周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

仏通寺住持記 その19

「仏通寺住持記」 その19

 

 四月廿八日改

 (1469)

 文明己丑 祥雲派

 (記)「四月廿四日 雲中祥沢禅師 嗣覚隠   侍真 通満 納所 祥瑞

     竹原帰陣」         祖堂有位牌

        向上 妙寿書記 〈塔主」祥〉浩蔵主 維那 仙蔵司

 二 庚寅 慈雲派

      実中再住      侍真 ホウキク  納所 周椿

                      維那 妙麟

 三 辛卯 正覚派

      叔源再住     〈侍真」得月派〉噩侍者 納所 恵玖

      向上(ママ)                 維那 興波

 四 壬辰 大慈派    十月廿八日夜、風呂炎上

      伝心善的禅師 嗣宗綱 侍真(ママ) 納所慈妙上坐

             有牌       心田

      向上 月海宗印  塔主 広遠 観白 全与侍者

                   進叟

                    維那 智広

      本源於江田他界、歳五十七、十二月三日、保

      三十三年

 五 癸巳 長松派      九月竹原再出張

 建国衆出番  光顕智厳禅師 嗣千畝 侍真 玄勝 納所 慈延

 自中途帰  向上 ゲンホウ     塔主 明堂 維那(ママ)

 

 「書き下し文」

 四月二十八日改む、

 文明己丑、祥雲派、

 (記)「四月二十四日、竹原帰陣、雲中祥沢禅師、覚隠を嗣ぐ、祖堂に牌有り、侍真通満、納所祥瑞、

      向上妙寿書記、塔主祥浩蔵主、維那仙蔵司、

 二庚寅、慈雲派、

      実中再住、侍真ホウキク、納所周椿、

      維那妙麟、

 三辛卯、正覚派、

      叔源再住、侍真得月派噩侍者、納所恵玖、

      向上(ママ・記載なし)、維那興波、

 四壬辰、大慈派、十月二十八日夜、風呂炎上、

      伝心善的禅師、宗綱を嗣ぐ、牌有り、侍真(ママ・記載なし)、納所心田慈妙上坐、

      向上月海宗印、塔主広遠、観白進叟全与侍者、

      維那智広、

      本源江田に於いて他界、歳五十七、十二月三日、家を保つこと三十三年、

 五癸巳、長松派、九月竹原再出張、

 建国衆出番、中途より帰る、光顕智厳禅師、千畝を嗣ぐ、侍真玄勝、納所慈延、

      向上ゲンホウ、塔主明堂、維那(ママ・記載なし)

 

 「解釈」

 四月二十八日改元

 文明元年己丑(1469)、祥雲派が番衆を勤める。

 (記)「四月二十四日、竹原小早川弘景が竹原へ帰陣した。覚隠の跡を継いだ雲中祥沢禅師が住持を勤める。祖堂に位牌がある。侍真は通満。納所は祥瑞。

      向上寺の住持を妙寿書記が勤める。塔主は祥浩蔵主。維那は仙蔵司。

 二年庚寅、慈雲派が番衆を勤める。

      実中妙秀が再び住持を勤める。侍真はホウキク。納所は周椿。維那は妙麟。

 三年辛卯、正覚派が番衆を勤める。

      叔源永本が再び住持を勤める。侍真は得月派の噩侍者。納所は恵玖。

      向上寺住持(僧名の記載なし)。維那は興波。

 四年壬辰、大慈派が番衆を勤める。十月二十八日夜、風呂が炎上した。

      宗綱の跡を継いだ伝心善的禅師が住持を勤める。位牌がある。侍真(僧名の記載なし)。納所は心田慈妙上坐。

      向上寺の住持を月海宗印が勤める。塔主は広遠。観白(方丈)は進叟全与侍者。維那は智広。

      本源小早川煕平が江田(尾道市御調町)で亡くなった。享年五十七歳。十二月三日。家を守ること三十三年。

 五年癸巳、長松派が番衆を勤める。九月竹原小早川弘景が再び高山城へ攻め込んだ。

 建国寺衆が番衆を勤めるためにやってきたが、途中で帰った。千畝の跡を継いだ光顕智厳禅師が住持を勤める。侍真は玄勝。納所は慈延。

      向上寺の住持をゲンホウが勤める。塔主は明堂。維那(僧名の記載なし)。

 

