周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

仏通寺住持記 その1

 【仏通禅寺住持記】(『三原市史』第5巻、資料編1)

 

解題

 「佛通禅寺住持記」は、三原市高坂町、佛通寺の所蔵で、住持の交替のほか、寺の規式・文書・棟札などの諸記録、政治情勢、自然災害、近郷地域とのかかわりなどを記した、応永四年(1397)から安政四年(1857)に至る約560年間の年誌である。佛通寺は、沼田荘の地頭小早川春平が、佛通禅寺の法嗣をうけて帰国したのち五山の外にあって活躍した高僧愚中周及(佛徳大通禅師)を招いて、応永四年に開いた臨済宗の寺院で、盛時には山中に八十八ヵ寺、末寺は九州から中部地方にまたがり三千ヵ寺に及んだといわれる。

 住持記は、永正十八年(1521)、栄淳が応永十六年(1409、大通禅師没年)以降について編さんしたのに始まり、踏襲・補完されていったもので、記崗寮本二冊、「佛通禅寺住持記」三冊、「住持記」一冊の計六冊が現存する。記崗寮本は、「天上」の扉に「佛通寺記岡(ママ)寮祥雲派全桑措之」とあり、天文元年(1532)に維那全桑が記崗寮においたもので、跋文(永正十八年)と享禄元年(1528)以前は同一筆跡、翌二年以降は適宜書き継がれている。なお、元亀元年(1570)、慈雲派周印のとき「天下」に改冊され、享和二年(1802)までを記すが、慶長五年(1600)から寛保元年(1741)の記述は大半を欠く。「佛通禅寺住持記」三冊本は、延享二年(1745)、記崗寮本をもとに、五派の私記を参考にして、応永四〜十五年(1397〜1408)、他の欠落部分を付加して編集したもので、以後寛政十二年(1800)までを記すが、切断による欠失もみられる。「住持記」(享和三〜安政四年)は記崗寮本につづく内容である。住持の交替は八月で、年誌の区切りは在任期間をさすが、なかには実際年に記された項目もある。

 本巻では三冊本を底本とし、欠落箇所を記崗寮本で補い、異同は○印を付すなどして●で注記し、記崗寮本のみの記述は●「 」で示した。●は「佛通寺略縁記」をさす。なお、原資料との相違は〔 〕で注記した。

 

 

 「仏通寺住持記」 その1

 

   佛通禅寺住持記  法

 

 御許山佛通禅寺住持記并序

         ツカサトル           

 飲光統乎霊山、身子□乎竹林、聖人之教海水遠山長矣、

                   ナリ  ト云ハ  

浮山遠公出住持三要之明文、所謂仁明勇也、仁者行道徳

       シム   ト云ハ         

教化上下往来、明者遵礼義安危賢愚

     ト云ハ トシ      ヲハ ヲハ   ニテ 

是非、勇者事果決不疑姦 必除侫 必去、仁而不

     ルカ  ニテ ルハ         ニテ

田不一レ耕、明而不勇如苗不一レ耘、勇而不

   コトヲ     コトヲ ノモノ ルトキハ  コト   ナリ

猶知刈 而不種、三者備 則興─二隆叢林也必矣、

 

 「書き下し文」

   佛通禅寺住持記  法

 

 御許山佛通禅寺住持記并びに序

 飲光霊山を統し、身子竹林をつかさどる、聖人の教へ海水遠く山長し、浮山の遠公住持三要の明文を出だす、所謂仁・明・勇なり、仁と云ふは道徳を行じ教化を興し上下を安んじ往来を悦せしむ、明と云ふは礼儀に遵い安危を識り賢愚を察し是非を弁ふ、勇と云ふは果決を事とし不義(ヵ)を断り姦をば必ず除き侫をば必ず去る、仁にて明ならずは田有りて耕さざるがごとし、明にて勇ならざるは苗有りて耘らざるがごとし、勇にて仁ならざるは猶を刈ることを知りて種えることを知らず、三つのものの備はるときは則ち叢林を興隆することや必ずなり、

 

 「解釈」

 迦葉仏霊鷲山を治め、自ら竹林を管理する。聖人の海のように広大な教えを理解する道は、遥かに遠い。浮山法遠は、住持に必要な三つの素養を明確に書き表した。いわゆる仁・明・勇である。仁というものは、正答な原理に従って行動し、衆生を教え導き、すべての人々の心を安らかにし、廻国修行を楽しませる。明というものは、礼儀に従い、安全や危険を知り、賢明と愚昧を察し、是非を区別する。勇というものは、素早く決断することに集中し、不義を判断し、必ず邪道を取り除き、必ず阿諛を取り去る。仁であって明でないのは、田があって耕してないようなものだ。明であって勇でないのは、苗があって田の草を取り除いてないようなものだ。勇であって仁でないのは、やはり刈ることを知って、苗を植えることを知らないようなものだ。三つの素養が備わったそのときは、必ず寺院を繁栄させることができるはずである。

 

 

*わからないところについては、強引に書き下し、解釈しています。

 

 

 つづく

犬と猿の子は犬?

  文明十六年(1484)五月六日条

        (『大乗院寺社雑事記』8─176頁)

 

    六日(中略)

 一高田之宮之森ニ、犬与猿チキリテ猿エノ子ヲ生、不思儀事也、又正月ニ笋数百本

  ヲヒ立、凡希代事条々也云々、平田庄ニ如何子細可出来哉、且又一国中和与無為

  相歟、

 

 「書き下し文」

 一つ、高田の宮の森に、犬と猿契りて、猿犬子を生む、不思儀の事なり、また正月に笋数百本生ひ立つ、凡そ希代の事条々なりと云々、平田庄に如何なる子細出来すべけんや、且つまた一国中和与無為の相か、

 

 「解釈」

 一つ、高田宮の森で、犬と猿が契って、猿が犬の子を産んだ。思いもよらないことである。また正月に筍が数百本生えた。総じて世にも珍しい出来事であるという。平田庄にどのような出来事が起きるのだろうか。一方でまた、大和の国中で和睦がなされ平穏無事になる相であろうか。

 

