周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─9 〜経済苦は自殺の超歴史的原因か?〜

  応永二十五年(一四一八)三月八日条(『図書寮叢刊 看聞日記』1─199)

 

 八日、霽、(中略)

         (中院)

  抑三条坊門大納言通守卿去月十日令自害、以小刀喉吭かき切云々、春日祭

  上卿事被仰、難治故障之由申、猶現見被仰、窮困過法難叶之由再三申、

  所詮窮困身、朝廷拝趨不叶、只欲自害之由常持言也、十日有酒宴

  其後於持仏堂自害云々、併狂気歟、近日天下口遊云々、不思儀事也、

 

 「書き下し文」

 抑も三条坊門大納言通守卿去月十日自害せしむ、小刀を以て喉吭を掻き切ると云々、春日祭上卿の事を仰せらるるに、故障難治の由を申す、猶ほ現見を仰せらるるに、窮困過法叶ひ難きの由再三申す、所詮窮困の身、朝廷に拝趨叶ふべからず、ただ自害せんと欲するの由常に持言するなり、十日酒宴有り、其の後持仏堂に於いて自害すと云々、併しながら狂気か、近日天下の口遊と云々、不思儀の事なり、

 

 「解釈」

 さて、三条坊門の大納言中院通守卿が先月二月十日に自害した。小刀で喉笛を掻き切ったという。称光天皇は春日祭の上卿に通守卿をお命じになったが、通守卿は「抱えている差し障りを片付けることができていない」と申した。さらに、称光天皇は「姿を見せるように」とご命令になったが、通守卿は「貧困の厳しさによって参上することはできない」と再三申した。「結局、貧困の身では朝廷に参上することはできない。ただ自害したい」といつも言い続けていたのである。二月十日に酒宴があった。その後、持仏堂で自害したそうだ。結局のところ、狂気だったのだろうか。この件は、近ごろ世間の噂になっているという。思いもよらないことである。

 

 「注釈」

 今回の史料ですが、すでに二人の研究者によって分析されているので、まずはそれを紹介していきます。

 

 松薗斉「中世後期の日記の特色について」

  (『日本研究』44、2011・10、409頁、https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=487&item_no=1&page_id=41&block_id=63

 史料2〈今回の史料〉は、現任の大納言であった中院通守が、春日祭の上卿を命じられながら、経済的に困難であると再三辞退したものの、なお勤めるように強請されたので、進退窮まって自害してしまったというものである。酒の勢いにまかせて、という感があり、他にも事情があったのかもしれないが、中院家のような上級貴族でも公事を勤めることができない状況に追い詰められていた者がいたことは確かであろう。

 

 井原今朝男「中世の僧綱は輿に乗らねばならなかった」

     (『史実 中世仏教』第2巻、興山舎、2013、37〜38頁)

 こうした〈朝廷の勅使の〉行列は「装束目録」が事前に定められ、衣服の色や文様、身につける装飾品まで決められていた。春日祭や賀茂祭など祭使の華麗さは想像できよう。

 したがって、室町時代になって公家が経済力を喪失すると、とりわけ三位以上で、清華家大臣家と呼ばれる格式のある上級貴族の家では、前駈の殿上人と諸大夫、五位の侍から牛童・車副や駕輿丁・輿副や童にいたるまで自力で準備することができなくなる。このため一門の貴族から互いに融通しあったり、摂関家などから装束を借用したりと、苦労した。

 たとえば、応永二十五年(一四一八)年、春日祭の上卿(責任者の公家のこと)に任命された三条坊門大納言通守は困窮のあまり上卿の役を負担することができないと再三、朝廷に辞退を申し出た。しかし、称光天皇は厳格に執行するように命じた。このため、通守は「所詮、困窮の身で朝廷に拝趨すること叶うべからず、自害を欲す」と口にして、持仏堂で自害してしまった(『看聞日記』応永二十五年三月八日条)。身分社会の中では、貴族の体面を維持できない場合には、自害や遁世して公家身分を放棄しなければならなかったのである。

 

 井原今朝男「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」

           (『室町廷臣社会論』塙書房、2014、178頁)

 摂家清華家大臣家は、政権運営では、勅問の輩として位置づけられ、関白執奏や宮執奏などで国政意志決定の審議過程に参加することはできた。彼らは家格が高位高官ではあったから、朝衣狩衣衆といわれ、装束の準備・維持にも出費が嵩んだ。拝賀や室町殿参賀などの外出では、公卿の扈従や殿上人の前駈、諸大夫や布衣侍の地下前駈、衛府・雑色人・牛飼など確保しなければならなかった。つまり、摂家清華家大臣家の上位家格の公家層が、より身分的・経済的に「困窮」に陥ることが多かったといわなければならない。洞院家熙は自らが清華家で「番々の輩の如く成り下がる」ことはできないと述べ、子息公数は出家して家領や家文書を売却し、家の断絶を主体的に選択したことが指摘されている。

 大臣家中院家でも同様の事例がみえる。応永二五年(一四一八)三条坊門権大納言通守は、春日祭上卿を仰せつけられたが、「窮困過法難叶之由再三申」して辞退した。しかし、後小松院はなお「厳密」に仰せつけた。「所詮、困窮の身、朝廷拝趨叶うべからず、只自害を欲す之由常に持言也」として、二月一〇日持仏堂において小刀で喉元をかき切り自害し、「天下口遊云々」と騒がれた(『看聞日記』応永二五年三月八日条)。経済的逼迫の度合いは絶対的なものではない。摂家清華家大臣家など高い身分ほど、格式にともなう「困窮」の度合いが強いから、「困窮の身」の自覚意識が大きかったといわなければならない。