 「注釈」

「竹原再出張」

 ─竹原小早川弘景が行なった、二度目の高山城(沼田小早川敬平)攻めを意味しているか(「高山城開陣時証状覚書写」『小早川家文書』2─205号文書、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/1102/0091?m=all&s=0093&n=20)。

 

 

 つづく

猿沢池のシシガミ様

  延徳二年(1490)七月十二日条

        (『大乗院寺社雑事記』9─447頁)

 

    十二日

     (中略)

       引剥也

 一於猿沢池中恣人三人召取之、二人ハ則死、不吉々々、先日鹿一疋

       (盗)

  白布ヲ一反角ニ懸テ、池中ニ数剋立了、不思儀且如何、

 

 「書き下し文」

 一つ、猿沢池の中に於いて盗人(引剥なり)三人之を召し取る、二人は則ち死す、不吉々々、先日鹿一疋白布を一反角に懸けて、池の中に数剋立ち了んぬ、不思議且つ如何、

 

 「解釈」

 一つ、猿沢池の中で盗人(追い剥ぎ)三人を捕縛した。そのうち二人はすぐに死んだ。たいそう不吉であるよ。先日、鹿一匹が白い布一反を角に掛けて、池の中に数時間立っていた。思いもよらないことであるが、一方でどういうことであろうか。

 

 Three brigands were arrested at Sarusawa Pond in Nara. Two of them died immediately. It's ominous. The other day, a deer weared in a white cloth stood in the pond for several hours. This was an unexpected event. What does this portend?

(I used google translate.)

 

 

*以前にも紹介しましたが、笹本正治(「猿沢池が血に染まる ─伝承と場のイメージ─」『中世文学』52、 2007・6、37頁、https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/52/0/52_52_34/_pdf/-char/ja)によると、猿沢池では超常現象が多く起こっていたようです。

 それにしても、この鹿の姿のなんと神々しいこと…。白い布を角に引っ掛けた鹿が猿沢池の中で佇んでいる姿は、想像するに、とても神秘的です。神の化身なのでしょうが、いったい何を伝えに現れたのでしょうか。戦国真っ只中の時代ですから、どうせろくでもないことなのでしょう…。

仏通寺住持記 その18

 「仏通寺住持記」 その18

 二月廿八日改

 (1466)

 文正丙戌 大慈

      月洲祖心禅師宗綱嗣 侍真慈継書記 納所 智縁

      向上 月海宗印   塔主 善的   観白 全灯

           維那 寿松

      鎮守右辺塔造立、願主肯心派浄善、一重而廃壊矣、時代不

                       (導)

      三月十三日真田福海乾徳居士逝矣、引道叔源、職者移的子兵庫助頼澄

 (1467)     (三)

 応仁丁亥 長松派 二月五日改 十二月十三日竹原初出張

      友諒周益禅師 嗣千畝 侍真(ママ)  納所 梵隆

      向上 桂岩 塔主 道悦〈書記〉 〈観白」芳隠〉玄忠 維那 恵超

 二 戊子 永徳派

      玉山聖珉禅師 嗣一咲    納所 聖喜

      向上 古光徳紹        維那 聖運

 

