周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

古記録にみる死霊の描写 ─室町時代はルネサンス?─

  文明三年(1471)閏八月十六日条

        (『大乗院寺社雑事記』5─451頁)

 

    十六日

     (中略)

 一中御門被相語、南朝方ニ此一両年日尊と号シテ十方成奉書、種々計略人在之、

   (醍醐)

  後酉酉院之御末也云々、南朝御方ニハ随分人也、可成将軍所存在之歟云々、去年

  召取之被殺了、其霊之所為ニ法皇俄ニ崩御云々、彼霊ウツヽニ相見事及度々、

  然之間被立石塔種々仏事有之被訪之、其以後ハ不見霊云々、希有事也、今西方ニ

  御出之南朝ハ、則日尊取立申君也云々、

 

 「書き下し文」

 一つ、中御門相語らる、南朝方に此の一両年日尊と号して十方に奉書を成し、種々計略する人之在り、後醍醐院の御末なりと云々、南朝御方には随分の人なり、将軍に成るべき所存之在るかと云々、去年之を召し取り殺され了んぬ、其の霊の所為に法皇俄に崩御すと云々、彼の霊現に相見る事度々に及ぶ、然るの間石塔を立てられ種々の仏事之有り之を訪はる、其れ以後は霊を見ずと云々、希有の事なり、今西方に御出での南朝は、則ち日尊の取り立て申す君なりと云々、

 

 「解釈」

 一つ、中御門宣胤が私と語り合った。南朝方にこの一、二年日尊と名乗って、あらゆるところに奉書を送り、さまざまな計略をする人がいた。後醍醐天皇のご子孫であるそうだ。南朝方では重要な人物である。将軍になろうとする考えがあるのだろうという。去年日尊を召し捕り殺害した。その霊の仕業で御花園法皇が突然崩御したそうだ。この霊は実際に見ることが度々に及んだ。そうしているうちに、石塔を立て、さまざまな仏事を行ない、日尊の霊をお弔いになった。それ以後は霊を見なくなったそうだ。珍しいことである。いま西軍にいらっしゃる南朝方の人物は、日尊が取り立て申し上げたお方であるそうだ。

 

*この史料については、森茂暁『闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』(角川ソフィア文庫、2013年)で触れられているので、詳細についてはそちらを参照してください。

 

 

 「注釈」

「中御門」

 ─中御門宣胤。没年:大永5.11.17(1525.12.1) 生年:嘉吉2.8.29(1442.10.3) 室町後期の公卿。父は権大納言明豊,母は法印慶覚の娘。文安5(1448)年従五位上,右衛門佐となり,右少弁,蔵人,蔵人頭などを歴任し,文正1(1466)年参議,権中納言を経て,長享2(1488)年権大納言となる。永正8(1511)年従一位に叙せられる。同年出家,法名乗光。後花園,後土御門両天皇蔵人頭を務めるなど信任厚く,故実・先例にも通じていた。応仁の乱(1467~77)によって衰退した朝廷の儀式の復興を目ざし,一条兼良故実を学び,後進の育成に努めた。和歌もよくし『万葉集』の事項索引とでもいうべき『万葉類葉抄』を延徳3(1491)年に編纂している。書にも優れ,依頼に応じて揮毫している。日記『宣胤卿記』は,歌会などの諸文芸のほか,朝廷の儀式,公家経済などを知ることのできる記事が豊富で,室町後期の公家社会を考える上で貴重な史料。この時期には珍しく84歳の長寿を全うした(『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/中御門宣胤-17316)。

 

「西方ニ御出之南朝

 ─小倉宮流で岡崎前門主の子息。当時は出家の身で年齢は18歳と言われている(前掲森茂暁著書、237・238頁)。

 

 

*怨霊の姿が見えること、そして供養によってその姿が見えなくなること。今回の史料ではこうした現象を「珍しいことである」と評価しています。霊的存在を容易にイメージできる私たち現代人にしてみると、この表現はずいぶん奇妙に聞こえてくるのですが、室町時代の人々にしてみると、怨霊の姿が見えるのはまだまだ珍しい現象だったようです。たしかに、言葉であろうが絵画であろうが、怨霊を視覚的に描写したものなど、管見のかぎり『北野天神縁起絵巻』(注1)ぐらいしか思いつきません。

 実のところ、この点についてはすでに研究があります。小山聡子「幽霊ではなかった幽霊─古代・中世における実像」(『幽霊の歴史文化学』二松学舎大学学術叢書、思文閣出版、2019、43〜45頁)によると、古代から中世前期では、幽霊(ここでは「死霊」の意味)は人前に姿を現すような存在ではなく、姿を見せるようになるのは、能の登場、とりわけ世阿弥の夢幻能(幽霊能)の登場を待たなくてはならなかったそうです(注2)。この指摘を踏まえると、死霊は室町時代になってやっと姿を見せるようになったようです。記主尋尊が「希有事也」と記したのも、当然だったということになるのでしょう。

 ところで、小山氏は次のような興味深い指摘もされています。それは、「近世になると、それぞれ別の意味をもっていたはずの幽霊、怨霊、モノノケが混同されていくようになる」というものです。前述のように、夢幻能によって幽霊(死霊)が演じられはじめるのと、怨霊(日尊の死霊)がはっきりと姿を現すようになるのは、ともに室町時代でした。この点を踏まえると、「幽霊という用語」で「怨霊という意味」を表すには江戸時代を待たなくてはならなかったのですが、「幽霊、怨霊、モノノケ」混同の下準備は、すでに中世後期に始まっていたと言えそうです。

 また、私は以前、「厠の尼子さんとその眷属」という記事で、「足のない幽霊」の言語的描写の起源が室町時代にまで遡れるのではないか、と書きました。その記事で紹介した霊的存在は女房姿や尼姿の「化け物」で、これらも姿を現したり消したりすることができました。こうした人間の姿をした「化け物」と、姿を見せる「死霊」や「怨霊」の登場も、同じく室町時代だったのです。おそらく、「姿を見せたり消したりできる」・「生者に害をなす」という共通の要素によって三者は混同されはじめ、のちに幽霊が「お化け」と呼ばれるのようになったのではないでしょうか。今回の史料と「厠の尼子さんとその眷属」の史料は、「死霊・怨霊・化け物」が混同される過程を記した珍しい証拠だったのかもしれません。

 以上のような推論の妥当性はさておき、室町時代はなかなか興味深い時期だったと評価できます。なにせ、かつて見えなかったものが見えはじめ、見えなかったものを積極的に表現しはじめる時代なわけですから。心象風景?、メタフィジックス?、シュルレアリスム? なんと形容してよいのかわかりませんが、新たな価値観を創出する文化的な大変革が起きた時代だった、などと表現するのは大袈裟でしょうか。かつて原勝郎が評したように(「足利時代を論ず」『日本中世史之研究』同文館、1929、https://www.aozora.gr.jp/cards/001037/files/43865_38006.html)、この時代を「日本版ルネサンス」の時代と呼んでみたくもなってきます。

 

 

(注1)

 例えば、文亀3年(1503)に奉納された土佐光信筆の『北野天神縁起絵巻』(京都文化博物館北野天満宮 信仰と名宝 ─天神さんの源流─』思文閣出版、2019年、149・150頁)には、菅原道真の死霊が人間の姿で描かれています(第六段「柘榴天神」・第十一段「道真化現」)。

 

(注2)

 小山論文によると、前近代の「幽霊」の意味合いは多義的で、現代人のイメージする「死霊」「怨霊」という意味は、「幽霊」の一部(下位概念)にすぎなかったようです。また「幽霊」は、怨念をもっているとはかぎらず、まったく恐ろしい存在でもなかったそうです。つまり、「怨みや恐ろしさ」は「幽霊」を特徴づける本質的要件ではなかったのです。

 さて、この小山論文の概念規定に従うと、現代人のイメージする「死霊」「怨霊」という意味を表すのに、「幽霊」という言葉が使えなくなってしまうので、小山論文の引用や説明を除いて、なるべく「幽霊」という語を使わないようにします。ここでは、「死者の霊」を表すときには「死霊」、「怨念を抱き、生者に害をなす死者の霊」を表すときに「怨霊」という言葉を使用します。

 

稲葉桂氏所蔵文書2

    二 景経奉書写

 

 信成申梨子羽郷弁海名間事、民部大夫奉書并七郎左衛門入道内々状如此、子細

                                (所ヵ)

 見状候処、停止違乱、如元御安堵候て、可下知之旨仰候也、

 仍執達如件、

     (1321)              (判)

     元亨元年四月六日       景経在ー

    (マヽ)

    梨羽郷預所殿

 

 「書き下し文」

 信成申す梨子羽郷弁海名の間の事、民部大夫奉書并びに七郎左衛門入道内々の状此くのごとし、子細状に見え候ふ処、違乱を停止し、元のごとく御安堵し候ひて、下知せしめ給ふべきの旨に候ふ所なり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 源信成が訴え申す梨子羽郷弁海名のこと。民部大夫の奉書と七郎左衛門入道の内々の書状はこのとおりです。詳細は訴状に見えていますので、違乱を停止し、元のようにご安堵になりまして、ご下知になるべきである、という仰せです。よって、以上の内容を下達します。

ロジェ・カイヨワ Part3

 ロジェ・カイヨワ戦争論法政大学出版局、1974年

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第三章 鉄砲 歩兵 民主主義

 四 上流社会の戦争

P82

 考えてみれば、貴族階級の置かれた立場は、奇妙なものであった。典型的な戦士階級であったところの貴族階級は、戦いを自己の天職とすることによって、その誇りと特権とを正当化した。ところが、人を殺してしまうような強力な武器は彼らの価値体系に合わぬものであったので、彼らはこれを下衆に与えてしまった。貴族たちは、自らを生来のエリートと考えていたので、武力闘争の際にも、数を頼み衆を頼んで戦うことをしなかった。そして巧妙さと繊細さを栄光とした彼らは、戦争のなかにひそむ粗暴さと執拗さとを除こうと努めたのである。彼らは戦争を、形式だけのもの、仕来りだけのものにしてしまった。たくさんの成文法・不文律で縛られた、手の込んだ演習の組み合わせにすぎないものにしてしまった。ときどきには衝突もあったが、それとてごく稀な、儀式ばった計算ずくのもので、勇者がその武勇を用いて家名を高め、自らの徳を人に知らしめる機会であった。戦争がだんだんと進歩し、本物の、熱意のこもった、仮借なき血生臭いものとなってゆく過程は、それゆえ民主主義の発達と一致しているのである。また、歩兵が重要なものとなり、鉄砲の殺傷力が増大してゆく過程と一致しているのである。