 

*〈 〉内は筆者の注記。

 

 

 以上のように、この史料は詳細に分析されているので、取り立てて何かを付け加えることはないのですが、ひとまず自殺の概要をまとめてから、いつものように自殺の動機に迫っていこうと思います。

 今回の史料で自殺を遂げたのは、大納言中院通守でした。この時期、通守は経済的に困窮しており、それを理由に朝廷から命じられた上卿の役目を固辞していました。彼は日ごろから、貧困のために出仕できないことを気に病み、自殺したいと漏らしていたようです。そんな折のこと、二月十日に酒宴が開かれました。通守は酒宴の後に持仏堂に向かい、小刀で喉笛を掻き切って自殺してしまったのです。

 

 では、中院通守はどのような動機(原因・目的)によって、自殺を遂げたのでしょうか。史料に明示されているように、自殺の原因動機の一つは、「経済的困窮」であったとみなしてよいでしょう。通守自身が日ごろから貧困の身を嘆き、自殺したいと漏らしていたのですから、この点は問題ないと考えられます(注1)。管見のかぎりですが、今回の記事が経済苦を原因に自殺した最古の史料ではないかと思われます(注2)。

 次に、通守は何を目的に自殺を遂げたのかを考えてみましょう。ここで参考になるのが、前述の井原氏の「身分社会の中では、貴族の体面を維持できない場合には、自害や遁世して公家身分を放棄しなければならなかったのである」(『史実 中世仏教』第2巻)という指摘です。おそらく、貧困のために満足な奉公ができない状態が続くというのは、通守にとって耐えがたい恥辱だったのでしょう。こうした恥辱からの逃避が、自殺の目的動機の一つだったと考えられます。

 

 しかし、体面を維持できないという心理的な原因だけで、本当に自殺にまで至るのか、という疑問が残ります。これについても、井原氏の研究が示唆を与えてくれます。「室町戦国期は、天皇の勅勘(出仕停止処分)や室町殿の突鼻(勘当処分)にあって所領没収や出仕停止のみならず、家名断絶や廃絶する公家や武家が多数現れた」(「廷臣公家の職掌と禁裏小番制」『室町廷臣社会論』塙書房、2014年、271頁)。この指摘を踏まえると、中院通守は上卿任命の拒否・出仕不能によって、所領没収や家名断絶に処されることを恐れたのではないか、と考えられます。つまり、恥を晒すだけでなく、公家の身分やそれに付随した経済的特権を失って、苦しみながら生きながらえるぐらいなら、いっそ自ら命を絶ったほうがましだと考えたのではないでしょうか。

 

 ところで、井原氏も指摘しているように、困窮に陥って奉公が叶わなくなった場合、必ずしも自殺するとは限らず、遁世することもあったようです。いやむしろ、中院通守のように、自殺をしてしまうほうが珍しかったのではないでしょうか。この時期の古記録を見ていると、貧困に喘ぐ公家の記事は枚挙に遑がありません。その多くは、困窮しているだけで、自殺を決行するどころか、遁世することさえもしていないのです(注3)。

 実は、この史料から遡ること約200年前、寛喜三年(1231)にも、中院通守の状況とよく似た事件が起きました。この事件については、平雅行氏がすでに検討されているので、必要な箇所を引用しておきます。

 

 平雅行「日本中世における在俗出家について」

  (『大阪大学大学院文学研究科紀要』55、2015・3、21頁、https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/55449/

 近衛少将藤原教信は舅である大納言源雅親の吹挙で昇進し、寛喜三年(一二三一)賀茂祭近衛使に指名された。しかし、近衛使をつとめるには相当な費用負担が必要であるため、その経費を捻出できないということで辞退した。ところが後堀河天皇は辞退を認めず、再三譴責して教信の勤仕を求めた。一方、教信の方もあくまでそれを拒絶し「対捍之様、非普通之儀」と評されている。近衛使の辞任が予想を超えた大問題に発展したのである。結局、教信はこの後、「渡世之計」を失って高野山で出家しているが、これも挫折・失意・諦念による出家と考えてよい(『民経記』(大日本古記録)寛喜三年(1231)三月五日条・十三日条(東京大学史料編纂所「古記録フルテキストデータベース」、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/1602/0271?m=all&s=0271、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/1602/0284?m=all&s=0271&n=20)、『明月記』天福元年(1233)八月二十四日条(国会図書館デジタルコレクション『明月記』第3、コマ番号194、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991255)。

 

 

 藤原教信(藤原道隆の孫・藤原輔平の子)の境遇は、中院通守とよく似ています。ですが、教信は出家し、通守は自殺してしまいました。今後、事例を蒐集してみなければはっきりしたことは言えませんが、経済苦を原因に自殺するという事例は、室町時代から始まったのかもしれません。

 ところで、この教信と通守の違いはどこにあったのでしょうか。史料からはこれ以上のことは読み取れないのですが、ここでも井原氏の研究が示唆を与えてくれます。

 

 井原今朝男「中世の僧綱は輿に乗らねばならなかった」

        (『史実 中世仏教』第2巻、興山舎、2013、36頁)

 中世の僧侶は、大半は武士や貴族の出身者が多かった。法然は武士漆間時国の子息であり、親鸞も公家日野有範の子息である。出家して世俗との関係を断ったとはいえ、寺院での生活を支える費用や雑事をこなす要員は、実家や檀越からの寄進や援助に頼った。このように、中世の学僧は、身の回りの世話をする下﨟僧や所従・下人などの従者を祖父以来の相伝として所有していた。こうしたことから、僧侶社会の日常生活は、武家や貴族の生活規範がそのまま通用する世界でもあったのである。