 「注釈」

「高田宮」

 ─高田天神社のことか。現大和高田市三和町国鉄高田駅東の商店街の中に鎮座。高皇産霊神市杵島姫命・天照皇大神・当麻幸霊神を祀る。旧郷社。

 棟木銘(大和高田市史)によると、創祀は貞応元年(1222)七月で、当時平田庄荘官として威勢のあった当麻氏が一族の団結と在地の安穏・支配の確立を図るため祭祀したものであった。当麻氏はもともと當麻寺を中心とした地域の名族であるが、葛下郡二十四条三里二十五坪に関する天暦五年(951)の売券(根岸文書)の保証刀禰に「当麻某」が見えており、同条同里二十七坪・三十四坪にある当社は、当麻氏の領地あるいは居地に創建された可能性もある。応永(1394─1428)頃には同条二里三十坪内に三反の宮田があった(金峯山免田田数注進状)。その後、弘安六年(1283)・応永二年・嘉吉三年(1443)・文明十四年(1482)にそれぞれ当麻氏によって修造。当麻氏衰亡後は氏人らによって造立された(棟札)。また慶長十七年(1612)に「武蔵国ウスマノ(男衾カ)郡ハチカタ(鉢形)村鳥居利右衛門」が鳥居を寄進したことがあった。

 なお、祭神のうち市杵島姫命と当麻幸霊神は、旭北町にあった厳島神社と高田城の鎮守当麻神社を明治四十一年(1908)に合祀したものである(「高田天神社」『奈良県の地名』平凡社)。

 

「平田庄」

 ─広瀬郡葛下郡にわたって散在した荘園。「康平記」康平五年(1062)正月十三日条の、関白藤原頼通の「春日詣定」に「秣芻、平田御庄」とあり、すでに摂関家領であったとことがうかがえる。秣役をつとめたものである。(中略)

 鎌倉期には、摂関家五摂家に分かれた関係で、平田庄は近衛家領となり、以後も同家領として存続したと考えられる。(中略)

 その後の領家は「大乗院寺社雑事記」の文明元年十一月二十二日条では「一条院領平田庄」とあるので、興福寺一乗院がなった。(中略)

 これらからみると平田庄はもと約一〇〇町の雑役免荘園であったと考えられる。(中略)

 以上によると、平田庄はもと寺社領(不輸租田)と寺僧領(公田)からなる雑役免(油・服)荘園で、面積は約一〇〇町であったものと、一応推測される。その後、摂関家の権威をかりるなどして、大和としては広大な負籠田を実現していったものと考えられる。以上を平田惣庄と称したものであろう。(中略)

 次に応永二十七年の一乗院坊人用銭・給分支配状(天理図書館保井文庫)により、平田庄荘官をうかがうと、次のとおり。(中村・疋田・北角・西田井・岡・今井・小輪田・万歳西・土庫・松塚)右のほかに、布施・高田両氏(春日神社文書)、楢原氏(大乗院寺社雑事記)等もみられる。このうち中村は現新庄町大字疋田、北角・西田井・土庫は現大和高田市大字大谷(北角垣内)・野口(西代垣内)・土庫(どんこ)、岡・万歳西は現香芝町・當麻町、小輪田は現河合町大字大輪田を本拠としたと考えられる。布施・高田両氏は古代豪族であった置始氏・当麻氏のそれぞれ後進(現新庄町の置恩寺石灯籠銘・現大和高田市不動院棟札等)で、天永三年(1112)の万歳氏の所領処分状(東大寺文書)でも平田庄荘官として見える。布施氏は現新庄町、高田氏は現大和高田市を本拠とし、楢原氏は現御所市を本拠とし、興福寺国民であった。このうち岡氏は郡司(葛下郡か)職、平田庄検断職をももっており、中心的存在であったと考えられる。一乗院の平田庄知行の実質がうかがえよう。

 また、春日若宮の祭礼における流鏑馬の奉納では、平田党を結成していた。「多聞院日記」天正十年(1582)六月条には「当年願主人次第、平田・葛上・散在也、平田方ハ本供目代竹坊へ書状付之、葛上ハ刀禰楢原へ遣之、散在ハ刀禰越智へ付之」とある。葛上・散在党の場合はそれぞれ楢原・越智の両氏が刀禰(盟主)となっていたが、平田党では本供目代が刀禰の役割をもっていた。同目代については、「東院毎日雑々記」に「平田庄本供目代事」とある。興福寺寺務内の供目代(学侶集会の書記役)かどうか未詳であるが、一乗院が領家となって以後も、興福寺の寺務が関係をもっていたことが、一応考えられるであろう(平田庄『奈良県の地名』平凡社)。

 

 

*人と異類(蛇・猿・鬼・河童など)の婚姻譚は、日本の昔話でよく聞くのですが、異類と異類の性交譚というのは、なかなか珍しい事例ではないでしょうか。

 それにしても、雄犬と雌猿が交尾すると、犬の子どもが生まれるとは、衝撃の情報です。小松和彦「鬼と人間の間に生まれた子どもたち」(『鬼と日本人』角川文庫、2018年)によると、人と異類が結ばれた場合、両者の特徴を半分ずつもつような子どもが生まれるようですが、異類の要素を受け継がないパターンもあるようなので、とりわけ不思議だとは言えないかもしれません。ただ、どうして猿の特徴を引き継いだ子どもが生まれなかったのか、やはり気になります。中世びとは犬のほうに特殊な力を見ていたのでしょうか。もし雄猿と雌犬が交尾したら、猿の子どもが生まれたのでしょうか。いろいろ気になるところはあるのですが、おそらくこのような史料は、他には見つからないのでしょう。残念です…。

豊町歴史民俗資料館所蔵多田文書6(完)

    六 安芸国豊田郡安直村打渡坪付写

 

 案文

  芸州豊田郡安直村打渡坪付之事

能祖の内                  さこ

 一畠貳段     代六百卅文      民 部

同所                   せいた

 一畠壱段五畝   代四百五拾文     左近丞

同所                   どうのもと

 一屋鋪五畝    代四百文       同 人

同所                   せいだのうしろ

 一畠二畝     代六拾文       同 人

   合畠数三段七畝  分銭壹貫百四拾三文

   屋鋪一ヶ所五畝  代四百文

   并而代壹貫五百四拾三文

 (1600)

 慶長五卯月 日       多田助右衛門

 

