周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─17 〜釜殿男の密通と切腹〜

  応永三十一年(1424)八月四日条(『兼宣公記』2─194)

 

 四日、丙午、晴、(中略)

  (広橋綱子、兼宣女)

  抑典侍局ニ拜趨小大夫女性許へ、 内裏奉公釜殿進蜜通之状、件状 内裏様

  就被御覧、釜殿逐電間、自 内裏被遣御使、其身逐電之上者、父可切腹之由、

  再三御譴責之間、釜殿帰切腹畢、依此事小大夫尼ニなすへしと云々、可然之由返答、

 

 「書き下し文」

 抑も典侍局に拜趨する小大夫女性のもとへ、 内裏奉公の釜殿密通の状を進らす、件の状 内裏様御覧ぜらるるに就き、釜殿逐電するの間、内裏様より御使ひを遣はさるるも、其の身逐電するの上は、父切腹すべきの由、再三御譴責するの間、釜殿帰り切腹し畢んぬ、此の事により小大夫尼になすべしと云々、然るべきの由返答す、

 

 「解釈」

 さて、典侍局(娘の綱子)にお仕えしている小大夫という女のもとへ、称光天皇に奉公している釜殿の男が密通の書状を送った。その書状を帝がご覧になったため、男は逃亡した。それゆえ、帝はご使者をお遣わしになったが、当人が逃亡したからには、その父が切腹しなければならないと、再三厳しくお咎めになるので、当人が帰ってきて切腹した。この事件により、小大夫は尼にするべきである、と綱子に命令が下ったという。そうするのがよいと私は綱子に返答した。

 

 「注釈」

「兼宣公記」

 ─室町期の公卿広橋兼宣の日記。兼宣は足利義満・義持の伝奏をつとめており、当時の政治・社会に関する基本史料。1387─1428(嘉慶1─正長1)の自筆本(国立歴史民俗博物館)がある(『角川新版日本史辞典』)。

 

「釜殿」

 ─かなえどの。主上がお使いになるお湯を沸かしたり運んだりする人(『新訂官職要解』講談社学術文庫)。

 

 

*今回の史料は、大納言典侍広橋綱子に仕える小大夫と、内裏釜殿の職員との密通事件を記したものです。綱子のような上級女房(お伽をし、皇子や皇女を産む階層)の密通であれば、問題化するのもわかりますが、綱子に仕える官女(下級女房)と釜殿の一職員との密通程度で、称光天皇はどうして切腹を命じるほどに激怒したのでしょうか。

 タイミングが悪かったと言えばそれまでなのですが、実は、この事件が起きる約3ヶ月前、仙洞・宮中・幕府を巻き込む大規模な密通事件が露見していたのです。詳細については、「ハーレム内の憂鬱1〜4」という記事で紹介しておいたので、そちらをご覧になってくださればよいのですが、5月から6月の約1ヶ月の間に、総勢13名の密通が明るみに出たのです。そのうち、8名がまず逃亡し、6名が逃げ果せています。うち2名は捜索されて実家に預けられました。逃亡しなかった5名のうち4名は、天皇上皇・将軍らの意向によって不問に付され、1名は出家して田舎に下っています。したがって、今回の釜殿男のように切腹を命じられるというのは、かなり珍しいケースだったと考えられます。権力者の庇護を受けられない釜殿男のような家政職員は、天皇の生殺与奪権の行使をもろに受けてしまうのでしょう。

 それはさておき、今回の史料は、密通を犯した釜殿男を切腹刑に処したという記事ですから、自殺の事例紹介としてはあまりふさしくないのかもしれません。ですが、逃亡していた釜殿男は、自分の代わりとして父親に切腹の命が下ったことを知り、戻ってきて切腹したのです。だから、刑罰という強制ではあっても、それを受け入れた以上、自殺と評価しなければなりません。どんな状況であろうと、逃亡しようと思えば逃亡できたわけですから。

 前述のように、密通当事者の約6割の男女がまず逃亡し、5割弱がそのまま逃亡しきるわけですから、密通行為に対する罪の意識はずいぶん低いと考えられそうです。そうすると、釜殿男が切腹を受け入れた理由は、罪を悔いたということではなく、自分の犯した罪のせいで、代わりに父を切腹させるわけにはいかない、という親子愛によるものと考えざるを得ません。

 

 

 「補足」

 「上級女房」「下級女房」「官女」の概念規定や、「広橋綱子」については、松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年、第2・5・6章)を参照。

仏通寺文書4

    四 愚中周及書状

 

                 足利義持)(則平)

