通に獲得形質は遺伝すると思っていた。無知は怖い…。

小坂井敏晶著書 その3

  小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま文庫、2020年) その3

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第5章 責任の正体

P269

 近代個人主義が普及し、個人と集団を同一視する形での集団責任は否定される傾向にある。しかし組織犯罪・事故はどう考えるべきか。『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』においてラウル・ヒルバーグは、ホロコーストを生んだ最大の原因として官僚制的構造を上げた多くの人々の責任感が薄れる。それはホロコーストに限らず、分業の下に仕事が遂行される組織すべてに共通する問題だ。

 では集団行為における各人の責任をどう定めるのか。組織・集団自体の責任と構成員の個人責任は同じなのか。第二次大戦中に日本兵がした行為に対して、当時生まれていなかった日本人が負う責任とは何を意味するのか。集団同一性と構成員の間にはどのような関係があるのか。集団の行動は構成員の制御下にあるのか。もし制御できなければ、集団犯罪の責任をどうして構成員が負うのか。

 因果律とは別の原理によって責任が問われる事実を敷衍するために、以下ではまず集団責任の論理構造を分析する。その上で、責任現象の歴史変遷を視野に収めながら前章の問題意識を引き継ぎ、責任の正体に迫る。

 

P270

 他者や周囲の情報環境から強い影響を受けて人間は判断・行為する。集団行動の責任を構成員全体あるいは一部に問う慣習は、どのような根拠に基づくのか。集団行動は構成員の意識・行為に還元できないと多くの論者が主張してきた。デュルケムの立場はよく知られている。

 

 集団意識の状態は各個人の意識状態とは性質を異にする。それは違う種類の表象だ。集団精神は各個人精神の総合ではない。集団精神は固有の法則に従う。

 

 デュルケムとの認識論的立場を異にする経済学者フリードリヒ・ハイエクも、集団現象が構成員から遊離し、自律運動をするからこそ、社会秩序が成立するという。個人が集まって集団ができる。しかし集団の行動は当事者の意志や制御を超える。ちょうど核分裂が連鎖的に起こり莫大なエネルギーが生み出されるように、人々の相互作用から生じるベクトルは各人の意志の総和を越えて、誰も予想しなかった大きさの振幅を見せる場合がある。ソ連崩壊やベルリンの壁の消滅を誰が予測しただろう。その瞬間まで当事者でさえ想像しない出来事が次々に起こり、制御できない大きな外力に巻き込まれる感覚とともに我々は歴史の変貌を目の当たりにしたのだった。

 集団暴動が起きる。器物を破損し犠牲者が出れば、実際に暴力を振るった者たちは責任を問われ、処罰される。だが、集団行動が当事者の制御力を超えて自律運動するならば、その結果を彼らに帰属できないはずだ。

 集団犯罪を社会が糾弾する一方で、しばしば犯罪者当人は責任を自覚しない。なぜか。次のように考えてみよう。集団に属する人間は互いに緩やかな関係で結ばれている場合もあれば、堅固な関係に縛られ自由が利かない場合もある。ところで集団の構造に応じて次の法則が見出される。ある任意の構成員の行動に関する情報が得られるとしよう。ハインツ・フォン・フェルスターが教えるように、集団を構成する個人間の関係が堅固であればあるほど、集団行動が自らに制御できない状況として構成員自身に感じられる。構成員どうしが堅く結びつけられれば、自分の思う行動が取れないからだ。世間のしきたりや集団の掟が強固であればあるほど各人の選択余地は少なくなる。

 では、集団内の人々の眼に集団行動がどう映るかでなく、今度は集団を外から観察する者の視点で考えよう。集団で行なわれる性犯罪やリンチは互いが模倣・影響しあって行動が激化しやすい。このような集団は構成要素が堅固に結ばれているので行動を予測しやすい。人々の自由度が小さければ小さいほど、集団全体に関する情報と各自に関する情報とが重複するので集団行動の数理モデル化が容易になる。逆に集団内の自由度が高ければ、一人の行動がわかっても全体の動きは予想できない。集団の外にいる人間の視点つまり集団犯罪を糾弾する社会にとって、集団を構成する人間の相互作用が強ければ強いほど、一枚岩の意志により集団が動かされるかのごとく映る。

 したがって集団内の人間自身による理解と、集団外から見る分析は必然的に異なってしまう。人々の相互作用が強く、集団が有機システムとして構成されればされるほど、外部の人間にとっては集団行動が予測しやすくなる一方で、当事者はますます集団行動を制御できなくなる。人々がとる行動の集積にすぎないにもかかわらず、集団行動は当事者から遊離する。自律運動する集団が逆にその構成員を操る現象がこうして生まれる。

 集団内に生ずる感覚も集団外に現れる感覚も、客観的な情報根拠に支えられている。したがって、どちらかだけが正しい認識で、他方が錯覚なのではない。集団犯罪の実行者が抱く感覚と、非難する社会の認識は構造的に異なる。なぜあのようなことをしてしまったのか自分自身でもわからないと嘆く犯罪者の感覚と、糾弾する側の理解は必然的に齟齬を生む。

 

P273

 では集団と構成員とを区別し、各自の責任とは別に集団自体の責任を考えるべきか。法人と呼ばれる擬制は法制上の位置づけを与えられている。しかしそれは、不都合な事態が生じたときにどのような処遇を施すかという法律すなわち社会契約上の取り決めにすぎない。国家の政治責任も、国家の連続性という人為的協約を基に定められるのであり、時代・文化を超越する価値を体現するわけではない。このような法的責任や政治責任と異なり、汝殺すべからずという道徳的戒律は単なる人為的契約を超える普遍的価値として一般に理解される。個々の人間ではなく集団自体が道徳的責任の対象になりえるだろうか。行為の道徳主体になりうるだろうか。

 

 →いわゆる法人(集団)には自由意志を持つはずはないから、責任を問えないということか。そもそも個人にも自由意志はないのだから、集団も自由意志を持つはずはないのだが。

 

 倫理学者は近代的人間像に基づき、行為の責任根拠を自由意志に求める傾向が強い。そのため彼らの多くは道徳的意味での責任を集団が負う可能性を否定する。だが、個人責任に限定すると被害者救済が充分になされない。そこで個人責任に還元できない概念として集団自体の責任を積極的に定立する論者もいる。ピーター・フレンチはその一人であり、企業を集合的人格と認め、企業がなす行為の道徳責任を問えると主張する。個人責任を問題にする場合に、当該個人の意志に行為を帰属させるように、企業にも集合意志を認め、行為の責任を問うべきだ。この集合意志は企業の役員会や内規など、内部決定機関により生み出されるから、各構成員の意志に還元できない。したがって彼らの個人責任とは別に企業自体の集合責任を定立する必要がある。政府という政策決定機関を持つ国家にもこの考えは援用される。

 

 →切腹・自害を中世の損害賠償として解明する必要がある。「高くついたなぁ〜」も含めて再検討する必要がある。

 

P284

 擬制としての法人や国家に政治的責任および法的責任を付帯するのは可能だが、近代的意味での道徳責任主体に集団にはなりえない。日本の戦争責任を認めよと主張する側も否認する側も同じ論理的誤りを犯している。そもそも当時生まれていなかった人々が過去の犯罪になぜ罪の意識を持つのか。因果関係で責任を理解するならば、ナチス・ドイツホロコーストの責任が日本人にないのと同様、過去に日本軍や日本国家がなした行為にどう特定責任を負う義務も、引き受ける権利も戦後生まれの日本人にはない。ユダヤ人に対するドイツ人の犯罪や、アルメニア人に対するトルコ人の犯罪、アメリカ先住民に対するイギリス人の犯罪などを我々が認めるのと同じ「気軽さ」で日本の戦争犯罪を認められるはずだ。それを嫌がって南京虐殺はなかったとか、日本だけが悪いのではなく朝鮮や中国も悪かったとか、当時の世界情勢から考えて日本の植民地主義を非難できないとか言い募るのは、自分を「日本」に同一化するからだ。日本の犯罪を認めよと主張する側も「日本」に同一化している事態は変わらない。ひいきの野球チームが優勝すると、自分が勝ったわけでもないのに大喜びするのと同じ種類の論理的誤りを両者ともに犯している。

 二〇〇五年四月に起きたJR福知山線脱線事故で多くの乗客が死亡した時、まるで自分が日本人の代表であるかのように、「謝れば済むと思っているのか」と鉄道会社の職員を糾弾する記者の姿がテレビに映った。イラク人救出にかかった費用を自己負担せよ、我々の税金を無駄遣いするなと主張する人々は「日本」への同一化を通して批判している。いくら経費が国にかかったかは不明だが、一億円なら国民一人当たり一円、一〇〇億円でも自らが負担するのは一〇〇円にすぎない。だが、自分が同一化する「日本」は莫大な経費を払った。だから「日本」の名において憤る。

 

 →間違っているのに正しいと信じ込んでいるところが、相当恥ずかしい。マスコミはもう少し賢い人間だと思っていた。新聞もニュースも勉強になるから読んだり見たりしろと言われてきたが、その読み方や見方を誤ると害にしかならないようだ。

 

 我々が抱く責任感覚は心理的同一化に依存する。実存主義を表明するラリー・メイは、自らの属する集団が生み出す出来事に構成員は責任を負うと言う。カール・ヤスパースが提示した「形而上学的罪」という概念から彼は出発する。刑法的罪・政治的罪・道徳的罪のどれとも異なる性質の概念としてヤスパース形而上学的罪を区別し、次のように規定した。

 人間は人間であるという、そのこと自体により相互間の連帯が存し、世界に生ずるすべての不正義、すべての悪、特に目の前で起き、知らずにはいられなかった犯罪に対して共同責任を負う。これらの罪を阻止するために可能なことを私が行わないならば、私は共犯者である。他者の殺戮を阻止するために自らの命を賭さないならば、あるいは口を閉ざして傍観するならば、ある意味において私は罪を負うと感ずる、この感覚は法律・政治・道徳的罪いずれとも異なる。このような出来事の後に私が生き続けることは、決して消えることのない罪として私にのしかかる。

 

P287

 集団責任と心理的同一化の密接な関係が図らずもここに読み取れる。同一性は何らかの固定した状態や内容ではなく、不断の同一化を通して人間が作り出す虚構の物語だ。自らは行為に加担しなくとも、悪をなす集団に同一化して我が身の存在を恥じる。犯罪に関わりを持つことで自分が汚れた感じがする。これが集団的道徳責任の正体だ。

 

P288

 店員の責任という外からの判断を離れ、自分が彼の立場にいると想像すると問題の所在が理解しやすい。第二の状況のY(店主に命じられて、犯罪に使われる可能性のあるナイフを取りに行っただけ。売るのは店主)が負うべき責任は、第一の状況のX(犯罪に使われる可能性のあるナイフを直接売る)の場合に比べて軽い感じがする。なぜだろう。二つの状況に我々が受ける感覚の差は、犯罪行為との心理的結びつきの強さに関わる。結果は同じでも、その行為との関連性が高くなるほど、我々は行為に自らを同一化させやすい。そのため犯罪行為によって穢される感覚が生まれる。Xは実際にナイフを非行少年に手渡すが、Yの場合はそうではない。犯罪との関係がより薄まっている。第一の状況においてナイフ販売で得る利益は充分な説明にならない。すぐに売れるのだから、利益だけのためなら今売る必要はない。利益享受は単なる経済的観点からでなく、それによって犯罪行為と当人がより密接に結びつけられる心理的同一化の角度から理解するべきだ。

 

P289

 犯罪処罰の仕方は地域・文化によって大きく異なる。近代以前には人間だけでなく、死体・動植物、石などの無生物も裁かれて罰せられた。かなり最近まで心神喪失者や精神疾患者、そして年端のゆかぬ子どもが重罪に処された。何もしない人々が集団責任を科せられた。

 死体が刑罰の対象になったのは自殺と重罪を犯した場合である。古代ギリシアを始め多くの社会で自殺が罪とされ、自殺者の死体は葬式や埋葬が禁じられ、領土から追放された。すでに死んでいるにもかかわらず絞首・火炙り・斬首の刑に付されたり、拷問された。フランス革命をわずか100年ほど遡る1670年に公布されたフランス国王勅令は、宗教異端者や王殺し犯の死骸に対して、顔が地面で擦れるようにしながら支柱を引き回した後に絞首刑を施すように規定した。

 

 →中世の「死骸敵対」の慣習に似ている。

 

P290

 動物裁判はよく知られている。ギリシア・ローマから近世キリスト教世界に至るまで、動物が人間に危害を与えた際、「犯罪者」として動物が裁判にかけられ、その結果たいてい死刑判決が下った。公開の絞首刑が一般的だが、石打・斬首・焚刑になることもある。手足の切断など被害者が受けた傷と同じ損傷を動物に与えてから殺す場合もあった。獣姦罪に問われると、戒律を破った人間だけでなく動物も同様に石打刑などで殺された。プラトンは『法律』において、動物が人間を殺した際の刑罰を規定し、「殺人犯の動物に対して、殺された被害者の近親者は訴訟を起こさねばならない」と記した。

 動物裁判は12世紀から18世紀まで特にフランスで頻繁に行なわれ、歴史家が多くの例を報告している。人や家畜を殺傷したり、畑や果樹園を荒らした動物は逮捕されて監獄に放り込まれる。領主の代訟人つまり検察官の証拠調べが済むと被告に対する起訴請求が行なわれ、受理されれば、被告たる動物の弁護士が任命されて裁判が始まる。裁判では証人の陳述を聞き、検察官が論告求刑し、裁判官が判決を言い渡す。審理のどの過程でも人間と同様に動物が扱われた。動物裁判は民衆リンチではない。裁判及び処刑は公的制度として行なわれ、費用を国王あるいは領主が負担した。

 稀だが、植物や無生物が処罰されることもあった。例えば木から落ちて死亡すると、死者の親族が集会を開き、問題の木を切り倒した後、小さく挽き割って風に飛ばした。戦闘で殺された被害者の親族は、使用された武器を罰する目的で焼却処分することもあった。

 なぜ、意志を持たない死体・動植物・無生物が裁判にかけられ、処罰されたのか。現在の我々の感覚からすると責任能力を持たない子どもや精神疾患者がなぜ処罰対象になったのか。犯罪行為に関わらない他人にまで集団責任が及んだのは、どのような理由によるのか。

 

P293

 死体・動物・子ども・精神障害者・集団が責任を負わされた事実は、科学知識の未発達・個人の未分化・アニミズムでは説明できない。この解釈は二つの誤りを犯している。

 一つは責任を因果律で理解する姿勢だ。死体や動植物の処罰を説明するためにアニミズムを持ち出したり、精神病者や子どもあるいは集団に対する処罰の理由を精神科学の未発達や個人の未分化に求めるのは、意志が行為を引き起こすと考えるからだ。そこに根本的な過ちがある。責任は因果律では捉えられない。

 もう一つの問題は普遍的価値が存在し、時代が進むにつれて正しい責任概念に次第に近づくと考える進歩史観だ。人類の知識が蓄積されるとともに誤りが少しずつ訂正されて、より正しい世界観が構築される。野蛮な拷問で人々を苦しめた古代・中世の刑法理念が反省され、より満足な価値観が練り上げられるのだと。

 多様な道徳観が散見される理由を各社会・文化の固有性に求めるのはよい。だが、奇妙な処罰慣習が共同体固有の世界観に起因するように、正しいとされる責任概念も現在の我々の世界観を反映するにすぎない。我々近代人の責任概念だけが社会・心理的制約を逃れ、普遍的心理に合致する保証はどこにもない。善悪の基準や処罰体系の根拠は非社会的・超歴史的な要因を探すのではなく、人類社会全体に共通する集団性自体に求めなければならない。

 

P294 責任の正体

 常識的に考える犯罪発生から刑罰までは、⑴犯罪事件の発生、⑵その原因たる行為者つまり犯人を探し出す、⑶犯人の責任を判断して、⑷罰を与えるという順序にしたがう。すなわち犯人をまず見つけ、責任が確定した後に罰が決定される。したがって責任と罰は二つの別概念をなす。しかしポール・フォーコネは異なる解釈を提示する。そもそも犯罪とは何か。それは共同体に対する侮辱であり反逆である。社会秩序が破られると社会の感情的反応が現れる。したがって民衆の怒りや悲しみを鎮め、社会秩序を回復するために犯罪を破棄しなければならない。しかし犯罪はすでに起きてしまったので、犯罪自体を無に帰すことは不可能だ。そこで犯罪を象徴する対象が選ばれ、このシンボル破棄の儀式を通して共同体の秩序が回復される。責任という社会装置が機能する順序をフォーコネはこう分析した。

 

 犯罪の代替物として適切だと判断され、犯罪に対する罰を引き受ける存在が責任者と認められる。

 

 →現代の様々な組織には必ず役職が存在するが、その役職を別名「責任者」と呼ぶ。つまり、役付とは、トラブルの責任を負うために存在する、ということになる。

 

 犯罪の結果を──感情の上での波及効果を──破棄する必要がある。つまり駆り立てられた激情が尽きて鎮まらなければならない。(中略)法に反するものを取り除き、以前の秩序を回復するだけではすまない。犯罪の処罰を通して再び新風を吹き込み、傷ついた感情を癒さねばならない。道徳規則の権威に社会が抱く信頼そして道徳への信奉が慰めを要求する。犯罪から生じた動揺を鎮め、犯された戒律を回復するために社会が見つけた唯一の手段は、犯罪から社会が受けた冒涜のシンボルに感情を爆発させ、このシンボルを想像の上で破壊することだった。この破壊的激怒が処罰の源泉をなす。処罰が完了するのは、犯罪が取り除かれたと社会が信ずるに至った時であり、その前ではありえない。

 

P295

 社会秩序への反逆に対する見せしめとして刑罰は執行される。見せしめの刑を通して、社会秩序への造反事実が共同体の人々に告げられるとともに、社会の掟や禁止事項が想起され、社会規範が再確認される。禁忌に触れると恐ろしい処罰が待つと威嚇する機能を見せしめは担う。

 事件のシンボルとしてないが選ばれるかは時代および文化により異なる。見せしめの対象は必ずしも犯罪行為者とは限らない。見せしめの刑は犯罪事件のシンボルに科せられるのであり、当該社会が共有する世界観にとって犯罪の代替物になりさえすれば十分だ。犯罪行為者が責任者として選定され罰を受ける場合は確かに多いが、それは責任や罰が因果関係に依拠するからではなく、犯罪事件が把握される過程で行為者が一番目立つからにすぎない。

 

 →罪を憎んで人を憎まずという発想に似ている。本来、犯罪者の個性などは問題ではなく、生じた犯罪自体が問題で、それを引き起こしたとされる人間が必要なだけ。そうでなければ、被害者や民衆の感情が収まらない。犯人という人間は、責任を負うから必要とされる。そうすると、正直誰でもよくなる。これこそ、中世の解死人が発生する理由。犯罪者の家を焼く理由。

 森友学園問題の森友夫妻が実刑判決を受け、財務官僚の責任や安倍晋三首相の責任が問われなかった状況ともよく似ている。結局、責任の取らせ方はその時代に特有の恣意性の強いものだということ。やはり、虚構。森友夫妻はこの時代に生まれたことを残念に思うしかない、ということ。別の時代なら、罪を免れたかもしれない。

 

P296

 フォーコネ説において責任と罰は表裏一体の概念をなす。責任があるから罰せられるのではなく、逆に処罰が責任の本質をなす。したがって責任者であるのに罰せられない事態は論理的にありえない。

 犯人=責任者は定義からしてスケープ・ゴートだ。普通はスケープ・ゴートというと本当の犯人がいて、代わりに無実の人が罰せられる自体を意味する。だが、フォーコネのテーゼにおいてスケープ・ゴートは犯罪自体の代替物であり、犯罪者の身代わりではない。責任者の同定は犯罪の原因究明ではなく、けじめをつける目的で犯罪のシンボルとして破壊するための対象選択だから、スケープ・ゴートとして選ばれたシンボルがまさしく犯人であり責任者に他ならない。スケープ・ゴートの選定が犯人=責任者の各敵を意味するから、スケープ・ゴート以外に真犯人はいない。

 