 

 

第二部 序

P155

 戦争は、聖なるものの基本的性格を、高度に備えたものである。そして、人が客観性をもってそれを考察することを禁じているかにみえる。それは検証しようとする精神を麻痺させてしまう。それは恐ろしいものであり、また感動的なものでもある。人はそれを呪い、また称揚する。しかしそれは、ほとんど研究されていない。戦争は歴史のはじめから行なわれてきた。けれども、戦争に関する真に批判的な著作が現れたのは、ついさきごろのことである。このような著作がなかなか現れなかったということは、いささか意外なことである。しかし、戦争を断罪するものとこれを絶賛するものはいくらもあった。これを称賛する声は、どもみなさして説得力のあるものではない。これに同意するためには、ある特殊な信念が要るともいわれる。戦争の美点とされるものは、みな論議の余地あるものばかりであり、またあまりにも形而上学的であって、ごく些細な実証を行なうことさえ不可能である。とはいうものの、如何なる反対意見も、戦争の美点を公言する者のその確信を変えさせることはできない。

 これとは逆に、戦争を断罪する意見は、まぎれもない諸事実を伝えている。この意見によれば、戦争というものはすべて残酷で、国を荒廃させ、多くの人命をうばうものであるというが、これは火を見るよりも明らかなことである。したがってこのような意見をもつ人々は戦争を恐ろしいもの、不条理なもの、不毛のものと考え、さらに進んで、人類を悩ませる諸々の悪のうち最大の悪としてこれを非難する。一方、非難された方の陣営は、これに対してさして反論することもせず、かえってこれを、神聖なものと偉大なものとに対する冒瀆あるいは嘲笑として受け取る。戦争を擁護する人ばかりではない。戦争を恐れ、戦争を望みこそせぬもののそれを価値あるものと認め、忍従に甘んじている大衆も、右のような冒瀆をあえてする人々は神に見放された者と考える。人々は彼らの不信の念をいだき、同時に彼らを軽蔑する。いいかえれば、暗に卑怯者としてまた裏切り者として疑っているのである。彼らの行なうような論議を行うことを恥ずべきことのように思い、このような論議により身を汚されることを恐れる。彼らの言うところは、ほとんど、何か得体の知れぬおぞましい悪意によって吹き込まれた、もっともらしい意見のように見なされる。法律によってそれが許されているところでさえ、徴兵忌避というものは、救いようのない権利放棄、部分的にこそせよ男らしさを放棄すること、と見なされている。

 あらゆる信仰は、無神論の前に置かれたとき、これと同じような立場に置かれる。良識で考える人々はおそらく懐疑論の側に立つであろうが、かといって彼らは信仰を持つ人々を一人として説得することができない。神を信じぬ者は一番大事なことを見落としている、と信仰をもつ人々は判断する。不信者は神を否定することにより、自らが呪われていることを証しするだけだ、と彼らは信じて疑わない。最もよい場合でも、自分を超越した存在を頑なに認めようとしない、と不信者を非難する。戦争に対する人々の態度も、このようなものである。それゆえ、一般人の意識のなかで戦争が聖なるものとしての性格をもつと言われるのも、けだし当然のことであろう。要するに、人々は戦争を科学的研究の対象とするのを嫌がること、戦争が人々に対して引き起こす反応は両儀的であってしかも強烈であること、これら二つの徴候はいまの場合、戦争が示す諸々の徴候のなかでも特に無視することのできないものと言える。

 聖なるものは、まず、魅惑と恐怖の源であった。戦争は、それが人々を引きつけ、人々に恐怖を抱かせるときにのみ、聖なるものとして受け取られる。戦争が軍事技術に堕しているかぎり、それが少数の職業的兵士のみに関わるものであるかぎり、また旧習を墨守する戦略家が周到な計算に従って、過大な損失を避けながら行なうものであるかぎり、戦争は、切っ先の刃止めを外した試合用の剣を用いて行なう一種の試合にすぎない。それがいかに血みどろなものであろうとも、規律に縛られた一つの行動でしかなく、遊戯やスポーツに近いものである。事実何世紀ものあいだ、戦争はそのようなものであった。戦争はこののような条件のもとにあっては、いかなる宗教的な感情をも惹起するものではなかった。戦争が聖なるものの引き起こすいろいろな反射行動を引き越しうるためには、一国の国民全体にとっての全体的危険となることが必要であった。一国の国民全体が、その持てる資材のすべてを投入して決定的な試練を行なうといってよいほどの、国民総ぐるみの悲劇のなかで、各人が加害者あるいは被害者とならなければならなかった。

 

 →結局、コントロール不能であることに気づいたとき、戦争は聖なるものになるということ。

 

 

第6章 無秩序への回帰

P221

 戦争、それは承認された暴力であり、命ぜられた暴力であり、尊敬される暴力である。戦争は、人間の原初的な本当に満足を与えるが、文明はいかにも未熟なやり方で、懸命にこれを抑えようとする。組織的な破壊としての戦争は、社会の生産過剰により引き起こされた諸問題に対して、一時、単純にしてしかも根源的な解決を与える。戦争は定期的に起こる爆発である。この爆発のなかで個人と社会は、おのれが完成に達するかのような印象を、すなわち、人間存在の絶頂に達し、また真理に到達するかのような印象を受ける。原始社会において祭りが果たしている役割が、機械化された社会においては戦争によって果たされているのは、このためである。戦争は、祭りと同じように人を魅惑する。そして、現代世界がその持てる厖大な資源と手段とを用いてつくり出しところの聖なるものの、ただ一つの顕れとして出現する。

 

P225  二 兵士の本性

 あらゆる兵士は、自ずと暴力に走り、残酷に走るものである。酒を飲むにせよ、賭をするにせよ、物を盗むにせよ、女を犯すにせよ、人を打つにせよ、辱めるにせよ、殺すにせよ、当然権利のあることと、彼らは勝手に考えている。しかし彼らは、つねに危険を身近なものとし、あるいはこれを軽視してさえいるので、物惜しみをしたり身の安全に汲々とするようなことはない、身の安全を求めるなど、はじめから諦めねばならぬ彼らである。彼らは安寧と労働を、商業と貯蓄と軽蔑する。彼らは、自分が身を賭して護っている人々から、尊ばれることを要求する。彼らが人々のために護ってやった財産である以上、彼らが勝手に用いることは当然だと考える。彼らは女さえも、即座に思いのままにできるものと思っている。こうして戦争は、その昔の悪弊や傭兵のこととした、喧嘩、掠奪、婦女暴行を、存続させてゆく。

 今日の、制服を着けた軍規ある兵士のうちにも、こうした兵士の本性のあるものが残っている。そしてこうした兵士のあいだにも、未開社会にみられるような、部外者におぞ気を振るわせるような、仲間内だけの秘密な世界がある。戦争は、いかに機会的科学的になったとしても、やはり古代ゲルマン部族の野獣人が見せたような陶酔に、現代人を引き摺り込んでしまう。この野獣人〈berserker〉というのは、敵を殺すことによって奴隷の身分を抜け出した者で、それまでは奴隷の印である鉄の首輪つけていたという。彼らは人に恐れられ、自らも人を恐れさせることを好んだ。獣の皮をまとい、生肉をかみ、叫び声をあげ、自らも獣と名乗り、獣のごとく振る舞う彼らは、体を黒く汚して、真っ暗な闇のなかを歩き回った。それはまるで地獄のような異様な光景で、幽霊の群れのようにみえた、とタキトゥスは述べている。

 人々は働かぬ彼らに食を与え、またおそらく、彼らの勇敢さに対する代償として、ういういしい処女をも与えたであろう。他人の財に対して貪欲であった彼らは、その一方、自分の財を浪費したと言われる。彼らにとっては、人間の生命などなんの重要さももつものではなかった。そして彼らは、人間の生命を重要なものと考える人々を嘲笑した。もちろん、文明がこのような職業的な野蛮人の存在を不承不承認めていたことも事実であり、それを除去しようとしたことも事実である。ところが、戦争はこのような蛮行を、必ず再現させるものであった。戦争は人間を、一挙に野蛮状態に押し戻してしまう。兵士は労せずして、窃盗、掠奪といった昔ながらの習慣を思い出す。そして、農家から鶏を奪い、地下倉からは酒を奪い、什器を壊し、扉を破って喜ぶのである。とはいえ、このような迷惑ならまだよい方であって、一旦このような蛮行が始まってしまうと、あとはそれがひどくなるばかりで、たちまち再現の知れないものとなる。性愛においても同様である。兵士はぐずぐずと前置きにかかずらうものではない。その粗暴さは、優雅で迂遠な仕草と調和するものではなく、手取り早い満足を求めるだけである。上品な仕草などしている趣味も時間も持ち合わせない。死を身近なものとしている兵士にとっては、欲望を満足するのに待たされることなど、耐えられるものではない。ユンガーはごく端的にこのことを述べている。〈彼らは即座に花も実も要求し、欲望の対象が現れれば、すぐそれを手に入れようとした〉。兵営の荒々しい生活のうちに禁欲を強制された彼らは、異常性欲のなかにその償いを求めた。娼婦というものは兵士にとって、単なる褒美や慰みなのではない。ふしだらな放縦は、兵士にとって自慢の種を増やすものであった。彼らは人の顰蹙をかうようなことを好んで行ない、自分の快楽の相手となる女を見せびらかし、これをけばけばしい衣装や宝石や香料で飾った。人から奪った品物を用いて、自分の無恥を仰々しく飾り立てたのである。