 

 この井原氏の指摘を踏まえると、次のことが推測できます。つまり、藤原教信には経済的・人的資産があり、出家後の生活がある程度保証されていたために出家した。一方の中院通守にはそうした資産がない、あるいは勅勘によって家名断絶・所領没収され、出家しても生活レベルが一挙に落ちることが予期されたために、自殺を遂げた。

 中院通守が自殺した時期は、歴代天皇のなかでもとりわけその凶暴性をあらわにした後小松・称光天皇親子の御代でした(注4)。彼らの御代には処罰例が多かったそうですが、こうした特殊な政治状況に身を置いていたからこそ、通守は自殺を決意したのではないでしょうか。

 

 最後に、今回の事件をまとめておきます。中院通守の自殺の原因動機は、経済苦による奉公不能だったと考えられます。彼はそのような状況に陥ってしまったことで拭いがたい恥辱を味わったと考えられます。また、所領没収や家名断絶に処され、苦しみながら生き続けなければならないという窮状が永遠に続いていくと思い込み、それを恐怖したのではないでしょうか(注5)。自殺の目的動機は、こうした恥辱や恐怖から逃避だったと考えられます。

 

 ところで、令和元年(2019)における厚生労働省の調査によると、「経済・生活問題」を原因とした自殺の割合は全体の約17%で、1位の「健康問題」(約49%)に大きく差をつけられているものの、第2位の原因となっています(厚生労働省自殺対策推進室・警察庁生活安全局生活安全企画課『令和元年中における自殺の状況』2020・3、https://www.mhlw.go.jp/content/R1kakutei-01.pdf)。このように経済苦は、現代では主要な自殺原因とみなせるのですが、中世ではまだまだ珍しい原因だったと考えられます。つまり、「経済苦は超歴史的・普遍的な自殺原因ではない」、言い換えると、「経済苦は歴史・社会的に形成された特殊な自殺原因だ」ということになりそうです。もしこの推論が正しければ、経済苦で自殺することは当たり前ではなくなるわけですから、経済苦で自殺しなくてもよい、もっと言えば、自殺するほどの「苦」だと思わなくてよい、ということになります。ところが人間は、「苦」や「問題」という言葉の前に、「経済」「生活」「健康」「勤務」「男女」「学校」「家庭」のような修飾表現を付けて、何でも自殺の原因にしてしまえるのです。となると、現在では想像もできないことを苦痛に思い、それを原因に自殺を決行する人が、今後現れるかもしれません(注6)。

 このように見てくると、自殺の原因をいくら新しく提起し分類したところで、何の解決にもならないことがわかります。自殺の原因を「経済・生活問題」「健康問題」「男女問題」「勤務問題」「学校問題」「家庭問題」といったカテゴリーに分類して、わかったような気になるのではなく、そうした「苦」から逃避するために、どうして人間は「自殺」という手段を用いてしまうのか、という点を明らかにすることが喫緊の課題だと考えられます。苦からの逃避の仕方はいくらでもあります。にもかかわらず、なぜ「自殺」を選んでしまうのでしょうか。「苦からの逃避」と「自殺」の結び付け方にも、きっと歴史的・社会的な特徴があるでしょうから、現代と近代、そして前近代では、異なる通念や価値観によって両者は結び付けられていたはずです。

 自殺は、当事者が望んだように見えて、それだけではない。知らぬ間に、社会通念として刷り込まれ、そうするものだと思い込まされている可能性があるのです。「苦痛や絶望、恥辱から逃れるためには、自殺するしかない」という自殺念慮は、私的な意志であるように見えて、社会通念そのものでもあることに気づかなければならないのではないでしょうか。

 

 

(注1)

 松薗氏も指摘しているように、「酒の勢い」やその他の事情が、自殺の遂行に影響を与えた可能性もあります。その他の事情については関連史料がないため付け加えることはないのですが、酒と自殺の関係については高橋祥友氏の研究が参考になります。

 

 さて、自殺とアルコールの関連であるが、アルコール依存症うつ病とともに重要な自殺の危険因子とされている。さらに、うつ病アルコール依存症の両方の診断にあてはまるような状態では、自殺の危険はより一層高まってしまうことは当然である。

 ただし、アルコール依存症の診断までには該当しない人であっても、死への恐怖感を減らすために、自殺企図の際に、しばしばアルコールが使われている。

 精神科医をしていると、飲酒さえしていなかったならば、死への衝動を行動化することはなかっただろうと思われる事例にしばしば出会う。酩酊することによって、自己の行動をコントロールする力を失った状態に追いこんで、自殺を図る人はけっして少なくない(「自殺未遂の実態」『自殺未遂─「死にたい」と「生きたい」の心理学』講談社、2004、81・82頁)。

 

 この研究を踏まえると、中院通守は飲酒によって自制心を失い、自殺を遂げてしまったと推測できそうです。当たり前のことなのでしょうが、中世びとも飲酒をきっかけにして、自身の感情や行動をコントロールできなくなり、自殺に至ることがあるようです。

 もう一つ注目しておきたいのが、自殺した場所です。通守の邸内には持仏堂が存在したようですが、彼はそこで自殺を遂げています。どのような仏を祀っていたのかはわかりませんが、仏前で自殺することで、来世での救いを求めたのかもしれません(自殺の中世史2─13・14、3─3など参照)。

 

(注2)