 京都を罷出候者軈可罷下存候処ニ、上意小早川しわさと被仰候、雖然其方へ

 不下候間無子細候、雖何時候其方へ罷下候者、可同辺間無其儀

                 (真知)

 候、背本意存候、随而仏通寺の事覚隠之方へ委細申付候、諸事可

 御談合候、恐々謹白、

     (応永十五年・1408)

       十二月十五日

                    周及(花押)

      政所殿

 

 「書き下し文」

 京都を罷り出で候はば軈て罷り下るべく存じ候ふ処に、上意小早川の仕業と仰せられ候ふ、然りと雖も其方へ下らず候ふ間、子細無く候ふ、何時に候ふと雖も、其方へ罷り下り候はば、同辺たるべきの間其の儀無く候ふ、本意に背き存じ候ふ、随ひて仏通寺の事覚隠の方へ委細申し付け候ふ、諸事御談合有るべく候ふ、恐々謹白、

 

 「解釈」

 京都を退去するならば、すぐに下向するべきだと思っておりましたが、将軍足利義持様のお考えでは、小早川則平の仕業だとおっしゃっております。しかし、私はそちらへ下向しませんので、問題はありません。いつでありましょうと、そちらへ下向しますなら、同じはずなので問題はありません。本来のあるべきさまに背いていると思います。だから、仏通寺のことは覚隠真知方へ申し付けます。さまざまな事柄をご相談になってください。以上、謹んで申し上げます。

 

*解釈がまったくわかりません。

仏通寺文書3

    三 愚中周及規式写 ○住持記ニヨル

 

     滅後定門徒寺坊主事〈大通禅師御自筆」自判有之、〉

                       (清唯) (真知)

 留心〈金山第二世諱安久」阿州人俗ハ安宅〉  諾渓  覚隠

                               (玄胤)

 宗孚庵主字希淳  春岩〈諱妙育濃州人」末后為大衣鉢侍者〉  覚伝

 隣月〈定山和尚子高公」侍者東福侍某〉  崗権管  捴権管

 寧権管

 已上十人不僧臘上レ次、相与評議可坊主典座、永代当斯式

      (応永十四年)

       正月十九日        病僧周及判

 

 「書き下し文」

     滅後に定むる門徒・寺坊主事〈大通禅師御自筆」自判之有り、〉

 留心〈金山第二世諱は安久、」阿州人俗は安宅、〉  諾渓清唯  覚隠真知

 宗孚庵主字は希淳  春岩〈諱は妙育、濃州人、」末后は大衣鉢侍者と為る、〉  覚伝

 隣月〈定山和尚の子高公」侍者、東福侍某、〉  崗権管  捴権管

 寧権管

 已上十人僧臘を以て次と為さず、相与に評議し坊主・典座を定むべし、永代当に規式に依るべし、

 

 「解釈」

 以上の十人は、出家してからの年数によって、各役職の後任を決めてはならない。みなが一緒に評議し、坊主や典座の後任を決めなければならない。永久に必ずこの規則に依拠せよ。

仏通寺文書2

    二 愚中周及禁制 ○板ニ陰刻

 

    禁制

 第一 不一切女人入寺中

 第二 不一切酒入寺中

 第三 不年少沙喝畜一レ之事

   已上三件永為

  仏通寺不易之規式

     (1406)

     応永十三年九月廿七日

  住持 老比丘  周及(花押)

 

 「書き下し文」

    禁制

 第一 一切女人寺中に入るを許さざる事

 第二 一切酒寺中に入るを許さざる事

 第三 年少の沙喝之を畜ふを許さざるの事

   已上三件永く仏通寺不易の規式となす、

 

 「解釈」

 第一 女性が寺中に入るの一切許してはならないこと。

 第二 酒が寺中に入るのを一切許してはならないこと。

 第三 年少の沙喝を養うのを許してはならないこと。

   已上三件、永遠に仏通寺不変の規則とする。

 

 「注釈」

「仏通寺」

 ─現三原市高坂町許山。仏通寺川沿いの深山渓谷に位置する臨済宗仏通寺派の本山。御許山と号し、本尊釈迦如来。「仏徳大通禅師愚中和尚年譜」によると、応永四年(1397)沼田庄地頭小早川春平が愚中周及を招請して開いた大寺で、寺号は周及の師即休契了の法号仏通禅師による。春平は当寺の建立を通して、南北朝以来自立性を強めた小早川一族の統括をも図った。