 →犯罪の代替物=スケープ・ゴート説を、もっともよく表しているのが、中世の解死人制のような気がするし、このシステムこそが処罰の最も本質的・普遍的な姿かもしれない。原因を究明し、証拠によって立証された容疑者が真犯人だとする近現代人の考え方が、相当に特殊だということ。

 

P297

 行為の因果関係とは別に、社会秩序への反逆を罰する装置として責任が機能するのは、すでに過ぎ去った時代の遺物ではない。2004年、イラクで人質になった日本人三人に一部の週刊誌や新聞が批判や嫌がらせを展開し、自己責任という表現が流行した。日本社会の伝統的な温情・平等主義に代わって個人主義が広がり、個人の責任が強く問われるようになったのではない。個人主義化から自己責任論が派生したのなら、解放された人質の帰国に際し、家族にまで中傷が及んだ事実をどう説明するのか。

 自らは悪くないのに、家族や組織の部下がした行為の責任を負うのは日本社会の伝統だ。今でもそれは変わらない。地方の新聞配達員が犯罪に及ぶと本社の代表が謝罪する。教員が飲酒運転や痴漢で検挙されると、校長や学部長・学長が記者会見で頭を垂れる。飲酒運転も性犯罪も私生活の出来事であり、学校組織が管理する問題ではない。犯罪を制御する手段も学校や大学当局にない。それでも謝罪を表明しなければ世間が赦さない。大麻使用や未成年者の喫煙飲酒は当人の健康の問題だ。それなのに、あたかも恥ずべきことをしたように扱われ、マスコミに叩かれる。本来の目的が忘れられ、遊離した規則が一人歩きする。「世間をお騒がせして申し訳ありません」という常套句に象徴されるように、責任現象はフォーコネが分析したとおり、社会秩序を回復するための儀式として機能する。

 

 →個人主義ではなく、全体主義?や社会秩序を守るために、自己責任・個人責任・個の犠牲という論理が必要になってくる。

 

P298

 過ぎ去った時代の話ではない。家族の誰かが凶悪犯罪をなすと、両親・兄弟姉妹・子どもにまで世間の糾弾は達し、自殺・離婚・家族離散・退職の憂き目にさらされる。親は我が子の罪を自ら背負い、一生かけて償う覚悟を決める。自分の子を犯罪者に育てる親はいない。ある意味では被害者の遺族以上に辛い試練のはずだ。だが、社会は彼らを村八分にし、抹殺する。

 

 →コロナも同じ。

 

 しばしば勘違いされるが、個人主義と自己責任論は対極に位置する。構造不況の中、失業者・ホームレスが増加し、不安定になった社会規範・秩序を回復するためにスケープ・ゴート現象が顕著になった。大学や研究組織に導入された競争原理も従来からの集団管理構造に搦め捕られ、個人間の競争よりも組織どうしが張り合う形に変容した。集団競争の一環として教員への締め付けが強くなる。個人主義化の波ではない。集団の自己保存機能として再編成が進行する。

 責任を問うためには行為・出来事の原因を個人に帰属させる必要がある。中世の魔女裁判やインカ・アステカの人身御供の習慣を考えればわかるように、個人主義が未発達な世界でも個人の犠牲を通して社会秩序の維持・回復が図られた。自己責任論は前近代的スケープ・ゴート現象だ。

 フォーコネ説はスケープ・ゴートを罰せよという規範的主張ではない。過去から現在そして未来までずっと責任はこのように機能する。フォーコネは問う。「奇妙な責任形態は社会的原因によって生まれると認めながら、どうして真の責任だけはそうでないと言えるのか」。「真の責任」とは何か。前章でデュルケム犯罪論に言及した。彼の弟子フォーコネも同様に善悪の基準を社会規範に求める。悪い行為だから我々は非難するのではない。逆に、社会的に非難される行為を我々は悪と呼ぶのだ。

 

P306

 すんでのところで犯罪行為を踏みとどまる者もいれば、一線を超えて犯罪を実際に犯し、投獄される者もいる。同じ社会環境の下で育っても、ある者は殺人を犯し、他のものはそうしない。なぜか。犯罪者とそうでないものとを分け隔てる何かが各人の心の奥にあるのか。しかし実は因果関係が転倒している。行為に走った者にはもともと殺人者の素地があったと我々は事後的に信じ、本人もそう思い込まされるのだ。人間は外界の影響を強く受けながら、そしてたいていは明確な意識なしに行動する。意志が行動を選び取るのではなく、行動に応じた意識がのちに形成される。

 

 →自殺既遂・未遂者に対してもそう思っている人間がいる。人間は良くも悪くも、その場その場でコロコロ変わる存在であること、変われる存在であることを、いいかげん認めなければならないのではないか。生まれた時から自殺しやすい人間などいない。赤ん坊のころから、希死念慮自殺念慮を抱く人間などいない。言葉をもっていない人間に、希死念慮自殺念慮を想起することはできないからだ。そもそも、言語自体が人間どうしの取り決めた約束事(虚構)なわけだから、そこから生み出されるさまざまな概念や制度、文化などが、何の正当性もない虚構になるのは当たり前だ。虚構の上には虚構しか築けない。あえて正当性の根拠を言えば、「あるとき、人間どうしが交渉して取り決めた」という事実だけ。絶対的な正しさなど存在しない。人間は、自らが生み出した言語という社会的な虚構のなかで、虚構的な生を営んでいるだけ。自分たちの送っている人生こそが、本当の意味での「演劇」だ。我々が見ている演劇・ドラマ・映画etcは、メタフィクションということになりそう。

 

P308

 自殺を図ったが助けられて病院に入院した人々に面接した加賀乙彦は意外な反応に驚く。

 

 そのとき驚かされたのは、みなさん異口同音に「助かってよかった」と言っていたこと。(中略)命を取り留めたとはいえ重傷を負って苦しんでいる人や片足を失ってしまった人たちさえ喜んでいる。テレビドラマなどでは、「どうして死なせてくれなかったの!」などと怒るのが定番だけれども、私の経験ではそういうケースはありませんでした。

 自殺の動機として語られた理由は、人によってさまざまです。(中略)しかし、みな一様に死ななかったことを喜び、「今はもう死ぬ気はありません」と言うのです。

 共通点はもう一つありました。それは、命を経とうとした最期の瞬間について、ほとんどの人が多少表現の違いはあるものの、やはり「悪魔がささやいた」というようなことを口にしていたこと。

 (中略)「別れた彼に電話したら無言で切られて、で、ふっとテーブルに目をやったら果物ナイフがあって、気がついたら自分の胸に突き立てた。今思うと、あんなことよくできたなって自分でもびっくりします。ほんと悪魔の助けでもなきゃ、あんな怖いことできないと思う」

 「いえ、私は別に死ぬ気なんてなかったんですよ。発注ミスをした部下と一緒に取引先に謝りに行ってペコペコ頭を下げて、会社に戻ったら上司に嫌味言われて、明日提出しなきゃいけない書類があったんで残業して。で、なんだかひどく疲れちゃったもんだから、帰り道にある歩道橋の上でぼんやり車が通るのを眺めていたんです。もう女房は寝ちゃってんだろうなぁ。今日も残りものチンして一人で食べんのか。そういえば最近、うまいもの食ってねぇなぁ。いいことなんか何もないもんなぁ……そんなことを考えてるうちに、何だか生きててもしょうがないような気がして、次の瞬間には歩道橋の手すりを乗り越えていました。自分の意志で飛び降りたというよりも、操り人形みたいに誰かに動かされているような感じでした」

 

 警察の厳しい尋問の下、犯行動機が後から形成される。服役生活において罪を日々反省する中で犯罪時の記憶が一つの物語としてできあがる。釈放されても前科者は再就職に苦労し、伴侶を見つけるのも難しい。そのような生活の困難が再犯へと導く。犯罪者の素質ゆえに犯罪者になるのではない。まるで単なる出来事のように本人の意志をすり抜けて犯罪行為が生ずる。だが、そこに社会は殺意を見出し、犯人の主体的行為と認定する。自由意志で犯罪を行なったのだと社会秩序維持装置が宣言する。

 

P310

 死刑と犯罪率との関連について1988年に発表された国連のレポートは「終身刑に比べて死刑が犯罪防止力に優れる科学的根拠は見出せない」と結論づけた。

 

P311

 加賀乙彦が東京拘置所に勤務していたとき、殺人犯145名に面接して尋ねたところ、誰もが死刑制度の存在を知っていながら、犯行前に死刑を念頭に浮かべた者は一人もいなかった。犯行の最中に死刑のことが頭によぎった4人も、それで犯行を中止することはなかったという。

 したがって死刑を望む本当の理由は他にあるはずだ。犯罪によって乱された社会秩序を再び取り戻すために、犯罪行為のシンボルとして受刑者を世界から抹殺する必要があるからだ。勝手に自殺しないよう死刑囚は厳重な監視下に置かれる。しかし死刑制度を維持する理由が危険人物の抹殺ならば、死刑囚が自殺しても困らないはずだ。どちらにせよ殺される身だ。本人が死を選ぶ不都合はどこにあるのか。自殺してくれれば執行官の重荷がなくなり、かえって都合がよいではないか。

 米国テキサス州の死刑囚が1999年12月に向精神剤を多量に飲んで自殺を図り、担当部署は大騒ぎになった。受刑者は病院まで飛行機で搬送され、一命を取り留めた。こうして一旦命を助けたまさにその翌日、処刑した。(中略)

 死刑制度維持の主な論点は累犯防止・応報・犯罪防止だ。死刑でも自殺でも受刑者は死に至る。したがって累犯防止の目的は達成される。監視の目を盗んで首を吊るにせよ、薬を大量に飲んで自殺するにせよ、死刑執行よりも肉体的に苦しい死を迎える。死刑囚の苦しみを軽減するためにさまざまな努力が払われてきた。特に注射刑なら苦しみが軽減される。したがって罪人に対する復讐の手段としては自殺の方が適している。死刑の抑止力を信じない人の間にも死刑存続を望む声は強い。なぜなのか。

 序章で制御錯覚について述べた。制御できないさまざまな要因が我々の生活を司る。だが、不安定な認知環境に生きるのは難しい。そこで安定した秩序が世界を支えている感覚を生み出す社会装置ができる。お守り・占い・願掛けなど現代の呪術が生まれては消え、また装いを新たに現れる。賭け事をするときに唱える呪文と同じように、死刑は制御幻想を維持する手段にすぎないのか。

 

P314

(10)集団同一性をめぐる認識論については前著で「テセウスの舟」の神話をもとに議論した。漁師が木の舟を漕いで生活している。舟は修理のたびに部品が変わるから、ある時点ですべての部品が交換され、初めの材料は何もなくなる。それでも同じ舟と言えるのか。(中略)形象の連続性を根拠に同一性の保証はできない。異なる状態群を観察者が不断に同一化するために生ずる表象が同一性感覚を生み出す。時間を超えて継続する本質が対象の自己同一性を担保するのではない。対象の不変を信じる外部観察者が対象の同一性を構成する。同一性は対象の内在的状態ではなく、同一化という運動が生み出す社会・心理現象である。より詳しくは前掲、拙著『増補 民族という虚構』(ちくま学芸文庫、2011年)81─88頁を参照。

 

 

第6章 社会秩序と〈外部〉

P330

 贈与現象も虚構が媒介して初めて可能になる。そもそも贈与行為はある意味で自己矛盾している。贈物を受け取った側は自分も贈物を返さなければならない。さもなければ贈与の連関が途絶える。しかし贈物をする際に、必ず贈物を返してくれると知っているならば、そのような行為は真の意味での贈与とは呼べない。真心からする自発的贈与ならば、相手から等価の返還を期待するのはおかしい。最終的に等価の見返りがあると期待しながら行なう贈与は単なる交換にすぎず、それを贈与と呼ぶのは偽善だ。しかし何の見返りもなければ、贈与が社会制度として定着しない。つまり、贈与は概念自体に論理矛盾を内包する。

 贈物を受け取る側が必ずまた贈物を返す社会制度の解明を試みるマルセル・モースは、ニュージーランドのマオイ族が信じるハウという霊に注目する。ハウが贈与物に取り憑くと、元の持ち主に返還する負い目が贈物を受け取ったものに生まれる。この信仰のおかげで本来矛盾するはずの現象が可能になる。

 

P332

 贈物をするが見返りなど期待しないと言うメッセージと贈り物をもらったら必ず返礼せよと言うメッセージが矛盾して見えるのは、メッセージが両方とも贈与当事者から発せられると誤解するからだ。見返りを期待してする贈与は偽善に過ぎないし、見返りを期待しない贈与は継続しえないという従来から指摘されるパラドクスはハウという第三項の導入で解消される。贈物には必ずお返しをせよという命令は依然として機能する。だが、このメッセージは送り主から発せられるのでなく、当事者から遊離したハウの命令として表象される。矛盾する二つのメッセージが共存するのではなく、二つの異なる内容のメッセージが二つの異なる情報源から発せられる。「贈物を受け取ってください」という気前のよいメッセージは贈り主のものであり、「贈主に感謝し、他の贈物で返礼せよ」という命令はハウが発する。ハウが当事者から遊離するおかげで贈与の連鎖が可能になる。レヴィ=ストロースが指摘するようにハウは原住民の錯覚の産物だ。だが、この第三項のおかげで贈与者と被贈与者の間に距離が生まれ、虚構の媒介によって共同体の絆が維持される。

 

 →矛盾するとき、主体性の違いに注目するという視点をもったことがなかった。制度全体からすると自己矛盾しているようだが、それを構成する各主体が独立して矛盾した行為をとることで、全体として円滑に機能することがある。

 

P334

 前近代の社会秩序は神の摂理の表現であり、人間が恣意的に制定する存在ではない。大自然と同様に社会秩序は人間から独立するものだった。神の死を迎えた近代では宗教的世界観から個人が解放され、自律性を獲得する。個人の自立性を認めながらも同時に、集団が個人から遊離して運動する事態をどう捉えるか。個人の自立性と集団の自立性とを矛盾と捉えず、両者が同時に成立する可能性はないか。これが集団の実体視を退けるハイエクが自らに課した問いだった。集団は意識や意志を持つ主体ではない。にもかかわらず、人間を超越し自立運動する。なぜか。

 

 →日本中世はどのような神の摂理によって、あのような社会秩序が形成されたのか。「ゆるやかなカースト日本中世」とは、どのような摂理なのか。

 

 生命を例に取ろう。生命は物質の単なる組み合わせでなく、生命というモノがある。かつてこう考えられた。しかし分子生物学の発達とともに生命はデオキシリボ核酸という化学物質に還元された。生命は現象あるいは機能を意味し、生命という本質はもはや存在しない。だが、生命は構成物質の所与を超え、自律性を獲得する。このように本質論や正気論の排除は必ずしも要素主義を意味しない。生命が物理・科学的メカニズムに完全に還元されるという命題と、生命は構成要素を超越するという命題は矛盾しない。

 

P335

 社会現象を起こす原因が人間の営為以外にないという言明と、その現象が人間自身にも制御できない事実との間には何の矛盾もない。社会という全体の軌跡は、要素たる人間の意識や行為と齟齬を起こし、あたかも外部の力が作用する感覚が生まれる。

 商品・制度・宗教など自己の作り出した社会的諸条件に人間自身が捕らわれ、主体としてのあり方を失う状況として疎外は理解される。だが、人間が本来あるべき姿から外れた異常事態として否定的側面だけから、この現象を把握するのは誤りだ。ヘーゲル哲学の文脈で使われるEntausserung(外化)は、数段現象が人間から遊離して別の害的存在として自律運動する現象のことだ。対してマルクス主義が広めたEntfremdung(疎外)は、人間が生産した諸現象から人間自身が邪魔者として排除される自体に相当する。食物を摂取する側にとって腐敗と発酵が区別すぎ二つの現象であっても科学的には同じプロセスであるように、人間の生産物が彼ら自身から遊離するという意味では疎外と外化は同一の社会現象だ。各人の主観的価値・行為が相互作用を通して客観的価値・行為へと変化される過程である。

 人間が作った秩序なのに、それがどうの人間に対しても外在的な存在となる。共同体の誰にもそして権力さえも手の届かない〈外部〉だからこそ、社会制度が安定する。無根拠で偶然の産物にすぎないのに、あたかも根拠に支えられたように機能する。つまり誰にも自由にならない状態ができるおかげで、社会秩序は誰かが勝手に捏造したものではなく普遍的価値を体現するという感覚が生まれる。

 

 →法は特定の権力者が制定したものであるにもかかわらず、制定者自身をも規定する。この状態になっているからこそ、民衆も法を虚構とみなしながらも妥当なものと容認するのだろう。どこまで気づいているか知らないが…。超法規的な存在である皇帝や天皇のような存在がいた前近代とは、現代はかなり異なる。皇帝や天皇の権力の根拠もどこにもないから、外部に神を措定しなければならない。神が認めた天皇権力、それが規定した法や制度だから服従する。こういう構図か。

 一方で、被差別民と呼ばれる超法規的存在(アウトロー)もいる。彼らは神が認めた天皇権力の創出する身分秩序から疎外された存在だから、差別されるということになる。黒田俊雄・高橋昌明・小谷汪之らが言いたかったことは、こういうことか。

 公家法や武家法は、以上のような理屈で理解できるが、寺社法や、惣掟のような在地法は何を根拠にしているのか。寺社法は神仏を外部に措定すればよいが、在地慣習法は何に由来するのか。こうした慣習法が地元寺社での寄合で作成されることがあるから、根拠を地元の神仏に委ねているのかもしれない。在地領主の場合はどうか。1つは暴力、1つは中央権力の代理者として権威・権力、1つは在地秩序の代表者としての権威・権力などか。

 

P336

 人間から遊離し自律運動するシステムとして、集団現象は我々を無意識のうちに拘束する。しかし、それは意識の底に定位されるフロイトユング的な無意識ではない。人間の意識が集団現象を制御できないのは、各個人精神の奥底に潜む無意識が集団現象を生むからではなく、ちょうどインターネットの討論フォーラムのように、システムを構成する情報がシステム全体に散らばって存在するからだ。集中統括する場所はどこにもない。ハイエクは言う。

 

 (中略)我々が自らの精神に起きる多くの事柄に気づかないのは、それがあまりにも低いレベルにおいて進行するからではなく、あまりにも高いレベルで進行するためである。(中略)このような過程は「意識下」というよりは「超意識的(スーパー・コンシャス)」と呼ぶほうが適切かもしれない。なぜならこれらは姿を現すことなしに意識過程を支配するからである。

 

P337

 集団現象が遊離するおかげで特定の他者からの支配を免れ、自由の感覚を得る。疎外のおかげで自由が可能になる。人間自らが作り出しておきながら人間自身にも手の届かない規則を作るというルソーの夢見た方程式がここにある。

 火事だと誰かが叫び、劇場でパニックが起きる。雪崩のように逃げる人々。助かろうと誰もが必死で逃げ道を探す。だが、人間の雪崩を生み出しているのはまさしく、その逃げ惑う人々自身だ。皆が逃げるからこそ誰も逃げられない。危険はすでに去ったと知っても、パニックは容易に収まらない。(中略)

 誤報に過ぎなかったと全員が知ってもパニックは収まらない。(中略)根拠がなくとも集団現象はいったん動き出すと当事者の意志を離れて自律運動を始める。責任・道徳・経済市場・宗教・流行・言語などさまざまな集団現象はこのように機能する。

 社会内部の葛藤や揺らぎが相互に生のフィードバックを受けて増幅し、不動点(アトラクタ)が生み出される。パニックの中で逃げ惑う人々は、客観的外因が生み出す危険から逃げているつもりで、実は彼らの行動こそがパニックの原因を作り出している。社会システムに必ず存在する恣意的で小さな揺らぎが何らかのきっかけで一定方向を持つ運動に増幅される。

 

 →学級崩壊やいじめも同じ。

 

P343

 根拠という名の虚構。それは人間世界を根底から規定する論理構造だ。パスカルは言う。

 

