周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楢崎文書13(完)

    一三 井上源十郎御物注文

 

   御物注文

 一金薄        千三百枚

 一御下緒 くれない    三筋

  (啄 木)

 一たくほく 但上之   貳十筋

 一踏皮        二足

 一串蚫        五連

    以上

   右前被成御請取、御裏之儀奉頼候々々、

        十月朔日      井上源十郎(花押)

          (春忠)

        井上又右衛門尉殿

          (尊継)

        飯田讃岐入道殿

          (元辰)

        鵜飼新右衛門尉殿

      (裏書)

      「 右之前請取申候也、

       (1582)

       天正十年〈壬午〉十月十九日 包久又七郎(花押)

                     河井彦右衛門(花押)」

 

 「書き下し文」

 右の前御請取に成られ、御裏の儀頼み奉り候ふべく候ふ、

    (中略)

 右の前請取り申し候ふなり、

 

 「解釈」

 右のとおりお請け取りになり、御裏の署判を頼み申し上げます。

    (中略)

 右のとおり、請け取り申したのです。

楢崎文書12

    一二 口羽通良書状

 

(去八日ヵ)              (廣高)  安芸高田郡)

 □□□御書今朝到来、致拜見候、如御意就三吉殿御出、吉田へ頓被成御出、

                  (貞俊)              (茂)

 以御取成如形時宜可然候而目出度候、福原ニ茂一入之御家顔にて候つる、私□罷出

 取持立仕候、何篇可然候て御帰候、

 (大坂)

 一□□へ重而之御兵粮被差遣度之由、尤無御余儀候、吉田ヨリ千俵御遣候へかし

                 (惣)       (外ヵ)

 と存知候、是ハ殊外軽御事にて候、□別大坂御抱之事者、□ニ無其隠事候間、

 先御当家之

                   (口羽)

      井上春忠          下野守

      井 又右衛門尉        通良

 

 「書き下し文」

 去んぬる八日御書今朝到来し、拜見致し候ふ、御意のごとく三吉殿御出に就き、吉田へ頓に御出に成らる、御取り成しを以て形のごとく時宜然かるべく候ひて目出度く候ふ、福原にも一入の御家顔にて候ひつる、私も罷り出で取り持ち立ち仕り候ふ、何篇も然るべく候ひて御帰り候ふ、

 一つ、大坂へ重ねての御兵粮差し遣はされたきの由、尤も御余儀無く候ふ、吉田より千俵御遣はし候へかしと存知候ふ、是は殊の外軽き御事にて候ふ、惣別大坂御抱への事は、外に其の隠無き事候ふ間、先づ御当家の

 

 「解釈」

 去る八日の御書が今朝到来し、拜見いたしました。ご命令のように三吉広高殿のお出でになったが、吉田へ突如お越しになった。お取り成しによって、形式どおりちょうどよい時期になりまして、満足しております。福原貞俊にもいっそうのおもてなしをしました。私も出向いて、あいだを取り持ち立ち回りました。あれこれと適切な振る舞いを受けて、お帰りになりました。

 一つ、大坂へ重ねてご兵粮を送り届けていただきたいとのこと、本当にやむをえないことです。吉田から千俵をお遣わしになってくださいよ、と存じております。これは思いの外、たいしたことではございません。およそ大坂がお抱えになっていることは、他にその隠れないことですので、まず御当家の

 

*解釈はよくわかりませんでした。

楢崎文書11

 

 

 

   一一 小早川隆景書状(折紙)

   態申候             少々

 急度令申候、備中外郡下々の儀、当時◯雑説等申乱之由に注進候、所務時分之故

                               

 候、定而従各某元江茂可申候、未従御方何共不承候間、無儀候哉、然時分

                               (備中)

 御上之儀候間所々御油断被付御心、可被聞合事肝要候、鳥羽并幸山検使之

 者共所へも、此由申遣候間、切々可被仰合候、此節之□候間、今少御逗留候て

(可ヵ)       (ヵ)

 □被[ ]事専一候、□者様体承可得御心候、恐々謹言、

     [ ]月十六日         隆景(花押)

 