 仏通禅師住持記(「三原市史」所収)によると、芸備両国の人夫を動員して工事が行われ、応永六年より十三年間で含暉亭・方丈・浴室をはじめ肯心院、鎮守社(御許権現社)などが逐次建設されたが、途中、同九年に春平が、同十六年には周及が没し、寺容が整ったのは春平の子則平のときであった。同二十二年二月十日付の仏通寺仏殿立柱馬注文写(小早川家文書)によると、則平以下一族・被官人らが馬二十五疋を奉加し、同二十三年五月に仏殿が完成(仏通禅寺住持記)。同年六月十五日付小早川常嘉禁制状(仏通寺文書)により寺域が定められ、大峰山が寺山とされた。同三十一年十月付の仏通寺方丈上棟馬人数注文写(小早川家文書)によると、則平以下一族・被官人に加えて、沼田の本市倉・新市倉の市場商人が奉加して方丈が落成。住持記に永享八年(1436)火災に遭ったとあり、文安四年(1447)には仏殿が再建されている(小早川家文書)。

 嘉吉元年(1441)二月二十一日付の管領細川持之奉書(仏通寺文書)によると将軍祈願所となり、その頃と見られる欠年の十一月十二日付の東寺寺領内勧進奉加施行状案(東寺百号文書)に、将軍の命により東寺領内で仏通寺一切経勧進が行われたとある。大永元年(1521)十一月二十七日付の仏通寺塔頭正法院領田地目録(仏通寺正法院文書)によると、永正五年(1508)から同十八年夏まで、是弘方が寺領の一部を押領。永禄三年(1560)七月五日付の小早川隆景制札(仏通寺文書)によると、仏通寺山境の新牓示が実施され、このとき放置した境界石が現存。天正九年(1581)分の村山家檀那帳(山口県文書館蔵)の仏通寺の項に、仏通寺・納所と、長松庵・永徳庵・正法庵・岩栖院・含暉院・肯心院・両足院・宝勝院・昌福寺・福寿庵などの塔頭を記す。

 文禄四年(1595)に三原城に隠退した小早川隆景は、含暉院の修築など大規模な再建工事を行なった(仏通禅寺住持記、「閥閲録」所収国貞平左衛門家文書)。慶長五年(1600)に福島正則が芸備に入部して寺領を没収され(仏通禅寺住持記)、同八年五月十七日付の福島正則合力米給与状(仏通寺文書)によると、五十八人の扶持米と紙子代七十八石を給せられた。同二十年には近郷の篤志家の出資により含暉院諸堂を修築(寺蔵棟札)、寛永二年(1625)には谷中に杉千本が植えられるなど、寺域を整備(仏通禅寺住持記)。元和六年(1620)十二月二日付の浅野長晟合力米給与状(寺蔵)も福島氏のそれを踏襲し、代々の藩主の庇護のもとで寺の整備が行われた。寛政八年(1796)両足院から発した大火で含暉院を除多くの建造物を焼失、文化六年(1809)仏殿を再興、寺容の整った文政七年(1824)に本尊安座会が施行された(仏通禅寺住持記)。天保二─三年(1831─32)に含暉院開山堂に至る傾斜面に石仏十六羅漢像が建立され、同九年含暉院の坂道に石垣五十段が寄進されている(同書)。明治三十八年(1905)仏通寺派の本山となった。

 愚中周及は応永十六年天寧寺(現京都府福知山市)で没したが、同十四年正月十九日付の愚中周及規式写(「仏通禅寺住持記」所収)によると、没後は直弟子十人が坊主典座を評議して決定することとされ、没後は直弟子は愚中門派を形成、当寺と天寧寺を本山とし、両寺を輪住制で経営した。同三十年三月十四日付の清唯外三名連署規式(仏通寺文書)によると住持の交代は三年とされ、同三十四年正月の清唯外三名連署禁制(同文書)は、叢林出頭者を住持にしないことを定めて独立性を示している。愚中門派の活動は小早川氏の経済力を背景とする仏通寺を拠点に行われ、室町中期には十六派を形成して活動したが、直弟子の大半が没したため、文安四年九月二十八日付の天寧・仏通両寺住持并番衆次第写(「仏通禅寺住持記」所収)では門葉十派で住持を交代、輪住制の強化を図る一方、檀那の干渉を排除。寛正四年(1463)には孫弟子の時代に入り、同年十月二十九日付の小早川煕平并祥瑞外七名連署規式写(同書所収)によると、再び檀那が寺の運営に規制と保護を加えるようになり、八人の評定衆(住持・納所・維那と含暉・肯心・智泉・長松・永徳の各院主)が運営することとなった。後には山内に塔院を営む肯心院(正覚派、応永三十二年諾渓開基・景行創建)・正法院(大慈派、長享元年宗綱開基・扶平創建)、長松院(常喜派、宝徳三年千畝開基・教平創建)、永徳院(円福派、享徳三年一笑開基・煕平創建)の五派が交代で住持を務めた(仏通禅寺住持記)。