 法の依拠するところをよく調べようとする者は、法がはなはだ頼りなく、いい加減だと気づくだろう。(中略)国家に背き、国家を覆す術は、既成の習慣を期限に遡って調べ、その習慣が何ら権威や正義に支えられていない事実を示して習慣を揺さぶることにある。(中略)法が欺きだと民衆に知られてはならない。法はかつて根拠なしに導入されたが、今ではそれが理にかなって見える。法が正しい永遠な存在であるかのように民衆に思わせ、その起源を隠蔽しなければならない。さもなくば法はじきに終焉してしまうだろう。

 

 法という虚構の成立と同時にその仕組みが隠される。永井均が的確に表現する。「道徳の外部にそれを支える道徳はない」「道徳空間を内側から閉ざす道徳イデオロギーを成立させて、10人全員に取り決めをした最初の動機を忘れさせる」「設立の趣旨を忘れることが設立の趣旨を実現する」「道徳的な人とは道徳の存在理由を知らない人のこと」「道徳の根底には、目を凝らせば見えてしまうものを見てはいけないとして遮断する隠蔽工作がある」「なぜ悪いことをしてはいけないのか、なぜ道徳的でなければならないのか、といった問いに「かくかくしかじかのため」といった明快で単純な答えがあってはならないのである。そんなものはすぐに簡単に論駁されてしまうからだ」。

 

 →前近代法の場合、成立の仕組みを隠したか、隠す必要はあったか、隠そうとする意図があったか。根拠に神仏や権力の暴力があれば、仕組みを隠す必要はないか。

 

 

P344から

 どんな現象・出来事にも原因がある。しかし、原因は根拠ではない。思考実験をしよう。箱の中に黒い玉と白い玉が一つずつ入っている。中を見ないで箱から玉を一つ取り出した後、同じ色の玉を一つ加えながら箱に戻す。(中略)

 さて実験を行なうと黒玉と白玉の割合が一定の値(アトラクタ)に収斂する。まるで世界秩序が最初から定まっており、「真理」に向かって箱の世界が進展を遂げるかに見える。だが、白玉と黒玉一個ずつの状態に戻して実験をやり直すと、黒玉と白玉の割合が今度は先ほどと違う値に収斂する。今回も定点に収斂してシステムは安定する。しかし箱の世界が向かう真理は異なる。どんな値に収斂するかを前もって知ることはできない。歴史が実際に展開されるまでは、どんな世界が現れるかわからない。だが、それでも真理は発露する。我々の世界に現れる真理は一つでも、もし歴史を初期状態に戻して再び繰り広げられるなら、そのときには異なる真理が出現する。歴史はやり直しが利かない。そのおかげで我々は真理を手に入れるのだ。

 ジンメルの循環的推理、予言の自己実現ピグマリオン効果は、無根拠から根拠が生成されるメカニズムを教える。それ自体としては意味をもたない、社会内の揺らぎや葛藤が積算されて自己言及的システムが生成される。神やプラトンイデアのような超越的実体あるいは全体存在を斥けながらも、人間の世界に意味が現れる可能性をこの認識論が導く。

 それだけではない。安定した構造と絶え間ない変動の共存をどう把握するのかという、構造主義に従来から投げかけられた批判を回避する可能性でもある。貨幣経済や言語など、すでにシステムが成立した後ならば、そこに構造や機能を見出せるが、システムの発生過程自体を論理的あるいは法則的に捉えることはできない。そこで「命がけの跳躍」という表現が使われる。

 

 →では、歴史学の研究意義や役割は何か?少なくとも、歴史法則を明らかにするという点だけは否定されることになる。だが、個別事象の因果関係を明らかにすることも無意味。原因は無限遡及するだけだから。結局のところ、教訓を得たり、興味を満たしたりするだけの役割しかないのか。ひょっとすると、事象によっては教訓にもならないかもしれない。社会条件が異なれば、同じ現象が生じても、到達する結果は異なるだろうから。

 やり直しが利いてしまうなら、不変の真理など存在しないことになる。だが、その真理が、未来においても真理であるとは限らない。

 結局のところ、真理などというものは、過程と結果を見て、それを人間の見方によって評価しただけだということになる。物事の捉え方の1つであって、唯一無二の真理でもない。すでに終わった結果の1つにすぎない。人間はどうしても意味を生み出さなければ生きていけない存在なのだろう。

 変動が安定を生み出す。変動からしか安定は生み出されない。だが、黒玉・白玉実験とは異なり、人間社会の場合、逆に安定すると変動が生じるのではないか。それが何なのかを分析できるのは、歴史学しかないか。

 

P346

 人間が地球に誕生した直後に道徳はなかった。しかし現在は道徳がある。したがってその間に次第にできあがったことになる。言語・市場原理・宗教の生成過程も同じだ。歴史的にたまたま、ある特定の道筋を通ったという事後的な意味での歴史検証は可能かもしれない。だが、そこに法則を見つけることは論理的に不可能だ。なぜなら世界の成立は自己言及システムがアトラクタの一つに向かって収斂する運動の連続であり、何らかの内在的根拠がないからだ。無根拠から出発しながらシステムが生まれ、根拠が成立する。カントの自然因果律の意味で、一つの出来事には必ず原因がある。しかし初期条件の組み合わせのほんの少しのズレから異質な世界が生まれるがゆえに、初期条件をもって現在の社会秩序の根拠とすることはできない。原因と根拠は違う。

 

P347

 時間が経ち、システムがある状態に至る。現在から過去に時間を遡れば、システムが変遷した道筋は一義的に同定される。したがって現在の状態が最初から決定されていたように見える。しかしその道筋を何らかの法則に還元できないから、到着点に至る道筋の情報量を縮小できない。つまり現在に生じる事象を計算する一番速い方法は、道程が実際に到達点に至るまで待つことに他ならない。決定論と未来予測不可能性との間に矛盾はない。真理・偶然・一回性・超越・意味、結局は同じことをさす。歴史は実際に生ずることでしか、その姿を明らかにしない。社会は人間から遊離して自律運動するからだ。

 

 →社会は人間から遊離して自律運動するから、人間が人間をいかに分析しても、すでに生じた歴史のように未来を予測することは不可能だということ。

 

P352

 互いに借りを作らないという契約的発想が目指す人間関係とは結局、人間無関係に他ならない。権利・義務を完全に明示化できれば、人間の世界に信頼は要らなくなる。だが、それは同時に人間が人間たることをやめるときだろう。

 信頼と同様に赦しも契約的発想となじまない。すべての負債が生産されたならば、加害者を赦す必要はもうない。収支決算がすでに済んでいるからだ。赦すという行為は、被害者が受けた損害が完全に回復されないのにもかかわらず、すべてを白紙に戻し、新しい関係を結び直すことを意味する。南アフリカにおけるアパルトヘイト清算ユーゴスラヴィアルワンダ東ティモールでの民族和解。いまさら何をしても殺された家族は帰ってこない。賠償金をいくらもらっても障害を受けた身体や不幸の日々は戻らない。しかし赦しという象徴的行為を通して人は負債を帳消しにし、加害者との関係を再び可能にする。つまり赦しは被害者が持つ正当な権利の放棄だ。被害者が享受すべき正義の実現断念に他ならない。赦しは契約論理を破る不合理な行為である。赦すは英語でforgive、フランス語ではpardonnerという。どちらの単語も贈与概念を内包する。本来ならば与える必要のないもの、あるいは与えられないものを敢えて「与える(donner)ことを通して(par)」、人は罪を赦す。同じ世界に生きるチャンスをもう一度罪人に「与える(give)ために(for)」、人は赦すのだ。

 

P363

 自分の状況に対する満足度は比較対象に左右される。第二次世界大戦中、米黒人兵士の不満は南部出身者よりも北部出身者の方が強かった。準拠集団が異なるためだ。人種差別の強い南部では黒人の生活水準が低いため、戦線での生活が必ずしも苦にならない。しかし南部ほどには差別が激しくない北部出身者は、残留(在国)の黒人と自らとを比較して不満が募る。

 社会の底辺に生きる者が肯定的アイデンティティをもてるかどうかは、社会資源の分配だけで決まらない。封建社会では出生によって身分が固定された。しかし下層の人間は上層との比較を免れるため、近代社会に比べて羨望に悩まされにくい。下位集団から上位集団へ移動できないカースト制やアパルトヘイト制度と違い、民主主義社会では階層間の移動が可能だが、それゆえに下位の者は上位に自己同一化する傾向が強くなり、不満を強く感じる。

 

P366

 すべての人間を平等に扱い、物質・文化資源を均等に分配する社会は存在しない。したがって格差を正当化する何らかの機制が必要になる。封建制度カースト制度など身分制社会では、貧富や身分を区別する源泉が共同体の〈外部〉に投影されるため、不平等があっても社会秩序が社会秩序は安定する。人間の貴卑は生まれで決まる。貧富や身分の差があるのは当然だ。

 

P367

 近代以前の伝統社会と近代社会とを区別するのは平等・不平等の事実ではない。民主主義社会も依然として不平等な社会だ。程度の差でもない。両者の違いは他にある。伝統社会では身分が運命によって定められ、まさに格差の存在が秩序の正しさを傍証する。対して民主主義社会の人間はすべて同じ権利を持ち、正当な理由なくして格差は許されない。伝統社会にとって平等は異常であり、社会の歯車がどこか狂った状態を意味する。ところが逆に民主主義社会では平等でなければならない。しかしその実現が不可能だから、常に理屈をつけて格差を弁明しなければならない。

 どんなに考え抜いても人間が判断する以上、格差基準が正しい保証はない。社会の底辺に置かれる者は既存の社会秩序に不満を抱き、変革を求め続ける。近代社会では、完全平等というアトラクタに抗するための正当化を永久に強いられる。〈外部〉に支えられる身分制社会と異なり、人間が主体性を勝ち取った近代民主主義社会は本質的に不安定なシステムだ。近代社会の激しい流動性の一因がここにある。

 

 問題はそれだけに止まらない、人間世界の〈外部〉を排除し、あくまで内部に止まったままで秩序を根拠づける試みは論理的に不可能なだけでなく、ロールズの善意を裏切る悲惨な結果が待つ。

 『正義論』が構想する社会において底辺の人々は自らをどう捉えるだろうか。遺伝・家庭・教育・遺産など外因に左右される能力は本人の責任でないから、そのために劣等感を抱く必要はないとロールズは説く。格差は単なる手段であり、人間の価値が判断されるのではない。(中略)

 

 だが、このような理屈や慰めは空虚に響く。ロールズの想定する公正な社会では下層の人間にもはや逃げ道はない。社会秩序が正義に支えられ、階層分布の正しさが証明されている以上、自分が貧困なのは誰のせいでもない。まさしく自らの資質や能力が他の人より劣るからに他ならない。貧富の差は正当であり、差別のせいでもなければ社会制度に欠陥があるのでもない。恨むなら自分の無能を恨むしかない。ある日、正義を成就した国家から通知が届く。

 

  欠陥者の皆さんへ

 あなたは劣った素質に生まれつきました。あなたの能力は他の人々に比べて劣ります。でも、それはあなたの責任ではありません。愚鈍な遺伝形質を授けられ、劣悪な家庭環境で育てられただけのことです。だから自分の劣等性を恥ずかしがったり、罪の意識を抱く必要はありません。不幸な事態を補償し、あなた方の人生が少しでも向上するように我々優越者は文化・物質的資源を分け与えます。でも、優越者に感謝する必要はありません。あなたが受け取る生活保護は、欠陥者として生まれた人間の当然の権利です。劣等者の生活ができるだけ改善されるように社会秩序は正義に則って定められています。ご安心ください。

 

 同期に入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり給料が少なかったりしても、それが意地悪上司の不当な査定のせいならば自尊心は保たれる。序列の基準が正当でないと信ずるからこそ人間は劣等感に苛まれないですむ。ロールズの楽観とは逆に、公正な社会ほど恐ろしいものはない。社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ。

 伝統社会での身分は各人の能力によって決まるのではない。個人的資質を根拠に王は冠を戴くのではない。極限すれば王は誰でもいい。重要なのは連綿とつながる血統に属する事実だけであり、現実の王は単なる質料だ。貴族制は能力主義ではない。才能や努力という各人の個性が問題になること自体が近代の特徴だ。

 

 →清水に魚棲まず。現代の日本人が能力的な劣等感を抱けているということは、日本は公平な社会であることを、国民に信じ込ませることができているということ。本当は違うのだが…。

 中世の公家・寺院社会では「超越」が問題になっているが、これも勤続年数や家柄といった社会システムどおりに、出世が進まなかったためにトラブルになっている。逆に、個人の能力や寵愛の度合いによって、超越が起きるから問題になる。

 ただ、戦争時のように、成果主義がモノを言う時代の場合、個人の能力によって序列が決まることもあるだろう。こういう非常時における単発現象は近代のみの特徴ではない。平時でも能力主義で社会が運営されることが近代の特徴ということでよいか。

 

P370

 伝統社会の階層制度では身分が世襲・固定されるが、下層に生きる人間は不幸の原因を外部要素に転嫁する社会装置が用意されている。制度化された差別が厳然と存在するにもかかわらず、下層の者の欲求不満は緩和され、アイデンティティ喪失が避けられる。それが彼らにとって救いになる。秩序の源を〈外部〉に投影する伝統社会では不幸の最終責任が本人にない。それは悲しい運命の定めにすぎない。

 近代の超克を説くのでもなければ、宗教へ誘うのでもない。規範的思考で人間の世界を割り切ろうとする浅はかさを批判するだけだ。「神々を生み出す装置」(machine a faire des dieux)というベルクソンの美しい表現がある。社会のことだ。デュルケムは言う。

 

 無私無欲あるいは献身の心が生まれなければ道徳は始まらない。しかし我々が従う主体が我々個人より高い価値を体現しなければ、無私無欲の気持ちは意味をなさない。ところで現実の世界において我々以上に豊かで複雑な道徳的実在性を持つ主体は私には一つしか見つからない。それは集団だ。いや私は間違っているかもしれない。同じ役割を果たしうる主体がもう一つある。つまり神だ。(中略)どちらを選ぶかに私はあまり関心がない。なぜなら、社会が象徴的に把握され、変貌したものが神に他ならないからだ。

 

 神の死によって成立した近代でも、社会秩序を根拠づける〈外部〉は生み出され続ける。虚構のない世界に人間は生きられない。

小坂井敏晶著書 その2

  小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま文庫、2020年) その2

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第2章 死刑と責任転嫁

P127

 犠牲者が苦しむ具体的姿に接しない者は心理的軋轢を逃れ、残虐な命令を平気で発しやすい。ところでこの傾向はホロコーストのような犯罪行為に限らず、裁判や死刑のように必要が承認された社会制度にも共通する。死刑を執行する者の心理負担を軽減するメカニズムがうまく働かないと制度は機能しない。

 死刑制度是非の検討は本書の目的でない。死刑維持が社会の総意に従うなら、それを可能にする具体的措置を設ける必要がある。ヒトラーたち指導者の決定があっても、実際に手を汚す役人や警察官がいなければユダヤ人は一人も死ななかった。同様に裁判所が死刑判決を下しても、実際に死刑を執行するものがいなければ受刑者は死なない。

 前章の問題意識を引き継ぎ、この章では分業体制に組み込まれる人間の姿を別な観点から検討し、主体性から導かれる責任という常識に疑問を投げかける。

 

P134

 裁判官が判決し、役人によるさまざまな確認作業を経て最終的に法務大臣が死刑執行命令を下す。拘置所の刑務官はその命令を執行するにすぎない。しかし単なる書類の整備と、生身の人間を実際に絞殺するのとでは意味が異なる。ホロコーストにおいてユダヤ人虐殺の罪悪感を薄めるために導入された分業体制と同じように、裁判・死刑制度においても法務省の役人・刑務官・拘置所所長など多くの関係者が介在し、死刑の心理負担が執行官だけに集中しない体制ができている。しかしそれでもストレスが原因で2年間の任期を満了できずに配置換えされる刑務官が少なくない。

 

P136

 苦しむのは刑務官本人にとどまらない。夫あるいは父の職業を恥じ、忌み嫌う妻や子どもも少なくない。「父の仕事がいやで、情けなくて、悲しくて、死にたいと思ったことも何度もあったんですよ」。雨靴・裁縫箱・クレパスなど欲しいものをねだると、「もう少し待ってろ」と父は言って、しばらくすると必ず買ってきてくれた。だが、ある日、学校の同級生の口から父の職業を知る。自分が宝にしているものを買った金が実は死刑執行の特別手当だと判ったとき、それまでとても大切にしていた裁縫箱やアルバムなどが娘には忌まわしく思え、雨に濡れた庭にすべて捨ててしまう。そして「もう学校にも行きたくない。こんな家になんかいたくない。死にたい」と泣きじゃくる。娘が捨てた父のプレゼントの泥を無言でぬぐっていた母はポツリと呟く。「そんなこと、いうものじゃないよ。父ちゃんがかわいそうだから」。

 1956年、羽仁五郎市川房枝参議院議員の有志46人が死刑廃止法案を国会に提出した。そのきっかけは、参議院法務委員になった羽仁が各刑務所や拘置所を視察した際、死刑執行の苦悩を切々と打ち明け、死刑制度廃止を嘆願する刑務官たちに強い衝撃を受けたからだった。刑場を実際に視察した保坂展人衆議院議員(当時)は述べる。

 

 死刑囚に目隠しをする刑務官、落下床まで連れて行く刑務官、ロープをかける刑務官、ボタンを押す刑務官、全部別です。それぞれの刑務官には殺す意思はない。でも、みんなで殺していた。その場に立ち会う検察官も教誨師も医者も、見事に役割を分担している。システマティックな殺人です。死刑を判決した裁判官も、死刑を命令した法務大臣も、死刑が必要だというなら、最後まで見届けろと言いたい。見届けることなく死刑を命じている欺瞞性を感じました。

 でも、汚れ仕事をしているのは刑務官ら。刑場の説明する拘置所の人間に、処刑に携わるのを断る刑務官はいないのかと聞いたら、「断るならここにいられない」という。組織からの命令に反するには辞職するしかない。思想信条の自由さえ犯している職場ではないかと思いました。

 

 →これは国民にも言える。私刑を代行しているのが現代の死刑制度なわけだから、死刑を要求するなら、簡単に「死ね」と口にするのではなく、最後まで見届けるぐらいのことはしなければならないのだろう。死刑は犯罪防止の役に立たないという議論があるが、国民自らが死刑を執行せず、刑務官に代行させ、あまつさえ刑の執行を目撃しないのであれば、犯罪予備軍である国民に、死刑のリアリティが伝わらないのだから、犯罪防止効果が向上するわけがない。目の前で泣き叫び、糞尿を垂らしながら、1分半ももがき続けて死に至る過程を見れば、さすがに凶悪犯罪を犯そうとは思わないのではないか。

 

P138

 第1章で確認したように殺人を命令するだけの者には、実際に現場で執行に携わる人間の苦悩が見えない。元裁判官の渡部保夫は自らの反省を込めて、こう述懐する。

 

 裁判官時代には死刑制度そのものについてそれほど真剣に考えていなかった、というのが偽らざる告白です。(中略)最高裁判例が死刑制度を肯定しているわけですが、そうすると、下級審の裁判官はついこれに寄りかかってしまい、死刑制度の本質や限界などについて深く考えないでしまうのです…。(中略)法律家というのは、自分ではなかなか意識しないんですが、そういう浅薄さ[自分で考えずに、「法律と判例に照らして」とか「量刑の一般的基準に照らして」などと、決まり文句に寄りかかって死刑を宣告すること]に陥りやすいものです。しかし、刑務官はそうじゃない、自分の手で死刑囚の首に縄をかけるんですから。法律や判例の言葉なんかで自分を誤魔化せません。(中略)この人たち[死刑制度は廃止するべきだと主張する網走と札幌の刑務所長]は上からの命令により職務として死刑を執行する、しかし、人間として両親の問題として死刑制度の根源、つまり刑罰としてでもそもそも人の生命を奪うことが許されるかという問題を考えておられたわけです。教科書程度しか読まず判例を漫然と肯定し、それ以上深く考えずにきた自分が恥ずかしく思われました。

 

P144

 戦争中、敵兵士の腹や胸に正面から銃剣を突き刺した兵士は稀で、逃げる敵の後ろから突き刺す場合がほとんどだった。相手の顔を見ながら殺すのは負担が大きい。絞首・銃殺・電気イス・毒ガスで処刑する際、受刑者に目隠しをして死刑執行者の顔が見えないようにする。延命を懇願する者や怨み死んでいく者の眼を見つめながら殺すのは辛いからだ。

 

 →これは超歴史的に一般化できるのか。前近代の武士や騎士、現代の傭兵など、戦争や殺人を生業とする人たちも同じような心情なのか。それとも、一般人を軍兵に組み込んだ近代だからこそ、このようなことになるのか。戦争や武力闘争の絶えない中世の場合はどうなのか? 正面からバッサリ的な時代劇の殺陣のような殺し方は、史実どおりなのか? それとも、キレやすく凶暴な中世びとというイメージは間違いなのか?