  今のところ私は、鎌倉時代以前と室町時代には隔絶があり、室町以降に経済苦を原因とした自殺が増えていくと予想しています。おそらく、貨幣経済が人間の心の隅々にまで根を張り、貨幣なしでは生きていけなという思い込みがはっきりと姿を現した時期が、室町時代だったのではないかと考えています。このような推測の是非はさておき、両時代の違いは何に由来するのか、どのような社会背景や価値観が経済苦による自殺を引き起こすのか。また、現代よりも明らかに貧しい暮らしをしていたであろう中世以前の人々は、どうして経済苦を原因に自殺しないのか。このような疑問が後から後から湧いてくるのですが、いずれも今後の課題としておきます。

 

(注3)

 このブログの「一軒家から借家への転落」で紹介した四条隆富、「ハーレム内の憂鬱3」で紹介した田向長資など参照。ただし、井原氏の研究によると、一部の貴族の生活は比較的安泰だったようです。幕府や禁裏から給付金を得るため、自領荘園に下向して年貢などを徴収するため、公務をさぼる名目として「困窮」を訴えることもあったそうです(「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」『室町廷臣社会論』255頁)。

 

(注4)

 桜井英治「神慮による政治」(『室町時代の精神』日本の歴史12、講談社、2001、93頁)。なお、後小松上皇称光天皇の凶暴性については、その個人的な気質として語られてきたのですが、井原氏によると、むしろ天皇家の家父長制的権力の凶暴性を物語るものだとされています(「室町戦国期における天皇権力の二面性」『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012)。

 

(注5)

 前掲高橋著書85・86頁には、自殺の危険性が高くなっている人の心理の特徴として、「窮状が永遠に続くという確信」を持っていることが挙げられています。

 

(注6)

 例えば、「あまりにも美しすぎるこの世界を見続けることが苦痛で自殺した…」など。信じられないが、論理的にはあり得る原因だと思われます。これまで紹介してきた記事の中にも、現代人の感覚からすると、信じられない原因によって自殺を遂げた記事はいくつもありました。「そんな理由で自殺をするのか…」と。そうすると、かりに中世びとが現代人の自殺原因を知れば、「そんな理由で自殺するか…」と思うでしょうし、未来人が現代人の自殺原因を知れば、同じように「そんな理由で自殺するのか…」と思うでしょう。こうした想定をするだけでも、自殺の原因・目的は超歴史的・普遍的なものではない、つまり歴史・社会的に形成されたものであることが推論できます。

高橋祥友著書

 高橋祥友「自殺未遂の実態」

(『自殺未遂─「死にたい」と「生きたい」の心理学』講談社、2004、79〜83頁)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P79 死への恐怖感が低くなる

 前項とも関連しているのだが、得てして、誰かが自殺を図ったが、幸い助かった場合、周囲の人々はもうそれですべての危機が過ぎ去ったと思い込みがちである。たしかにそうあってほしい。そして、関わりのある人たちのこのような希望的観測を理解できないわけではない。

 しかし、危機的状況に置かれた際に自殺を図ろうといった反応に及ぶことが、その人の行動パターンに深く組み込まれてしまっている可能性について十分に注意を払っておかなければならない。

   (中略)

 自らの身体を傷つけるという行為は、自殺を考えているだけの段階からかなりの部分を踏み出して、実際に命を落とすことに近い段階に迫りつつあると考えなければならない。

 自分の身体を傷つけるという行為には強い恐怖感が伴う。そして、実際には未遂行為にまで及んでしまったということは、死に対する恐怖の閾値が相当低くなってしまったということでもある。そのような行為に及んでいない人に比べて、はるかに自殺に対する恐怖感や抵抗感が低くなってしまっていると考えられるのだ。

 自殺というと、すぐに武士の切腹のようなものを思い浮かべるようだが、覚悟の自殺のようなものはほんの一握りであり、そう易々とひと思いに自分の命を絶てるものではない。たとえば、手首を切って自殺を図る人でも、しばしばためらい傷を認める。たった一度で、致命的な傷を自ら負うことは非常に難しいのだ。

 最近、首都圏の某鉄道で自殺が相次いでいることをマスメディアが大々的に報じている。マスメディアで大きく取り上げることが、自殺の危険の高い人の関心をその鉄道に向けてしまい、同様の場を用いるという傾向があるのだが、鉄道の側にももう少し配慮がほしいと私は考えている。

 というのも、以前に比べて、ホームにいる駅員の数が圧倒的に少ない。自殺を考えているが、すぐに電車に飛び込んでいるとは私には到底考えられない。ためらい傷のように、なんども飛びこもうとしては躊躇し、幾度もそうしようと試みた末に身を投げていると考えるほうが自然である。そこで、電車が何度もホームから出ているのに、その間、電車に乗り込まずにホームを徘徊している人を見つけたら、まず一声かけるだけでも、鉄道自殺はかなりの数が減るのではないかと思う。

 話は少し逸れてしまったが、自殺未遂に及ぶまでにはかなり高いハードルがある。強い恐怖感や抵抗感を乗り越えた末に、自分を傷つける行為に及んでいる。ひとたびそのハードルが低くなってしまうと、その人に組み込まれた反応パターンになってしまっている可能性が高いと考えるべきなのだ。

 周囲の人々の多くが考えるように、自殺未遂が一回だけ終わって、立ち直ることができればベストである。しかし、現実の問題として、一度でも自殺未遂に及んだ人というのは、将来も危機的な状況に置かれた際に、再び同じような行動を繰り返して、そのときは取り返しのつかない結果になってしまう可能性が高いことを忘れずに、それに対応しなければならない。