*書き下し文・解釈は省略します。

豊町歴史民俗資料館所蔵多田文書5

    五 安芸国豊田郡安直村打渡坪付写

 

  芸州豊田郡安直村〈打渡」坪付〉

堂ノもと                清田

 屋鋪五畝     代四百文     彦次郎

能祖迫                能祖ノ

 畠二反      代六百文     民 部

     以上米一石三舛

    慶長五年(1600)        小方

     二月十八日         太郎左衛門書判

                   三輪

                   加 賀 守書判

                  (蔵)

                   前田

                   加 賀 守書判

                   兼重

                   和 泉 守書判

          多田助七殿

 

 「注釈」

「安直村」

 ─〔中世〕鎌倉期から見える郷名。沼田郡沼田庄のうち。安直本郷ともいう。文永3年4月9日付関東下知状に「安直・本庄・新庄以上三箇所者、右大将家御時、高祖父土肥太郎遠平為勲功賞令拝領畢」とある(小早川家文書)。鎌倉期には沼田郷の後身である本庄、のちに荘園化された新庄と並んで、沼田庄の一単位であったが、やがて本庄に含まれるようになった。鎌倉末期の嘉暦2年10月3日付某充行状によれば「安直本郷政所土居内阿寂跡屋敷」が彦鶴丸なる者に充行われている(反町茂雄氏旧蔵文書)。沼田庄地頭小早川氏は当郷を中心とする沼田川河口の荒野を干拓し新田開発を進めた。南北朝初期、暦応4年10月には小早川本宗家の円照(宣平)が子息貞平に「沼田庄内安直方潟島新田内光包名」「同新田弐町」を譲与している。こののち、当郷地頭職と郷内の新田は小早川本宗家に伝領され、応永21年4月、則平が嫡子持平に譲与した所領のうちに「安直本郷惣地頭惣公文職検断事」「同(沼田)庄安直塩入新田并新開事」が見える。ところが、永享3年に則平は持平の不孝を理由に所領を悔い返し、改めて弟の熙平に与えた。このため、持平・熙平の兄弟間で内紛が起こったが、嘉吉2年には熙平が幕府の安堵を受け、「安直本郷」以下の知行を認められた。永享5年6月日付小早川氏知行現得分注文写に持平預分として「一所 安直郷二百貫文〈本市凡在家三百、土蔵一所〉」とある。文明12年10月日付継目安堵御判礼銭以下支配状写によれば立帰夫銭四貫五百文を当郷が負担している。郷内には、本宗家の経済的基盤となった沼田市場(沼田本市)があった。また、庶子家の所領も存在し、「沼田庄安直方内小泉村地頭公文検断職」は小早川小泉氏の所領として伝領され、永正6年8月には小早川梨子羽元春が「安直本郷内時弘名」を幕府から安堵されている(小早川家文書)。小早川隆景が小早川氏を継いだのち、天文23年10月には「安直郷七宝之内師月田五貫文」が家臣飯田尊継に充て行われ(閥閲録57)、また「安直堤」の修理が磯兼景通らに命じられている。なお、伊勢神宮御師村山家の天正9年檀那帳には「あちか」で御祓を受けた檀那の名が記されている(山口県文書館書状文書)慶長2年10月、米山寺に隆景位牌免田として安直村から米1石3升が多田助七に、4月には畠3反余と屋敷が多田助右衛門に打ち渡された(多田文書)(「安直郷」『角川日本地名大辞典34 広島県』)。

桃崎著書

 桃崎有一郎『礼とは何か』(人文書院、2020年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

プロローグ

P25

 それ(「礼」の理論の根幹)は〝世界観〟というキーワードだ。規範や仕組みであることは、「礼」の枝葉末節でしかない。「礼」は世界観であり、世界の摂理を説く理論である。決まりごとと罰則しか存在せず、人間が人間を統御することにしか関心がない「法」に決定的に欠けているものこそ、この〝世界観〟だ。それが「礼」と「法」の最大の違いである。

 

第一章 『礼記』と《礼》思想

P33

 儒教成立をめぐる本当の史実に興味をお持ちの読者は、浅野裕一儒教 怨念と復讐の宗教』(講談社学術文庫、2017年)などを一読されたい。理想社会だと言い張った周王朝の礼をほとんど知らず、それでも専門家だと強弁し、国政参加への野望は強いがすぐに馬脚が現れて出世できない孔子孔子の死後に、彼の偉大さを喧伝するプロパガンダ文書や経典を山のように捏造・偽造し、孔子を神格化し、権力者を取り込んで唯一の官学(朝廷の公認学問)に仕立て上げ、中身のない空疎な儒教を至高の国教のように祭り上げていった孔子の教団(儒学者)。そうした衝撃的な、しかし歴史学者の目から見てかなり真実味がある像が、ほかならぬ儒学の経典から明らかにされている。

 

P35

 右により、「君子」の構成要素は、知識・謙譲心・善行・節制だと判明する。

 

P37

 《礼》思想は、社会の全員に特に民の全員に君子であることを要求しない。君子であるためには心の余裕が必要であり、したがって、生活に汲々とする民には土台無理だと、わかっているからだ。(中略)

 それらを総合すると、「君子」は「士」以上の身分と結びついており、そもそもが、身分を問わず誰でも到達できる境地ではなかった。その観点が、通俗的な「君子」の話には決定的に欠けている。そして、《礼》の話と君子の話が直結する以上、本書はこのあたりで、『礼記』が対象としている時代の身分制度について、簡単に押さえておく必要がある。

 

P40

 私がこの身分呼称の歴史に拘るのは、それらの名が、後にそのまま日本に導入されたからである。もっとも、古代中国と古代日本では社会構造が根本的に違い、日本側が中国式に改変することを望まなかったので、名前だけ引き継ぎ、〝内実が違うが近いもの〟に何となく当てはめた。王は天皇倭王)の一族に、公は大臣(太政大臣左大臣・右大臣・内大臣)に、卿は三位の位階か議政官の官職(大納言・中納言・参議)を持つ者に、大夫は五位(または卿未満の四位・五位)の異称として、士は六位の異称として、である。