 「書き下し文」

 態と申し候ふ、備中外郡下々の儀、当時少々雑説等申し乱るるの由に候ふ、所務時分の故候か、定めて各々より某の元へも申すべく候ふ、未だ御方より何とも承らず候ふ間、大義無く候ふか、幸いに御油断無く御心を付けられ、聞き合はせらるべき事肝要に候ふ、鳥羽并びに幸山検使の者どもの所へも、此の由申し遣はし候ふ間、切々仰せ合はせらるべく候ふ、此の節の□候ふ間、今少し御逗留候ひて〜?〜らるべき事事専一に候ふ、□の者様体承り御心を得べく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 わざわざ申し上げます。備中外郡の民衆の件ですが、いま少々根拠のない噂が飛び交っているとのことです。年貢収納の時分であるからでしょうか。きっとそれぞれの方から私のもとへも注進があるはずです。まだ毛利輝元様から何もうかがっておりませんので、大義はないのでしょうか。幸いにもご油断なく気をつけていらっしゃり、情報を聞き比べて考えるべきことが大切です。鳥羽と幸山の検使の者どものところへも、この事情を申し送っておりますので、しっかりとご相談になるべきです。この時節、□がございますので、もう少しご逗留になりまして〜?〜なさるべきことが最も大切です。□の者の状況を伺い、輝元様のお考えを聞くつもりです。以上、謹んでも申し上げます。

傷つく神

  文明三年(1471)八月十四日条

       (『経覚私要鈔』9─25頁)

 

  十四日、甲寅、霽、

   (中略)

  (実世)宮内卿公宥源 (摂津住吉郡)

 一八条三品子息住吉辺ノ寺〈千住院」住人也、〉語云、五月比住吉神馬二疋

      (マヽ)      (津守国昭)

  在之、五日分二疋ナカラ失了、神主以下色々令糺明之処、一疋五日アリテ出現、

              (鏑)        死了

  如元ツナカレ了、今一疋ハカフラ矢ヲ二筋ヲヰテ○住、吉ノ浦ノ汀打上ラレ

  畢、其後タケ三間計ノ蛇手ヲ負テ、御池入テ血ヲアラヰ畢、仍御池血色成了、

  其後此蛇ハ一御殿へ入畢云々、希代不思儀也、

 

 「書き下し文」

 一つ、八条三品子息宮内卿公宥源住吉辺の寺〈千住院の住人なり、〉語りて云く、五月ごろ住吉の神馬二疋之在り、五日二疋ながら失せ了んぬ、神主以下色々糺明せしむるの処、一疋五日ありて出現す、元のごとくつながれ了んぬ、今一疋は鏑矢を二筋を射て死に了んぬ、住吉の浦の汀に打ち上げられ畢んぬ、其の後丈三間ばかりの蛇手を負ひて、御池に入りて血を洗ゐ畢んぬ、仍て御池血の色に成り了んぬ、其の後此の蛇は一の御殿へ入り畢んぬと云々、希代不思議なり、

 

 「解釈」

 一つ、八条三品実世の子息宮内卿公宥源(住吉あたりの千住院の住人である)が語って言うには、五月ごろ、住吉の神馬二疋がいて、五日に二疋ともいなくなった。神主らはいろいろと探させたところ、一疋は五日して出現した。元のようにつながれた。もう一疋は鏑矢を二筋射られて死んでいた。住吉の浦の波打ち際に打ち上げられていた。その後、長さ三間ばかり(約5.5メートル)の蛇が手傷を負って、御池に入って血を洗った。そのため、御池が血の色になった。その後この蛇は一の御殿へ入ったという。世にも珍しい不思議なことである。

 

 

【考察】

 神馬のうち一匹が矢で射られ、神(底筒男命)の化身である蛇が手傷を負って一の御殿へ逃げ込んだ。これは住吉の神の異変を表しているのでしょうが、いったい何が起きたのでしょうか。まったくわかりません。

楢崎文書10

    一〇 穂田元清書状

 

                   (可ヵ)              

 御捻致拜見候、御談合ハ我等先之通にて□被仰候か、それハそとにて候条、可如何候哉、

 (捻封ウハ書)

 「    (小早川)               四

       隆景様 まいる 人々御申 御返   元清」

 

 「書き下し文」

 御捻り拜見致し候ふ、御談合は我ら先の通りにて仰せらるべく候ふか、それはそとにて候ふ条、如何有るべく候ふ、

 

 「解釈」

 (捻封の)お手紙を拜見いたしました。ご談合の内容は、私どもが以前に申し上げたとおりにおっしゃるのでしょうか。それは別ですので、どのようにするつもりでしょうか。

 

*解釈はよくわかりませんでした。