 

P145

 医学の衣を死刑に着せ、それまで死刑執行人が絶えてきた心理負担を減らし、より能率的に処刑する。病院で施される普通の手術と同じようにマスをかけて死刑囚を「処置」するだけだ。毒ガス室・電気イス・ギロチンの考案や改良に医者が協力してきたが、命を救うはずの医学が死刑執行を主宰するグロテスクな構図が注射刑採用によって完成する。

 死刑の残虐性を可能な限り除去し、日常性に組み込む注射刑。それでも受刑者の死体は残る。しかし将来はそれも超えられるかもしれない。フロリダ州で電気イス刑の代替方法を検討する委員の一人は死刑執行から死の概念を完全に払拭する方法はないかと模索し、受刑者に麻酔をかけた上で臓器を摘出し、利用する可能性に言及した。そうすれば、死体さえも残されず、社会秩序を破壊する異端者の存在は分解・浄化・再利用され、最終的に社会に還元される。

 

P150

 「私が決めたことじゃない。私は命令を実行しただけだ」と死刑執行のボタンを押した人間はできれば言いたいだろう。「私は書類に不備がないかどうかを確認しただけだ」と官僚の一人が口を拭う。「警察の捜査結果に従って起訴しただけだ」と答える検察官、「原告と被告の双方が提出した証拠を判断し、法の定めるとおりに、また過去の判例を考慮して死刑判決を下しただけ」の裁判官、「判決書類を吟味して執行命令書に署名しただけ」の法務大臣。そして「国民の大半は死刑制度の維持を望んでいる」と死刑を正当化する法務省と首相。結局、執行に至る決定的判断をした責任者はどこにもいない。無責任体制のおかげで死刑制度が可能になる。

 

 →中世の自力救済体制は、現代とは真逆。命の取り合いに、個人が責任を取っていた時代と言える。ただ、これを容認してしまうと、ただの殺人と死刑の区別が付きにくくなる。国家の認めた正当殺人であるからこそ死刑は許容されれるのであって、その国家に正統性を与えたのは、他ならぬ国民である、という虚構を国民国家はその存立の最初から必要としている。

 

P152

 前近代において神や大自然が意味していた〈外部〉と、偶然は似て非なる存在である。人間が意図的に操作できない点は同じだ。だが、責任を最終的に引き受ける〈外部〉は根拠あるいは主体として我々の前になければならない。意志の欠如という消極的な事態ではない。〈外部〉は本書の通奏低音をなすが、最後の第6章でその構造分析を試みる。

 (中略)

 死刑執行の場面を国民成人すべてに見せたらどうなるだろう。大半の人々にとって耐えられない経験であり、死刑廃止論が今以上に強く巻き起こるにちがいない。死刑を承認するからには、惨い現実に自分自身が直面する義務があるとか、見る勇気がないなら死刑を廃止せよと主張するのではない。「死刑は必要だ」と理性が言い続ける傍らで、「もう耐えられない。とにかくやめてくれ」と感情が拒否する。その時、我々はどうするか。理性の冷めた命令に従えるだろうか。

 (中略)

 重罪犯を死刑に処す抽象的判断と、生身の人間が血を流し、糞尿を垂らしながら殺される具体的現実との間に横たわる溝が問題なのだ。死刑を維持するためには、執行官を始めとする関係者の罪悪感を薄める分業体制が不可欠だ。しかしそれは逆に見れば、心理負担を減らす手段さえ採り入れれば誰でもナチスの犯罪に加担する危険性を同時に意味するのではないか。

 

 →法哲学のような抽象的な議論が無用だとは言わないが、具体的な現実から乖離しすぎた理論を振りかざしたところで、何の解決にもならないと思う。日本に住み続けている学者には、なんだかんだで、世間?学界?政治?に忖度する傾向があるから、こういう内容をはっきり言うことはできないのか。

 

 

第3章 冤罪の必然性

P158

 すでに言及したようにラウル・ヒルバーグは、ホロコーストを生んだ最大の原因として官僚制的構造を挙げた。多くの人々が分業し、相互のつながりが不明瞭になるにつれ、個別の意味が失われ、責任感が薄れる。それはホロコーストだけに限らず、私企業・公共機関・学校・警察など細かい分業の下に仕事が遂行される組織すべてに共通する問題だ。集団行為は当事者の意図を超え、自律運動する。組織のあり方によって冤罪発生率にいくらかの違いはある。しかし分業体制が原理的に誤謬を生みやすい点を見落としてはならない。次章で犯罪や責任の分業を理論的見地から試みるが、その前作業として、冤罪が生ずる敬意を具体的に確認しておこう。

 

P163

 犯罪を憎み、被害者の無念を晴らそうとする取調官の気持ちを見落とすと問題の核心を見失う。また、あからさまな暴力行為や証拠捏造が常になされるわけではないし、それだけならば対処は難しくない。時には違法な手段をも講じて警察は自白を得ようとするが、そこに取調官の真摯な態度を読み取らないと、冤罪メカニズムの本当の深刻さと恐ろしさは把握できない。

 冤罪をなくすだけなら理屈としては簡単だ。警察を解体し、どんな犯罪が起きても放任して誰も逮捕しなければよい。冤罪を防止すると同時に、本当の犯罪者は間違いなく罰する目標があるから問題解決が難しい。ある程度の改善は可能だが、原理からして一方を減らせば他方が増える。

 

P169

 だが、このような(司法取引)制度は冤罪を起こしやすい。死刑宣告の可能性を示唆されると、最悪の事態を避けるために無実の人間でも罪を認めて無期懲役を受け入れる。被害者や目撃者が一致して自分を犯人だと証言した。捜査官も頭から犯人厚化して言い分を聞いてくれない。さらに悪いことにアリバイを証明できない。このような場合、罪状を認めさえすれば死刑にしないと検察官から言われると、絶望の淵にある被疑者は簡単に落とされてしまう。

 

P185

 誤証言によって逮捕されたり、有罪判決を受ける人の実数はわからない。アメリカ合衆国では年間7万5千件の犯罪が目撃証言によって有罪判定される。DNA検査で無実が証明された40人のうち36人つまり90%が誤った目撃情報によって有罪にされたという報告もある。

 

P187

 トーマス・クーンのパラダイム論で知られるように、研究者が立てる作業仮説は最初からバイアスがかかっている。構造主義が流行すれば誰でも構造主義的解釈を持ち出す。脱構築ポストモダン複雑系などというスローガンがもてはやされると同様のタイトルを持つ本や論文が量産される。

 さらに言えば、序章で確認したように大脳の活動自体がすでに同じ認知構造を持つ。おびただしい数のニューロン間で取り交わされる情報群が組み合わさって最終的に意識内容が現れる。その過程で矛盾は忘却・抑圧・歪曲・捏造を通して処理され、我々の意識はすでに合理的な形に整えられている。警察・検察・裁判所が犯す誤りも発生の構造は同じだ。ただし個人の判断や学術研究の場合は誤謬に気づいた時点で訂正すれば済む。そこが冤罪とは違う。

 アメリカ合衆国イラク戦争に突入する際、大量破壊兵器保有を口実に爆撃を正当化したが、結局その証拠は出てこなかった。ブッシュ政権が意図的に嘘をついたのではないだろう。CIAなどの諜報機関を始め、さまざまな部署から膨大な量の情報が集められる。それらは互いに矛盾することも多い。その情報の山から事実に合致すると思われるデータを取捨選択して現況が推定される。タカ派ハト派の間のせめぎ合いもあるだろう。上司の顔色をうかがいながら、その意に沿った報告書を作成する官僚もいる。競合する部署に対する嫉妬心や猜疑心もある。出世や組織防衛のための嘘もあるに違いない。他の案件や過去の状況との兼ね合いから各部署の方針が影響を受けることもある。

 同じデータを見ても判断者の戦略構想に応じて解釈は異なる。ほんの小さな解釈の違いが次の判断段階で大きな差を生む場合もある。いったん決まった方針を後になって覆すのは非常に難しい。そんなことをすれば責任者の首が飛ぶかもしれない。自分の判断に誤りがあったと後ほど気づいてもすでに遅い。もう後戻りできない。口を噤んで先に進むしかない。こうした判断・・解釈が繰り返し行われているうちに実際の状況とかけ離れた政策や軍事戦略ができあがってゆく。当事者の思惑から集団判断が遊離する。第二次世界大戦への日本の無謀な突入も自動運動化した集団行為の結果だ。

 朝鮮戦争への介入、真珠湾攻撃に対する防御失敗、キューバ侵攻計画の惨憺たる結果などアメリカ軍事政策・戦略を分析した社会心理学アーヴィング・ジャニスは集団思考で起きやすい問題を指摘した。集団討議による決定は往々にして危険を過小評価する傾向がある。支配的意見が明確になるにつれて、それに反する情報が無視されやすい。実際には集団の全員が同意するわけでないのに、疑問を抱くのはあたかも自分だけのような錯覚に陥る。そのため表立って反対意見を表明しにくい。ちょうどアンデルセン童話「裸の王様」と同じだ。あるいは上官や上司による圧力のせいで少数意見が抑圧される。

 

 →事態が自律運動してしまうので、すでに作業を終えた部署が後でどうこう言っても止まらない。自分たちの手を離れた後、どうにもならないのが、近代的官僚制による分業体制の本質ということになるか。事態がベルトコンベアーに乗せられて、どんどん次の部署へ移動してしまう。そのベルトコンベアーを動かし止める人間が責任者ということになるのだろうが、分業が細かくなりすぎると、責任の所在がわからなくなる。となると、霞ヶ関の官僚たち無能であるとか、融通が利かないという批判は当たらないことになる。いくら有能な連中でも、たとえそのシステムを採用したのが当の本人たちであっても、そのシステムに一度呑まれると、そこから逃れられなくなる、その制度のなかで動く以外のことが考えられなくなる。東大は、自らが作った制度のなかでうまく振る舞えているように見えて、実はそのシステムに束縛されているだけではないか。まして、アホならなおさら、そういうことにさえ気づかないということになる。これは、本当に怖い…。

 

P189

 検察官の提出する起訴事実・証拠と、被告や弁護側の主張・証拠とを比較し、どちらが正しいか信憑性が高いかを裁判官が判断する。検察側資料はすでにバイアスがかかっている。裁判官にとって判断材料が少なく、検討する視点も限定されている。その上、事前にリハーサルさせられた検察側証人の演技を吟味しながら被告の罪状を見極めなければならない。しかし裁判官は法律解釈の専門家ではあっても、事実認定そのものに長けているわけではない。

 

P191

 日常的思考は次の三つの点で科学や哲学の知見と異なる。第一に、専門家と違い、問題を検討するための十分な情報がない。したがって部分的な検討しかできず、様々な角度から考察せずに結論に至ってしまう。第二に、我々は社会構造に組み込まれており、所属する社会階層・年齢・性別・出身文化背景・職業などに固有な情報網から知識を得る。したがって偏った情報をもとに判断せざるを得ない。第三に、他者とのコミュニケーションを持ち、具体的状況にすぐさま判断しなければならない。したがって十分な考察を経ずに判断や行動が実行される。これは裁判官の判断過程にも当てはまる。

 

P193

 哲学者や数学者が厳密な手続きを通して意識的に導く論証ならば、所与のデータの論理的吟味十分なされた後で結論が導き出される。

 

 →政府・文科省のせいで業績主義に変わってしまった学術の世界で、果たしてこのような手続きがなされているか疑問。

 

 しかし一般に人間の思考はそのように進まない。日本の戦争責任や教科書問題などの政治的テーマについて討論する場面を考えよう。相手の主張を最後まで虚心に聞く人はまれだ。相手は左翼なのか右翼なのか、味方なのか敵なのか、論者は信用に値するのか政府の御用学者なのかと範疇化が無意識に行われる。相手が展開する論理は、あらかじめ作られた思考枠を通して理解され、賛成の安堵感あるいは反対の怒りや抗弁が心の中で積み重ねられてゆく。新聞や本を読む場合でも同様だ。読者にとって重要な関心ごとほどこのような歪曲を通して解釈されやすい。

 

 →この本を読んでいる自分もそうなってないか?

 

 つまり論理的手続きの進行方向と反対に、既存の価値観に沿った結論が最初に決定される。そして選び取られた結論に応じて、検討に付されるべき情報領域が無意識に限定・選択される。客観的な推論がなされ、その結果として論理的帰結が導き出されるのではなく、その逆に、先取りされ、バイアスのかかった結論を正当化するために推論が後から起こる。

 

 →証明は後付け、判断は直観ということか。

 

P205

 工場や交通機関で事故が起きると、操作ミスなど人的原因によるのか、機器や設備の構造的欠陥が事故原因なのかと問われる。しかしこの発想がすでに誤りだ。車の運転でも工場や医療現場でも、鉄道や航空機の運行でも、実は人間は頻繁にミスを犯す。しかしそのミスが事故を生む確率が低いだけだ。例えば自動車運転中の注意力散漫は避けられない。だが、注意力が低下した瞬間に他の車と接触する状況になかったり、歩行者がいなかったりするので、普通は事故につながらない。そして何の問題も起きなければ、ミスがあったこと自体意識されずに過ぎてゆく。

 

P206

 航空機の製作や運行にはシステム的発想が採られ、ミスが少々起きても事故につながらない機構が何重にも用意されている。犯罪捜査から判決に至る過程で生じうる過ちを防ぐ工夫の杜撰さとは比べものにならない。しかしそれでも事故は起きる。システム化が難しい医療現場では、手術に使用したガーゼや鉗子を患者の体内に置き忘れたまま縫合したり、手術部決めを誤ってもう一方の健康な眼にメスを入れたり、指示と異なる薬品を点滴投与する事故が頻繁に起きる。米国医学研究所が1999年に出した報告書によると、医療事故で死亡する患者の数はアメリカ国内だけで、毎年4万4千人から9万8千人に上ると推定される。

 個人の意志を超えた次元で集団行為が自己運動を展開する。意図的に為す逸脱行為・事件としてでなく、ある条件を満たせば必ず生ずる事故として冤罪を把握し直す必要がある。冤罪が生ずる原因は、より根源的に罪および責任の本質と関わりを持つ。その点を解明するため、次の第4・5章では理論的見地からの責任の分析を試みよう。

 

P208

(16)「一人の無実の者を有罪にするより、罪ある者一人を逃す危険を犯すほうがましだ」と述べたのはフランスのヴォルテールだ(Voltaire, Zadig ou la destinee, 1784)。同じ時期にイギリスのブラックストーンは「罪のない一人が苦しむぐらいなら、罪人十人を逃したほうがいい」と書いた(W. Blackstone, Commentaries on the Laws of England, 1765)。だが、犯罪者1000人を見逃しても冤罪者一人を出すよりもましだと言えるだろうか。犯罪者100万人と冤罪者一人との比較なら、どうだろう。

 

P216

(76)予断が精神鑑定を誤らせる例として次の研究が有名。研究者とのその友人の合計12人が身分を隠して、幻聴が聞こえるので入院したいと各々違う精神病院を訪れた。全員入院を認められ、1人は躁鬱病、残りの11人は精神分裂病の診断を受けた。彼らは入院するやいなや健常者と同じように行動し、もう幻聴がなくなったから退院したいと願い出た。しかし、平均19日の間、退院は認められなかった。長い者は52日間の滞在を余儀なくされた。彼らの診断書には「精神分裂症の一時的鎮静状態」(11人)「躁鬱病の一時的鎮静状態」(1人)と記された。入院中、メモを頻繁に取る研究者たちの姿を不審に思った入院患者が「あなたたちは患者のふりをしたジャーナリストでしょう」と正体を見破ったが、メモを取る行為自体が病的兆候だと病院側は判断し、何を書いているのか確認さえしなかった。

 

 

第4章 責任という虚構

P223

 二つの事実や理論の間に矛盾が見つかる場合、そのうち一方を採用し他方を否定する解決に我々は走りやすい。しかしどちらの事実・理論も維持しながら、考え方の出発点を再考して矛盾を止揚するほうがより根本的な解決をもたらす。自由や責任が実証科学の成果と矛盾して見えるのは発想の根本で勘違いするからだ。自由や責任を因果関係の枠組みで理解する発想を覆さなければならない。

 

P224

 カントは『純粋理性批判』の中で「自然による因果律」と「自由による因果律」を区別した。前者は科学の基礎をなす因果論的説明である。出来事にはそれを引き起こす原因となる他の出来事が必ずある。しかしその原因たる出来事も他の原因が引き起こす。したがってこの説明形式では因果の連鎖が無限に続く。それは人間の行動も同じだ。人間も生き物つまり自然の生産物だから、無限に続く因果関係から逃れられない。カントは『実践理性批判』で次のように述べる。

 (中略)

 無限に続く出来事群の流れは自然界における連鎖だから、私の原因は決して自由ではない。

 

 自由でないのになぜ、責任が問われるのか。

 猟銃殺人が起きたとしよう。事件を解明するにあたって、「銃の材料になった鉄の精錬技術を発明した者が真犯人だ」などと警察は逮捕状を取らない。「本当にひどい事件だ。許し難い。鉄を発明した人間の親の顔がみたい」とも言わない。たしかにこの銃の製造、この銃の材料である鉄の精錬、銃や製鉄技術の発明家、発明家を生んだ親などがいなければ、この殺人は起きなかった。したがって因果関係は犯人を越えて無限に後退する。しかし責任を問題にするとき、このような因果論的説明が求められるのではない。

 製鉄技術の発明家や犯人の親に責任を負わせないのは、因果関係の流れの中で事件からあまりにも遠い要素だからだろうか。では逆に事件に極めて近い要素を考えよう。被害者が死亡する際には心臓や脳の活動が停止する。だが、殺人事件の責任を心臓や脳の停止事実に求めたりしない。死に至る因果関係の科学的記述としては正しいが、責任を追及する立場からは的外れな答えでしかない。

 

P226

 事件を前にして我々はなぜ、ある要素を受け入れ、他の要素を状況理解から排除するのか。これはヒュームやミルなどが検討した古典的問題であり、法哲学者のハートとオノレは『法における因果性』で次のように述べた。

 

 出来事の原因を同定するとき、我々は複数要素の中から一つだけを取り出す。だが、出来事は必ず複数の要素により引き起こされ、それら全ての要素が同じ重要性を持つ。紙屑が入ったゴミ箱に火のついたタバコを落としたことが火事の原因だと我々は理解するが、実際には他の条件が満たされなければ、このことだけで火事は生じない。つまり空気中に酸素が存在すること、ゴミ箱の中に完成物質があることなどの事実がなければ火事は発生しない。あるいはレールの湾曲が鉄道事故の原因だと断定する。しかしレールを通過する列車の構造や重量、そして運行速度などの条件が整って初めてこの事件は生じうる。因果関係の一般的考察としては、これら複雑に絡み合った条件要素のどれも、我々が選び取る要素とまったく同じ地位にある。つまり、原因を構成する一様としてどれもが同じ重要性を持ち、この意味においてすべて「同価値」である。

 

 →歴史学がやっていることも同じではないか。本当は原因が複数あるのに、原因を一つに絞り込まなければ、論文にならないというのはおかしな話。歴史学は原因を追究する科学なのか、それとも歴史事象を引き起こした責任を追及する裁判なのか、よくわからなくなってくる。歴史学の論文は原因と責任を混在して論じていないか? こういうことを意識しながら論文を書いているのか? かりに前者の立場にしても、どこまで原因を追究し並び立てれば、優れた論文と言えるのか、あるいは結論が出たと言えるのか。