 「三公」という言葉も継承され(左大臣・右大臣と、内大臣または太政大臣の三人を指した)、公と卿を合わせた集団を指す「公卿」という言葉生まれた。大夫からは「諸大夫」(四位・五位の者、またはそれらの位階まで昇るのが当然視される家柄の者。転じて、公卿を出す家に仕える諸大夫の家柄の者)という言葉が生まれ、そして士からは「武士」という言葉が生まれた。それらの身分集団は前近代を通じて維持されて明治維新まで日本の秩序の根幹となり、しかも武士は明治維新まで7世紀もの間、日本の支配者だった。

 

P43

 固辞とは、〝固く辞めること〟で、具体的には、〝一度辞退しても相手に勧められ、二度辞退すること〟をいう。それでも勧められ、三度辞退し、それでも勧められれば、初めて辞退を諦めて相手の勧めに従うのである。

 

P48

 つまり道を譲ることは、相手の快適さを増大させはしないが、自分の快適さを犠牲にすることで、相手の快適さを損ないわない効果がある。

 要するに、敬意を払うことの最大の主眼は、相手の快適さを最大化させることになる。そして右に見たように、そうした敬意表現には、相手の快適さを増大するタイプ(快適増大型)と、相手の快適さを損なわないタイプ(快適維持型)の二種類があることがわかる。

 

P53

 現代であれ古代であれ、〈極限まで自己犠牲を強い、正当な評価を一切期待するな〉

という教えが、広く受け入れられるはずはない。人間の承認欲求を無視したこの孔子の教えは綺麗事にすぎ、あまりに人間の本質とかけ離れていて、実現する可能性がほぼ全くない。そう感じるのは私だけではなく、古代中国の思想家も同じだった。だからこそ、こうした実現性の乏しい綺麗事を含む儒教が批判され、〈すべての人間からあらゆる〝いじきたなさ〟を払拭することは可能だ〉という前提で統治を考える性悪説と、それに立脚した「法家」思想が生まれてくるのである。

 

 

第二章 《礼》のメカニズム ─相互作用・外形・理性

P61

 以上をまとめると、礼の定める所作(礼的所作)とは、敬意が精神的世界にとどまらず、その外側の物理的世界に実体を持って、確かに存在することを保証するために、形を与える手続きであった、と言えるだろう。

 

P66

 つまり、儒教では、心情をそのまま行動に表現することは、文化的に遅れ、人間として洗練が足りない野蛮人の振る舞いだ、とみなされていた。そのような野蛮人と、文化的に最先端で最も人間として洗練された中国人を分けるのが、《礼》の存在なのだ。

 

P68

 このように、儒教における心情の発露の制限とは、要するに、「後先を考えて行動せよ」ということであり、それができないのが野蛮人であり、文明人は後先を考えて行動すべきだ、ということだった。この考え方は、理路整然としている。最も望ましい状況を作るためには、感情のままに振る舞うのではなく、論理・理性をもって、物事の全体像を分析し、〈最も重要なのは何か〉を見出し、物事に優先順位をつけて、重要なことを最優先して(心情に逆らってでも)振る舞うべきだという理性重視の発想が《礼》の根幹にある。

 

P69

 文明人は、理性によって感情の暴走を抑制し、行動を自ら統制せねばならない。そしてその点にこそ、《礼》の体系が定める、細くて具体的な形・数量の存在意義があった。

 

P71

 《礼》の体型に定められた、細くて具体的な形・数量とは、このような、心情と理性のバランスを考え抜いた上での〝落としどころ〟、平衡点なのである。

 

 

第三章 《礼》の類別機能 ─人を禽獣と分ける秩序の大前提

P74

 人間が生来供える動物的な動機(本能や感情)は、強力だ。《礼》とは、いわば、そうした感情が有害なレベルまで溢れ出さないように押しとどめる、一種の〝堤防〟であり、言い換えれば、〝節度〟なのである。

 

P79

 《礼》の機能は、一言でいえば、〝線引き〟である。雑多に見える物ごとに適切な線を引き、何が線の内側に、何が外側に狩るかを明らかにするのが《礼》の機能なのだ。

 

P94

 このように、戎とは〝正しい《礼》を知らない人々〟であり、むしろそれこそが儒教における「戎」の定義だといってよい。そして、前述の通り、《礼》の有無は、人と動物を峻別する重要な基準だった。すると、双方を合わせた論理的帰結として、「戎は動物と同じだ〔戎は禽獣なり〕という結論が導かれる。

 

P96

 古代日本の正史である六国史には、しばしば、天皇が人々に褒賞を与える場面で、「差(しな)あり」と記されている。現代日本人は、差をつけては不公平だから、皆に等しく賞を与えればよいではないか、と考えてしまうが、《礼》の考え方は違う。賞を受ける者の身分に応じて、賞の質や量は異なるべきであり、そうせねば、身分秩序を乱してしまう。日本の歴史書が繰り返し「差あり」と誇らしく記すのは、それによって、「この国は身分秩序を常に重視している文明国だ」と主張したいからである。

 

P97

 以上のように、《礼》は、類別が正しく〝目に見える形〟で表現されていることを重視した。繰り返すが、《礼》の本質とは、目に見えない心情と理性に実態を与える〝外形〟だからである。そのため、その人自身の姿形が、大変重要だった。

 

P101

 話を戻せば、人は成人することで、《礼》をもって扱われる権利を得る。そして、権利には義務が伴う。成人した人は、自分も《礼》を実践する主体となる義務を負うのである。

 

P102

 童子は成人すると《礼》の体系に組み込まれ、父子・兄弟・君臣・長幼の論理に従って振る舞うことを要求された。逆に言えば、成人するまでは《礼》をもって扱われないし、《礼》に沿った振る舞いを要求もされない。ここで、〈《礼》を知らない人は動物と同じ〉という前述の言説を思い出されたい。童子も《礼》を知らない。したがって、童子は人間扱いではなく、動物と同じレベルの扱いになる。

 

 

第四章 社会の持続可能性を保障する冠昏喪祭 ─先後絶対主義と根源至上主義─

P108

 《礼》の類別機能はここでも発揮され、《天神》と《人鬼》を別ものとして扱う所作を要求している。ここでいう《天神》とは、日本で聞き慣れた《天神》(菅原道真の怨霊に由来する雷神)とは違い、「天に帰属する(天から生じる)神」であり、それと対比される《人鬼》は「人に帰属する(人から生じる)鬼」と解釈するのが穏当だ。