 

P81  酒との関係

 前項で、自らの身体に傷をつけることに対しては強い恐怖感や抵抗感が伴うと指摘した。何の覚悟もなく、易々と自殺してしまう人などひとりもいない。

 その恐怖感や抵抗感を和らげる手段として、しばしばアルコールが用いられている。

 薬物乱用の問題が最近、大きく取り上げられている。WHOの警鐘を鳴らしているように、覚醒剤や麻薬以上にアルコールは世界で最も幅広く乱用されている薬物であり、その問題は深刻である。

 アルコール依存症の診断が下される人は日本だけでも最低二〇〇万人はいると推定されている。予備軍となるとその数倍は存在するだろう。

 さて、自殺とアルコールの関連であるが、アルコール依存症うつ病とともに重要な自殺の危険因子とされている。さらに、うつ病アルコール依存症の両方の診断にあてはまるような状態では、自殺の危険はより一層高まってしまうことは当然である。

 ただし、アルコール依存症の診断までには該当しない人であっても、死への恐怖感を減らすために、自殺企図の際に、しばしばアルコールが使われている。

 精神科医をしていると、飲酒さえしていなかったならば、死への衝動を行動化することはなかっただろうと思われる事例にしばしば出会う。酩酊することによって、自己の行動をコントロールする力を失った状態に追いこんで、自殺を図る人はけっして少なくない。

 これはアルコールのもたらす危険を十分に認識していないことからも生じていると考えられる。覚醒剤や麻薬は違法であるが、飲酒は成人になれば我が国では認められている。それだけに、覚醒剤や麻薬以上に、乱用され、社会に深く、広く浸透している薬物なのだ。

 これまでの経験から、飲酒をすると一時的に気分も晴れるし、よく眠れるようになると、多くの人が信じている。最近どうも気分がすぐれないなどと感じたときに、精神科を受診しようなどとは考えずに、まずアルコールに手が伸びてしまいがちである。しかし、これは広く信じられている誤解である。

 飲酒によって、睡眠の質は悪化するし、中枢神経の働きを抑える作用もある。アルコールには依存性もあり、うつ病の症状も確実に悪化してしまう。そして、何よりも自己の行動をコントロールする力を奪ってしまうという点が恐ろしい。

 自殺で亡くなった人のいかに多くが、最後の行動に及ぶ直前に酩酊状態にあったかという事実を確認するためには、著名人が自殺した際の死亡記事を読んでみるとよいだろう。あえて名前を挙げることはしないが、政治家、映画監督、歌手の名前などが何人もすぐに思い浮かぶ。

 アルコール依存症は、身体、精神、対人関係といったさまざまな面に問題をきたす。アルコール依存症の診断に該当する人は、病死、事故死、自殺のために、平均寿命は健康な人に比べて三〇年も短くなってしまう。

 ただし、アルコール依存症には該当しないまでも、これまでにしばしば大酒してきた人や、最近になって飲酒量が増えているような人に自殺の危険が迫る可能性についても十分に注意しておかなければならない。

 

P83 自殺の危険が高くなっている人の心理

 いよいよ自殺にまで追いこまれている人の心理とはどのようなものなのだろうか。うつ病にかかって自殺によって命を失ってしまう人もいれば、どれほどうつが重症であっても、けっして自分を傷つける行動に出ない人がいる。また、うつ病以外にも、統合失調症、薬物乱用、アルコール依存症、パーソナリティ障害などさまざまなこころの病が自殺に関連してくる。しかし、どのような病気であれ、自殺の危険の高い人には次のような共通の心理がある。

 

①絶望的なまでの孤立感

 この孤立感は最近になって、たとえばうつ病を発病して、その影響のために生じた場合もあるだろう。また、幼い頃から永年にわたって、この種の強烈な孤立感を抱き続けてきた場合も少なくない。

 実際には家族もいるし、友人や知人も大勢いる。しかし、その中で激しい絶望感を伴う深い孤独を感じ続けてきたのだ。現実には、周りから多くの救いの手を差し伸べられていたとしても、この世の中では自分はひとりきりであり、誰も助けてくれるはずはないという、深い孤独を感じ、それにいよいよ耐えられなくなっている。

 

②無価値感

 「私は生きるに値しない」「生きていることすら許されない」「私などいないほうが皆が幸せだ」「自分の居場所がどこにもない」といった感情も、うつ病をはじめとするこころの病のために、最近になって生じている場合もあれば、幼少期から長年にわたって強い絆のある人からのメッセージとして抱き続けている場合がある。

 人生の早期に、絶対的な自己肯定感を育むことは、その後の人生でこころのバランスを保つうえでとても大切なことである。しかし、これがうまくいかなったために、自分は生きることが許されないといった否定的なメッセージを幼い頃から受けてしまっている、不運な人も現実にいるのだ。

 「生きるだけの意味がない」「生きていることさえ許されない」「生きる意味をまったく失った」という絶望感に圧倒されてしまっている。そして、本人も無意識的に周囲の人々をあえて刺激し、挑発することによって、自分を見捨てるように振る舞うことさえ稀ではない。

 

③極度の怒り

 自殺の危険の高い人は、絶望感とともに強烈な怒りを覚えている。これは強い絆を持った人に向けられている場合もあれば、また、他者に対するそのような怒りを感じている自分を意識することで、かえって自分自身を責める結果になっている場合もある。窮状をもたらした他者や社会に対して強い怒りを感じていたのが、なんらかのきっかけで、それが事故に向けられると、急激に自殺の危険が高まりかねない。他者に対する強烈な怒りはしばしば自分自身に対して向けられた怒りでもあるのだ。