 「書き下し文」

 二月二十八日改む、

 文正丙戌、大慈派、月洲祖心禅師宗綱を嗣ぐ、侍真慈継書記、納所智縁、

      向上月海宗印、塔主善的、観白全灯、維那寿松、

      鎮守右辺に塔造立す、願主肯心派浄善、一重にして廃壊す、時代審らかならず、

      三月十三日真田福海乾徳居士逝く、引導叔源、職は的子兵庫助頼澄に移る、

 応仁丁亥、長松派、三月五日改む、十二月十三日竹原初めて出張、

      友諒周益禅師、千畝を嗣ぐ、侍真(ママ・記載なし)、納所梵隆、

      向上桂岩、塔主道悦書記、観白芳隠玄忠、維那恵超、

 二戊子、永徳派、玉山聖珉禅師、一咲を嗣ぐ、納所聖喜、

     向上古光徳紹、維那聖運、

 

 「解釈」

 二月二十八日改元

 文正元年丙戌(1466)、大慈派が番衆を勤める。宗綱(大慈派)をの跡を継いだ月洲祖心禅師が住持を勤める。侍真は慈継書記。納所は智縁。

  向上寺の住持は月海宗印。塔主は善的。観白(方丈)は全灯。維那は寿松。

  鎮守の右側に塔を造立した。願主は肯心派の浄善。一度に崩壊した。その時代ははっきりしない。

  三月十三日真田福海乾徳居士が亡くなった。引導は叔源。政所職は嫡子兵庫助頼澄に移った。

 応仁元年丁亥(1467)、長松派が番衆を勤める。三月五日改元。十二月十三日、竹原小早川弘景が初めて高山城へ攻め込んだ。

  千畝の跡を継いだ友諒周益禅師が住持を勤める。侍真(僧名の記載なし)。納所は梵隆。

  向上寺の住持は桂岩。塔主は道悦書記。観白(方丈)は芳隠玄忠。維那は恵超。

 二年戊子。永徳派が番衆を勤める。一笑禅慶の跡を継いだ玉山聖珉禅師が住持を勤める。納所は聖喜。

  向上寺の住持は古光徳紹。維那は聖運。

 

 「注釈」

「竹原初出張」

 ─竹原小早川弘景が沼田小早川煕平の高山城を攻めたことか(「高山城開陣時証状覚書写」『小早川家文書』2─205号文書、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/1102/0091?m=all&s=0093&n=20)。

 

 

 つづく

仏通寺住持記 その17

 「仏通寺住持記」 その17

 

(1460)

 寛正庚辰 十二月廿一日改   昔楼鐘鋳之七月廿九日

              十月廿日一咲和尚示寂歳七十八

      自秋的当住       〈納所」長松派〉智源

 二 辛巳

 三 壬午 (記)「永徳派番」   (記)「納所聖珉」

 四 癸未 幻観庵主住 〈直弟、祥雲派番  納所祥沢

             於当寺入滅〉

 〈覚隠嗣」孫弟子初住〉 心翁宝順禅師 含暉祥瑞 維那妙寿

  御許山仏通禅寺評定衆御人数之事

 当住持       納所        維那

 含暉院主      肯心院主      智泉院主

 長松院手      長悳院主

 一 当住持番衆諸塔主、堅可守先師之規式

 一 諸派出番納所等、不不器之人

 一 当納所一回之間寺家細大雑務件々、可衆評

 一 年々随土貢豊倹、衆僧多寡之事

 一 常住置銭、番々不失事

 一 伐寺中植木山門境致

 一 於山林材木以下山外不切出

 一 本寺并諸塔頭、若於一院非例之儀者、評定衆董之事

 右以此規式末代寺家可然之様可評議之状、如件、

  寛正四年癸未十月廿九日    備後前司 煕平有判

      含暉祥瑞        維那妙寿

      納所祥沢        永徳徳林

      智泉祖心        肯心宗春

      当住幻観        長松智厳

 五 甲申 慈雲派

      実中妙秀禅師 元哉嗣 元哉和尚入滅、三月六日

 六 乙酉 正覚派

(記)「一百五代後土御門院」 叔源永本禅師 諾渓嗣拝塔

 