 

P109

 それらを総合して、鄭注は(b)で結論する。「(死んだ)聖人の精気を《神》と呼び、(死んだ)知性が高い賢人の精気を《鬼》と呼ぶ」と。これに従えば、死してなお精魂(精気)が《鬼》という形になって世界に影響を与え続けるのは、特別に優れた賢者だけだ。そして《神》となるのは、人徳が圧倒的に優れ、人間社会の正しい姿を定める聖人の精魂だけだった。

 

P110

 聖人の精魂が特別に《神》となるのは、聖人こそ天地の物ごとを正しいあり方へ導く《楽》と《礼》を作った、いわば天地世界の維持管理の根幹に関与した特別な人(周公旦)だからだ(次章で後述)。

 

P112

 〈《礼》を実践すれば適切な祭祀が行われる。その結果、天を満足させる。その結果、人が福を得られる〉という構図である。

 

P119

 このように、儒教の祭祀とは、現在の人間社会を成り立たせている要素の供給源を尊重する、言い換えれば〈人間社会の根源を尊重する〉という性質を根底に持っている。そして前述のように、祭祀こそが《礼》の最も重要な実践であるということは、つまり《礼》という思想が、〈物事の根源を尊重する〉という発想を最重要視したことを意味する。

 

P120

 《礼》思想は、この〈AがBを派生させたが、その逆ではない〉という因果関係を、物事の価値の重さと結びつけ、〈だからBは自分の根源であるAに対して一方的で絶対的な従属関係にあり、AがBより必ず大切だ〉という価値観を導き、それを万物に適用した。この価値観は、〝根源至上主義〟と呼べるだろう。

 

P121

 こうした先後絶対主義と根源至上主義は、《礼》思想に一貫する世界観である。

 

P132

 「昏礼」とは〈《礼》の実践としての結婚という手続き〉を意味し、〈結婚すること自体が《礼》の実践である〉という発想の上にある。つまり、《礼》の思想においては、結婚しなくともよい、という自由は存在しない。成人男女は、結婚せねばならない。それは、「世界・社会が永続するための原点」として、世界・社会に必要とされるからだ。

 

P133

 結婚の最大の目的は、実は宗廟への奉仕、つまり祖先祭祀の励行のためだった。なぜ、結婚が祖先祭祀の励行につながるか。それは、祖先の地を引く子孫を、自分たちが婚姻によって残すことにより、祖先祭祀を行う子孫を確保できるからだ。《礼》思想では、子孫はとにかく先祖のためにある。

 

P140

 冠礼を遂げて初めて(成人して結婚する資格を得るので)子を儲けることができ、子を儲けてこそ初めて子孫が続き、子孫が続いてこそ初めて先祖祭祀が維持され、そして祭祀こそ《礼》の最重要事に他ならない。つまり、《礼》の最重要事である祭祀は、冠礼無くして決して持続しない。だから冠礼は《礼》の根幹で、《礼》に沿ったあらゆる行動はそこから派生する、と考えられたのであろう。

 

 

第五章 世界の原点・万物の始原としての「天」 ─《礼》の絶対性を保証するもの

P158

 《礼》も、物事の規格も、文字や言葉もすべて、万人が依拠する大切な基準的存在である。それを定めるのは、天子だけだった。天子は人間でありながら、天の支配的神々である「五帝」の精を受け継いで誕生した、天の子である([120](c))。その天子が定めたなら、それは天が間接的に定めたのと同じであり、つまり天の意志(天命)である。だから、天子が定めた規範は絶対性を持つ。そしてそれは、天を中心・原点とする万物の基本法則のままであるから、最も適切であるに決まっており、それに逆らうと何事も乱れ、ろくなことがない。その意味でも、天子の定めた規範は絶対性を持つのである。

 天を根源とする万物の基本法則を、天から直接伝えられ、理解し、体得できるのは、天子だけだ。その基本法則をその他の凡人が知るには、天子が体得した基本法則を、万人が知覚できる(目で見て、声で聞ける)《礼》の規範という形にまとめて、広く公布するしかない。それが天子の責務であり、天子だけに可能な作業なのだった。それと同様に、度量衡の単位や器物の規格、文字や言葉などについて、乱立しているさまざまなバージョンの中から一つだけ適切・正しいものを判定できるのも、天の意志を直接体現する天子だけなのである。

 

 

第六章 戦争で敵を討つ《礼》 軍礼と時機最適主義

P163

 注意すべきは、この〈死亡直後・埋葬後・服喪終了後という三段階において、とるべき《礼》が異なる〉ということを、鄭注が「個別の《礼》は、それぞれに対応する、適切な時機に行うものだ」と総括していることだ。この考え方は、〝時機最適主義〟と呼べるだろう。

 

P165

 要するに、戦争に臨むとき、将兵にとって何より重要なのは敵を威圧する威厳を最大化することであって、他人に謙遜する拝礼は有害だ、と判断されたのである。「武装した者が拝礼すると偽りのように見える」という[139]も、武人としての威厳と、拝礼が意味する謙譲が矛盾し、一貫性がないから、と説明できよう。

 

P169

 つまり、祭祀を人間の最大の責務と考える《礼》思想では、命を縮めることは、親や祖先の祭祀を絶えさせてしまう不孝であり、非礼なのである。「貧者は財力相応に振る舞えば十分」というとき、孔子の念頭にあったのはこの構造の方だろう。儒教の《礼》思想では、命は、親や祖先の祭祀のためにこそ、大切にされねばならないのだった。

 

 殉死は《礼》に反する

 このような考え方は、中国と日本の《礼》の違いを示す、最大のポイントの一つである。

 日本における礼的所作では、命を縮める無理を行うことが珍しくない。たとえば、主に江戸時代に武士の間で流行した殉死(主君が死ぬと、冥土で仕えるために自殺すること)は、その最たるものである。また鎌倉幕府御家人(武士)は、財力に余裕がないにもかかわらず、他の御家人を招いて饗応するパーティー(当時の言葉で「旅籠振舞」といった)を頻繁に催し、真夏に富士山の雪を取り寄せて客に涼んでもらうような、珍奇さを競う極端な浪費を繰り返し、家を傾けた。これはいわば、賓礼のために家計の崩壊を顧みない無理である。