 

④窮状が永遠に続くという確信

 周囲の人々には、さまざまな解決策が思い浮かぶ。しかし、本人は、今、自分が置かれている絶望的な状況に対して何の解決策もないし、どんなに努力をしたところで、それは報われず、この窮状が永遠に続いていくと確信している。他者から与えられた助言や解決策は、苦境から脱するには何の役にも立たないとして、拒絶されてしまう。

 

心理的視野狭窄

 自殺の危険が迫っている人の思考をトンネルの中にいる状態にたとえた精神療法家がいる。トンネルの中にいて周囲は真っ暗である。遠くから一条の光が差し込んでいて、それがこの闇から出る唯一の方法というのだ。そしてそれが自殺であって、他に解決策はまったく見当たらないという独特の心理的視野狭窄の状態に陥っている。

 

⑥諦め

 自殺の危険の高い人は、同時にさまざまな感情に圧倒されているのだが、次第に、ありとあらゆる必死の戦いを試みた後に独特の諦めが生じてくる。穏やかな諦めというよりは、嵐の前の静けさのような不気味な感じを伴う諦めと言ってもよいだろう。

 「すっかり疲れ果てた」「もう何も残されていない」「どうでもいい」「何が起きてもかまわない」といった感覚である。この段階に至ると、怒りも、抑うつや不安も、孤独さえも薄れていく。もはや戦いは終わり、それに敗北したという感覚である。まるで、武器を捨てて、壕を出て、弾丸の飛び交う中に無防備で出て行くような感じさえ伴う。

 このような諦めに圧倒されてしまうと、周囲からはこれまでの不安・焦燥感が薄れて、かえって穏やかになったととらえられかねない。あまり敏感でない人の目には、落ち着きを取り戻したかのようにさえ映るかもしれない。

 

⑦全能の幻想

 どんなに環境や能力に恵まれた人であっても、自分の置かれた状況を直ちに変化させることなど不可能である。変化をもたらすには時間も努力も周囲からの助けも必要である。しかし、自殺の危険の高い人というのは、ある時点を超えると、唯一、今の自分の力でも直ちに変えられるものがあると思い始める。

 そして、「自殺だけは今すぐに自分の力だけでも可能だ」「自殺は今できる唯一残された行為だ」といった全能の幻想を抱くようになっていく。この幻想は、絶望感、孤独感、無価値感、怒り、諦めといったさまざまな苦痛を伴う感情に圧倒され続けてきた人たちにとって、甘い囁きとなって迫ってくる。このような全能の幻想を周囲の人が感じるとき、自殺の危険はもはや直前にまで迫っている。ただちに何らかの対策を取る必要が出てくる。

 

 自殺を引き起こしかねない問題がなんであれ、自殺の危機が直前にまで迫った人がこのような複雑な感情に圧倒されていることを周囲の人々が理解しておかなければならないのだ。

 

P88 どのような性格の人に危機が迫るのか

 それぞれの人がそれぞれに生きてきたように、性格も人によってさまざまであり、類型化することは難しい。そして、どのような性格の人であっても、短期間にあまりに多くの問題を抱えてしまったために、急激に自殺の危険が高まることがあっても不思議はない。

 さまざまな性格の人に自殺の危険が高まる可能性があるのだが、とはいえ、その中でも、とくに次のような性格の人はその危険が高いと言えるだろう。

 

①未熟、依存的

 未熟で依存的な性格で、自らの能力の範囲で葛藤に対処できない人である。とくにこれまで支えられてきた人から見捨てられるような体験を契機として、急激に抑うつや自己破壊傾向を呈することも多い。現実に見捨てられるという状況ばかりでなく、本人自身が「見捨てられるのではないか」と強い不安を抱いていることが、自殺行動に及ぶきっかけになることさえある。

 支えられてきた人とは、家族、知人、同僚や、医療関係者の場合もある。そして、依存的でありながら、周囲に対して不満を持ちやすく、あるいは他人の怒りを故意に引き出すような傾向のある依存・敵対型の人はとくに自殺の危険が高い。

 周囲の人々はその人を助けようと懸命に努力しているにもかかわらず、どのような援助をしてもらっても、それが十分であるとは感じられずに、むしろ相手に対して不満や攻撃を爆発させるタイプである。

  →結局、自己中で、周囲の状況を客観的に認知できない人ということか?

 

②衝動的

 前述した性格とも関連するのだが、衝動的で、攻撃性を処理できないタイプがこれに当たる。これまでにも問題を生ずる場面で、衝動的な行為に及んだことがある人については、その行為の内容や意味に関して確実な情報を得ておかなければならない。

 自殺は何のきっかけも、前触れもなく、突然起きるというよりは、それ以前に自分の安全や健康を守れない状態がしばしば起きている。

 飲酒したうえで、一歩間違えれば、大事故を起こしそうになったり、喧嘩に巻き込まれたりしたことはないか。些細なことをきっかけとして、重要なつながりのあった人との関係を突然切ってしまったことなどがこれまでになかったかどうかを検討しておく必要がある。

 

③完全主義的傾向

 自らの価値観を本人あまりにも極端に低くしかとらえられず、それを克服しようとして、病的なまでの完全主義的傾向を示すタイプに、自殺の危険が高まることがある。

 両極端の思考法にとらわれていると言ってもよい。すべての事柄に対して「白か黒か」「一〇〇点か零点か」といったとらえ方をしてしまい、中間の灰色の部分が受け入れられない。