 このように秩序や道徳を無視しても、彼らはなんの避難も懲罰も受けない。逆にそれは、栄誉のもとであり、栄光を与えるものでさえあった。戦争は文明人にとって、英雄となると同時に本能をほしいままにすることのできる、主要なそしておそらく唯一の機会である。兵士は一方において自分に価値あるものを得、他方、他者に対する威光を獲得する。しかしそこで彼らの行なう生活は、まずは何よりも破壊と略奪を事とするものであった。法と世論に屈従し、利益の追求に明け暮れる汚らわしい単調な生活から、彼らは解放される。手足を失い、負傷し、死ぬかも知れぬという予想が、彼らの試練を聖なるものとする。彼らの事務所か工場から連れ出され、強力な武器を渡され、これを操作する訓練を受ける。人々は彼らを、殺戮の権能と使命とをもった半神とする。突然与えられたこの最高の権限に、彼らは酔いしれる。殺される危険と殺す権利とが、兵士たちを恐るべき強烈な世界へと導く。

 

P228 三 兵士の陶酔

 殺戮の喜びは、一体いかなる点で、忘我の恍惚感と似ているのだろうか。

 

P230

 ユンガーの表現を借りていえば、彼ら(兵士)はまさに戦争の子なのである。〈彼らをつくったのは戦争なのだ。その火花のような内奥の趨向をほとばしり出させたのは、戦争なのだ。戦争が彼らの生命に意味を与え、そこにかけられた彼らの生命を聖なるものとしたのである〉、とフォン・ザロモンは説明している。

 世界は彼らは吐き出した。そこで彼らもその仕返しに、世界の規範や規則を据えさってしまった。戦争の興奮に中毒してしまった彼らは、節度を忘れて殺戮の狂気に身を任せ、根源的な混沌に立ち戻ったかのように考える。一切の規律を解消し、人間を原初の無罪性に戻し、絶対的な純粋性に戻すような、ある模糊たる実在に帰りつくかのように考える。そこではあらゆる法が、ごく些細なものに至るまでことごとく避妊され、永遠の無秩序が支配し、彼らの行ないは永遠に正当化される。

 

 

第7章 社会が沸点に達するとき

P237

 原始社会において聖なるものの時はいつかといえば、それは祭りの時である。祭りにおいては、もちろんいろいろな決められた儀式が行なわれるが、何よりもまずそれは、巨大な爆発のようなものとして現れる。そこにはすべての人々が集まり、その体力を消費し、その資財を濫費し、その生命力を確かめ合い、祖先を祭り、若者に社会の仲間入りをさせ、興奮し、集団的狂乱を分かち合い、同時にそのなかで消耗しながらおのれを栄光あるものとする。祭りと戦争とのあいだには、内容上の対立こそなけれ、いろいろな相違点はある。しかしそれにもかかわらず、戦争は、未開社会において祭りが果たしてきたのと同じ機能を、近代社会のなかで果たしているのだ、と考えさせるような、多くの性格をもっている。それは同じように広範な現象であり、同じように強烈な現象である。それは経済的、制度的、心理的な次元において、ある同じような転換の行なわれることを意味している。聖なるものが示す数々の特徴的な反応と同じ反応を、戦争が、何によってまた何故に、かくも高度に示しているのかということを正確に知るためには、戦争を祭りと対比するのが最もよいであろう。

 

P239  一 戦争と祭りはともに社会の痙攣である

 戦争の実態は、祭りの実態にあい通ずる。また人間の意識はこの両者から、たがいに並行するような神話をつくってきた。戦争と祭りとは二つとも、騒乱と同様の時期であり、多数の群衆が集まって、蓄積経済のかわりに浪費経済を行なう時期である。商業と工業とによって苦労して獲得された貯蔵されたものが、費消され破壊される。さらにまた近代の戦争と原始的祭りとは、強烈な感情の生まれる時である。このある間隔をおいて生ずる熱狂的な危機は、色あせて、静かで、単調な日々の生活を打破するものであった。(中略)祭りには断食があり、静粛な儀式があり、あらゆる種類の禁制があるかと思えば、混乱があり喧騒がある。一方戦争には、より後半なより徹底した荒廃をもたらそうとする細心に構成された組織があり、死の危険と破壊の陶酔をともなった秩序と計算がある。

 

 →ねぶたと同じ。現代でもこうした混乱・喧騒が息づいている。別に原始的祭りに限らないのではないか。

 

P239

 戦争の世界は祭りの世界と同様に、平時の生活様式から激しく自分を断絶することによって、必然的に右と同じような現象を起こさせる。基本的な類似は、まずこの二つの事象のもつ、経済的意味に見出される。そしてまた、この二つの事象が激しい形で現れるとき、社会科学の見地からみて、この二つ事象がそれぞれの社会のなかで占めている異常に強力な地位に、その類似が見出される。しかもこの類似は、単に集団生活の奥底にのみかかわるものではない(もしそれが単なる類似であったとしても、それは人に多くのものを教えるものと言わなければならぬ)。この類似は、この二つの事象に参加する者の、内心の態度にまでみられるのである。祭りのなかで、あるいは戦争のなかで、神的なものをあるいは死を身近なものとする人間は、自分が偉大なものとなったのを感じる。そしてその興奮の絶頂において、日常抑圧されてきた諸々の本能が解放されるのである。

 

P240

 戦争と祭りは、平常の規範を一時的中断することであり、真なる力の噴出であって、同時にまた、老朽化という不可避な現象を防ぐための唯一の手段である。祭りの行なわれぬあいだ、また平和の時代においては、既得の地位、既存の利益、また聞きにすぎぬ意見、慣習と怠惰、利己主義と偏見等々が強化される。物事はみな重苦しく動きの鈍いものとなり、動きのとれぬ状態、あるいは死へと向かってゆく。それとは逆に戦争と祭りは、いろいろな屑やかすを取り除き、虚偽の価値を清算し、本源的なエネルギーの源へとさかのぼる。そして、その危険でしかも健康的な暴力を使用して、この本源的エネルギーを充分に発揮させる。

 この両方の場合とも、秩序、慣習、固定性といったものがなくなったときに、人は目ざめる。そこにおいて人々は、すべてがすべてのをつくり出すような奇怪な豊穣性をもった混沌の時のなかに、移し置かれたかのように感ずる。そして自然も人間も、この永遠の青春の泉に浴して若返る。

 

 →エネルギッシュな壮年世代までなら、こうした感覚は理解できるだろうが、老年期になると、戦争や祭りに対して関心が薄くなるのではないか。自分自身が動きの鈍いものになるため、その体の動きに慣れてしまえば、心も動きを欲しなくなる。体自体が死へと向かっていくわけだから、社会が固定化し、動きのない死の状態に向かっても違和感はないのではないか。

 

P245

 このような血を浴びながら行なわれる祭りがよく示しているように、祭りというものは何よりもまず、集団的な興奮の絶頂であり、群衆を誘惑して引きつけるものであって、一旦そこに加わった以上は命を落とすこともあり、いたいたしい重傷を負わされることを覚悟せねばならない。戦争と祭りとの違いがよく現れるのは、このような点ではない。その違いはむしろ、祭りがその本質において、人々の集まり合体しようという意志であるのに反して、戦争はこわし傷つけようとする意志であるという点にある。祭りにおいて人は互いを高揚し興奮させるが、戦争においては人は相手を打ち負かしてこれを服属させようとする。そこでは共同にかわって憎悪が現れ、二つの胞族の結合にかわって二つの国民の衝突が現れる。

 

P246

 それ(真の絆)は、一般に女によって伝えられ、氏族のなかで実現されるところの、ある神秘的な原理に参加しているということにある。各氏族はおのおのの自分のトーテムをもっている。このトーテムは、この原理の超自然的の源でありそのしるしである。そのうえ、集団はけっして孤立したものではなく、結婚の絆により対蹠位置にある氏族に結び付けられており、各世代ごとにその親族関係が固められ更新される。近親結婚の禁止の重要さ、いいかれば外婚制の法則の重要さはここにある。そして各人は、相補的な氏族の者と結婚するよう義務づけられている。このような規則は、共働と交換を保証するための組織の、一つの特殊な例にすぎない。そこで交換されるのはいうまでもなく女であり、労役であり、祭礼である。各集団の存立と、力と、繁殖と栄光は、相手の集団に依存しているわけである。細密な相互関係が、これらの集団と集団とのあいだの関係を司っている。各集団はその相手にとって、生命の保証であり繁栄の保証である。

 

 →婚姻関係が無意識に文化を移動させているのかもしれない。切腹を美徳とする価値観が、妻を通して、武家から公家へ…。姻族関係・親族ネットワークなどのヨコの関係は、イエ制度のようなタテの関係に比べるとないがしろにされがちだが、この関係性でなければ起きない歴史事象は絶対にあるはず。これも確定しておく必要がありそう。次世代への伝播がイエ制度の役割、同世代・同階層への伝播が親族ネットワークの役割なのかもしれない。

 

P248

 相補的集団関係を基礎づけている完全均衡の原則、すなわち相互奉仕の原則は、位階制度が生まれ、権力が個人のものとなり、社会が複雑化し、兵士、僧侶、鍛冶師、舞踏師、大工、医師等の特殊な団体が分化し、各人が異なった技術をもち、その技術が彼らの信用を基礎づけ、社会的役割を規定するようになると、これまた変化してくる。このような条件において、その集団の協約の根本をなすものは、尊敬ではなくて威厳である。それが世襲的なカーストであるにせよ、閉鎖的な同業組織であるにせよ、この点にかわりはない。この種の社会は、非常に多様な型をもっている。とはいえそれは、おしなべて封建的な中世のものといってよく、少なくとも、中世キリスト教世界と同じような性格をもつものである。これらの性格は、この発展段階に固定化して存続することもありうる。私はこのような社会を、領土上の境界よりも階級上の境界の方が大きな役割を果たしていた社会、と定義したい。この階級上の境界こそが、相対立するいくつかの共同体を分け隔てていた本当の柵なのである。したがって戦争は特権階級の行なうものとなり、貴族のみが行なうものとなった。貴族のみが武器をもつ特権を保有し、貴族同士のあいだで結婚が行われたように、戦争も貴族同士のあいだで行われた。