 江戸時代の武士が、《礼》の一つである「君臣の義」のために命を捨てる無理を平然と行ったのは、自分が死んでも、祖先祭祀に差し支えなかったからに違いない。中国式の祖先祭祀はほぼまったく受け入れず、早い段階で仏教に傾倒してしまった日本だからこそ、このような芸当が可能なのだった。また、中国式の祖先祭祀を受け入れなかった日本では、家に祖先祭祀を行う宗廟がない。だから鎌倉時代の武士にとって、財産を浪費し尽くして家を失うことが、亡き親や祖先に対する直接的な不孝にはならないのである(寺には、祖先供養のための財源となる領地を寄付してある)。

 なお『礼記』では、〈殉死は《礼》に背く悪習だ〉と、はっきり断定されている。

 

P170

 『礼記』はこの逸話を提示することで、〈《礼》思想は殉死を認めず、嫌悪している〉という立場を表明しているのだ。したがって、《礼》思想に基づく限り、近世日本の武士の殉死は完全な逸脱であり、嫌悪すべき対象である。しかし、それを近世日本の武士は主君に対する責務として行ったのであり、それは主従関係の極端な発露であり、主従関係は《礼》思想の最も重視するところの一つであるから、殉死は《礼》として行われたのである。この一点をもってしても、日本の《礼》思想の移入がどれほど純粋さを損ない、《礼》思想から逸脱していたか、察するに余りある。それは、日本人が《礼》思想を理解できないからではなく、受け入れなかったのであり、純粋な《礼》思想より優先すべき倫理があると、信じられたからだ。そこにこそ、日本文化の一つの核があったと言えるだろう。

 

 →《礼》思想が殉死を認めないのなら、自殺一般も認めないだろう。自ら命を絶つことは、祖先祭祀をできなくするだろうから。ではなぜ、日本人は殉死や敗戦時の切腹を許容したのか? どういう倫理観をもっていたのか?

 

P176

 軍礼とは、《礼》思想が考える世界の構造(天や鬼神などの世界の構成要素、先後絶対主義や根源至上主などの論理構造)を踏まえ、その中で将兵が自分の身分・立場や置かれた状況に照らして、相応の最も適切な責務が何であるかを理性的に判断する(必要な軍事行動を取る)ための規範なのだ。

 

P177

 《礼》は戦争それ自体を否定せず、むしろ戦争を成就(勝利)させる重要な要件だった。特に重要なのは、《礼》思想を深く理解し、世界の仕組みに逆らわない行動で戦争に臨むことが、勝利の鍵だとされたことだ。軍礼とは、そのように君主・将兵を導く規範なのである。右で「《礼》によって時に順う」とあるのは、〈世界の仕組み、天地の運行のサイクルを知って、戦争を起こすべき時、勝利できる時を注意深く探り、その時期に外れずに戦争を起こして勝利せよ〉という意味である。

 

P180

 このように、《礼》の世界観では、〈戦争すべき季節〉と〈戦争すべきでない季節〉があり、それは世界の構成要素や時節の運行、そして人間の行為に割り当てられた《陰》《陽》の性質が、戦争と合致するか否かで決まる。それらの原点に点があり、右の諸要素の《陰》《陽》がうまく合致すれば、それがすなわち〈天意に適う〉ということになった。

 

P181

 《礼》の最も重要な実践は祭祀である。そして戦争をするためには、天を祭り、地を祭り、祖先を祭り、軍神を祭るという数多くの祭祀が、必須の手続きとして存在した。だから、戦争のための《礼》の定め=適切な祭祀の手順が必要なのである。

 したがって、戦争が始まる時だけでなく、終わる時にも手続きがある。(中略)

 終戦後の手続きも祭祀であり、《礼》思想では、戦争は祭祀に始まり祭祀に終わる。

 

 戦時の《礼》は職分忠実主義・立場最適主義に即して戦うためのシステム

 戦争準備の《礼》─十一月の大閲(大蒐)

 戦争準備の《礼》─一〇月の講武(大閲の準備)

 戦争準備の《礼》─九月の田猟(講武の準備)

 

P191

 このように、天子・諸侯の狩猟は単なる遊興ではなく、単なる自分の食糧調達でもない。最大の目的は祭祀の供え物として肉の獲得、次の目的は賓客をもてなす肉の獲得であり、自分の腹を満たす肉の獲得は3番目なのである。祭祀は《礼》における人の最重要の責務であるから、つまり田猟自体が、《礼》の実現のために不可欠な作業なのだった。田猟は祭祀、つまり天地・鬼神に対する敬意の表現のために行わねばならないことなので、わけもなくそれを行わないことは怠慢であり、天地・鬼神に対する「不敬」なのである。

 

 

第七章 射(弓術)と宴会の《礼》 ─祭祀と秩序の維持管理

P195

 次に、飲酒(宴会)の《礼》について考えよう。古代中国には、天子が群臣と行う宴会の作法である「燕礼(えんれい)」や、地域で行う宴会の作法である「郷飲酒(きょういんしゅ)」の礼があり、それぞれ事細かに意義と作法が定められている。

 

P196

 かつての周王朝の「大飲(たいいん)」という行事の系譜を引いて、漢代以降に行われた「燕礼(天子の宴会の礼)」と「郷飲酒礼(地域の宴会の礼)」には、〈身分秩序を確認・再生産する〉という目的があった。

 

P200

 このようにして、上は君主から下は民衆まで、あらゆる階層に〈上位者の尊重・従順〉という理念を定期的に教えるのが、『礼記』の説く宴会なのだった。

 

P212

 話を戻そう。射の的中は、射手が《礼》に則って考え行動しているか否かを直接表す結果であるから、的中が多ければ射手の《礼》の理解・実践が十分であると判断され、少なければ不十分とされた。『礼記』は、その《礼》の理解・実践を「徳」と表現しているのであり、([177])、その意味で、〈射とは、天子などが、士の徳の有無・多少を観察する行事〉だということになる。的中の少ない負けた側が罰を受けるのは、徳が足りないからであり、つまり《礼》の理解・実践が不十分だからであり、それは君主に奉仕する能力が不十分であるにもかかわらず君主の禄を食んでいる、ということを意味するからである。

