周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

蟇沼寺文書4

    四 楽音寺座列次第規式

 

(端裏書)

 「楽音寺座烈次第」

                 円覚房

    明道房       戒円房

    蓮乗房       定月房

    乗円房       法泉房

    乗性房       心浄房

    明了房        一和尚

   北東          南東

 

   北西          南西

    寂蓮房       道円房

    境妙房       法乗房

    境乗房       寂法房

    乗光房       明静房

                 遺教房

                 知道房

(裏書)

 右於自今已後者守此之旨、不前後錯乱之儀、於若背此旨

 致自由着座之輩者不知坊敷者也、仍之状如件、

     (1303)

     乾元貳秊癸卯卯月 日     法印覚禅(花押)

 

 「書き下し文」

 右自今已後に於いては此の旨を守り、前後錯乱の儀有るべからず、若し此の旨に背き、自由着座を致すの輩に於いては、坊敷を領知すべからざる者なり、之により状件のごとし、

 

 「解釈」

 右、今後についてはこの取り決めを守り、その順番を混乱させることがあってはならない。もしこの取り決めに背き、自由に着座する者がいれば、僧坊やその敷地を領有してはならないのである。よって、座並の規則は以上のとおりである。

賀茂大明神のお引っ越しとその本所

  文明二年(1470)五月二日条

           (『大乗院寺社雑事記』4─425頁)

 

    二日 (中略)

 一伝聞、賀茂大明神者御在国、御領加賀国ニアリ、元弘等大乱之時例云々、御正躰・御神宝以下、悉以奉納唐櫃等、社官等奉相具之、各在国、希有事也、当社本所ハ当国葛木賀茂社也、天武御宇歟、為王城鎮守奉勧請之、卯月ハ於禁中御神事有之、(後略)

 

 「書き下し文」

 一つ、伝へ聞く、賀茂大明神は御在国、御領加賀国にあり、元弘等大乱の時の例と云々、御正体・御神宝以下、悉く以て唐櫃等に奉納し、社官等之を相具し奉り、各々在国す、希有の事なり、当社の本所は当国葛城の賀茂社なり、天武の御宇か、王城鎮守のため之を勧請し奉る、卯月は禁中に於いて御神事之有り、

 

 「解釈」

 一つ、伝え聞くところによると、賀茂大明神が加賀国にご在国になっている。ご社領加賀国にある。元弘などの大乱の時の例だという。ご神体やご神宝などは、すべて唐櫃などに納め申し上げ、社官らはそれらを伴って、それぞれ在国した。非常に珍しいことである。賀茂社の本所は大和国葛城の賀茂社である。天武天皇の御代だろうか、王城鎮守のためにこれを勧請し申し上げた。四月は禁中でご神事がある。

 

 「注釈」

「元弘」

 ─元弘の乱のことか。鎌倉幕府滅亡の要因となった反乱。1331(元徳3・元弘1)後醍醐天皇は2度目の討幕を企てるが未然に発覚、笠置山に籠城するが、これも落ちる。後醍醐は光厳に譲位させられ、隠岐に配流の身となる。1332(正慶1・元弘2)末、護良親王が吉野に、楠木正成が河内に、阿蘇・菊池氏が九州に挙兵し、1331後醍醐は隠岐を脱出。さらに足利・新田・島津・大友らの有力御家人が後醍醐方にくみするに及び、幕府は滅亡した(『角川新版日本史辞典』)。

 

「御領」

 ─加賀国川北郡金津庄。加賀国の北隅。現在の宇ノ気町北部から七塚町・高松町一帯。宇ノ気川流域の谷田地帯を中心に、山方・浜方に拡がる。戦国期には、日角・新保・鉢伏・金津・横山・高松・内高松・谷・上棚・与知の十カ村で構成。上賀茂社領。初見は寿永三年(1184)であるが(「賀茂別雷神社文書」)、成立は寛治四年(1090)と想定され(『百錬抄』寛治四・七・一三)、中世を通して「加州神領」と称された。鎌倉後期に南接する北英田保の地頭代と境界相論を展開(「温故古文抄」)。戦国期の上賀茂社は、一向一揆を主導する下間頼盛・木越光徳寺・洲崎兵庫などの押領や、これを排除した一揆組織の河北郡五番組の主力をなす惣荘(百姓中)の自主管理に苦しみ、公用銭百貫の収取に難渋する。近隣の荘郷に比して、直務の維持工作が比較的功を奏していた荘園といえるが、戦国末期以降は、賀茂競馬の番立に「金津御庄」の名をとどめるのみとなる(「賀茂別雷神社」)(「金津庄」『講座日本荘園史6』吉川弘文館)。『京都上賀茂神社と加賀・能登』(石川県立図書館 第223回企画展示、https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/booklist/2015/223.pdf)参照。

 なお、金津庄内には賀茂神社があります。以下、『石川県の地名』(平凡社)の「賀茂神社」の項を引用しておきます。

 現宇ノ気町横山。横山集落の東端、亀山に鎮座。旧県社。「延喜式神名帳にみる賀茂郡13座の同名社に比定される。祭神は賀茂別雷神で、貴布禰神と天照大神を配祀。宝暦二年(1752)の横山賀茂神社縁起(高松町史)によれば、天平勝宝五年(753)加賀郡英田郷の加茂邑(現津幡町加茂とされる)に影向、大同元年(806)鉢伏村に遷座。翌二年に神託によって現在地へ移ったと伝える。ただし英田郷加茂邑に鎮座したとの伝承が記されない縁起もある。中世、当地一帯は京都上賀茂社領金津庄に属したため、当社は金津庄20余村の総社として、あつい崇敬を受けたらしい。天文六年(1537)の金津庄横山村名別公事銭等納帳(賀茂別雷神社文書)にみえる木津宮・若宮は当社の摂社・末社とみられる。若宮は同7─8年分の谷・金津村算用状案(同文書)にも頻出する。前掲縁起によれば、社家木津神主子孫は断絶したのか未詳、若宮神主は桜井姓で横山村に居住したという。また別当寺として天台宗西照寺と塔頭12坊があったという。「三州志」によると、天正十二年(1584)の末森合戦の際に、佐々成政により焼き払われたと言われる。その後、万治元年(1658)に復興したという。春祭四月十五日。田祭三月五日。例祭・弥寿元祭六月五日。秋祭九月十五日。なお賀茂大明神にまつわる片目の鮒の伝説がある。