 これが貴族戦争の時代である。この種の戦争は、階級が分化した世界にしか存在せず、武士として生まれ武士として育った同じ階級の者だけが行なう戦争であった。一般の人々は、従者として、補助要員として、また被害者としてしか、この戦争には加わらなかった。この戦争は、激しい規則にのっとった遊戯であった。そこで最も重要とされたのは名誉であって、人々は戦いをいどみ、いどまれた者はこれを受け、またその挑戦に耐え、その勇気と誠と度量を証しし、たぐい稀なる武功を挙げることによってその名誉を得たのである。称号、旗、定紋、兜の前立て、その他あるゆる紋章は、みな領主たちがその貴族であることを表すものであった。その豪胆さと豪奢とが、あるときはその名を輝かせ、あるときはその名を傷つけた。戦争は一種の試合であって、規則がはっきりと決められている点ではゲームに近く、対抗して行なわれている点ではスポーツに近く、同等の武器を用いて行なわれ優れた者が賞を得る競技であった。戦争をこのようなものと考えることは、階級が分化していない民族が行なうところの、腕力と待ち伏せによる戦いから生じたものではない。このような考え方は、祭りからじかに生まれたものなのである。

 

 →地理的な隔たりによる文化の違いもあるだろうが、階級上の障壁による文化の違いが厳然としてあることも理解しておかなければならない。いや、むしろもう一度この重要性を主張することが重要なのかもしれない。切腹などは、まさにそれではないか。やはり、切腹は日本人の文化なのではない。一部の特殊な仕来りや名誉感が、何らかの媒介によって、意図せず広まっていっただけではないか。

 

P249

 祭りは社会とともに変化した。それは合体による興奮の絶頂であることを止め、指導者たちが自己の優越性を相手に知らしめようとして行なう競合による興奮の絶頂となった。指導者たちは、あらん限りの富を大がかりに分配し、また破壊して、富において劣る相手に対して優位に立とうとする。奉仕を相互に授受し得るような均衡を保とうと努めるのではなく、これをこわそうと努めるのである。相手に与える贈り物はみな、相手を凌駕するための挑戦を表すものとなる。それは、政治的権力を、影響力を、超自然的秘密を、あるいは超自然的力を表す証拠を、紋章を、護符を、特権を、名前を、神話を、歌を、また魔法の舞を、獲得するための手段なのである。〈われわれは武器で戦うのではない。われわれの財産を与えることによって戦うのだ〉、とクワキウルト族はいっている。男たちは、敵の頭に見たてた花飾りをもって現れる。そして、敵の名を叫びながら、それを火の中に投げ入れる。ところでこの花飾りは、彼らが分配する銅の板と実際上同じ意味をもつものであって、ここで叫ばれた名前は、豊富さを見せびらかす競合のなかで負けた相手の名前と同じ意味をもつのである。誇張と無益な浪費とが、偉大さの印とされる。頭領はためおいた魚油を燃やし、自分の舟をこなごなにこわし、あざらしの皮を裂き破り、銅板を海に投げて、相手をはずかしめる。優越性を求める執念は古今を問わずつねに存在し、社会経済機構の全体にその影響を及ぼしている。このように、自分の財を犠牲にして得られるものは、またそれらを所有する者を殺すことによって得ることもできる。手に入れようと渇望する財産や特権を自分のものとするには、その相手が返すことのできないような豪華な贈り物をすることにより、相手を格下げすることも一つの手であるが、相手を殺してしまうのも一つの方法である。

 もちろん、〈ポトラッチ〉という制度は例外的なものであるが、その心理はあらゆる貴族社会のなかに見ることができる。すなわち、決まった作法で戦争を行ない、豪奢と武功(これはスポーツにおける記録に等しい)をもって高貴な生まれの人間の価値とする社会には、まさにこれが見られるのである。戦争そのものは贅沢なものである。それは命を賭けた祭りである。しかし戦争は、人々を集めるかわりに分け隔てる。それは隔たりを印づけるものなのだ。戦争はまた、それを務めとする少数の特権階級の驕慢を正当化するものでもある。このような戦争は、社会が高揚した頂点を示すものではまったくない。このような過渡期の時代においては、祭りはもはやこの頂点を示すものではなくなり、戦争はまだそこにまで至っていなかったのである。

 

P250

 国民全体というものが他のあらゆる集団構造をしのぐものとなったとき、はじめて戦争は社会的高揚の頂点となった。貴族階級の武士たちはたがいに近親感をもっていて、それは国境によって妨げられるものではなかった。彼らは何の憎悪も抱かず、たがいに尊敬し、決められた通りに戦いをした。このような戦いは彼らの抱いていた本能的な連帯感をさして損なうものではなく、彼らが都市住民や平民、いいかえれば市民に対してもっていた傲慢さを、和らげるものではなかった。国民というものが平等の権利をもつ市民のみによって構成されるようになり、市民は政治的力を与えられ、そのかわりに兵役の義務を負うようになったとき、国民は、武装した不可分の全体となり、当然他の国民(→外国人とという意味)からは分け隔てられ、たがいに対立し、排除しあう絶対的なものとなった。それが厖大なものとなるにしたがって、国家は国民に対してより大きな役割を果たすようになり、またより多くの統制を行なうようになった。それによって、国民はより社会化された一方、ますます閉鎖的な硬直したものとなった。

 

 →『平家物語』などの軍記物にみられる、敵対者への敬意描写など、まさにこの指摘に一致する。つまり軍記物は、軍事貴族という限定された階層に特有な価値観が描き出された特殊な物語であり、けっして当時の日本人全体の社会通念を描写した作品ではなかったと言える。切腹・自害を美談として描くのも、ハビトゥスや界の影響ではないか。むしろ、その価値観が界を超えてどう広まっていったかが問題で、文化や通年を媒介していった存在が何なのかを突きとめなければならない。婚姻・女性の果たした役割はとても大きいのではないか。

 

P251

 こうなってくると政治というものは、戦争を期待しながら行なわれるものとはいわぬまでも、戦争の脅威を考慮しながら行なわれるものとなった。政府は国民の精神的・物質的力を増大させるための一切の物事を、その責務として引き受け、監督し、規制する。戦争の見通しについて、政府は絶えず注意していなければならない。このようにして国家にとって戦争は、一つの幻惑となり、一つの絶対となったのである。国家が如何に平和的なものであったにせよ、その国家が戦争を信奉しているとか、戦争を準備しているとか、あるいは戦争を恐れているとかいったことは、結局たいした問題ではない。国民が一つの全体として構成されている限り、国民が至上のものであってその上に立つものがないないかぎり、国家はそのような宿命を脱することができない。国民は、隣する諸国民とつねに競合しなければならぬ位置に置かれている。国民が、その人的資源と物的資源とエネルギーをすべて動員して、これを敵対する国民に対して投げかけるとき、国民の心は白熱し、興奮と浪費のときがはじまり、極度の緊張が生まれる。この種の社会が二つあい対した場合、この対面はもはや合体のための出会いではあり得ない。境界線もなく国家もなく、輪郭も定かでない社会において、相補的集団のあいだで行なわれるような、合体のための出会いではあり得ない。それは、もはや止まることを知らなくなった国家主権の行使によって引き起こされる、無慈悲な殺戮である。そしてこの国家主権の行使を鼓吹しているものは、利己主義と、勢力拡張の欲望と、そしてまた権力意志とはいわぬまでも、領土保全の関心とにほかならない。

 

P252

 別の全体と対決することにより、国家は自己を肯定し、自己を正当化し、自己を高揚し強化する。その故にこそ、戦争は祭りに類似し、祭りと同じような興奮の絶頂を出現させるのである。そして祭りと同じように一つの絶対として現れ、ついには祭りと同じ眩暈と神話とを生むのである。そこは暴力までが変形される。祭りがしばしば暴力をともなうものであることは、すでに見たとおりであるが、祭りにおける暴力は付帯的なものであり、豊穣なる熱狂に付随するものであった。この熱狂は暴力により最高潮に高められ、この熱狂から、活力の横溢とともに、暴力は噴出した。ところが戦争において暴力は、機械化して適用すべきものとされ、執拗な戦いを行なうための目標として慎重に考慮されるものとなる。国家が戦争から生まれたとしても、今度は逆に国家が戦争を生むことにより、国家は戦争に返礼したようなものである。この両者は、あいたずさえて進歩する。激しい戦争の行なわれるたびに、国家の権力は伸張し強化された。また逆の角度から見れば、戦争のため国家が新しい責務を引き受けるたびに、戦争はより激しいものとなり、より大きいものとなった。国家の統制が強まれば強まるほど、戦争はより多くのものを消費するようになった。戦争においてより多くの消費がなされるようにするために、国家は絶えず統制を強めてゆくのだ、といってもよい。こうなってくると、隣の国家と国力の資源を競うための闘争が、国家の最大の関心事となる。構造のゆるやかな世界あるいは構造がほとんどないような世界においては、出会いというものが、交換の機会であり、宴の機会であり、祭り、市、競技の機会であったが、もはやこのようなことはあり得ない。国家が成立し確立されてゆくあいだに、競争心は友愛の精神を圧倒するものとなった。特権階級が作法を重んじた貴族的な抗争を行なっていた時代のつぎには、相手集団の存在そのものが無慈悲な勝負の対象になるほどの、憎悪に満ちた絶対的な闘争の時代が到来したのである。