 

P216

 日本人が射礼を自家薬籠中のものにせず、血肉としなかったのは、この〈射 には天地・鬼神に働きかける需要な機能がある〉という概念の需要がなかったからであり、それはそもそも、知識としてはともかく、本心・実感のレベルで、その根底にある天命思想を受け入れなかったからだろう。

 

P218

 この一節からも、射では背景音楽として《楽》が演奏されており、それに合わせて射技を行うように求められていたことがわかる。そのようなことは、普段から《楽》に親しんでいないと不可能であり、しかも不可能だと「徳が足りない」と責められるので、人は《楽》に習熟しておくべき、ということになる。

 

 

第八章 《礼》と《楽》 ─外と内から立体的に統治する術

P222

 要するに、〈単純に心が反応して自然に発せられた「声」が、複数集まって調和して「音」になり、それが楽器で表現されると「楽」となる〉。

P237

 天はこの世界が生まれる原因、地はこの世界が生まれた結果なのであり、原因の側を操作するのが《楽》、結果の側を操作するのが《礼》だということになろう。そのような形で、《礼》と《楽》はこの世界を司る原理=因果関係を、原因と結果の双方の視座から観察して理解する有益な理論であり、この方向からの取り組みによって、世界の立体的な把握が可能になる、ということになる。

 

P240

 それを踏まえると、礼楽の機能は次のように理解できそうだ。天地の本質を人為的に再現し、それによって不可知の領域にある不可知の〝何か〟に働きかけ、それによって天地に所属する様々な神を(不可知の領域から人間が近くできる)世界に呼び出し、その助力を得て世界の形と秩序を整える機能だ、と。とすれば、《楽》は、人間が知覚できない神の世界にアクセスし、神を呼び出す、一種のコミュニケーションのツールであり、一種の(神に語りかけるための)言語であった、とイメージできる。

 

P242

 このように、《楽》は一方で民に直接働きかけて秩序に向かわせ、他方では天に働きかけて神を動員して民を秩序に導くという、二方向からのアプローチで、統治を完成させる重要な手段だった。そして民の内面を整える《楽》と、民の外面を整える《礼》という、これも二方向からのアプローチによって、統治が十全となる。

 

P244

 政治の良し悪し、国の治乱や盛衰は、民の心の喜怒哀楽に直結し、それが「声」として形をなし、歌われるので、それを見れば政治や国の有様がわかる。単純化していえば、〈《楽》の乱れは政治の乱れ〉ということだ。

 

P245

 古の《楽》は、善政に感激した民が、その心情を形にして残したものであり、それはいわば、後世まで長く讃えるための、〝聖王の偉業の記録〟という側面を持った。そうであるから、その記録作業は、王の側からも行われた。(中略)

 その王の治世となって世がよく治まるようになったこと、そしてその時の君臣・民の心情を《楽》という形で記録することにより、以後、その《楽》を演奏することで、その時の正しい心情を何度でも君臣・民の内面に復元し、当地に永続性を与えるのである。

 

 

第九章 《礼》と外交・内政 ─立場最適主義と職分忠実主義

P263

 「祭る者・時・場所が不適切な祭祀を「淫祀(淫りに祀る)」という。淫祀では福(成果)は得られない」というのが祭祀の大原則だった。鄭注にあるように、「妄りに祭っても、神は受け入れない」からである。「神は非礼を享けず」という著名な諺がある(『論語』〔八佾〕に後漢の包咸(ほうかん)が付けた注に見える〔『論語集解』による〕)。私たち現代日本人は、「非礼」を「無礼」という意味で使い、前近代日本人もそのように使うことが多く、この諺の意味は、「神は敬意が足りない語りかけを受け入れない」と解釈されがちである。それはそれで一理あるのだが、《礼》思想では、「非礼とは「《礼》に非ず」、つまり「《礼》の定め・仕組みに反している」という意味であり、実は、敬意の有無は二次的問題にすぎない。『左氏伝』がしばしば、人々の振る舞いを許して、「《礼》に沿っていて感心できる」という意味で、「礼なり」と言い、そうではない場合に「非礼なり」という表現で非難していることは、その証拠である。

 

P269

 このように、天子の位を伝える方法が「禅譲(他人への譲渡)」から世襲に転換した段階で、天子は絶対善である保証がなくなる。周の王の地位が、武王から弟の周公旦を経由して、武王の子成王に伝えられる路線が定まった時点で、このことは論理的に十分予見できる。そのため、古の聖王としてしばしば登場する周公旦は、いずれ天子が天命に裏付けられた《礼》に背く振る舞いを行う可能性を予見して、天子をも束縛する《礼》を明文化して定めた、ということだろう。

 唐代以降に幾度かの大規模な礼典(れいてん:儀礼のマニュアル)の編纂が行われ、そこで天子の《礼》も明記された理由も、同じだろう。直接、天から天命を承けていない世襲王朝の天子は、天命に背いて天を失望させ、帝位を失う可能性が否定できない。そこで、人為的に天命を常に意識し、天子のあり方を天命に沿うよう回帰させる努力と工夫が必要である、と。

 その唐代以降の礼典編纂は、常に律令の編纂と軌を一にする、車の両輪だった。したがって律令の根底にも、礼典編纂の根底にある思想が共有されているはずだ。そして、著名な事実だが、中国では律令に皇帝(天子)の振る舞いに関する規定があり、律令が皇帝を束縛している。それは、世襲の天子が天命から逸脱しないよう、《礼》と《法》によって二方向のアプローチから、常にチェックされねばならないという思想の反映(どこまで本気かは別として、理念上は)であり、天と天子の緊張関係の産物にほかならない、と考えるべきである。

 一方、それとは対照的に、日本の律令天皇に関する規定をもたず、天皇を束縛しないという、これまた著名な事実がある。それはつまり、日本の「天皇」という思想の重大な特質、つまり〈天皇が天命と緊張関係にない〉という、日本特有の君主観、ひいては日本文化の重大な特質を示しているのである。このことについては、本書の成果を踏まえて、いつか詳しく論じてみたい。

 

 