 「書き下し文」

 寛正庚辰、十二月二十一日改む、昔の楼鐘之を鋳る、七月廿九日、

      十月二十日、一咲和尚示寂、歳七十八、

      秋より的当住す、納所長松派智源、

 二辛巳、

 三壬午、(記)「永徳派番」、 (記)「納所聖珉」、

 四癸未、幻観庵主住す、〈直弟、祥雲派番、当寺に於いて入滅す、納所祥沢 〈覚隠を嗣ぐ、孫弟子初めて住す〉、心翁宝順禅師、 含暉祥瑞、維那妙寿、

   御許山仏通禅寺評定衆御人数の事

    (中略)

 一つ、当住持・番衆・諸塔主、堅く先師の規式を相守らるべき事、

 一つ、諸派の出番・納所等、不器の人に任ぜらるべからざる事、

 一つ、当納所一回の間寺家細大の雑務の件々、衆評を請けらるべき事、

 一つ、年々土貢の豊倹に随ひて、衆僧多寡の事、

 一つ、常住の置銭、番々失はれざる事、

 一つ、寺中の植木を伐りて山門の境致を失ふ事、

 一つ、山林の材木以下に於いて山外へ切り出ださざる事、

 一つ、本寺并びに諸塔頭、若し一院に於いて非例の儀有らば、評定衆董さるべきの事、

 右此の規式を以て末代寺家然るべきの様評議有るべきの状、件のごとし、

  (中略)

 五甲申、慈雲派、実中妙秀禅師、元哉を嗣ぐ、元哉和尚入滅す、三月六日、

 六乙酉、正覚派、(記)「一百五代後土御門院」、叔源永本禅師、諾渓を嗣ぎを拝塔す、

 

 「解釈」

 寛正元年(1460)庚辰、十二月二十一日改元。昔の楼鐘を鋳造する。七月廿九日。十月二十日、一咲和尚が亡くなった。歳は七十八。秋から的当が住持を勤める。納所は長松派智源。

 二年辛巳。

 三年壬午。(記)永徳派が番衆を勤める。(記)納所は聖珉。

 四年癸未。幻観庵主が住持を勤める。愚中周及の直弟。祥雲派が番衆を勤める。幻観庵主は当寺で亡くなった。納所は祥沢。心翁宝順禅師、〈覚隠を嗣いだ。愚中周及の孫弟子が初めて住持を勤めた〉。含暉院院主は祥瑞。維那は妙寿。

 

   御許山仏通禅寺評定衆御人数の事

    (中略)

 一つ、現住職・番衆・諸塔主は、厳密に先師の定めた規則を互いに守らならなければならないこと。

 一つ、諸派から人員を出す番衆・納所等の役職は、資質・才能のない人間に任せてはならないこと。

 一つ、現納所の一度目の任期中は、寺院のあらゆる雑務は評定衆の評議を受けなければならないこと。

 一つ、年ごとの年貢の豊凶にしたがって衆僧の数を増減すること。

 一つ、寺の共有物としている請負銭については、各番衆が使い尽くさないこと。

 一つ、寺中の植木を伐採して、境内の景観を損なわないこと。

 一つ、山林の材木などを伐採して、境外に持ち出さないこと。

 一つ、本寺ならびに諸塔頭において、もし一つの塔頭でも前例にない勝手な振る舞いがあれば、評定衆がその行為を正さなければならないこと。

 右、この規則によって、将来まで寺院が適切であるように評議するべきである。

  (中略)

 五年甲申。慈雲派が番衆を勤める。元哉の跡を嗣いだ実中妙秀禅師が住持を勤める。元哉和尚が亡くなった。三月六日。

 六年乙酉。正覚派が番衆を勤める。(記)百五代後土御門院。叔源永本禅師が諾渓を嗣ぎ、塔を拝んだ。

 

 「注釈」

*この記事に引用された文書は、『仏通寺文書』23号を参照。

 

 

 つづく

仏通寺住持記 その16

 「仏通寺住持記」 その16

 

 (1449)