 狂宴と殺戮、祭りと戦争、この二つの現象は対称的なものであり、ともに暴力的なものである。この両者は、別の部面においてではあるが、ある同一の高度な機能を果たし、ともに人間を魅惑する力をもっている。その危機状態を目的とするところが物を生むためか減殺するためかにより、人間を迎え入れるためか排除するためかによって、祭りと戦争は、一方は人を引きつけるものであり、他方は人を恐怖におとしいれるものであった。祭りから戦争に至る道程は、技術の進歩と政治組織とに深くかかわっている。一切のものにはその報いがある。現在の戦争の形態も、文明の進歩のなかにあらかじめ含まれていたといってよい。文明がその輝かしい成果によってはぐくみ育てたところのこの内的危険は、いまや文明そのものを破壊の脅威にさらすものとなった。現在の文明は、この内的危険に向かって華々しく突き進んでゆかざるを得ない状態にある。

 

 →鎌倉時代の戦争は特権階級の貴族的な抗争に近いような気もするが、室町時代になると、憎悪が目立つようになるような気がする。闘争も軍事貴族だけでなく、寺社や村落・町共同体などに広まり、激しさを増すような気がする。それでも、解死人制や中人制、本人切腹制のような作法によって、敵の殲滅を目指すところまではいってないような気もする。この中途半端な状態で明治まで進むのか。

 

 

結び

P255

 抗争の形態が根本的に変化したのは、十九世紀に入って全国民が武装されるようになってからのことと考えられるが、この原則は、彼(クラウゼヴィッツ)も躊躇することなくこれを認めていた。職業的あるいはカースト的な武士、貴族あるいは傭兵とは別に、市民兵が出現した。平等という原則は実のところはほとんど守られてはいなかったが、全市民に対してすべて兵士たることを要求したものは、この平等という原則であった。かくして武士の集団は、召集兵の大群のなかにすっぱり飲み込まれてしまったような状態となった。戦争にたずさわる階級は、従来の他の普通の人々、すなわち学問、労働、商業等、富の蓄積を生業とする人々とは違うものとされてきたが、このような風俗上の区別は、武士集団が市民兵のなかに呑み込まれるというこの混淆により弱められ、その特権も少なくとも理論的には廃止されたわけである。

 かくして近代文明は、戦争を専業とする特権的なカーストを、逐次増大してゆくある画一的なもののなかに解消しようとしたのである。この階級は上品な、作法をわきまえた階級ではあるが、偏見と仕来りを墨守し、儀式を重んじた。そして戦争というものを、貴族的な厳格な遊戯に、寛大さと公正さとを重んずる抗争に、文字通りの贅沢な行為に、危険を含むものとはいえ規則正しい礼節の交換に、変えようとした。不幸にして、ヒロイズムの形態はさまざまであった。その形態は、社会の要求に従って変化した。それは、目立たない、技術的なしかも無慈悲なものとなることが可能であった。

 それ以降はほとんどの戦争は、平民により引き受けられ行なわれることになった。けれども逆説的なことに、それは少しも戦争を文明化することにならなかった。というよりも、それはむしろ逆であったとさえいえよう。豪勇といったような武士特有の諸々の美点が、重んぜられなくなったことは事実である。忍耐はこれよりよく評価された。というのもこの種の受身の勇気は、自分の部署をあくまでも離れないということにもなり得るからである。けれども、戦争が工業的で精密でこせこせした企てとなり、一人びとりの個性が失われてしまうようになったとしても、戦争の大きさ、その激しさ、その残酷さは、ますます大きな勢いで増大するばかりだった。

 

 →軍事貴族が階層として庶民を軽んじることができるのは、武器をもって勇敢に戦う階層だからであり、そのアイデンティティとして、切腹の作法も生まれたのではないか。敵対者に対して負けを認めたことを明示し、戦争を終結させるための手続きという意味だけではなく、武士としてのアイデンティティを同階層だけなく、異なる階層にも示す必要があり、武士階層全体に切腹が広まっていったという可能性はないか。かりにそうだとして、なぜ切腹という手段を選ぶ必要があったのかについては、別途考えておく必要がある。「死」以外に武士としての矜持を示す手段はなかったのか。

 武士の集団は、「消費しかしない人々」という定義は目から鱗。他の集団は消費もするが、富の蓄積が本質のような気がする。近代は機械化のおかげで、人間が自然に蓄積できる富の量を一挙に増やしすぎた。つまり、富があまりすぎているので、大量消費するための手段が必要になる。それが戦争だったというのは笑えない話。

ロジェ・カイヨワ Part2

 ロジェ・カイヨワ戦争論法政大学出版局、1974年

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1部 戦争と国家の発達

 第1章 戦争の原形態と小規模戦争

  1 原始的戦争

  2 戦争と国家の発生

  3 帝国戦争

  4 貴族戦争

 第2章 古代中国の戦争法

  1 戦争は災厄である

  2 戦争の倫理

  3 名誉の規則

  4 暴力の萌芽

 第3章 鉄砲 歩兵 民主主義

  1 槍から火縄銃へ

  2 歩兵と民主主義

  3 貴族歩兵創設の試み

  4 上流社会の戦争

  5 変革の徴候

 第4章 イポリット・ド・ギベールと共和国戦争の観念

  1 アンシャン・レジームの理論家

  2 革命主義者

  3 国民総武装の予見

 第5章 国民戦争の到来

  1 市民兵

  2 戦争の激化

  3 戦争と民主主義

 第6章 ジャン・ジョレスと社会主義的軍隊の理念

  1 人民の軍隊

  2 全体主義の趨向

第2部 戦争の眩暈

 第1章 近代戦争の諸条件

  1 極端への飛躍

  2 戦争の形而上学

 第2章 戦争の予言者たち

  1 ブルードン

  2 ラスキン

  3 ドストィエフスキー

 第3章 全体戦争

  1 戦争の新次元

  2 全体戦争の倫理

 第4章 戦争への信仰

  1 ルネ・カントン

  2 エルンスト・ユンガー

 第5章 戦争 国民の宿命

  1 戦争のための政治

  2 戦争のための経済

 第6章 無秩序への回帰

  1 根底にある真実

  2 兵士の本性

  3 兵士の陶酔

  4 きびしさと熱狂

 第7章 社会が沸点に達するとき

  1 戦争と祭りはともに社会の痙攣である

  2 聖なるものの顕現

  3 祭りから戦争へ 

結び

 

第1章 戦争の原形態と小規模戦争

P7

 戦争は集団的、意図的かつ組織的な一つの闘争である。(中略)

 戦争の本質は、そのもろもろの性格は、戦争のもたらすいろいろな結果は、またその歴史上の役割は、戦争というものが単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てであるということを、心に留めておいてこそ、はじめて理解することができる。

 

 一 原始的戦争

P11

 未開社会がその最高潮に達するときは、戦争ではない。それは祭りである。祭りは、最高度の社会的きずなであり、集団的存在の至高の点をなしている。その社会へのつながりの、その社会での活動の、その社会での消費の、頂点をなしている。祭りは多くの個人を集合し、攪拌し、その感情を熱狂的な沸騰にまでもってゆく。日常生活上の諸々の規律をひっくり返し、一瞬のうちに彼の活力と富とを消費する。これとは逆に戦争は、日々の単調さを辛うじて断ち切るだけである。平時からはっきりと区別されるような戦争ではない。宣戦布告や休戦調印といったようなおごそかな行為によって、一つの状態から他の状態に移行するということもない。戦時と平時は合致しており、二つながら常に存在する。極端な場合には、一つの集団が、大規模な軍事行動を行なってはいないにもかかわらず、近隣の集団に対して恒常的な敵対関係にある場合もある。そこで一人びとりが他部族のものに出会った場合には、相手を殺すか、さもなくば殺されることになろう。それらの戦いは、腕力による戦いか待ち伏せ程度のもであって、それに参加する戦士の数も少ない。戦争は、一血族にとっての問題であり、あるいは一宗団にとっての問題である。また多くの場合、かくかくの略奪行動あるいは報復行動を目的として組織され、それがすみしだい解散するような、一時的な集団にとっての問題なのである。

 

 →中世の紛争に似ている。

 

P12

 そこには、組織的な軍隊は存在しない。外敵の侵入や近隣村落への略奪などで戦争が起これば、成年男子人口の全部が戦いをする。定期的に遠征を行ないそれによって資材の大部分を獲得するような、交戦的な部族もある。一般にこれら部族は、遊牧民あるいは山地住民である。農耕民は、多くの場合平和的である。南アフリカのマナンサ族のように、戦闘を拒否し、平和を金で贖うような部族さえある。

 戦争の原因となるものも数多くあり、とらえ難い。単に戦闘を好むという性質や、栄光への欲望も、かなりの大きな役割を果たす。これらの社会のうちには、若者が、人を一人殺してからでなければ成年のうちに伍すことを許されない、といった社会もあることを記憶せねばならない。族長の威光が、その家の閾をかざる頭蓋骨の、塚の高さによって計られるようなところもある。放牧地や狩猟区域の区分け、水源の所有、鮭をとるに必要な堰の位置、家畜の分配なども、武力抗争のもととなる数多くの動機を与えている。また別の場合、奴隷や婦女を得ることが、また人身御供や保存用の人頭を得ることが、同期となっていることもある。婦女を獲得することは、褥の伴侶を得るためよりも、むしろ労働力を得ることが目的であった。戦争と狩猟との間の区別も、常に明確だとは限らない。とくに、敵を追いたてることが快楽として求められているような場合や、食人の風習が捕えた人間を獲物として食うところにまで至った場合はそうである。

 

 →海賊・山賊・馬賊などは、こういう人たちなのだろう。農耕民は協働が必要だから、平和的なのか。

 