 

 行為の因果関係で責任を捉えると、刑罰を与える上で不都合が起きる。次の二つの例を考えよう。一人の男がいる。恋人を奪われ嫉妬に狂い、復讐心から相手の男性を銃で撃つ。撃たれた相手は病院に運ばれるが、運悪く新米の医者しかおらず、治療にまごつくうちに被害者は出血多量で死ぬ。あるいは交通渋滞のために救急車が病院にすぐ辿り着けず死亡する。もう一つの筋書きを考えよう。同じように恋人を奪われて嫉妬に狂い復讐する男がいる。先ほどと同じように相手の男性を銃で撃つ。しかし今度は、撃たれた相手を治療する医者が優秀で被害者は一命を取り留める。あるいは交通渋滞に巻き込まれず、運良く救急車がすぐに病院に着いたおかげで被害者は助かった。

 さて犯人が捕まり裁判が行われる。判決はどうなるだろう。第一のケースでは殺人罪であり、計画性や残虐性が認められれば、無期懲役か死刑になる可能性もある。対して第二のケースは殺人未遂に過ぎず、罪の重さが大きく異なる。

 ところで二つのケースは何が違うのか。犯人の行為自体はどちらも変わらない。同じ動機(恋人を奪われ嫉妬に狂い、復讐したい)、同じ意図(殺す)の下に同じ行為(銃の照準を定めて引き金を)が行なわれた。被害者にとっての結果は異なるが、違いの原因は犯人に無関係な外因だ。医者がたまたま優秀だったか経験の乏しい医者だったか、道が混んでいたかいなかったかという、犯人には無関係な原因だけが二つの状況設定で違う。動機も意図も行為も同じなのに、どうして二つのケースで責任および罪が異なるのか。

 

P228

 母子家庭で苦労を重ねて育てた子どもがやっと嫁いだ途端に犯罪に遭遇し命を落とす、念願の大学進学を果たした矢先に殺される。こういう不幸を耳にすると我々は同情を禁じ得ない。だが、知らない人を通り魔が襲ったのならば、被害者の事情は犯人と無関係だ。行為の因果律から責任を考えるならば、被害者の苦しみの代償が罪の重さに反省されるのはおかしい。トマス・ネーゲルは「道徳における運(moral luck)」という有名な論文でこの問題を検討し、ナチス時代に生まれたドイツ人を例に、当人が制御しえない状況でも、それにより責任が大きく左右される事実を指摘した。

 

 ナチス・ドイツ時代の一般市民には国家の政策に反対し英雄的に行動する可能性もあった。悪しき行動に走ることもできた。しかしほとんどの人々はこの試練において誤りを犯し、非難されたのだった。ところでこの試練は他国の市民には課せられなかった。(中略)このように人間は自らの道徳状況を運命に任せざるをえない。考えてみるとこれは不合理だ。だが、我々が普通に抱く道徳観はこのような発想に支えられ、それを抜きにしては理解できないだろう。

 

 →英雄的に行動するという選択肢も、悪しき行動に走るという選択肢を与えられなかった、ということ。

 

 責任を因果関係の枠組みで理解し、行為の原因が自らにあるから責任を負うと考える限り、責任と運の両概念は相容れない。したがって「ある意味で、この問題には解答が存在しない」とネーゲルは結論する。

 

P230

 以上概括したように、行為生成過程のどの時点に注目しても因果関係では責任現象を捉えられない。責任を特定する上で適切な原因とそうでない原因の区別も客観的観点からはできない。ギャレン・ストローソンが指摘するように、責任概念と因果関係は次の論理矛盾を抱えるため根本的に相容れない。⑴自らの行為に対して道徳的責任を負うのは、行為者自身が当該行為の原因をなす場合である。⑵だが、どんな存在も自らの原因ではありえない。⑶したがってどんな存在も責任は負えない。

 (中略)

 なぜ、このような困った結論が導かれるのか。犯罪の原因は何なのかという発想自体に問題が潜んでいる。責任の正体を突き止める上で、この戸の建て方がそもそも的外れだ。殺人が生じたとき、「どのような物理的過程を経て被害者は死に至ったのか」と我々は問うのではない。「いったい誰が悪いのか、この殺人の責任は誰が負うのか」と怒りをぶちまけ、悲しみに沈むのだ。

 

P232

 「自由による因果律」とカントが呼ぶ記述形式は何を意味するのか。ここで我々に関心があるのは、カント自身の答えではない。「自然による因果律」と異なる「自由による因果律」を定立するならば、それはどのように理解するべきか。序章で確認したように、外的あるいは内的な条件から独立する自由意志によって行為が引き起こされるのではない。ウィトゲンシュタインの有名な提言を思い起こそう(『哲学研究』§621)。

 

 私が腕を上げるとき、私の腕は上がる。ここに問題が生まれる。私が腕を上げるという事実から、私の腕が上がるという事実を差し引くと何が残るのだろうか。

 

 意志あるいは主体が残ると答えたくなるが、ウィトゲンシュタインによると、世界を理解する二つの仕方に応じて同じ身体運動が出来事と形容されたり、行為と表現されたりするにすぎない。では我々の記述方式を決める基準は何なのか。行為の源泉として我々が援用する意志なるものは脳内に発生する心理状態ではない。黒田亘は『行為と規範』で意志の社会性を指摘した。「人間のすることの多くが行為でなく、しないことがしばしば行為であるという、一見逆説的な事情」の理解不足のために行為や意志の意味が誤解されてきたと黒田はいう。

 

P234

 意志は各個人の内部に属する実態ではない。社会秩序を維持するために援用される虚構の物語である。中島の著書から再び引用する。

 

 (中略)

 川で溺れそうな子を見て無我夢中で飛び込み、ずぶ濡れになって子どもを抱き抱えつつ「自分が何をしたかわからない」と語る男はその子を「助けた」がゆえにその子を「助ける」意志を持っていたのである。「助けたい!」と内心叫びながら岸辺で腕を拱いていた人々は「助けなかった」がゆえに「助ける」意志をもっていなかったのである。

 こうした行為と同一記述の意志をわれわれが要求するのは、過去の取り返しがつかない行為に対してある人に責任を課すからである。「実践的自由」における「自由による因果性」とは意志と行為とのあいだの因果性ではなくて、実は意志と責任を負うべき結果のあいだの因果性なのである。ある行為の行為者に責任を負わせることをもって、事後的にその行為の原因としての(過去の)意志を構成するのだ。

 

 →意志(助けたい)と行為(助ける)の間に因果関係があるのではなく、意志(助けたい)と結果(助けた)に因果関係を持たせようとしている。つまり、結果から過去の意志を遡及的に生成させようとする虚構だということ。

 

P235

 当該行為の「意志」と願望一般は区別しなければならない。ある行為をしようと心の中で思うだけでは何も起きない。手を動かそうと欲しても、思うだけでは手は微動だにしない。「憎いあいつを殺したい」と思っている間は単なる願望であり、実際に銃の引き金を引く身体行動を起こす指令は常に無意識に生まれるのである。

 本書が検討する意志は行為の原因としてのそれだ。因果律を基に責任を定立する近代的発想で意志が問題になるのは、意志が行為の原因と認められる限りでのことであり、行為と直接関係ない心理状態ならば、意志について議論する意味がそもそも失われる。

 

 →前述の助けたいという意志だけで、実際に行動に移さないパターンのこと。

 

 ところで意志が原因をなすならば、それに対応する行為は必ず生じなければならない。定義からして原因と結果の間には必然的関係があり、銃の引き金を引く意志があっても実際には発砲する場合もあるしそうでない場合もあると言うならば、そのような意志は行為の原因とは認められない。「明日から絶対にタバコをやめる」と言う強い意志があっても、実際に明日になると「昨日はそう思ったけど、やはり急にやめるのは大変だから量を半分に減らすことから始めよう」と考えが変わるならば、前日の禁煙意志は願望に過ぎず、原因たりえない。

 

 →結果との間に必然的関係がなければ、それを原因と呼ぶことはできない。

 

 では意志と単なる願望とを分ける基準はどこにあるのか。それはまさしく行為が実際に起きた事実以外にありえない。つまり黒田や中島が言うように、ある身体運動を出来事でなく行為と認めること自体が、そこに意志の存在を事後的に構成するのだ。言い換えるならば責任が問われるとき、時間軸上に置かれた意志なる心理状態とその結果という出来事の関係が問題になるのではない。

 

P238

 社会秩序という意味構造のなかに行為を位置づけ、辻褄合わせする、これが責任と呼ばれる社会慣習の内容だ。因果律の観点からすれば、犯人の行為が同じなのに結果に応じて罪や罰が変わるのは明らかな論理誤謬だが、同じ行為でも事件の結果が異なると責任や罰が変化する理由がここにある。

 序章で意志と行為の間の齟齬を指摘し、意志が行為を生むという常識的図式に疑問を投げかけた。さらに以上の検討により意志の存在形態が明らかにされた。精神活動はデカルトにとって意識、フロイトにとっては無意識、認知心理学にとっては脳の機構を意味する。したがっていずれのアプローチも精神を個人の内部に位置づける点は共通する。しかし意志は個人の心理状態でもなければ、脳あるいは身体のどこかに位置づけられる実体でもない。意志とは、ある身体運動を出来事ではなく行為だとする判断そのものだ。人間存在のあり方を理解する形式が意志と呼ばれるのだ。人間は自由な存在だという社会規範がそこに表明されている。以前に流行った表現を借りるならば、意志はモノではなく、コトとして理解しなければならない。

 

P241

 自由意志が存在するとしよう。するとたちまち、それはどこから由来するのかと疑問が湧く。⑴自由意志は他の原因から生ずる。⑵自由意志は原因を持たず、偶然生ずる、⑶自由意志は他に原因を持たず、自ら原因として生ずるという三つの解釈が可能だが、どれをとってもアポリアに陥る。

 まず自由意志は外因が生むかそうでないのかのどちらかだ。外因から生ずるならば、つまり過去に沈殿した記憶と新たな外部刺激とを材料に脳が出す演算結果から意志が生ずるならば、自由意志ではありえない(選択肢1の否定)。次に自由意志が外因によって生じない場合は、さらに二通りの可能性に分かれる。すなわち自由意志は偶然生ずるか、それ自身を原因とするかだ。自由意志が偶然生ずるなら、やはりこれは自由意志ではありえない。理由なく不意に覚える殺意や制御できない身体運動を自由意志の産物とは呼ばない。またそのような意志は私とは無関係だから、私の意志ではない(選択肢2の否定)。偶然でもなく、外因によるのでもない自由意志はそれ自身を原因として生ずるしかない。だが、そのような存在は神以外にない。ところで神によって私の意志が生ずるなら、それは私の自由意志でない。それどころか自由意志が自らを原因として生ずるなら、神が私の自由意志を生むのではなく、私の自由意志がすなわち神という結論が導かれる。つまり私は神になってしまう(選択肢3の否定)。

 

 →結局、自由意志とは存在しないにも関わらず、社会生活を営むために創出された虚構だということが言いたいのか。

 

P242

 誤解がないように敷衍しておこう。第5章および第6章で詳説するように、各要素の相互作用が生む集合体は自律運動を始める。遺伝形質に家庭・学校教育などが作用して生成される人格は初期の所与から遊離する。人間の認知構造は自己組織化システムをなし、行動の原因は遺伝形質や社会環境に還元できない。だが、この意味での自律性はすべてに共通する性質であり、判断能力に欠ける精神疾患者も同様だ。遺伝および環境の所与へ行動を還元できない事実自体からは、犬や猫が持つ自律性以上の意味での自由意志は導けない。犬や猫に責任を問わないように、自律性に依拠して、我々が了解する近代的意味での責任は定立できない。

 

 →認知の仕方が自己組織化しているわけだから、自我が生まれ、自由意志があると信じるようになってしまうということか。

 

 世界は決定論的に理解すべきだと主張するのではない。自由意志が原因で行為が生ずるから責任を負うという枠組みで考えるから、行為は決定論的に生ずるのかという問題が出てくる。責任はそのような発想と次元を異にする。自然因果律で意志の源を求める限り、どんな答えを用意しても意志や行為の自由は導けない。問いの立て方自体が誤っているからだ。

 

P243

 自由と決定論が矛盾すると考える背景には、規則あるいは方という表現が持つ二つの意味の混同がある。法律や道徳という規則は、我々の欲望を制限する。人間が抱く欲望の間に対立が生じず、誰もが気の赴くままに行動してよければ、そもそも規則は必要ない。そして規則があれば服従する者も破る者もいる。嫌々ながら規則に服する者もいる。つまり規則は強制力として機能する。ところが自然科学において規則や法則に言及する場合は違う自体を意味する。例えば万有引力の法則は一定の軌道に沿って物体が運動すべきだという命令ではなく、物体が実施兄どのような運動をするかの端的な記述だ。地球が本当は他の軌道を通りたいのに、ケプラーの法則があるために仕方なしに規則が定めたとおりに公転するわけではない。ここでの規則や法則は強制を意味しない。自然科学における法則の否定は単にその法則が存在しない、つまり、その法則が記述する因果関係の誤りを含意する。対して、日常生活で我々が理解する自由は社会的強制力の欠如あるいは反抗可能性を意味し、行動が因果律に縛られるかどうかとは別次元に属する事態である。

 

 →自然科学的規則と日常的規則は性質が異なる。後者は命令・強制を伴う。自然学的規則からの自由とは、自然科学的規則が無いいことであり、日常的規則からの自由とはそこからの逸脱や反抗であって、日常的規則が無いことを指すわけではない。

 

P244

 社会化や遺伝という外因が形成する属性や人格から独立し、決定論的条件に拘束されない意志概念は責任や刑罰の論理になじまない。定義からして自由意志は身体から遊離した存在にならざるをえず、したがって処罰の苦痛を通じて犯人の属性をいくら変更しても今後の犯罪抑止は望めないはずだ。また身体から独立した存在が悪いなら、なぜ犯罪者の身体を苦しめる必要があるのか。身体的属性に拘束されない自由意志により行動が生ずるならば、犯人を罰する意味が消えてしまう。

 結局、自由とは因果律に縛られない状態ではなく、自分の望むとおりに行動できる感覚であり、強制力を感じないという意味に他ならない。強制されていると主観的に感じるか否かが自由と不自由とを分かつ基準であり、他の要因によって行為が決定されるかどうかという客観的事実は、自由かどうかの判断とは別の問題だ。我々は常に外界からの影響を受けながら判断し行動する。しかし条件の違いによって、自分で決めたと感じる場合もあれば、強制されたと感じる場合もある。主観的感覚が自由という言葉の内容なのである。

 

 →自由の定義。すなわち強制されていないとうい主観的感覚。

 

 責任の正体に迫るためには、自由に関する我々の常識をまず改めなければならない。近代的道徳観や刑法理念においては、自由意志の下になされた行為だから責任を負うと考えられているが、この出発点にすでに誤りがある。実は自由と責任の関係は論理が逆立ちしている。自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論で責任を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。過去の意味に注目する視点から中島義道が指摘する。

 

P245

 ちなみに「原因」のギリシア語はaitia(アイティア)だが、これはもともと「罪」を意味していた。我々が今日考えるように因果律を基に責任概念が派生したのではなく、事実はその逆で、責任や罰の方がより基礎的な観念だった。客観的因果律など知らないうちから人間は責任や罰とともに生きてきた。「人間世界から独立した自然界」という認識が生まれて科学が発達し、それに伴って自然界を律する因果律という見方が、責任を問うという、より根本的な問題意識から徐々に切り離されていった。

 

 →日本の場合、仏教的な因果律(縁起)や前世・現世・来世観の影響が強いだろうが、現世・来世は前世の宿業によって決まるという考え方はするものの、そのせいで罪や責任に変化が生じるようなことはない。やはり日本でも、因果の前に、ただ純粋に罪や責任があったと言える。

 

P247

 道徳的責任の根拠を社会規範に求めるアリストテレスの考えは、キリスト教世界では受け入れられない。原罪で堕落した人間が織りなす世俗制度と別に、真の責任は神が定める。人間共同体を超越する普遍的原理として道徳責任は表象される。ちなみに、カトリックという形容詞は「普遍的」を意味するギリシア語のカトリコスに由来する。変動しうる社会規範に惑わされず、罪や罰の規定は絶対的根拠に基づく必要がある。無論その根拠とは神の意志であり、それに従わない行為は悪である。

 

P248

 社会共同体の規範に道徳の根拠を見出すアリストテレス哲学においても、人間を超越する神という絶対者に根拠を投影するキリスト教哲学においても、個人の自由意志が外因に規定されるかどうかという問題は切実にはならなかった。前者にとって人間の意志や行動が外部の影響を受けるのは当然だし、後者にとっても各人の属性・人格が神の摂理に適合するかどうかが判断基準をなし、個人の内的要素がどう形成されるかは問題にならない。

 

 →前近代の日本はどうか? キリスト教のように神や教義に根拠を見出す社会というよりも、当時の社会共同体の規範に道徳の根拠を見出す社会の方に近いか。

 

 社会規範に道徳の根拠を求めるアリストテレスに対して、近代思想は袂を分かち、キリスト教哲学と同じように、各文化・時代に固有の偶有的条件に左右されない普遍的根拠によって道徳を基礎づけようと試みる。だが、神という超越的権威にもはや依拠できない近代人はここで袋小路に迷い込む。社会あるいは神という〈外部〉に世界秩序の根拠を投影しなければ、根拠は個人に内在化されざるをえない。そのため前近代には大きな問題にならなかった、個人の属性がどのように形成されるかという点が責任の考察にとって切実になる。殺人を犯す者がいる。なぜ彼は罰せられるのか。社会が罰を要請するからだとアリストテレスは答える。神がそれを欲するからだとキリスト者は言う。しかし近代個人主義に生きる我々はそのような答えでは満足できない。責任の根拠が個人に内在化される世界において、私の行為の責任を負うためには、私自身が行為の原因でなければならない。だから決定論と自由意志の問題めぐって近代以降、哲学者は膨大な議論を費やしてきたのだ。

 人間共同体の〈外部〉については第6章で詳しく考察するが、ここでは次のことだけ確認しておこう。時代および文化によって人間観や世界観は異なり、それに応じてけじめの付け方が変わる。しかし大切なのはけじめ自体だという根本を踏まえないと責任現象は解明されない。

 

P251

 プラトンヘーゲルのような実在論あるいは全体論的な発想をとらないカントの場合、道徳が発する命令は他の目的を成就するための手段ではなく、それ地震を目的として守るべき定言命法だとされる。しかしこれでは道徳的根拠の説明にならないとモーリッツ・シュリックが批判する。(中略)

 

 倫理秩序を根拠づける「他者」が誰であろうとも、倫理秩序が「他者の願望や力に依存したり、この「他者」の不在によって消滅したり、あるいは「他者」の意思によって変化するようでは、倫理秩序が安定しない。だからカントはこの不安定を除くために、神であっても道徳律の責任者にしたくなかった。そこで彼に残された可能性は虚無に救いを求める道だけだった。つまり、義務は絶対にどんな「他者」にも由来しない、それは絶対的義務であり、倫理的戒律はどのような条件からも独立する定言命法だと彼は主張したのだ。

 

 プラトン実在論ヘーゲル全体論は人間を超越する〈外部〉によって刑罰を正当化する。しかしカントのごとく、虚構の物語を否認し、道徳を定言命法として措定しても、その根拠しても、その根拠あるいは源泉は明らかにならない。それどころかカント自身の意図に反して、道徳の無根拠性がかえって如実になった。

 

 →この場合の虚構は社会慣習や神のこと。

 

P254

 以上のように応報復讐論も犯罪抑止論もそれぞれ内部矛盾を免れない。そこで両者の欠点を削り、妥当な部分だけを統合する動きが現れ、現在の刑法には応報主義と予防目的主義とが妥協的に共存する。しかしこのような解決は、規範的考察として有効性を持っていても、責任や刑罰の根拠に関する我々の問いには答えられない。

 

 価値観は正しいから社会に受け入れられるのではない。逆に共同体に生きる人々の相互作用が生成する価値観だから、それが正しいと感知される。エミール・デュルケームは言う。

 