 あいまいさに耐える能力というのは、こころの健康を示す重要な指標なのだが、このような人はどのような事柄に対しても、「今すぐ」「白黒をつけたい」と考えがちである。

 すぐには答えが出ないので、しばらく事の成り行きを静観しよう、時間が問題を解決してくれるかもしれない、といった考え方をする余裕がない。問題を抱えたときに、それを変えることができるかまず考えてみよう。変えられるものであれば、変える努力をする。変えられないものならば、とりあえずそれを受け入れてみるのだ。ところが、あまりにも完全主義的な人というのは、直ちに変えられないものを変えようとして、しばしばこころのバランスを崩していまっている。

 ほんのわずかな失敗も取り返しのつかない大失敗ととらえ、それが不吉な未来を暗示する呪いのように感じてしまう。必死になって、本来の能力以上の努力を重ねているうちはともかく、それが報われないと、自己の存在の意味をすべて失ってしまいかねない。「一〇〇点を取れなければ、合格点を取っても零点と同じだ」といった、二者択一的な思考法にとらわれている。

 一見、成績優秀で、スポーツ万能などといった学生が自殺を図ると、周囲の人々はなぜそのような行為に出たのか、まったく理解できないなどと考えることがある。しかし、このようなタイプの人はしばしば完全主義的な性格で、優秀な成績を取り続けることが、辛うじて家族の愛情や周囲からの賞賛を確保して、自分の存在意義を保つ唯一の手段になっているようなところがある。周囲からは優秀と見られているのだが、本人は自己不全感が強く、「完全ではない自分」「けっして優秀ではない自分」の化けの皮がいつかかならず剥がされてしまうのではないかと、強い不安に脅えている。

  →「時間が問題を解決してくれる」などという考え方は、無責任・負け組・無能な人間の発想だと教えられてきた。改めて考えてみると、別に無責任・負け組・無能だと思われてもよかったのだが…。今の若者は、どのような価値観を教え込まれているのだろうか? SNS上における、政治、とりわけコロナ対策への批判などを見ていると、あまり変わってないような気もする。我慢できない人間は依然として多いままか? すべての問題を後回しにするのはよくないが、だからといってすべての問題が、今すぐ解決できるわけでもない。やはり、精神的なバランス感覚は保っておく必要がありそうだ。

 

④孤立、抑うつ

 抑うつ的で、あまり目立たず、引きこもりがちな人の自殺の危険が高いことについては、異論はないだろう。他の人々とのつながりがもともと希薄で、周囲からは本人の抱えている問題がとくに認識されていない人の中に自殺に走る危険の高い人がいる。このような人が自殺を図ったりすると、そもそも、その人が抱えていた問題などあったのか、まったく気づいていなかったなどといった意見が周囲の人々から聞かれる。

 

⑤反社会的

 暴行、窃盗、不純異性交遊、暴走族や暴力団への加入といった非行が問題となっている青少年の中に、抑うつ症状や自己破壊傾向が隠されているタイプの人がいる。このようなタイプの自殺の危険の高い人に関しては、欧米では従来から強い関心が払われていたが、日本ではほとんど問題視されてこなかった。

 こういったタイプの人は問題児扱いこそされていても、抑うつ傾向などについては、周囲の人々はまるで考えてみたこともない。同じような悩みを抱えた人たちとの間に絆を保っているうちは、自己破壊的行動という形で問題が噴き出すことはないかもしれない。しかし、属していた集団からその人が追放されたり、そもそも集団自体が解体の危機に襲われているという場面に直面したりすると、元来の自己破壊傾向が急激に問題となりかねない。とくに思春期で反社会的行為を呈する人には、背景にある抑うつ傾向に注意を払うべきである。

 反社会的行為が自己破壊傾向と密接に関係することは、成人期以後でも同じように認められる。時に自らの死を故意に招くような犯罪行為が世間の注目を集めるようなことがあるのもその好例といえるだろう。たとえば、あえて凶悪な犯罪に及んで、警察官に殺害されることを当初から意図しているような人がいるが、これは無意識的な自殺行動とさえ解釈できるかもしれない。

 

 ここまで挙げた性格のひとつひとつを取り上げれば、このような性格の人はどこにでもいると反論されるかもしれない。しかし、重要な点は、このような性格傾向と並行して、他の問題点もとらえていくことであるのだ。たとえば、その人がこれまでにどのような生き方をしてきたのか、どのような問題を周囲の人々との間で抱えやすかったのかという点も重要である。さらに、性格や対人関係の問題とともに、生き方を難しくしてしまうようなこころの病気はないかといった点についても考えていかなければならない。

  →筆者のいうように、結局、これらの性格は誰でももっている。ただ、その傾向・度合いが強すぎるのではないか。こういう言い方をすると、数値で示せない以上、科学的ではないと言われるのだろうが…。

 たとえば、「未熟、依存的」と「完全主義的傾向」は正反対のような性格でありながら、どちらも自殺しやすい性格だという。つまり、どのような性格にせよ、特定の性格に振り切れてしまったら、自殺しやすくなるのではないか。どちらともつかない、あるいは、場合によってはどちらか一方の性格になるけど、すぐにもう一方の性格にもなりうるような、バランスを保った性格であることが、自殺遂行から最も距離のとれた性格なのかもしれない。自分はどちらか一方の性格であるという思い込み、執着心のようなものが、ここでも問題であるかのように思われる。一昔前の受験戦争やディベート・論理力推奨教育、「あいまいな日本人批判」、イエスかノーかで議論を進める欧米型思考慣習への過度な憧れなどが「ガン」だったのかもしれない。近年、自殺者が減少傾向にあるのは、こうした(近代的)価値観が常に正しいわけではないことに気づき、それを無駄に礼讃する傾向がなくなりつつあるからか。