P13

 戦争の行為にしてもいろいろある。小は偶然のぶつかり合い、ののしりや打撃を早々に交し合う単なる小ぜりあいをはじめとして、男という男をみな殺しにし、婦女子を連れ去り、村を焼くような、殲滅的遠征に至るまで、さまざまである。とはいえ戦争は、これらの極めて異なった現われ方のなかに、いくつかの変わらぬ特性を保っている。反逆、策略、待ち伏せなどは、ほとんどいつも行なわれる。敵を待つため、急をつくためには、身をかくす。身をかくすことなく敵を襲うことは、滅多にない。整然たる戦闘や、平等な条件での戦いは、敬遠される。同じような防具をつけ同じように武装した相手が、合図とともに対峙するというような、個人的決闘、集団的決闘の形はとられず、狩猟や暗殺者のような条件で、おのれの姿を見られぬようにして相手を殺すことが、むしろ本則とされる。

 といはいえ、原始的戦争は、ごく急速に進化して、より微妙なものとなる。そこでは、より複雑な、あるいはより安定した社会体制と名誉感が、前提とされる。戦争に関する法が成立し、戦争のための固有の手段、すなわち規律をもち訓練を積んだ軍隊が現われた段階に至っては、おそらくもうこれを、原始的戦争と呼ぶことはできない。もはや、無差別的社会について語ることはできない。法的規律の介入と正規軍の召集とは、この社会すでに一つの国家となったことを証している。

 

P14

 ときには、危険が感ぜられるために、住居地を変えることもおこる。常々はいくつかの離れた部落に分かれて住んでいた同血族のいくつかの集団が、一時、隣りあって村をつくり住むことがある。同時に人々は、種々の制約を課されることも、比較的容易に了承する。そして条件のよい場合には、専門化した本当の強制権力が出現する。戦争が長びけば、この権力は恒久的なものとなる。種まきや収穫の時期にまで戦闘行動が続く場合には、農耕従事者と戦士とのあいだで、社会的業務を分担する必要が生じる。また、戦いに勝ち、敗者を従属させた場合には、賤民あるいは奴隷といった下層階級が生じ、これを監視し働かせることが必要となる。多くの歴史家にとっては、この事実が決定的なものであるように思われたのである。社会のなかに抑圧搾取機構が生まれるのは、制服の結果である、とディーリーは考えた。ジェンクスは、諸々の社会の諸々の制度は、軍事的な原因から生まれる、と考える。〈国家は、一つの人間集団が他の人間集団を支配するところから生じた。国家の存在をその根本から正当化する理由、つまりその存在理由は、被征服者を経済的に搾取することにあったのであり、それはいまもそうである〉、とオッペンハイマーは書いている。

 

 →戦国・織豊期がこれに当たる。

 

P15

 つまるところ、支配民族と被支配民族とを無理に組み合わせ、そこに自動的に国家の起源を当てはめることは、経験的に事実というよりは、むしろひとつの見解に過ぎない。これに比べれば、ここの確かな場合について、政治制度は戦争を行なうことによって着実に進歩するということを、確認することこそ肝要である。たがいに隣接し近親関係にあるバ・ヤカ族とバ・ムバラ族の二部族について、トーデイとジョイスが行なった指示に富む研究は、この点とくに貴重なものである。この二つの部族のうち、後者は平和的な部族であって、社会的分化のほとんどない状態にとどまっている。これに反し、前者は非常に戦闘的な部族であって、きびしく分層化した封建的構造をもっている。

 

P16

 いわゆる国家というものの形成には、まず、その組織が固定化することが前提とされる。そうしてはじめて、領土関係が、部族的組織の特徴である血族的つながりを、徐々に凌駕してゆく形になる。第二にそれは、政治体制の複雑化が始まることを、前提としている。この複雑化は、国家形成の結果として始まることもある。まず民衆は、武士狩猟民と農耕牧畜民に分裂する。この二者のほかに、より少数の祭祀階級が存在することもある。また社会的な仕事を分担することにより生じたものかは、あまり重要なことではない。まず銘記すべきことは、この分裂という事実である。居住地が固定していることと、補助的諸階級が存在することは、国家の基礎となる二つの条件であるが、この二つはともども、戦争と密接な関係を持っている。新しく生まれた国民国家が、防衛にあるいは領土の拡大につとめるのは、そのためである。一つの社会が、戦闘者階級と生産者階級という連帯的な階級に分裂するという現象は、戦争が原因となって起こるのであり、また戦争によって維持されるのである。

 

 

P18

 歴史の流れのほぼ全体を通じて、空間的距離という力と、地表の障害物という抵抗とは、容易に乗り越えられぬ障害として、戦争を制約した。よりすぐれたより殺傷力のある兵器によって優勢を保ち、遠距離大量輸送に適した輸送手段によって優位にあろうとも、この二つの制約に打ち勝つことはできなかった。

 

P19

 そうなるともう戦争は、安定した複雑な制度などもたない部族同士のあいだに行なわれるような、小ぜりあいや待ち伏せの連続ではなくなってしまう。それはまた、二つの軍団の衝突でも、二つの国民の衝突でもない。この種の戦争の特徴は、本質的な不均等性にある。それゆえこれは、むしろ一種の警察行動に似ている。一方には、はじめ弱小かつ単純なものではあったが、後にだんだんと拡大し強力になったところの、制度の整った国家がある。他方には、この国家とは同じ水準に達していない民族がある。そして、前者は後者を服従させつつ吸収し、後者に対して、前者の持つ習俗、技術、制度、信仰、偏執、はては悪徳までも、学ばせあるいは強制する。

 

P23 四 貴族戦争

 歴史的にみると、戦争は、狩猟と武芸試合とのあいだを、また殺戮とスポーツとのあいだを、振り子のように揺れ動いている。敵対状態は戦争にとって基本的な要素であるが、この要素は戦争を、陰謀という形態の方に向かわせることもあり、また決闘という形態の方に向かわせることもある。実際上自立的ないくつかの藩領に分かれ、戦うという仕事がある特権的カーストによって占められているような封建制社会においては、この第二の傾向が著しく助長される。その場合戦争は、一つの規律ある抗争という形で現われ、そこには、遊戯にみられるようなすべての約束事の性格が見出される。戦争は、ある限られた時間・空間のなかで、厳密な法にのっとって行なわれるということが、了解されている。ある種の戦法は禁じられている。無防備の敵を攻撃すること、また予告なしに攻撃を行なうことはない。そればかりではない。そこで求められているものは、相手を殺すことでも抹殺することでもない。相手が降伏したと申し出れば、それでよいのである。意識的に課されたこれらのいろいろな制限は、ごく古くから見受けられる。宣戦布告をすることは、まぎれもないその一つの現れである。このおごそかな通告により、攻撃する者は、不意打ちするという有利な戦法を、みずから放棄する。原始的な戦争は、戦いというよりもむしろ待ち伏せが多かったので、不意打ちこそ主要な戦法であった。その後においては、均等な機会、同等な武備をもって遭遇できるような場に、敵を招致するようになる。メキシコでは、宣戦布告の際、贈り物をおくる。しるしばかりの食糧、衣服、武器などを、相手方に送るのである。戦力のない相手と戦うことは、名誉が許さぬからだ。

 

 →日本中世の戦争はどうなっているのか。降伏の証明が切腹だったのか。戦争を主導した武士層と付き従った実行部隊の民衆との間で、認識の違いはないのか。近代戦争のほうが、被害量の面だけでいえば、よっぽど残酷な気がする。

 

 

P26

 一般に、戦いは多くの死者をともなうものではなかった。一人の人間も、一党の馬も失われずにすんだことさえある。戦争は、賃貸借のようなものであり、また競売における落札のようなものであった。傭兵たちの戦いかたには戦意がなく、一度敵と遭遇すればたちまち部署を放棄した。彼らの行なう戦いは、しばしばみせかけだけのものだった。合計二万の軍勢が四時間にわたって戦いながら、わずか一人の戦死者しか出なかったという例を、マキャヴェリは引いている。しかもそれは、落馬したためだったという。

 

 →日本の場合はどうか。

 

P27

 戦争は、時として多くの民衆の命を奪った。しかし戦闘員の犠牲者は、多くはなかった。貴族たちは、たがいに相手を殺すことを避けた。相手を抹殺することよりも、捕虜をつくることこそ理想であった。

 

P28

 貴族気質、中庸、形式を重んずる風潮、勇気と寛大さを競い合うという独特な闘争心。これらは、戦争のもつ貴族的な面のみを構成している。しかし、仕来りや礼儀を重んずるこの風潮とても、殺人、強姦、略奪、放火を、いささかも妨げるものではなかった。騎士は、相手の騎士を捕らえようとしてそれに成功すると、すぐこの捕えられた者を乱戦の外に連れ出し、安全な所に置いた。貴族の捕虜は、利益の源だったからである。けれども、従卒や金で雇われた兵士は、殺されたり、以後役に立たなくなるよう肩輪にされた。食糧の調達は現地の住民に頼っていたので、占領した国に入るやいなや、凶悪な行為が行われないためしはなかった。農民の大量殺戮、村落への放火、家畜の略奪は、普通のことであった。都市に対して行なわれた略奪がどんなものだったかは、よく知られている。とはいえこれらの暴挙は、農民にせよ市民にせよ、勝負に関わらなかった平民に向けられていた。貴族は彼らを軽蔑していたので、怒り狂った凶暴な兵士を、わざとなすがままにしておいた。一般に、敵は粉砕するものではなく、罰するものであった。すなわち、収穫を焼き、家を焼けばよかったのである。貴族の戦争は、それなりに社会構造を反映し、またそれをあらわにしている。貴族の戦争は、貴族社会の構造を支え、またそれを強化するものだった。貴族戦争にみられるはなはだ精緻な諸規則は、同じ水準にあり同じ文化に属するもののあいだでのみ、意味をもっていた。同じ仕来りのうちに育ち、それらの仕来りを重んずることを誇る者の間でのみ、意味を持っていたのである。民衆は、その埒外にあった。といってもそれは、外国の民衆のことではない。別の習慣に生きる者は、野蛮人同様にみなされたのである。異なった階級の同国人に対してよりも、同じカーストに属する敵に対して、かえって連帯感が見出された。

 