 →慣習や価値観のでき方が、一般的な考え方とはすべて逆。なぜ、これが教育として伝えられないのか? なぜ日本の教育は、正しいこと、善の根拠を問う教育をしないのか。

 

 殺すなかれという命令を破るととき、私の行為をいくら分析しても、それ自体の中に批判や罰を生む要因は見つけられない。行為とその結果[非難や罰]は無関係だ。殺人という観念から分析的に[論理的あるいは内的関係として]非難や辱めを取り出すことは不可能だ。行為とその結果とを結びつける関係は総合的[経験的あるいは外的]関係である。(中略)高から分析的に[演繹的に]罰が結果するのではないから、私が罰を受けたり非難されたりするのは、おそらくあれこれの行為をなしたからではない。私の行為の本質的性格ゆえに処罰が発生するのではない。行為がどんなものであるかによって処罰を生むのだ。(中略)処罰は行為の内容から結果するのでなく、既存の規則を遵守しないことの帰結だ。つまり過去に定められた規則がすでに存在し、当該行為がこの規則への反逆であるがゆえに、行為から処罰が引き起こされるのである。(中略)禁止行為をしないように我々が余儀なくされるのは、単に規則が我々に当該行為を禁ずるからにすぎない。

 

P255

 犯罪は行為の内在的性質─殺人はAという理由で悪である─によって規定されない。社会規範は集団の相互社用が生み出す産物であり、そこには超越的根拠も内在的理由もない。それは美の基準と同じだ。女性は美しいから美人と形容されるのではない。顔をどれだけ眺めても、美貌の理由はわからない。美しさは当人に内在する性質ではない。美の根拠は外部、すなわち社会規範に求められる。美しいから美人と呼ばれるのではなく、逆に美しいと社会的に感知される人が美人という称号を与えられる。同様に、善悪の基準も、悪い行為だから我々が非難するのではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれるのである。

 

 →近現代人は、とても長い間、物事の考え方を根本的に間違えてきた可能性がある。ありもしない判断や価値観の根拠をずっと内部に探し続け、それが見つけられないことに苦しんできた。見つけられた根拠は外部にあり、それは集団の相互作用によって生み出される社会規範であり、それは可変的で相対的なものであった。そういう不安定な社会を生きていることが真実であるのに、怖くてそれを認められなかったのが、近現代ということか。やっと、人間社会の本当の姿がわかってきたということか。

 

P257

 ナチス・ドイツが降伏した際、対独協力者として1万人以上のフランス人が裁判を経ずに処刑された。無実の罪に問われた人がいる可能性を知りつつもレジスタンスの指導者は処刑を許した。そうしなければ復讐や内戦が各地で起き、もっと多くの犠牲者が出る恐れがあったからだ。どうせ殺されるならその人数が少ない方が多いよりもましというソフィーの例と異なり、ここでは多くの犠牲者を出さないために、無関係な少数の人を殺すことを意味する。これらの問題に合理的回答が見つかるだろうか。

 特殊な例ばかり引くのではない。妊娠中絶・脳死・臓器移植・クローン・安楽死・死刑制度など、どれをとっても合理的根拠は存在しない。議論は尽くさねばならない。そして、何らかのコンセンサスに至るだろう。だが、どんな正当化をしようと恣意性を免れない。この答えが最も正しいと今ここに生きる我々の目に映るという以上の確実性は人間に与えられていない。判断基準は否応なしに歴史・社会条件に拘束される。正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。その背景には論理以前の世界観が横たわっている。

 社会には規範から逸脱する者が必ず出る。多様な価値観の間で対立が生まれ、異質な意見がぶつかり合う中から新しい価値観が導かれる。同じ規範を全員が守るならば、社会は変化せず、停滞する社会は歴史を持ちえない。

 

 →合意したことが正しさの根拠となる。それだけのことが、物事を難しく考えすぎたせいで、わからなかった。本当に大事な議論。

  民主主義の世界ではイメージがしやすいが、中国のような一党独裁国家の場合は、以下のようなイメージか。つまり、共産党内という狭い世界で合意が形成され、それをさまざまな政治手段・暴力を用いて強権的に人民に押し付け、それに慣れることで国家全体で合意が形成される。いや、暴力のような非効率的な手段を使っているのは、頭の悪い証拠。むしろそんな手段を使わず、メディアや教育制度を利用したら、社会経済システムによって、知らずしらず合意形成に参与させられている民主主義社会の方が恐ろしいのではないか。小泉政権以降の「自己責任論」などがまさにそう!これも、不況を乗り切るための虚構にすぎなかった。でも、不況を乗り切るためには必要な虚構だった。だからこそ、政府から喧伝され、何も気付かないマスコミがそれを煽り、ロスジェネ世代が思いっきり被害を受けたにもかかわらず、当時、国民からもまったく批判が起こらなかった。力のない、まだまだ物事を深く考える力もなかった当時のロスジェネたちは、不満を持ちながらも、その他の世代から圧迫を受け、ほとんどの人間が圧迫を受けているとも気づかず、是として受け入れてしまった。やはり、勉強しないこと、頭の悪いことは、自分自身を苦しめるということがよくわる。「真理がわれら(あなたたち)を自由にする」という格言は、本当なんだろう。

  自殺についても同じ。本来、生まれたばかりの人間は、死にたいと考えることはない。また、平穏に生活している人間も、自殺念慮をもつことはない。ところが、何らかのトラブルが生じたときに、自殺が頭を過ぎる。この状態を精神科医(精神医学)や臨床心理士(心理学)らは、認知システムの誤作動と呼ぶことがある。それはそうなのかもしれないが、死にたいと思い、自殺を企図したとき、当事者はそれを最善の方法だと考えていることが問題なのだ。自殺することが正しいと合意したことが問題。これは誤作動=ミスではない。そういう状況に追い込まれたときに、自殺することが妥当だと正常に判断しているだけ。後々に(冷静に?)なって、過去の判断を振り返ると、正しくないと判断しただけ。後々という環境や条件での判断と、自殺念慮を抱いた前の環境や条件では、判断を条件づける根拠が異なるわけだから、「自殺をしたい」「自殺などするものではない」と判断が揺れるのは当然だということになる。どんな選択にも合理的な根拠など存在しないわけだから、自殺を肯定するにも否定するにも合理的な根拠は、結局ないということになる。では、何に注目して研究を進めるのか。結局、それは自殺念慮が生じたとき、自殺を肯定する社会条件・社会規範が何か、そしてそれがどのようにして生じてきて、是として受け入れられたのか。その過程・理由を分析することになる。

 

P258

 社会規範からの逸脱が怒りや悲しみを引き起こす、これが犯罪と呼ばれる現象の正体だ。定義からして犯罪のない社会はありえない。どんなに市民が努力しても、どのような政策や法体系を採用しても、どれだけ警察力を強化しても犯罪はなくならない。犯罪は多様性の同意語だからだ。

 社会により逸脱許容度は異なる。しかし逸脱は必ず生じるし、逸脱に対する抑止力も同時に機能する。中央権力が強く作用し、均一度が高い社会であればあるほど、ほんの小さな差異にも強い拘束力が働く。したがって多様性が客観的に減少し、逸脱行為が希になっても、社会に生きる人々には、その小さな逸脱が社会秩序への重大な反逆と映る。デュルケムは言う。(中略)

 集団規範から逸脱する個人のいない社会はありえない。そこで生ずる多様な行為のなかには犯罪行為も当然含まれる。なぜなら行為に犯罪性が看取されるのは、その内在的性質によるのではなく、共同意識が各行為を意味づけするからだ。だから共同意識がより強ければ、すなわち逸脱行為を弱めるための十分な力が共同意識にあればあるほど、同時に共同意識はより敏感に、より気難しくなる。他の社会であればずっと大きな逸脱に対してしか現れない激しい勢いで、ほんの小さな逸脱にさえも反発する。小さな逸脱にも同じ深刻さを感じ取り、犯罪の烙印を押す。

 

 →規範から逸脱する、犯罪を犯すということは、一つの基準からずれることだから、極端な話、多様性を許容する社会では犯罪が増えることになってしまうか。今回のコロナ騒動を見ていると、日本の場合、国家権力が強権を発動することはなかったが、社会という実態があるようでないものを恐れて、多くの?国民が逸脱行為(Go To キャンペーンやお盆の帰省)に踏み切らなかった。これは、社会の逸脱許容度が極めて低い不自由な社会とも言える。マスク警察や自粛警察、SNSによる誹謗中傷、近所・学校・職場における実効的な差別・非難など、違法行為として訴訟を起こしにくいギリギリの制裁行為をエスカレートさせるのが、現在の日本人の特徴なのかもしれない。なぜ、こういう他人に迷惑をかけない、あるいは他人から迷惑をかけられることを拒むような共同意識が強いのか。やはり、「みんな仲良く」「みんなと一緒に」といった「協調性」を、是として画一的に教え込んできた近現代の教育システム(家庭での教育も含め)に問題があるのだろう。やりすぎ、一方の価値観への傾きすぎは、結局よくない。あらゆる価値観が相対的なのだからが、相対的であることを教えるべきで、どのような条件や状況では、現在のところ何が優先されるべきか、そのプライオリティーが時代や社会によって異なることをみなが知るべき。それとも、みな言葉としては知っているが、体験として、身をもって実感できていないだけか?

 

P259

 どうして犯罪が生ずるのかと嘆くとき、悪い結果は悪い原因が引き起こすという暗黙の了解がある。社会の機能がどこか狂っているから犯罪が生ずると考えやすい。だが、この常識は発想の出発点から間違っている。犯罪のない社会は論理的にありえない。悪の存在しない社会とは、すべての人間が同じ価値観に染まって同じ行動をとる全体主義社会だ。つまり犯罪のない社会とは理想郷どころか、ジョージ・オーウェル『一九八四年』が描くような人間の精神が完全に管理される世界に他ならない。

 

P264

(40)因果関係の枠組みで責任は理解できないと本書は主張する。しかし実はこの言い方は正確でない。そもそも因果律は自然界に客観的に存在する関係なのか。AがBの原因だと言う時、Aが生ずれば必ずBが生じ、Bが生ずる場合は必ずAが生じており、また時間的にAがBに先行するという三点を常識的には含意する。だが、この素朴な因果概念はすぐに難問にぶつかる。例えばラッセル・テイラーのパラドックスと呼ばれる議論がある。原因が結果に先行するなら両者は同時に生起しない。したがって原因と結果の間に時間間隙があるから、外因の干渉によって結果の生起が妨害されうる。つまり原因が生じても結果が必ず生ずるとは限らない。ならばそれは結果とは呼べない。さらに言うと原因が結果に先行するならば、結果の生起する時点ですでに原因が消えているから、先行する原因は真の意味での原因たりえない。では、原因が結果に先行すると考えるためにこのパラドクスが生ずるのだから、原因と結果は同時に生ずるのか。しかし両者が同時に生起するなら、どんな結果についてもその原因が同時に存在するから時間は消滅し、あらゆる事物が同時に存在するという背理が帰結する。

 因果の規則説を提唱したヒュームは、因果関係を自然界の客観的あり方としてではなく、人間の習慣や社会制度が作り出す表象だと考えた。因果関係は当該事象に内在しない。因果的効力は事象内部に実在せず、複数の事象を結びつける外部観察者によって感知される。この説が正しければ、責任の帰属過程と因果関係とを区別する意味が薄れる。丑三つ時に神社の境内で藁人形を五寸釘に打ち付ければ憎い人間を呪い殺せると信じる文化においては、これがまさしく因果関係の客観的記述である。つまり責任は社会的虚構だという本書の主張を超えて、そもそも因果律の社会性が問われなければならない。因果律そして時間は物質界に内在する性質なのか。ヒトという生物に固有な認知枠のもつ性質なのか、あるいは社会的・歴史的に構成される物語なのか。

 →所詮、すべては人間の認知の仕方にすぎないのではないか。物質もエネルギーも波動も時間も因果も法則も、すべて脳によって構成された虚構・物語に過ぎないということか。自然科学的な法則が絶対的に実在するのではなく、人間がそういうものとして認知しているだけの話だろう。だからこそ、これまでも法則は覆されてきたし、これからも新たな法則によって覆される運命にある。自然科学系でさえそうなわけだから、人文・社会系はなおさらだ。

 

P266

(56 )共同体の新陳代謝で必然的に生ずる廃棄物、これが犯罪だ。社会が成立し、維持される上で規範ができると同時に、そこから逸脱つまり多様性が生まれる。そして公的評価を受ける逸脱要素は創造的価値と受け入れる一方で、否定的烙印を押された要素は悪として排除する。生物が食物摂取後に栄養分だけを体内にとどめ、無駄な要素を排泄し、新陳代謝過程で生成される有毒物を体外放出する仕組みに似ている。

 

 →共同体もエントロピーに支配された人間によって営まれているわけだから、共同体自体もエントロピーに抵抗するために新陳代謝を行なわなければならない。

 

 性犯罪を例に取ろう。強姦被害者はなぜ苦しむのか。心に受けた傷は長期にわたって、あるいは一生かかっても癒えない。それは性という、人間にとって特別な意味を持つ世界での造反行為だからである。問題は肉体上の被害ではない。たしかに、妊娠し堕胎を余儀なくされ、二度と子を産めなくなったり、性病を移されるなど、身体に傷跡が残る場合もある。それでも出刃包丁で腹を刺されたり、鉄パイプで頭を殴られれば、それ以上にひどい障害が生ずる。問題は心だ。

 人間の性が完全に解放された世界を想像しよう。猿のボノボは挨拶として性行動をする。人間がそんな存在になったら、性犯罪は消失するか、今よりもずっと数が減るに違いない。誰とでも性関係を持つ世界では強制の必要がない。他者を支配する手段や相手に認められるシンボルとしても、性行動は用をなさなくなる。被害者の側も同様だ。性関係を強要されても、そこに特別な意味はない。喧嘩で殴られるのと同様に、単なる暴力・障害である。握手したり、一緒に食事したりする以上の意味が性から失われる社会では、強姦被害者が受ける精神的苦悩は同時に消える。

 事件の後遺症として、その後、性関係を持てなくなる人がいる。しかしそれも、性が特別な意味を持つ限りのことであり、性が完全に解放された世界では、精神的後遺症が生じなくなるか、少なくとも今よりもずっと軽減される。つまり、社会が機能不全に陥るから性犯罪が生ずるのではない。性犯罪は、性タブーを持つ社会に必然的に起こる政情が減少である。

 性犯罪の責任を被害者に添加するのではない。性タブーをなくせと無理を言うのでもない。常識の論理構造に光を当てるのが、この思考実験の目的だ。性道徳や禁忌は必要で正しい社会規範・制度として理解されている。だが、そこから性犯罪が必然的に生じ、被害者が苦しむ。

 性の完全解放など、現実にはできない。第一、意識的に消去できるぐらいなら、最初からタブーでない。人間が人間である限り、性道徳が必ず生まれ、維持される。したがって性犯罪は人間社会の原罪だ。その意味で我々全員が、そして被害者自身でさえもが悪の共犯者なのである。社会の機能不全が現在で悪が生ずるのではない。その逆だ。悪は、正常な社会構造・機能によって必然的に生み出される。だから、時代が変わっても、どんなに努力しても、悪は無くならない。

 

 →前近代にあった性タブーは近親相姦ぐらいか。二股、三股や夜這い、妻問婚、重婚が当たり前の時代には、不倫や性犯罪などという発想がない可能性がある。日本の場合、嫁入婚・嫁取婚や嫡子単独相続など、武士的な慣習の広まりが、性のタブーを増加させたような気がする。「女は男に倍す」のような状況の中では、性的な対象としての男は女性にとって貴重であり、意に沿わない性交渉が行われても、いわゆる犯罪と認知することが少なかったのかもしれない。

小坂井敏晶著書 その1

  小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま文庫、2020年) その1

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

はじめに

P5

人間が主体的存在であり、自己の行為に責任を負うという考えは、近代市民社会の根本を支える。殺人など社会規範からの逸脱が生じた場合、その出来事を起こした張本人を確定し、その者に責任能力が認められる限り、懲罰を与える。人間が自由な存在であり、自らの行為を主体的に選び取るという了解がそこにある。

 

 →主体的存在は近代社会の登場とセットで現れる概念だが、前近代では人間は主体的存在ではなかったのか。であるならば、中世びとは何を根拠に処罰されたのか。中世の場合、責任能力を認めるとか認めないとかいう判断自体、聞いたことはない。

 

 他方、人間が自律的な存在ではなく、常に他者や社会環境から影響を受けている事実を社会科学は実証する。行動が社会環境に左右されるなら、責任を負う根拠はどこにあるのか。

 各人の性格が行動の一因をなす事実を持ち出しても、この問題は解決できない。たしかに人間の行動は外界の要因だけで決定されない。しかし人格という内的要因も本を正せば、親から受けた遺伝形質に書いて環境や学校などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物にすぎない。私は一つの受精卵だった。父の精子と母の卵子が結合して受精卵ができ、外界の物質・情報が加わってできたのが私だ。したがって、私が取る行動の原因分析を続ければ、最終的に行動の原因や根拠を私の内部に定立できなくなる。

 さらには、脳科学認知心理学が明らかにするように、行為は意志や意識が引き起こすのではない。意志決定があってから行為が遂行されるという常識は誤りであり、意志や意識は他の無意識な認知過程によって生成される。

 

 →無意識な認知過程によって自分の意志や意識が、「勝手に」生成されるわけだから、この分野の視角からしても、人間は自律的で自由な存在ではないことになる。

 

 人間行動を理解するうえで、文化や教育など社会環境を重視するアプローチと、個人の遺伝要素を重視するアプローチが対立してきた。しかし、遺伝説にせよ、社会環境説にせよ、人間行動を客観的要因に還元する以上、そこから人間の自由意志は導けない。両者を折衷しても事情は変わらない。自律的人間像に疑問を投げかける科学の因果論的アプローチと、自由意志によって定立される責任概念の矛盾をどう解くか。

 

 →責任は自由意志によって生じるのに、人間には自由意志などない、という矛盾…。

 

 

P7

 虚構と言うと、嘘・偽り・空言のように事実と相違しているという消極的な意味で理解される。だが、虚構は事実の否定ではない。個人心理から複雑な社会現象にいたるまで虚構と現実は密接な関わりを持つ。虚構の助けなしには、我々を取り巻く現実がそもそも成立しない。

 

P9

 地獄への道は善意で敷き詰められている。ものを考える際の最大の敵は常識という名の偏見だ。倫理的配慮が絡みやすいテーマを考えるときこそ、常識の罠を警戒しなければならない。善意が目を曇らせる。良識と呼ばれるもっとも執拗な偏見をどうしたら打破できるかできるだけ虚心になって責任を考察しよう。

 

 

序章 主体という物語

P32

 我々の行動は他者に強く影響される。かといって外部環境の情報によって行動が完全に決定されるわけではない。ミルグラム実験では被験者の三分の一が拷問を拒否した。各国の追試実験で少なくとも一割の人々が抵抗した。人間の行為はその場の状況だけで完全に決まるわけではない。服従か抵抗かという結果は、個人的要素にも依存する。したがって、自由の余地は残されており、責任を負う必要が発生する。そこから自由・主体性(内因)と、外部環境による規定(外因)、それぞれの重みを探る問題意識が出てくる。

 だが、この発想は初めから論理的誤りを犯している。個人的要素とは何か。生まれたばかりの赤ん坊を想像しよう。どんな環境で育つかにより、この子の性格は大きく左右される。遺伝形質も我々自身が選択した条件でなく、両親から受けた外的要素だ。生まれた時の所与に親や学校による教育が加わり、我々の人格が徐々にできる。生まれながらの遺伝形質でもなく、外界の影響でもない要因はない。偶然も外因だ。デカルトのような二元論を採るならば、肉体と別の存在として精神や霊魂を考えられるが、今日この立場を支持する科学者は稀だ。肉体と外界の影響の両方から独立する精神や主体性は存在しない。

 

 →デカルト二元論を採れば、内因・主体性を精神や霊魂のせいにできるが、そんなことはできない。

 

 アルコールや麻薬の中毒者に育てられるか健全な人間を親に持つか、男とし生まれるか女として生まれるか、あるいはナチス・ドイツの時代にドイツ人として生まれるかユダヤ人として生まれるか、我々は選択できない。しかし、それによって性格は大きく変わる。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。私の生まれながらの形質や幼児体験が私の性格を作り行動を規定するなら、私の行為の原因は私自身に留まらず外部にすり抜ける。犯罪を犯しても、そのような遺伝形質を伝え、そのような教育をした両親が責められるべきではないか。どうして私に責任が発生するのか。もちろんこの論理は両親にも当てはまる。彼らにもまたその両親にも責任はない。この議論からわかるように、個人の肉体的・精神的性質に行動を帰しても主体的責任は導けない。

 親や外界から人格を授かったとしても、他の誰でもないまさに自らの人格である以上、それに対して責任を持たねばならないという意見もある。だが、人格形成責任論は採れない。この発想は、人格により行為が決定論的に発生する事実を認めながらも、当該行為が生み出されるに至る原因としての人格を形成した自己責任を最終的根拠として問題にする。しかしこの論理は自己矛盾に陥る。行為を決定した人格を作り出した責任を問うためには、その人格形成の時点で「自由な行為者」を想定する。だが、その論拠たる「自由な行為者」も、それ以前に形成された人格に基づく以上、この論理は無限背進する。

 

 →親や外界という外因によって人格が形成されたことを認めながらも、その人格は自らの人格だから、責任を取らなくてはならないという意見があるのだが、その意見に従うと、自身の人格を作った責任(人格形成責任)は自分で負うことができなくなってしまう。つまり、人格形成の自己責任を問うことができない。「自由な行為者」はいったい誰が作ったのかを説明できない。

 

 行為の原因を各人に固有な性質に求めても責任は定立できない。問題点を明確にするために、次の二つのケースを考えよう。幼児を狙う性犯罪常習者がいる。この犯人は幼少のとき父親に自分自身、性的虐待を受け、そのトラウマが原因となり子どもを見ると性衝動を抑えきれない。このような病的習慣を持つ人間は社会にとって重大な脅威だから、子どもを扱う職業に就かせないなど行動を制限せざるを得ない。あるいは隔離し刑務所や精神病院に閉じ込める必要がある。更生が不可能と判断される場合は死刑もありうるだろう。だが、いけないと知りつつも欲望に抗しきれず犯罪に走ってしまう人間は自由だろうか。行為に対する責任が発生するのは、その行為を踏みとどまる可能性があるからだ。社会環境や個人資質が原因で他の選択肢がないならば、自由意志による行為とは考えられない。社会を保護するために、このような個人に対して隔離や行動制限などの手段を採らねばならないが、そのことは彼に責任があることを意味しない。子どもを見れば必ず性衝動に駆り立てられるという偏執的性向は、この行為と犯罪者との関係を必然なものとし、他の結果が生じる可能性を除外する。したがって責任は発生しない。

 

 →責任をとって罰せられるわけではない。罪即罰の関係だけがあればいいのか?