 室町時代には山中に八十八カ寺を擁し、末寺は十二カ国三千カ寺に及んだというが、「芸藩通志」は友梅庵など六十七の廃跡を記す。現存する建造物のうち含暉院は応永十三年に松巌尼(小早川春平室か)によって興造された愚中周及の塔所。同十八年に建立された地蔵堂は梁間・桁行とも三間、単層宝形造(もと茅葺)で国指定文化財。開山堂は周及と即休の木造(天寧寺と同体)、松巌尼の墓と伝える宝篋印塔一基を安置し、地蔵堂とともに永享八年・寛政八年の大火を免れている。三級滝(仏通寺滝・昇雲滝)などが三十六勝、聖民洞などが六十四景とされ、近世以降、文人墨客の訪れも多い。なお雪舟が篩月庵に寓居したと伝えられ、雪舟筆と伝える襖絵、雪舟作と伝える庭を残す。献本着色大通禅師像(国指定重要文化財)は春平が描き、周及が賛を書いたといわれ、付属の紙本墨書大通禅師消息は大通が応永十五年京都に赴き、足利義持を引見したときの経緯を書き送ったもの、同墨蹟は同十四年の筆である。近世、三級滝では雨乞祈祷が執行されている(仏通禅寺住持記)。参道にあるイヌマキは根回り4・5メートル、樹高約20メートルで、県指定天然記念物(『広島県の地名』平凡社)。

仏通寺文書1

解題

 沼田高山城主小早川春平は応永四年(1397)、彼が欽仰する禅僧の愚中周及を迎え「佳き山水」の地である現在の土地にこの寺を開創した。この寺は愚中が入唐に際し師事した仏通禅師にちなんで、仏通寺と名付けられた。その後、小早川氏一門の信仰に支えられて、三十年間に多くの堂塔が完成した。愚中は京都五山に迎合せず、その門派はむしろ五山に対抗して自ら清新の境地を求めて地方で活躍した。しかし、足利将軍家の愚中に対する厚い信仰があり、将軍家の祈願寺ともなっている。小早川氏が力を失い、福島氏が入部するや寺領は没収され、衰退した。後、浅野氏時代に二百石を与えられたが往時の繁栄はよみがえらず、明治五年(1872)には五院十四庵にとどまっている。

 山内五派は開山の五高弟による分派で、正法・肯心・永徳・長松・両足の各派をいう。五大寺は開山愚中を開基とする寺で、丹波天寧寺・同円悟寺・播州雲門寺・安芸向上庵・紀州禅頭寺である。仏通十六派とは小本寺の諸分派である聖記・祥雲・正覚・大慈・慈雲・常喜・建国・円福・大通・華蔵・密伝・得月・英昌・権菅・法雲・霊源の各派をいう。

 ここに収める文書は、原本によるものと、明治四十三年および昭和十二年採訪による東大影写本によるものを主体とし、「御許山仏通禅寺住持記」(以下、仏通寺住持記と略称)所収文書で補った。この住持記は応永四年八月から寺内外の出来事を日に追って書き留めたものであり、同序によれば延享二年肯心派瑞雲庵主等が記しているところから、その時に現在のように書きかえられ、その後は順次書き加えられていったものであろう。他に、永徳一笑禅師の語録(抜粋)、大通禅師頂相の賛を所収した(1023〜1026・1055頁)。

 

 

    一 愚中周及遺嘱状写 ○住持記ニヨル

 

     遺嘱

 周及順寂後、但当正月十九日年忌・月忌、不予別有

 営為、若違背者非予弟子也、

     (1405)             (周及)

     応永十二乙酉年五月十九日     (花押)

 

 「書き下し文」

     遺嘱す

 周及順寂の後、ただ当に正月十九日を以て年忌・月忌と為すべし、予のために別に営為有るべからず、若し違背せば予の弟子に非ざるなり、

 

 「解釈」

     遺託する。

 私が亡くなった後は、ただ正月十九日をもって、年忌・月忌とするだけでよい。私のために別に法要を営む必要はない。もしこの遺託に背くなら、その者は我が弟子ではないのである。

 

 「注釈」

「順寂」─読み方・意味ともに未詳。「亡くなる」の意味か。

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