第十章 君子の成績簿・『春秋左氏伝』 ─万人を役割に縛る《礼》

P284

 人の生活で暦が重要なのは、農業が季節と切り離せない関係にあるからだ。告朔の祭祀(月のはじめの祭祀)によって、民は今が何月かを知り、季節を知り、適切な農作業に取りかかることができ、それでこそ最大の収穫が期待できる。だから君主が告朔を怠ることは、民の統治を怠るに等しい。特に、民の農業を妨げないことは、君主の重要な責務だった。

 

P285

 以上のように、『左氏伝』には対人関係と全く関係ない《礼》の記事が多い。私たちが「礼」という言葉で想起する、単なる〈正しい儀式の遂行〉や〈礼儀正しい対人関係〉は、『左氏伝』のいう《礼》とイコールではない。『左氏伝』という《礼》とは、〈君主や臣(政治家・官僚)が、立場に応じて、なすべき時になすべきことを行うこと〉であり、そうしないことが《非礼》なのであって、それは『礼記』の説く職分忠実主義と同じである。

 

P286

 私たちは、他者に敬意を表するための格式貼った振る舞いを《礼》だと考えがちで、それを〝礼儀(作法)〟と一言で言ってしまうが、本来の《礼》思想では、《礼》と《儀》は違う。そのような《礼儀作法》は《礼》とイコールではなく、《礼》の一部分である《儀》にすぎない(だから私は本書でここまで、「礼儀」という言葉を使わなかった)。《礼》とは、〈君主が君主らしく(君主としての責務を果たして)国・民を統治すること〉に最大の主眼があるのであって、それを疎かにして、〝礼儀作法〟ばかりをうまくやるのは、本末転倒だと、《礼》思想は考えるのである。

 

P304

 右によれば、君主が自ら手がけるべきことは二つ、〝祭祀と軍事〟だけであるという。祭祀・軍事ともにそれ自体重要な君主の事業だったが、それらの根底には、〈(祭祀の実践と軍事演習によって)民に身分秩序の徹底を教える〉という共通目的があるという。それらは再三、本書の検討で考察した《礼》の重要要素だが、右で特に重要なのは、(低い身分の者に任せるべき仕事に、君主が自ら関わってはいけない)という教えである。

 臣(政治家・官僚)や民が自分の食分を十分に果たし、かつ他人の領分を犯してはならないのと同様に、君主もまた臣や民の領分を犯してはならない。《礼》の職分忠実主義は、君主(天子と諸侯)をも拘束する、つまり例外なく万人を捉える原則なのだった。

 そこには、〈身分や、それに伴う職掌の間に一度引かれた線は、絶対に越えてはならない〉という、《礼》の根本的機能というべき類別機能の強靭さを、改めて確認できる。その線がそれほど絶対的であるのは、万人(を含む森羅万象)の根源としてあらゆる事物に存在意義を与える天によって、その線が引かれたから、つまり天命だったからである、と考えて誤りあるまい。

 

 

エピローグ

P305

 《礼》は、あくまでも人間生活のためにあり、常に人間の視座にあり、人間が主役である。人間社会が最も効果的に成功する(安定的に運営され、発展する)ためには、人間がどう生活すればよいか。それを突き詰めた思想の体系が《礼》である。そして、世界の主役である天と、天を始原・原点・中心とする世界全体の仕組みを意識し、理解し、尊重することが最も有効な成功への近道だと、結果的に結論したのが《礼》という思想だった。

 

P307

 ただ、儒教の特色は、その〈原初的なシャーマニズムがなぜ正しいのかを、論理的に追究しよう〉という発想に行き着いたことにあり、さらにそれを、〈統治者の都合で民を君臣関係に縛りつけたい〉という欲求とを結合させて、物理学と社会規範を包み込む包括的な一つの〝世界の仕組み〟の体系にまとめ上げたことにある。哲学は、個々人の行動指針にはなるが、社会全体を律する社会規範にはならない。その点で、《礼》は哲学にとどまっていない。《礼》は、哲学的な動機と、物理学的な視座と、権力者の支配欲が包括された、一つの〝統治テクノロジー〟のパッケージと言えるだろう。(中略)

 《礼》とは、世界(天地をはじめとする森羅万象)の摂理を理解して、理性的に〈すべき物ごと〉〈それをすべき時〉〈それをすべき人〉を特定し、〈すべき時に、すべき人が、すべきことをする〉用に、そして〈すべきでない時に、すべきでない人が、すべきでないことをしない〉ように定めた思想の体系であり、世界観であり、そして当地のテクノロジーのパッケージである、と。

 

P311

 そして、現代人は、時と場合により、さまざまなコミュニティに所属し、それぞれで別の顔・地位を持っている(職場では上司の下僕のような平社員が、特定の趣味の世界では神様のように扱われることが、珍しくない)。ならば、〈今この瞬間、自分はどのコミュニティの一員として振る舞っているのか〉によって、礼節作法は変わる。おそらくそれが、〈適切な礼節とは何か〉という問いに対する最適解である。

 そして、そうであれば、ここにこそ《礼》思想が生きてくる。《礼》思想は、立場最適主義・時機最適主義を強く訴えていた。〈どのような環境下で、誰が、どのような立場にあるのか〉を、いちいち考えるのが《礼》の正解への唯一の道だ、と《礼》思想は説く。その考え方は、現代・日本のみならず人間社会にとって普遍的に有効な考え方であり、そして私が想像できる限り、今の人類にとって動くことのない最適な考え方だろうと、私は考えている。その意味で、《礼》思想は今でも価値を失っていない。

 枝葉末節にこだわるのは、実は《儀》であって《礼》ではない、と《礼》思想は説いていた。《礼》思想の最大の価値は、細かい所作の形ではなく、〝考え方〟の方にある。根底にある考え方を動かさずに、振る舞いは臨機応変に変わるべきだ、というのが《礼》の主張であり、その意味で〈《礼》は生き物である〉と言ってもよい。

 

 →昔も今も、このことを知っている人はどれだけいるのか? 儀礼が変化するのは、〈儀〉が枝葉末節にすぎない変化可能なものだと知って、変化してきたのか、それとも、たんに当時の事情のよって、その集団の権力者が変えた、あるいはその集団の合意によって変わってきただけか。