 

賀茂社

 ─現奈良県御所市の高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)・鴨都波神社(下鴨社・鴨の宮)のいずれかを指すものと考えられます(『奈良県の地名』平凡社より)。

 

 

*大切なご神体やご神宝を戦乱から守るため、社領のある地方へ疎開させることがあったようです。御神体などというものは、遷宮を除いて移動させることはないと思っていたので、私にとっては新しい発見でした。

 また、京都賀茂社が、天武天皇の時代に、奈良葛城郡の賀茂社から勧請されたものだという伝承も初めて聞きました。「本家・元祖論争」ではありませんが、本家本元、いや本社を確定することは、中世でも大事だったようです。

蟇沼寺文書3

    三 某仏供米等注文

 

(前闕)

   僧膳料           白米五斗

   清酒三斗五舛分       乃米七斗

   濁酒三斗五舛分       乃米三斗五舛

 一二季彼御仏供一日分白米一舛宛    白米一斗四舛

 一六月十八日講米        乃米二斗

 一毎日御仏供一月分三舛宛      白米三斗六舛

 一八月十六日 八幡御祭料物

   御供料           白米六舛

   御供餅料          白米一斗

   御散米料          白米三舛

   御福酒清酒五舛分      乃米一斗

   人料白酒三斗分       乃米三斗

   飯料            白米二斗五舛

                        」

                       (後闕)

 

*書き下し文・解釈は省略します。

手段と目的の逆転

 『正法眼蔵随聞記』二ノ十三

     (『日本古典文学全集27』小学館、1971年、354頁)

 

 示に云はく、人は思い切つて、命をも捨て、身肉・手足をも斬る事は、なかなかせらるるなり。しかれば、世間の事を思ひ、名利・執心のためにも、かくの如く思ふなり。ただ、依り来る時に触れ、物に随つて、心器を調ふる事難きなり。

 学者、命を捨つると思うて、しばらく推し静めて、云ふべき事をも、修すべき事をも、道理に順ずるか、順ぜざるかと案じて、道理に順ぜば、云ひもし、行じもすべきなり。

 

 「解釈」

 垂示として言われた。人は、思いきって、自分の命までも捨て、わが身の肉や手・足をも切ることは、かえって、やればできないことではないのである。だから、世間のことを考え、名利(名誉・利益)や執心(執着心)のためにも、このように、わが身を犠牲にしようと思うのである。ただ、身に迫ってくる時期に応じ、事物に従って、心の状態を調整することが難しいのだ。

 修行者は、わが命を投げ出す心持になって、しばらく心をおし静めて、言わなくてはならぬこと、実践すべきことも、それが仏道の道理に合うか、合わないかをよく考えて、道理に合うなら、言いもし、実践をもなすべきである。

 

 

 「注釈」

*名誉や利益、執着心のために、人間は自分の体や命を犠牲にする。これは鎌倉時代から変わらないようです。でも名誉や利益などは、人間が社会の中で生を全うしやすくするための方便であって、それを実現するために命を絶ってしまっては、本末転倒のような気がします。「死ぬ気で勝ち取れ!」「命懸けで挑め!」と言いながら、死んでしまっては何もなりません。自分自身の脳みそが、妙なバイアス(社会通念)に囚われていないか心配です。

蟇沼寺文書2

    二 僧頼賢仏供米等注文

 

(前闕)

 一二月十一月鎮祭両度御散米乃米六舛

  已上白米一石七斗分 乃米二石一斗二舛五合

   乃米一石七斗七舛

  已上乃米三石八斗九舛五合

   残五石九斗九舛一合

 一畠四反已六舛代

  所当二斗四舛

   交分一斗六舛八合

   延四斗八合已燈油也

 一毎日御勤例時懺法、法花経一部、仁王経一部、観音経三巻、其外八幡厳島

  護法、御勤有之、

     (1229)

     正安元年九月廿五日       僧頼賢

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「鎮祭」

 ─『精選版 日本国語大辞典』によると、「諸神をまつり、その土地をしずめ固めるための祭儀。また、それを行なうこと」という意味になるが、「二月」「十一月」という言葉とセットで現れるので、「二月祈念祭」「十二月新嘗祭」のことを指すと考えられます。

 

「散米」

 ─うちまき・さんまい。打撤とも書く。①米をまく作法で、神に神饌として供える、邪気をはらうためにまく。陰陽師が行なった祓の方法である。②米の女房詞(『古文書古記録語辞典』)。

 

「乃米」

 ─能米とも書く。玄米(黒米)のこと、また年貢米一般を指していうこともある(『古文書古記録語辞典』)。

 

「交分」

 ─①年貢・地子の徴収に関わる費用として取られる付加税。十一世紀から所見。②容積の異なる枡による量り直しによって生ずる延(のび)、縮(ちぢみ)を交分と称した。年貢等の徴収に関与する保司・下司の得分となる。米で徴収するのは交米・交分米(『古文書古記録語辞典』)。