 →自害・切腹も、結局、一定の上流階層の文化にすぎない。おそらく、民衆にはそういう発想はなかったのではないか。一億総中流社会であった記憶の残る日本人には、これが理解できないかもしれない。階層分化が進めば、また理解できるようになるのだろう。

 

P29

 未開人たちは、しばしば二種類の戦争を区別している。その一つは、同じ部族のなかの異なった氏族の間に無制限容赦なしの殲滅戦であって、これは第一の種類の戦争から生じることもあるが、ほとんどの場合、未知の種族に対してのみ行なわれる戦争である。中国においても、帝国内の藩臣の間で行なわれる貴族的な試合のほかに、国境地帯で異民族に対して行なわれる仮借なき戦争が、いつの時代にも存在した。異民族は、獣あるいは悪魔のような性質を持つものと、考えられていた。それゆえ、彼らを抹殺するためには、いかなる手段をとってもよかったのである。後にこれらの異民族は、辺境の軍隊に組み入れられるようになる。それにより、やがて戦争の性質も変化する。王国と王国とがぶつかり合う闘争は、苛酷な、血みどろな闘争へとかわる。これはもはや、名誉のための単なる抗争ではない。これは、互いに敵対する国民と国民との衝突である。そこでは、策略と暴力が用いられる。ここに至って、はじめて敵を粉砕することを求められる。殺戮は頻繁に行なわれるようになり、一種の力のモラルが生まれる。このモラルは、かつて行なわれていた騎士道的習慣に付随して現れることもあるが、またこれにとってかわって現れることもある。

 

 →そうすると、前近代の戦争はすべて貴族的な戦争であり、仕来りを重んじるのは当然で、切腹・自害事例が頻発するのは、戦争の定義として当然ということになる。

 

P30

 ここでよく考えておかなければならぬのは、貴族社会の戦争規則は一つの理想を表わしているにすぎない、ということである。これらの規則は、征服欲というものを均衡のとれたものとし、また不完全な形でしか内包していない。これらの規則は、いつも消失直前の状態にあり、これを存続させるに適した要素がない限り存在し得ない。封土所有者の独立性、不断の紛争にもかかわらず彼らをたがいに結びつけている連帯性は、貴族のあいだにみられる名誉感の偏重、遠征のために雇われた傭兵たちの貪欲さ。これらが、貴族社会の戦争規則を存続させた要素である。傭兵たちにとって、戦争は一つの請負い仕事にすぎない。それは金で雇われた人間の集団により、憎悪も戦意もないままに行なわれる。金が問題となる以上、倹約も必要となる。のちに国家が常備軍保有するようになってからは、国民の全資材を戦争に投入しなければならなくなる。戦争は国家の圧力手段にすぎない。兵員の数は、事実上、はじめから限られている。戦争続行中に兵員数を増大することは、ほとんどできない。それ故、兵力はできる限り温存せねばならぬ。訓練を積んだ軍隊は、一種の確実な資本である。この資本を、一つの戦で危険にさらしてしまうのは、狂気の沙汰と見られていた。

 〈当時、戦争はまったくの遊戯であった。そして、そこでカードを混ぜていたのは、時と偶然出会った〉。クラウゼヴィッツは、こう述べている。彼がこのような方式を書きしるした頃、鉄砲、歩兵、民主主義精神等の面で多くの進歩がなされ、それによって、これまでとはまったく別種の戦争が生まれるまでになっていた。この重要な変遷について調べるまえに、若干の時をさいて、古代中国の場合をみておきたいと思う。古代中国において、武力抗争の凶暴さを和らげるために行なわれていた試みは、人類が知る限りでの、最も忍耐強い、最も組織的な試みであった。

 

 

第二章 古代中国の戦法

P39  二 戦争の倫理

 一人の王、一人の将が、戦争をせざるを得ない立場におかれたとする。このとき彼は少なくとも、流血を見ることなくこの戦争に勝ちうるよう、すなわち、戦闘をまじえることなくこの戦争に勝てるよう、努力しなければならない。彼はそうすることにより、おのれの有能さを証しする。こうすることにより、最高の王、最高の将となることができる。そう孫子は説いている(「孫子」、第三章)。すぐれた兵法者は、一切を無用無益に損なうような危険な戦闘を行なうことなく、勝利を得ることができる。彼が原則とするところは、人は自らの過失によってこそ滅ぼされ、他者の過失によって勝者となる、ということである。勝利とは、徳と能力との当然の結果、と見られている。彼はまた、勇者、英雄、常勝不敗、といった空虚な呼び名を軽蔑する。そして、小さな過ちをおかさぬことこそ、栄誉であるとする。勝利はかならず、そこにつき従ってくるという。兵法とは、相手の士気をくじき、相手を狼狽させ、相手を倦み疲れさせるところにある。勇気のいうことには耳をかすべきではない。有能なる戦士が、ひとり壕よりおどり出でて敵に向かって挑戦し、一騎討ちを試みようとする場合には、これを押しとどめなければならぬ。以上のような勧告は、無用無益なものではまったくなかった。なぜなら、死を賭しての勇こそが、英雄的栄光とみなされ、またその根源でさえあるとされていたからである。勇猛なる戦功こそが、貴族のしるしとされていたからである。

 

P46

 もちろん、アミオが司馬、呉子孫子のものとした戦争論は、理想をあらわしたものといってよいであろう。けれども、この理想自体が重要なものであった。またそれは、一つの文化をになう広範な人々によって理想とされたものであった。公に認められ、教えられ、また広められたこの理想は、風俗に影響を与えずにはおかなかった。最強の者であることよりも、儀式にのっとっていることの方がよしとされた。孔子以来、〈人それぞれの力量は同じでない〉ということは、知らぬ者とてない事柄だったからである。弓術の競技においても同様であった。競技者の端正な態度の方が、的を射たという事実よりも重要なこととされたのである。

 哲人たちの意見もこれと同様であった。孔子によれば、〈真に偉大なる将は戦争を好むものではない。熱にもえ、復讐の念にかられて戦争をするのではない〉。孟子も同じようにいっている、〈私は完璧な仕方で戦闘を行なうことができる、と口にするような人間がもしあるとしたら、これは大罪人である〉。このような賢者は、軍事的勝利の効果について何の幻想も抱いてはいなかった。〈人々を抑圧し、武力によってこれを従える者も、その心を従えることはできない。それゆえ力というものは、たとえ如何に大きかろうとも、所詮は不十分なものである〉。別の賢者は、戦いに勝った武将たちを呪ってこういっている、〈勝者には葬礼をこそ捧げるべきである。彼のおかした殺人をおもい、涙と嗚咽をもって彼を迎えよ〉。弓術の競技において、一本の矢で七つの鎧を射通した勝者たちは、賛辞ならぬ叱責の的となった。〈汝らは国に対して大きな不名誉を与えるものだ。将来矢を射ることにより、汝らの技の被害者を死なしめることとなるのだから〉。つまるところ、技も力も、それだけでは長所とされなかったのである。

 

 →『臥薪嘗胆』の世界観とはかなり違う。実態としての戦争は苛烈であるからこそ、資源としての兵士を失うような戰は避けるべきとする兵法書ができたということか。

 

P47  三 名誉の規則

 この理想は、かなりの程度風俗のなかにまで浸透していた。古代の史書を研究する現代の歴史家は、みなそろって、紀元前八世紀から紀元前三世紀におよぶ封建時代の戦争を、中庸の精神と名誉の規律によくのっとったものとして描いている。

 H・G・クリールはこの時代の戦争を、武士道精神と作法に従った仕来りの体系、と定義している。その目的とするところは、礼儀と寛大さによって相手を恥じいらせることであった。軍団の兵員数は、実際にはさして大きなものではなかった。クリールはこれを、三千から五千のあいだとしている。武将たちは、いろいろな前兆に対しても気を配った。占いの役割は、ことに重要なものであったらしい。戦いは春に始められた。軍団は一糸乱れぬ秩序をもって移動した。部隊合流の時刻を決めるために、伝令が交換された。部隊の長たるものは、神の加護を願う祈りを唱えた。はじめの攻撃は、戦いの前途を卜するものとして重視された。とはいえ、このようなきらびやかなヒロイズムの裏では、侵略、速攻、待ち伏せ、夜襲なども行なわれていたのである。

 マルセル・グラネは、一九三六年オスロにおいて講演を行なった。その後彼が死んでしまったために、この講演は書物にまとめられずに残されたしまったが、そのあらすじを記したなかで、彼は封建時代の闘争の主要な性格をつぎのように要約している。〈⑴戦闘を一種の武芸試合にしてしまうようないくらかの規則があって、これが軍学の根幹を成している。⑵戦闘とは、たがいに礼儀を交換し、おのれの勇気を誇示しあうことである。戦を挑むにせよ降伏するにせよそれぞれの儀礼があって、その目的とするところは名誉を得ることであった。⑶威勢を示すこと。戦闘は、身代金、示談、女の交換、和睦のための酒宴等、たがいの贈答や一体化によって終わる。宗主たる王は戦闘を禁じていなかった。彼はただ規則が守られるように努め、勝者の越権をとがめているにすぎない。〉

 ここで一つ重要なことを指摘しておかなければならない。というのは、ここに挙げたような諸々の特徴は、中国の内部で行なわれた戦闘行為にしかあてはまらない、ということである。中国の法と文明から排除すべしとされた者たちや蛮族に対しては、熾烈な戦争が行なわれた。死ぬか生きるかの執拗な戦いが行なわれ、敗者は過酷な目にあわされた。この場合には、人本、慈悲、中庸といった諸規則は問題とならなかった。ここで用いられたものは、恐ろしい呪術であり、打ち消し難い呪詛であった。ローマ人が行なった捨身御供と同じように、またそれと同じ理由により、死を決意した兵士たちが敵の眼前に配置された。敵陣からよく見えるところ、なるべく敵に近く接近した彼らは、大声で叫びながら自分の喉を切った。彼らの自害は的に不吉な運命を与え、敵を完敗に導くとされていたのである。