 宝徳己巳 七月廿八日改

 二 庚午 秋的当住  丹後右谷荘厳寺

      建国寺派 庵堂上葺棟札有之

 三 辛未 千畝住  正月十七日二分親平 〈長松派」典座〉慈延

                 (記ナシ)

           射的   「智厳」

 七月廿五日改

 (1452)  (記)「三住」           (記)「徳林」

 享徳壬申 一咲再住  含暉庫裡立   納所智厳

                      (記ナシ)

 二 癸酉 至心住   此年涅槃堂造営 納所「徳林」

 三 甲戌 三月初五日永徳方丈上棟、但 〈納所」肯心派〉祥澤

      方丈庫司移換之年也

 (1455)

 康正乙亥 七月廿五日改  八月廿六日一咲甲州下向

 二 丙子        〈自秋」向上〉別伝  納所妙秀

(記)「九月廿八日改」

 (1457)       方丈

 長禄丁丑 元哉住 今喜悦堂立、八月十五日開堂 納所周忍

 二 戊寅 至心住 閏正月十五日千畝和尚示寂満八十

         今之倉立、但三年也 〈納所」大慈派〉 善的

 三 己卯 至心住          〈納所」建国派〉 元柔

 

 「書き下し文」

 宝徳己巳、七月二十八日改む、

 二庚午、秋に的当住す、丹後右谷荘厳寺、

 三辛未、千畝住す、正月十七日二分親平「智厳」、的を射る、建国寺派庵堂上葺す、棟札之有り、長松派典座慈延、

 享徳壬申、七月二十五日改む、一咲再住す(記)「三住す」、含暉庫裡立つ、納所智厳(記)「徳林」

 二癸酉、至心住す、此の年涅槃堂造営す、納所徳林

 三甲戌、三月初五日永徳方丈上棟、但し、納所肯心派祥澤、方丈と庫司とを移し換ふるの年なり、

 康正乙亥、七月二十五日改む、八月二十六日一咲甲州へ下向す、

 二丙子、秋より向上、別伝、納所妙秀

 長禄丁丑、(記)九月二十八日改む、元哉住す、今方丈喜悦堂立つ、八月十五日開堂、納所周忍

 二戊寅、至心住す、閏正月十五日千畝和尚示寂、満八十、

     今の倉立つ、但し三年なり、納所大慈派善的、

 三己卯、至心住す、納所建国派元柔、

 

 「解釈」

 宝徳元年(1449)己巳。七月二十八日改元

 二年庚午。秋に的当が住持を勤める。丹後国右谷荘厳寺の開山。

 三年辛未。千畝が住持を勤める。正月十七日智厳が奉射で的を射た。建国寺派が尼寺の上葺を行なった。棟札に書いてある。典座は長松派慈延。

 享徳元(1452)年壬申。七月二十五日改元。一笑禅慶が三度目の住持を勤める。含暉院の庫裡が建立された。納所徳林。

 二年癸酉。至心が住持を勤める。この年涅槃堂を造営した。納所徳林。

 三年甲戌。三月五日、永徳院の方丈の上棟が行なわれた。ただし、納所肯心派祥澤が方丈と庫司とを移し替えた年である。

 康正元年(1455)乙亥。七月二十五日改元。八月二十六日に一笑禅慶甲斐国円福寺へ下向した。

 二年丙子。秋より向上寺住持を別伝が勤める。納所妙秀。

 長禄元年(1457)丁丑。九月二十八日改元。元哉符契が住持を勤める。今の方丈である喜悦堂が建立された。八月十五日開堂。納所周忍。

 二年戊寅。至心が住持を勤める。閏正月十五日、千畝和尚が亡くなった。満八十歳。今の倉が建立された。ただし完成したのは長禄三年(1459)である。納所大慈派善的。

 三年己卯。至心が住持を勤める。納所建国派元柔。

 

 「注釈」

「二分親平」─未詳。「智厳」を意味しているか。

「別伝」─未詳。人名か。

 

 

 つづく