 

 逆に、精神の健全な男が一度だけ過ちを犯すとしよう。彼の個人資質は正常で、普段は犯罪の危険性がないし、子どもと一緒にいるときに性衝動が仮に生まれても、それに対して抵抗する能力を持つ。子どもと見れば必然的・自動的に犯罪行為に及ぶのではなく、他の選択肢もありうる。したがって、この男は自由を有し、また自由な人間だから自らの行為に責任を負わねばならない。

 したがって、次のパラドクスが我々の前に立ちはだかる。偏執的性犯罪常習犯は、自己の行為に責任を取れない。それでも、再犯防止のため厳罰や去勢などの処置を通して行動習慣を変化させたり、社会隔離あるいは死刑などの措置が必要になる。それに対して、正常でありながら一度だけ過ちを犯した人間は、偏執的常習犯ほど危険な人物ではない。したがって、罰は軽くていいし、去勢や隔離の必要もない。しかし自由に選択した行為であるから、自らの行為に対する責任が発生する。つまり個人資質を原因として犯罪行為可能性が高まるにつれて責任は逆に減少する。言い換えるならば、社会を保護する目的で科すべき正当な罰の重さは、責任の重さに反比例する。

 では、責任があるから罰するのではなく、単に犯罪抑止のために罰があると考えればよいのか。壊れた機械を修理したスクラップにして破棄処分するように、問題のある人間や、社会にとって危険な人物は再教育したり刑務所や精神病院に閉じ込めたり、あるいは死刑に処する。だが、正常に機能しない機械は修理するか壊すという発想ならば、責任は無駄な概念になる。主体的責任を導くためには、肉体的・精神的性質に行動を帰するだけでは不十分であり、行為者の意志との関係を問う必要がある。

 ところで、行為を起こす内因としての自由意志とは何なのか。責任概念の根拠をなす主体性は存在するのか。単に私の腕が上がるのではなく、私は腕を上げると言うとき、腕を上げる意志決定を私がするという了解があるが、その意志とは何なのか。意志決定をする私とはいったい何なのか。意志決定の後に行為が遂行されると我々はふつう思うが本当にそうだろうか。以下では社会心理学脳科学の実証的観点から人間の自由・自律性について考えよう。

 

P36

 ミルグラムの研究だけでなく、社会心理学では膨大な数の研究を通して、人間が簡単に影響される事実を明らかにしている。しかし同時に我々は自律感覚をもち、自己であるか他者であるかを問わず、人間行動の原因を当人の内的要素に求める傾向がある。あまりにも強い錯覚であるために、人間の存在形態に根源的なバイアスという意味で、「根本的帰属誤謬(Fundamental Attribution Error)」という表現が生まれた。人間の他律性という科学的事実と、我々の自律感覚はどう両立するするのか。

 

P40か

 (アイヒマン実験では)科学のためだから仕方ないと合理的に判断して電気ショックを流したのでもなければ、意識喪失か催眠状態に陥って手が勝手に動いたというのでもない。ましてや拷問が好きだからやったのではない。嫌で仕方がないのにやってしまう心理が問題なのである。拒絶の明確な意志があっても、それだけでは現実の拒否行動は生まれない。意識と行動の乖離の劇的な姿がここに現れている。

 心理学では、意志が行為を導くという自律的人間像を支持する理論はほとんど出されてこなかった。精神分析と行動主義は20世紀前半から心理学会で勢力を奮ったが、これらの学説はどちらも人間の主体性を否定する。人の行動を根本で規定するのは精神分析学にとって無意識であり、行動主義では条件反射だ。意識という観察不可能な存在は人間行動を理解するうえで無用だと行動主義は切り捨てた。性衝動を学説の中心に据える精神分析も、隠された無意識的動機によって行為が生起すると考える以上、行動を自由に選択し、自らの行為に責任を負う主体的人間像は浮かんでこない。

 

 →「無意識」とは、意識しないことではなく、内実を明示できない意識を指すのか。

 

 このような学説状況のなか、人間の主体性を回復する願いから態度概念が導入された。公害に反対するする人は環境汚染につながる行動を採らないだろう。男尊女卑の考えをもつ社長は女性を管理職に抜擢しないだろう。差別思想に囚われたものは外国人に意地悪だろう。このように各人の性向と行動との間には密接な関係があると普通信じられている。態度概念は常識に合致する。それに実践的観点から言っても、行動が実際に起きるのを待たず、態度を測定して行動を予測できれば、選挙動向や消費動向などの予測に役立つ。態度変更によって行動が変化するならば、犯罪防止や教育分野にも効果が期待できる。

 ところが1960年代末になって、この分野の研究に大きな困難が現れた。それまでに発表された研究を検討した結果、態度測定による行動予測がほぼ不可能だと判明したからである。態度は行動とあまり関係ないことがわかり、態度概念の存在意義が問題視された。態度や考えが変化しても、それにともなって行動も変化するとは限らない事実が、今では社会心理学の常識なっている。意識は行動の原因ではなく、行動を正当化する機能を担う。意識が行動を決定するのではなく、行動が意識を形作るのだ。

 

 →そうすると、意識から自殺を分析しようとしている私の視角は誤りとなり、今までの記事は全部書き改めないといけないことになる。

 

P42 原因と理由

 自分のことは自分が一番よく知っているという。だが、この常識は事実からほど遠く、一種の信仰にすぎない。次の簡単な実験を考えよう。(中略、同じ靴下を並べて、どれが一番よい商品かを選ばせる実験。本当の理由はわからないが、一番右側に吊るした靴下が最も良質だという評価を得た。)

 右側に吊るされた靴下が好まれた原因は不明だが、それはここでも問題ではない。何らかの情報が無意識に判断に影響する事実だけを確認しておこう。虫の知らせや勘が働くなどと言うが、これも同様の現象だ。外部情報の影響を受けるが、その過程が意識されないために超自然現象と勘違いするのである。

 人間の主体性を吟味するためにサブリミナル・パーセプション(閾下知覚)についても押さえておこう。1000分の何秒という短い時間だけ文字や絵を見せると、被験者は何を見たのかわからないだけでなく、何かを見たという意識さえ抱かない。(中略)

 もう一つ例を挙げよう。簡単な図形Aを1000分の1秒だけ被験者に見せ、それを5回繰り返す。投影時間が短いので何かを見たという感覚さえ被験者には生じない。その後、まだ見せてない図形Bを先程の図形Aの横に並べて二枚を同時に今度はゆっくりと投影する。そのうえで、どちらの図形を前に見たか判断せよと指示する。当てずっぽうだから、ほとんど当たらない。次に富津の図形のうちどちらが好きかと尋ねてみた。すると、見た意識さえないのに、初めに見せられた図形Aをより高い確率で選ぶ。

 閾下知覚の効果は、かなり長い期間持続する。先の図形認知判断で当たる確率は時間経過につれて低下する。好感度判断に関しては、瞬間的に見た図形(見たことさえ意識していない)を好む傾向が1週間経つと逆により強くなる。好き嫌いという素朴な感情さえも主体性の及ばない次元で起きる。意識されない微妙な体験が感情を左右する。

 日常的な判断・行為はたいてい無意識に生ずる。知らず知らずのうちに意見を変えたり、新たに選んだ意見なのにあたかも初めからそうだったのかのように思い込む場合もある。過去を捏造するのは人の常だ。そもそも心理過程は意識に上らない。行動や判断を実際に律する原因と、行動や判断に対して本人が想起する理由との間には、大きな溝がある。というよりも無関係な場合が多い。(中略)

 →無意識とは、何らかの知覚や経験をしているにもかかわらず、それをした意識や記憶のない状態を指す。つまり、無意識は意識が無い状態ではなく、意識はあっても意識されていない状態。

 →「原因と理由の違いについて」

①車のバッテリー切れが原因で、出発を取りやめた。 ◯

②車のバッテリー切れを理由に、出発を取りやめた。 ◯

 →実際に行動が制限されているし、本人も想定しているから、どちらも自然な表現となる。

 

③私は植物に興味がある。こうした原因によって農学部を志望する。 ×

④私は植物に興味がある。こうした理由によって農学部を志望する。 ◯

 →③の場合、植物に興味をもっていることが、必ずしも農学部の志望につながるとはかぎらないので不自然になる。園芸学部や生命・生物学部を志望することだってある。つまり、実際の行動や判断を規定しない。一方、④の場合、本人が想起しているだけだから、適切な表現になる。

 

P45

 そうは言っても何らかの合理的理由があって行為・判断を主体的に選び取る印象我々は禁じ得ない。急に催す吐き気のような形で行為や判断の原因は感知されない。なぜか。「靴下実験」に戻ろう。商品の位置に影響されながらも被験者は選択の「理由」に言及する。影響された事実を調査員に繕うために嘘をつくのではない。被験者はその「理由」を誠実に「分析」して答えたのである。自らがとった行動の原因がわからないにもかかわらず、もっともらしい理由が無意識に捏造される。

 

 →靴下実験の場合、実際に行動を規定した「原因」はわからないが、自分が右下の靴下を最良と判断した「理由」を想定している。

 

 これは催眠術が解かれた後に現れる暗示に似ている。催眠状態の人に「催眠が解けた後で私が眼鏡に手を触れると、あなたは窓辺に行って窓を開けます」と指示する。その後、何気ない会話をし、自然な仕草で眼鏡に手をやる。すると被験者は突然立ち上がって窓を開けに行く。なぜ窓を開けたのかと尋ねてみよう。わからないけれど何となく急に窓が開けたくなったと答える人はまずいない。暑かったとか、知人の声が外から聞こえた気がするなどと合理的理由が持ち出される。自分の行為の原因がわからないから、妥当そうな「理由」が無意識に捏造される。

 自分の感情・意見・行動を理解したり説明する際、我々は実際に生ずる心理過程の記憶に頼るのではない。ではどのようにして人間は自分の心を理解するのか。我々は常識と呼ばれる知識を持ち、社会・文化に流布する世界観を分かち合う。人は一般にどのような原因で行為するのかという因果律も、この知識に含まれる。不意に窓を開けたくなったり、商品の単なる位置が好悪判断を規定するという説明は合理的な感じがしない。窓を開けるのは部屋の空気を入れ替えたり、外を眺めるためであり、空腹を覚えたので窓を開けたなどいう説明は非常識でしかない。すなわち自らの行動を誘発した本当の原因は別にあっても、それが常識になじまなければ、他のもっともらしい「理由」が常識の中から選ばれる。このように持ち出される「理由」は広義の文化的産物だ。つまり行為や判断の説明は、所属社会に流布する世界観の投影に他ならない。

 

 →つまり、自殺の原因や目的を追究しようとする私の立場は、自殺者個人の原因を明らかにしているわけではなく、自殺の伝聞者たちがどのような「理由」を選定しているのか、つまり中世社会に流布する自殺の原因・目的の常識や世界観を明らかにしていることになる。

 

 行為・判断が形成される過程は、本人にも知ることができない。自らの行為・判断であっても、その原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとく推測する他ない。「理由」がもっともらしく感じられるのは、常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。だが、人間は理性的動物ではなく、合理化する動物なのである。

 

P48

 自己は社会的磁場の力を受けて生成される。どんなに個人的に思える感情や好みも、育った文化圏の影響を強く受けている。社会に流布する価値観がそのまま内在化されるわけではない。G・H・ミードは社会的価値の内在化によって生成される客観的契機と、それに反発する主観的契機とが織りなす動的な過程として自己を規定した。だが、この主観的契機はそれ自体を分離して取り出せるような実態ではない。社会化の影響を、後に反省的に自己から捨象するとき、そこに余る残滓あるいはノイズのようなものだ。記憶を媒介に同一性を実態視する個人主義者ロックの立場は踏襲できない。

 (中略)

 自分の美貌を褒められて喜ばない人はいないが、なぜだろう。身体的属性は遺伝に大きく依存する。美しいのは自らの努力の結果でなく、そのような形質を両親が備えていたからだ。対して、整形手術や化粧で美しくなる場合は「自分の本当の美しさではない」とか「あの女性は整形美人にすぎない」と逆に評価が下がる。両親からの遺伝は外因の結果にすぎない。化粧や整形手術による美貌の方が、原因がより直接本人の意志と結びつけられる。因果関係からみると自分の美貌をより誇れるはずだが、そうはならない。

 

P50

 私という同一性はない。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが私の正体だ。比喩的にこう言えるかもしれない。プロジェクターがイメージをスクリーンに投影する。プロジェクターは脳だ。脳がイメージを投影する場所は、自らの身体・集団あるいは外部の存在と、状況に応じて変化する。主体は脳でもなければイメージが投影される場所でもない。主体はどこにもない。主体とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスである。

 (中略)

 ベンジャミン・リベットが行なった有名な実験がある。手首を持ち上げるよう被験者に指示する。いつ手首を動かすかは被験者の自由だ。我々の常識では、まず手首を上げる意志が起こり、その次に手首を動かすための信号が関係期間に送られ、少ししてから手首が実際に動く。ところが、実験によると、手首の運動を起こす指令が脳波に生じてしばらく時間が経過した後で意志が生じ、そのまた少し経ってから手首が実際に動く不思議な結果になった。

 つまり、手首を動かす指令が無意識のうちに生じると、運動が実際に起きるために神経過程と、手首を動かそうという「意志」を生成する心理過程とが同時に作動し始める。自由に行為すると言っても、行為を開始するのは無意識過程であり、行為実行命令がすでに出された後で、「私は何々がしたい」という感覚が生まれる。ここで問題にするのは身体の運動が何気なしに生じ、それに後から気づくという事態ではない。自由にかつ意識的に行為する場合でも、意志が生じる前にすでに行為の指令が出ている。だからこそ、この実験結果は哲学や心理学の世界に激しい衝撃を与えたのである。

 (中略)

 つまり、実際に手首が挙がる約200ミリ秒前に「意志」が形成される。そのため意志が行為を引き起こすという感覚のごまかしに気づかない。

 

P52

 行為と意志を生み出す過程はそれぞれ並列に生じるので、行為が起こってから意志が現れたとしても理屈上おかしくない。人を殴ってしばらくしてから、「気に食わないやつだ。殴ってやろう」という意志が後になって現れる。殴ろうと思う時には相手はすでに足元に倒れている。もしそのように人の神経系統が配線されていたら、自由や責任という概念もデカルトやカントの哲学も生まれなかっただけでなく、人類の社会が今の形をとることさえなかっただろう。

 

 →人間社会は、壮大な勘違いのもとに形成されていることになる。これはおもしろい! 為政者は、どこまでそれを知りながら、システムを改変したり構築したりしているのだろうか。民衆はどこまでそれに気づきながら、不平・不安を言っているのだろうか。こうした壮大な虚構を、世界中の人々に真実・真理と信じ込ませているところが、虚構の虚構たる所以であり、すごいところ。

 

 (中略)被験者にスライドを見てもらい、好きなときにプロジェクターのボタンを押して次のスライドに移動するよう指示する。ところが実はボタンはプロジェクターに接続されておらず、ボタンを押しても何も起きない。その代わりに被験者の脳波を測定し、指の運動を起こす命令信号が発生した時にプロジェクターのスライドが変わるようにしておく。被験者はこの舞台裏を知らない。さて実験が始まると被験者は不思議な経験をする。被験者がボタンを押そうと思う寸前にスライドが変わってしまい、その直後にボタンを押す意志を感じるという、通常とは逆の感覚が現れた。本人も知らないうちにプロジェクターに心を読み取られている感じだ。つまり、前の実験と同様に、指を動かす命令信号が発生すると、運動を実際に起こすための過程と「意志」を生む過程とが並行して進行するが、装置のせいで、ボタンを押す意志を先取りして、スライドが変わるのである。

 

P54

 (癲癇治療のために脳梁を切断された患者は、たとえば、右脳に伝達した情報を左脳が知らないという症状が起きる。こうした患者の症例報告。)たとえば、ニワトリの足の絵を右視野に見せると、左大脳半球だけに伝わる。また雪景色を左視野に見せると、その情報は右大脳半球だけに伝わる。次に、患者の前に置かれたテーブルの上に、ニワトリ・かなづち・スコップ・トースター・リンゴなど、数枚の絵を置き、先に見た二枚の絵のそれぞれに関連する絵を選んでもらう。すると、患者右手でニワトリ(右視野に見えたニワトリの足に対応)を指差し、左手でスコップ(左視野に見えた雪景色に対応。スコップで雪かきをする)を示した。右視野と同様に右手は左大脳半球が制御し、左視野と左手は右大脳半球が司るので、この結果には何の不思議もない。

 ところが、なぜこれらの絵を選んだのかと患者に尋ねると、おかしな答えが返ってきた。患者は躊躇なく、「簡単なことでしょう。ニワトリの足は当然ニワトリと関連があるし、ニワトリ小屋を掃除するためにスコップが必要だから」と答えたのだ。なぜ患者はこのような誤った説明をするのだろうか。ほとんどの人にとって言語能力は左大脳半球だけが制御し、右大脳半球はその能力が欠落している。そのため左視野に入った雪景色の情報が右大脳半球に到達しても、その視覚情報を言語化できない。返答を迫られた患者は左大脳半球を使って答えようとするが、右視野に見えたニワトリの足の情報しかない。左右の大脳半球が分断されているので、雪景色を右大脳半球が「見た」事実を左大脳半球は知らない。そこで、まことしやかな虚構の物語を左大脳半球が捏造する。

 デカルトが考えたような統一された精神や自己は存在しない。脳では多くの認知過程が並列的に同時進行しながら、外界からもたらされる情報が処理される。意識や意志は、もっと基礎的な過程で処理されたデータが総合された生産物だ。行動を起こす出発点というよりも逆に、ある意味での到達点をなす。マイケル・ガザニガは言う。

 何かを知ったと我々が思う意識経験の前にすでに脳は自分の仕事をすませている。〈我々〉にとっては新鮮な情報でも、脳にとってはすでに古い情報に過ぎない。脳内に構築されたシステムは、我々の意識外で自動的に仕事を遂行する。脳が処理する情報が我々の意識に到達する0.5秒前にはその作業を終えている。

 

 →そうすると、自殺者は自殺を決行した後、死の間際に脳が作り上げた(捏造した?)原因や目的を感じながら、死ぬことになる。であるなら、自殺決行の信号を発したときに無意識に感じている原因や目的と、その後、意識として生み出された原因や目的は、異なっている可能性はないのか? そもそも無意識によって自殺が決行されるのなら、自殺の原因や目的を分析することは無意味になるのではないか。我々には理解できない「無意識」はどのような価値観を持っているのか?