 このような場合を別にすれば、形式を重んじたがために、戦争が本当の戦闘とはならずに、威信を保つための試合となってしまった例が多い。このような場合、位の高い武士のみが戦った。位のより高い王侯に一礼した後、作法にかなった攻めが行なわれた。その後では、武器、食物、飲料、贈り物等が交換され、これを記念として平和時にもつづく交際が結ばれた。「司馬法」には逃げる者を百歩以上は追わぬという規則があるが、グラネはこれを事実行なわれたこととしている。そのほかにも、中庸の思想にもとづくものとして、彼が挙げている例がある。運命にすべてを任せるという点からすれば、貴族にとっては、矢を射るにしても、目を閉じて射ることこそ、ほむべきこととされていたというのである。またこの歴史家は、「礼記」の挿話にもとづいて、由緒正しい家柄の武士はとどめの矢を二矢と射ることを肯じなかった、と推論している。孔子の言葉とされているもののなかに次のようなものがあるが、そこでは右のような控えめな態度から次のような教訓を引き出している。〈人間を殺すような場合においてさえ、守るべき儀礼がある〉。そのかわりといおうか、身を勇敢にさらけ出し、旗の先端が敵の砦に触れるほど肉迫し、鞭をもって敵の門の板一枚一枚を数えることがよしとされた。敵との対決は、さほどに血なまぐさいものではなかった。むしろそれは、勇気と、挑戦と、敬意と、呪詛と、敵を困らせるような儀礼と、政略的な寛容さとを、たがいにかわし合うことであった。〈それは武力衝突というよりも、むしろ道義的価値を競う試合であった。この対決においては、名誉が競い合われたのである〉、とグラネは結んでいる。その目指すところは、〈他者をしのいで自らの徳をあらわす〉ことであった。ただ敵をしのぐというだけでなく、味方をしのぐことさえしばしば重要なこととされた、とグラネは記している。各人にとっては、自己の優越をあらわし、その高貴さと度量とをあかしすることが問題であった。王侯にとって戦争というものは、自己の立場を高め、新しい地位を獲得し、それを保持するための機会であった。

 これら武士貴族は、たがいに知己であった。平和時においては、しばしば彼らは招待主であり、友であった。戦場であいまみえたとき、彼らはたがいに尊敬の念であらわすために車を降り、兜をとって三度礼をかわした。「左伝」には、楚の国の一人の射手の話が載っている。敵に追われていたこの射手は、鹿によって車の行くてをはばまれてしまった。矢は一本しか残っていない。彼はこの矢で鹿を射て、それを仕留めた。彼とともにいた槍兵は車を降り、まだ猟の季節ではないことを詫びながら、的である晋の兵士に対してこの鹿を捧げた。そこで晋の兵士は相手の礼儀正しい態度をたたえ、追うことを断念したという。

 

P54

 古代中国は、戦争が完全に制御された時代の一つといってよいであろう。戦争が違った質のものとなり、本来の粗暴なものではなくなって、洗練された対抗行為となってしまっていたのである。次章に示すように、西欧においても、中世からフランス革命までのあいだ、これと同様のことが軍事習慣としてかなりうまく実行されていた。十八世紀には西欧でも、兵員数のあまり大きい軍団は、かさが大きいばかりで扱いにくいとされていた。実戦は、城塞の攻囲と、死傷の少ない理論的な操兵とから成り立っていた。同様にしてまた、戦闘は不可避なものではないとされ、戦闘を行わざるを得なくなるのは、えてして指揮官の落ち度によるものとされていた。戦闘は国境において、つつましやかに、礼儀をもって行なわれ、一旦戦闘行為が終わったときには、あえてこれを続けようとはしなかった。敗走する敵を追撃するものはなかったが、これは節度を守るということと、また脱走兵を出さないようにするという二つの理由によるものであった(モォリス・ド・サクスも孫子も、ひとしくこのことを述べている)。敵対して戦う双方の軍隊のなかには、憎悪も情熱もなかった。王侯の財政により補給を受けていたこれらの軍隊は、住人たちの生活と財産を尊重した。当時兵士になる者は少なく、兵士を養うには多額の金を要し、またそれを教育するには永い年月と難しい技術が必要だったので、王侯たちも兵士たちの命を粗末には扱わなかった。王侯たちが兵士たちにまず求めたことは、分裂更新や演習の際に規則正しく動くような、機械人形になることであった。これら分列行進や演習は、その複雑さと美しさにおいて、古代中国の軍隊の陣形変化に劣るものではなかった。要するに、孫子と司馬と呉子とが戦争について指摘したところのことは、ピュイゼギュール、ジョリ・ド・メーズロア、モンテククーリ、モォリス・ド・サクス等の指摘したことのなかに、ほとんどみな見出されるのである。

 これを封建時代の戦争と比較すれば、この比較はさらに意義深いものがある。欧州封建時代の戦争では、騎士たちのあいだでのいろいろな名誉を格づけることが重要な役割を果たしていたが、その一方歩兵は王侯の従者としてしか扱われていなかった。中国においてもこれと同様であって、歩兵は物の数には入らなかった。彼らはほとんど兵士としては扱われなかったのである。彼らは、従卒あるいは馬丁あるいは土工として、壕を掘ったり、馬や車輛の手入れをするのに使われていた。戦列を組む際には、無益な無駄口をきかせぬようにするために、彼らの口に枚をはませた。ヨーロッパの騎士たちは、戦争において彼らを補助する平民たちに対して、少なからぬ侮蔑の念をいだいていたのである。

 

P57

 封建制度の没落は、貴族的秩序と宮廷的な諸価値の没落をまねいた。ここで戦争はその性質を変えた。それは、仮借なき残酷なものとなった。戦争は、敵を破壊しつくすものとなった。虜をとらえ、それを種に身代金を取り、それによってそのつぎの戦闘に備える、といったことはなされなくなった。捕えられた者はみな殺された。勝つことがあらゆる闘争の目的となり、勇敢にして公正かつ大様な戦いをして、それによって威光や貴族の身分を得ようとする者はなくなった。紳士の本分たる名誉と節度を重んずる規則はすたれ、権力の意志と国民的情熱とがこれにとってかわったのである。

 

 →身代金をとっている状態は、現在でいえば、「パキスタンタリバーン運動」のようなテロ組織?の活動と同じか。

 

P58

 かつて、武器を取ることを生業とすることは、名誉を得るための試練であった。そしてそれは、名誉と勇気をもって武器を取り扱うことのできる、名誉ある男のみに許されることであった。重臣たちのみが対決するこのような戦いには、女子供や老人や病人は、はじめから除外されていた。資格のない外国人や平民も、そこから除外されていた。ところがいまや、執拗にして限りを知らぬものとなった戦争は、何びとの命も容赦せぬものとなった。〈力を持ちたくわえているものは、たとえ老人といえどもみな敵である。……まえに与えた傷が死に至らなかったからといって、今度傷つけてはならないという法がどこにあろうか〉。この言葉は、戦争というものが変化したその度合いを、よく表していると思う。

 西欧においても十八世紀の末以来、不思議なほどあい似た変化がおこった。決定的な改革が中国の場合とほぼ同様の仕方で行なわれ、その結果として、封建的特権階級の支配する位階制度はくずれ、そのかわりに、強い規制力をもつ国家が現れ、市民が国民行政に参画するようになった。二千年という時を隔てて、地球の両側において、同種の変革が行なわれたわけである。これら二つの変革は、同じようないくつかの要求に答えて行なわれたものであり、ともに同様の結果をもたらすものであった。両者の場合とも、民衆がいろいろな権利を獲得して平等なものとなったという事実は、戦争の様式をそれまでにはなかった激しいものにしてゆく、第一段階であったようにみえる。事実、民衆が戦争に参加するようになると、必然的に戦争は遊戯であることを止め、武芸試合であることを止め、分列行進であることを止めねばならなかった。戦争は、真剣なものになっていったのである。

 

 →切腹は、戦争を終わらせるときの儀礼・仕来りのようなもので、手続きに従っただけ。自身の暮らしている「界」の約束事に従っただけで、ルールが自分のなかで無意識的に内在化されているのではないか。勇気や名誉を示す貴族的な戦争の側面が残っている。身分の低い人間が自害することはなく、大将クラスの人間が切腹するわけだから、やはり自害には階層性があると言える。

稲葉桂氏所蔵文書1

解題

 鎌倉時代後期から室町時代にかけての弁海名に関する史料は約二十通あり、楽音寺・東禅寺・弁海神社・稲葉桂氏の各所蔵文書の中にみることができる。

 本文書は十通あり、明治七年原本を県庁へ進達した時の写であるが、うち九通は鎌倉時代末期から南北朝期にかけての弁海名名主職の補任に関するものである。それによると、源信継 信賢 信成 孫鶴丸 僧見月の順に名主職を勤めたことがわかる。

 

 

    一 梨子羽郷預所下文写

 

             コヽニカキハンハリ

  下 安芸国沼田庄梨子羽郷

   定補   弁海名職事

        右衛門尉源信

 右以人所彼職也、有限所当米并公事以下、不懈怠者、

 沙汰人百姓等宜承知、敢不違失、故以下、

     (1314)

     正和参年正月廿日

          ○本文書以下九通ハ、明治七年七月原本ヲ縣廳へ進達シタル時ノ写ト傳フ

 

 「書き下し文」

              此処に書判有り

  下す 安芸国沼田庄梨子羽郷

   定め補す 弁海名職の事

        右衛門尉源信

 右、人を以て彼の職に補せらるる所なり、限り有る所当米并びに公事以下、懈怠致すべからず、てへれば、沙汰人百姓ら宜しく承知し、敢へて違失すべからず、ことさらに以て下す、

 

 「解釈」

 安芸国沼田庄梨子羽郷に下達する。

  右衛門尉源信継に補任する、弁海名名主職のこと。

 右、源信継をもって名主職に補任するところである。重要な所当米や公事などの収納を怠けてはならない。したがって、沙汰人・百姓らはよく承知し、けっして背いてはならない。格別に下達する。