 

P58

 外界から影響を受けずに自立する事故など存在しない。互いに拮抗する多様な情報に包まれて自己の均衡が保たれる。影響されるという言明は実は正確ではない。影響されると言うとき、外力が働かない限り自己同一性を保つ存在としてすでに我々は人間を理解している。だが、そのような同一性はどこにもない。

 集団力学が生み出す暴力についてアメリカの社会心理学者フィリップ・ジンバルトが行なった有名な研究がある。(正常と判断される大学生24名を厳選し、半数に囚人役、半数に看守役をさせる実験)

 

P60

 この実験で最も悲惨でかつ残念に感じた点は、加虐傾向のない正常な人間でも残虐行為を簡単にしてしまう事実だ。監獄状況に置くだけで反社会的行動を引き出す十分条件をなす。

 

 犯罪者の社会復帰を図る従来のモデルは、人格など個人的性質に重点を置き、個人を変えることに関心を払ってきた。釈放後に犯罪者が生きる社会環境については考慮されてこなかった。だから、このモデルでは再犯現象を理解できないのだ。

 

 →そもそも自己同一性を保つ個人など存在しないわけだから、うまくいかないのは当たり前。再犯をさせてしまう社会環境の問題を考慮しなければ解決しない。

 

 この章では人間の根源的な他律性を検討してきたが、それは単なる社会決定論ではない。一般に社会心理学は社会が個人に与える影響と同時に、個人心理が社会形成に貢献する往復のプロセスを研究する。だが、外因と内因に分ける発想自体がすでに誤りだ。人間の自由や意志の自律性が脅かされるのは外界の影響が強いからだけではない。社会決定論を批判するために各人に固有な内的属性を持ち出しても、そこからは自由も意志の自律性も出てこない。デカルト心身二元論を採るのでない限り、そのような方向では自由も意志も最終的に脳の機能に還元され、無限に続く因果律に絡めとられてしまう。主観と客観、あるいは個人と社会の相互作用として人間を把握する発想自体を疑う必要がある。この点は第4章以降でさらに検討しよう。ここでは責任概念を支える自律的人間像の脆弱さが確認できれば十分だ。主体性に投げかけられた疑問は机上の空論ではない。次章では人間の主体性が最も深刻に問われる状況に注目し、我々の慣れ親しんだ人間像にさらに揺さぶりをかけよう。

 

 →これまで社会決定論は、自律した自己を前提とした社会決定論だったが、そもそも自律した自己など存在しないわけだから、従来の社会決定論はそのスタートから誤っている。

 

 

第1章 ホロコースト再考

P74 普通の人間

 環境条件が普通の人間を殺人へと駆り立てる事実はホロコーストの場合にも指摘されている。

 人間はみな同じだというのではない。しかし信条や道徳観を異にしても、ある環境におかれると、その違いを超えて同じ行動をとる事実を重く受け止めよう。ある民族を嫌悪する人々や嗜好性向の持ち主は、そうでない者に比べてよりひどい仕打ちをするかもしれない。だが、普通の人間でも状況次第で残虐に振る舞ってしまう点が問題なのだ。

 

P76 責任転嫁の仕組み

 近代企業の活動を思わせる高度な組織化の下に推敲されたユダヤ人虐殺政策は官僚制的性格を強くもつ。その点はすでに言及したアーレントの著書以外にも、ホロコースト論議する際に必ず参照されるラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』でも強調されている。官僚制最大の特徴は作業分担だ。ユダヤ人の名簿作成・検挙に始まり、最終的に処刑に及ぶまでには多くの段階の任務がある。各作業を別々の実行者が担当するとき、責任転嫁が自然に起きる。「私だけが悪いんじゃない」「私がしなくても結果は変わらない」「私は単に名簿を作成しただけだ」「強制収容所への移送列車の時間割を決めただけだ」「検挙しただけで私は殺していない」などと正当化される。ユダヤ人がどのような運命に遭うか、うすうす気づいている場合もあるだろう。しかし殺人の流れを一括して把握せず、流れ作業のほんの一部だけに携わるために自らを責任主体と認識しにくい。普通ならば道徳観念が禁止する行為もそれほどの抵抗なしに実行してしまう条件がこうして用意される。

 

P78

 命令する者と、自ら直接手を下す者とが分離されると、犯罪に対する心理負担が減り、結果的に殺戮装置が機能する。責任が雲散霧消するメカニズムがここにある。大隊長さえもこの任務に耐えられなかった。(中略)自らは手を汚さないおかげで、また上部の命令だから仕方ないと諦め、かろうじて命令を部下に伝達できたのだ。中隊長の一人は心身症にかかり、銃殺命令を部下に伝えた後で必ず激しい胃痛に襲われた。そのため現場に随行できず医務室に横たわっていた。

 部下は殺害直前まで任務内容を知らされず、「重要な任務があるので、明日は朝早くから起きて準備するように」とだけ指示された。考える余裕を与えないためだ。殺害に実際に携わる者は単なる命令遂行者として位置付けられ、責任感覚が麻痺する。

 ユダヤ人狩りだけをドイツ警察予備隊が受け持ち、実際に銃殺する役割は外国人に宛がったこともある。ナチスが占領したソ連領で囚人となったウクライナ人・リトアニア人・ラトヴィア人にゲシュタポが訓練を施して銃殺させた。ドイツ周辺国に住み、ユダヤ人や共産主義ソ連に敵意を抱いていた彼らは、ソ連戦線に送らない保証を取り付け、餓死から逃れるために、この任務を受け入れた。

 しばらくすると銃殺ではなく、トレブリンカ絶滅収容所に移送してユダヤ人を殺すようになる。分業体制のおかげで警察予備隊の心理負担は減る。しかしそれでも家畜用貨物列車にユダヤ人を詰め込む作業は暴力なしにできない。病人・老人など身体が弱って動けない者や抵抗する者はその場で射殺しなければならない。嫌がる群衆を貨物列車に追い込むために鞭で殴る必要もある。そのため惨い場面に耐えられない隊員の心理を慮って、強制移送に伴う残酷な役割はウクライナ人・リトアニア人・ラトヴィア人に託された。殺人を犯したのは外国人であり、責任が自分たちにあるとは誰も思わなかったと当時の軍曹が証言している。

 ミルグラムの実験において服従率が高かった理由の一つは、自分は単なる命令執行者にすぎないと被験者が認識し、命令を下す実験者に責任を転嫁するからだ。実際多くの被験者は実験継続を何度も躊躇するが、万一問題が生ずれば責任を取ると実験者が言うと、拷問を再開する。これはニュールンベルグ裁判においてナチス被告が援用した責任転嫁と同じ論理でもある。

 

P80

 作業分担による責任感軽減を理解するうえで、ラタネとダーリーの研究が役に立つ。(中略)

 ラタネとダーリーは次の実験を行なった。マーケティング調査と称して大学生に研究室まで出向いてもらい調査用紙に答えさせる。しばらくすると調査担当者は、忘れ物をしたがすぐに戻るのでそのまま続けてほしいと断り、研究室を出ていく。隣の事務室で書類を移動する音や足音が薄い壁を通して被験者に聞こえる。するとまもなく調査員が脚立に上る様子があった後、突然悲鳴とともに脚立から転げ落ちる音が響く。後には静けさが残るだけで調査員が戻る気配はない。さあ被験者はどうするか。調査員を救助するために隣の部屋に行くだろうか。(中略)被験者が一人の場合は平均して70%の被験者が救助のために席を立った。では二人組の場合はどうか。(中略)実際には40%の組だけが救助行動を起こし、残り60%の組は何もしなかった。(中略)

 自分がしなくても他人がやるだろうと責任感が希薄になり、犯罪を阻止したり救助の手を差し伸べる心理が鈍るからだ。ニューヨーク女性殺人事件も、自分以外に目撃者はいくらでもいる、もうすでに誰かが警察に電話しただろう、わざわざ自分が警察と関わって面倒な手続きに巻き込まれる必要はないなどと目撃者が思ったとすれば説明がつく。

 分業体制は近代社会と切っても切り離せない。分業のおかげで飛躍的な経済発展を見た。しかし集団行為に組み込まれる人々は、長い流れ作業の後に生ずる結果に自分自身も加担する感覚が薄れてしまう。この問題は集団責任の構造を扱う第5章で再び検討しよう。

 

P83

 ミルグラム実験に参加した者の少なからずは「生徒役の人があまりにも無知で頑固だった。あれでは罰を受けても仕方がない」と実験後に述べた。罪悪感を軽減するために被害者の価値を貶め、自らの行為を正当化する。不幸の渦中にいる人に助けの手を差し伸べたい、しかし尽力しても無意味だと分かったとき、我々の心は無意識のうちに防衛機制を作動させる。どうしようもない不幸を目の前にするとき、あるいは不本意ながら自らの手を汚さざるをえないとき、責任感を軽減し心の負担を抑制する反応が誰にも起きる。

 (中略)

 世界は正義に支えられているという信仰がこの心理機制の背景にある。天は理由なく賞罰を与えるはずがない。徳をなせば必ずいつか報われる。欺瞞や不誠実にはいずれしっぺ返しが待つ。そう思い込むことで他者の不幸が正当化される。

 ユダヤ人から人間性をはぎ取り、家畜か単なるモノのようにナチスが扱った事実はよく知られている。強制収容所に送られるユダヤ人を点呼する際にナチスが扱った事実はよく知られている。強制収容所に送られるユダヤ人を点呼する際にナチスの大佐は「全部で何個になるのか」と尋ね、部下が「全部で650個あります」と応対していた。第二次大戦中、細菌戦研究のために生体実験行ない、多くの命を奪った日本軍七三一部隊は俘虜を丸太と呼んだ。使命をはぎ取り、単なる番号で呼び、殺害する相手を非人間化すれば心理負担が減る。米軍兵士は戦場でフィリピン人・朝鮮人・日本人をグーグー(goo-goo)とかグーク(gook)と名付けたが、ここにも同じ心理機制が働いている。1994年のルワンダ虐殺でフツ族ツチ族をゴキブリと蔑称したり、アルジェリア解放戦線(FLN)のレジスタンスをフランス兵士が拷問する際にドブネズミと呼んだのも同様だ。

 

 →自己正当化、心理負担・責任軽減のために、人間は攻撃対象を貶めるという心理機制を働かせる。

 

P90

 ナチス全体主義が機能するためには、殺人にせよ金品強奪にせよ、正当な法手続きに則ってなされている、不法行為ではないという心理保障が必要だった。

 アイヒマンやヘスだけでなく、捕らえられたナチス指導者はヒトラーの命令に従ったまでだと主張したが、それは単なる責任逃れの言い訳ではない。何層もの正当化システムが重なり合って機能しなければホロコーストは遂行されえなかった。したがって殺戮メカニズムに加担した人間が自分に責任はないと感じるのは当然だった。逆に言えば、このような無責任感覚が生じる環境を作り出せなければ、600万人もの罪なき人々を殺せない。

 

P93

 プロパガンダが捏造するステレオタイプは、ユダヤ人とドイツ人との間に越えられない境界を設け、犠牲者との同一化を防ぐ効果を持つ。犠牲者の苦しみに自らを重ね合わせるようでは殺戮不可能だ。反ユダヤ主義が原因でホロコーストが生じたのではない。しかしいったん虐殺が開始されれば、殺戮者の苦悩を麻痺させる手段が必要になる。そういう意味で反ユダヤ主義の強化はホロコーストの原因というよりも、逆に虐殺の結果だと言えるかもしれない。

 

 →ホロコーストを続けるためには、反ユダヤ主義というイデオロギーが必要だった。イデオロギーという原因によって最初の虐殺という結果が生じたというよりも、最初の虐殺やホロコーストを正当化するために、結果として反ユダヤ主義を強化したと言える。

 

P93 ホロコーストの近代性

 誤解しては。ホロコーストの本当の恐ろしさは、あからさまな暴力性にはない。逆にむき出しの暴力をできるかぎり排除したおかげで数百万にも上る人間の殺戮が可能になったのだ。バウマンは『近代とホロコースト』でこう述べる。

 

 虐殺に直接関わった組織の人間が異常に嗜好的で狂信的だった事実はない。(中略)それどころか特別殺戮部隊あるいは抹殺に関わった組織に要因を配属する際、あまりに狂信的だったり感情の起伏が激しい者、教信的イデオロギーの持ち主は排除され、他の部署へ配置換えされた。(中略)

 

 意味もないのに残酷な拷問で楽しんだり、女囚を強姦したり、単なる腹いせのためにユダヤ人を苦しめるドイツ人も少なからずいた。だが、そのような人間ばかりでは大量虐殺は遂行できない。「合理的」かつ「効率良く」殺害するため、無駄な拷問や虐待が起きないよう指導層は常に努めてきた。

 

 →信じられないほど賢い組織・制度。人間を効率的に虐殺するシステムを、いったい誰が考案したのか。試行錯誤しながら、徐々に合理化していったのか。

 

P95

 ナチス台頭以前頻繁に起こったポグロムの延長でホロコーストは理解できない。ナチスポグロムの残虐性を意識的に退け、殺人行為を合理的に管理したからこそ、あれだけの犠牲者を出したのである。(中略)中世から幾たびも繰り返されてきたユダヤ人迫害とホロコーストはまったく性格を異にする。「水晶の夜」(1938年11月9〜10日にかけて起きた大規模なポグロム)に類したポグロムが仮に毎日行われてもホロコーストの大量虐殺は不可能だ。

 

 →ロジェ・カイヨワの『戦争論』にも通じる。近代戦争における被害の大きさは、戦争が「近代化」したから。

 

P97

 殺される側に注目するならば、彼らの抵抗を抑える方法の確保が大量虐殺の実施の鍵だった。ナチスは殺す寸前までその意図をユダヤ人に隠していた。毒ガス室をシャワー室に偽装したり、温かいスープが待っているから早くシャワーを済ませよと犠牲者を騙して急がせた。(中略)死体処理担当者のユダヤ人特殊部隊を他のユダヤ人と隔離して殺害意図を最後の瞬間まで隠したのも、犠牲者のパニックや抵抗を避けるための措置だった。

 絶滅収容所に到着後、ユダヤ人は「選別」される。少数の男性は強制労働のために残されるが、女性・子どもはすぐに毒ガス室に送られる。しかし老人や病人は遠くガス室まで歩くのに時間がかかる。そこで赤十字の白旗を掲げた「病院」に彼らは連行され、銃殺そして燃やされた。少しでも殺人効率を高めるために「病院」は選別場の近くにあったが、燃える死体が外から見えないように細い通路を備え、死の直前までユダヤ人に悟られないよう配慮した。もし死の恐怖からパニックが起きたら、次から次へと運ばれてくるユダヤ人を効率よく「処理」できなくなる。

 

P103 医師の役割

 毒ガス室に入れられたユダヤ人は苦しむことなく速やかに死んでゆくと嘘の説明をし、ナチス指導者が抱く罪悪感の軽減に貢献したのも医師だ。

 

 →銃殺して血の海を見るよりはましということ。

 

P110

 ゴールドハーゲンの主張が正しく、ホロコーストの原因が19世紀に培われたドイツ固有の反ユダヤ主義だとすると、ヒトラーはどう位置づけられるか。反ユダヤ主義の産物としてヒトラーを捉えると、彼の果たした役割が矮小化され、結局ヒトラーの世紀人が軽減されてしまう。「ヒトラーが生まれなくとも当時のドイツのイデオロギー状況がヒトラーのような人間を必ず生んだだろう」とゴールドハーゲンは語る。その論理に従えば、人らはホロコーストの原因ではなく、ドイツ文化が引き起こした結果の1つにすぎなくなる。それだけでない。19世紀に培われたドイツのイデオロギーホロコーストの原因なら、ユダヤ人殺害の責任を問うどころから、ローゼンバウムが指摘するようにヒトラーは被害者でさえある。ブラウニングのテーゼと同様に、殺人に加担したナチス・ドイツ人の責任を問えなくなる。

 

 →織田信長でなくて、織田信長のような役割を果たす人間が必ず出てくる。歴史の方向性があらかじめ決定している(決定論)のであれば、そもそも歴史を、歴史的分析をする必要性はなくなる。特殊・偶発的な要素(人間の個性や責任)を重視する史観と、普遍的・法則的な要素を重視する史観に分かれる。称賛も批判も、人間に自由意志があると誤認しているから発生するだけ。

 

 ヒトラーの政権奪取を決定論的に説明すると、悲劇に対する責任が雲散霧消してしまう。各個人の力を超える抽象的要因によって不可避的にヒトラーが宰相に任命されたのなら、責任を問うことは当時の誰に対しても明らかに不当だろう。

 

P111

 我々がここに直面する困難は、原因追及という行為自体が必然的に孕む問題であり、歴史学社会学・心理学など、どのアプローチを採用しても付きまとう問題だ。ホロコーストの原因は分析しなければならない、しかしそれは免罪することではないと道徳を説いても論理上の矛盾は解決されない。問題はずっと深刻であり、自由と責任を常識的発想で捉えるかぎり、この問題に解決はありえない。それは本書の議論が進むにつれて明らかになるだろう。

 

P113

 この章ではホロコーストを遂行した人間の心理に焦点を合わせ、状況次第で誰もが同様の犯罪に加担する可能性を検討した。殺人者が普通の人間だった事実を確認したのは、むろんナチスを擁護するためではない。犯罪を憎むあまり、ナチスと我々とを分け隔てる戦争責任観を指示しているかぎり、集団犯罪を生むメカニズムは見えてこないし、責任の正体も明らかにならない。今まで見てきた責任転嫁の仕組みは犯罪に限らない。次章ではこのテーマをさらに掘り下げ、問題の核心を剔り出そう。

 

P120

(48)理由なく懲罰を受ける席あの恐ろしさを高橋和巳は次の寓話に託す(『日本の悪霊』新潮文庫、1980年、451─452頁)

 昔、中国の先秦時代、ある国の王が遊説家にこう尋ねた。自分はこの王国の絶対者たるべく、人民を恐怖させ畏敬させようとして、厳罰を用いて、少しでも法を犯すものがあれば情け容赦なく極刑に処しているのだが、なお人民の服従は充分ではない。どうすればよいかと。遊説家はこう答えた。王は法によって裁いておられる。それではどんな厳法であっても、どんなに細則を設けても駄目です。なぜなら法が存在すれば、何を犯せばどう罰せられるかが解るのであるから、それさえ犯さねば何も心配することはなく、何も積極的に王に媚を売り忠誠を誓う必要はない。それでは駄目です。こうするのです。手当たり次第に人民を捕らえ、良い者も悪い者も、めったやたらに投獄し、しかも罰に軽重の法則なく、なぜ罰せあれるのかも分からぬように殺し、なぜ許されるのかも分からず釈放するのです。きっと人民は王を恐怖し、王の一挙手一投足に、おびえ、王は絶対の存在となるでしょう。

 

 →法治国家の本質を突いている。法曹が法律の抜け道を利用して悪事を働いたり、法律の壁に阻まれて、グレーな悪人を処罰できなかったりすることなど、よくある話。