 

P93 「いじめ」「リストラ」だけが原因ではない

 自殺が問題になると、最近では、青少年の場合は「いじめ」が、中高年の場合は「不況」や「リストラ」が大きく取り上げられる。

 たしかに、こういった問題は深刻であり、社会全体が正面から取り組まなければならないことに異論はない。

 しかし、これだけが唯一の原因であると考えると、自殺の全体像を見失ってしまうと私は考えている。自殺にまで追い詰められてしまう人の心理を十分に理解できないばかりか、予防のための適切な手を打つこともできなくなってしまうだろう。

 実際には、自殺はたったひとつの原因で起きるというよりは、複雑な過程の結果として起きると考えるべきだ。自殺に至るまでには多くの問題が重なっている状態がほとんどかならずといってよいほどある。この準備状態こそが重要であり、直接の契機は、ほんと些細なことかもしれない。

 しばしば、自殺や自殺未遂が起きると、その直前の出来事だけに関心が向けられてしまう。そして、「どうして、あの人はこれくらいのことで自殺を図ったのか?」と周囲の人々は途方に暮れる。

 しかし、重要なのは長年にわたって問題が徐々に積み重なってきた準備状態そのものなのだ。たしかに、それまではほとんど大きな問題がなく、短期間にあまりにも衝撃的なことが起きたために、自殺の危険が迫るといった人がないわけではない。

 ところが、ほとんどの場合、いくつもの問題が長年にわたって積み重なってきたことこそが重要な役割を果たしていることを理解してほしい。

 英語には「the last straw」という言葉がある。直訳すれば、「最後の一本の藁」となるだろう。ラクダの背中にあまりにも多くの荷物を載せている。それでもラクダはなんとか耐えてきた。しかし、ある限度を超えてしまうと、たとえ最後に載せた一本の藁でも、ラクダの背骨を折ってしまうことになるというのを、この言葉は意味している。最後のごくわずかな負荷、忍耐の限界を越えさせるものという意味で使われる。

 「準備状態」と「直接の契機」の関係も、同じように例えることができるだろう。知らず知らずのうちに、多くの荷物を背負いこんでしまっている。これが準備状態なのだ。そして、いよいよ限界ぎりぎりまできてしまっているときに、最後の一本の藁を載せてしまい、ラクダの背骨を折ってしまった。これが直接の契機と言いかえてもよい。

 準備状態について理解していない人にとっては、直接の契機などは、「たかが『藁一本』で、どうして、自殺を図ったりするのだろうか?」「それくらいの問題を抱えている人など、世の中にはいくらもいるではないか?」と考えてしまいがちである。

 図1には、自殺に関連するさまざまな原因を挙げてみた。「いじめ」や「リストラ」といった問題もたしかに重要な問題である。しかし、いじめやリストラにあった人のすべてが自殺しようとするわけではない。

 他にもさまざまな原因がからんでくることを考えなければならない。たとえば、多くの場合、自殺の直前には何らかのこころの病の診断にあてはまる状態になっている。さらに、前項で取り上げたように、問題を抱えたときに解決の幅の狭い性格傾向などもかかわってくる。生物学的に、元来、衝動性のコントロールが悪いといった傾向も、自殺が行動化される際に大きな役割を果たす。そして、自分にとって重要な絆を持った人が、自殺で亡くなっているといった経験も、本人の自殺の危険を高める結果をもたらすことになりかねない。

 このように自殺の危険とは多くの原因から生じる複雑な現象なのであって、たったひとつの原因ですべてを説明するのは非常に難しいし、場合によっては事態を誤って把握してしまいかねないということを、まず強調しておきたい。

 これまでにそれほど大きな問題も認められずに、順風満帆の人生を送ってきた人が、中年になって、ある問題を抱えて、うつ病になってしまった。その結果、自殺さえ思うようになったとする。こういった例では、まず、うつ病の治療に専念することになる。従来の薬と比べて副作用も少なくて、効果的な抗うつ薬も今では手に入る。ごく大雑把に言って、うつ病は一〇人に一人は人生のある時期にかかる。けっして稀な病気ではない。最近では、うつ病を「こころの風邪」などとも呼ぶくらいである。怖いのはうつ病になってしまったことではなく、うつ病であるのに気づかず、適切な対応をしないことなのだ。

 さて、すべての人がこのような形で対応できればよいのだが、さらにもう一歩踏み込んでいかなければならない人がいる。それについては次章で触れることにしよう。

楽音寺文書60 その2

    六〇 安芸国沼田庄楽音寺略縁起写 その2

 

*『広島県史』の読点の打ち方を変更したところがあります。

 

 純友此時據備前州釜島城、妨往来之船運送之資、倫実率官軍

 釜嶌力闘戦賊勢熾盛官軍敗積、或打落海底或斬倒船中、倫実未死而

 在伏尸之間、便擒死者之腹膲而置心腹上腥血於手足欺為死人

 於是鵄烏飛攅鵰鷲来摯抓裂彼肉啄眼精、倫実不堪小動揺、悪鳥斯散乱、

 純友怪疑曰、船中之屍恐死者也、使兵一一刺殺之、倫実嘗造薬師

 仏像一寸二分、自加冠之年之髫中、依十有二誓願深致

 信敬、至于斯愈益起信涕泣曰、吾始年十三今至齢三十二、日夜

 所仰薬師之聖約、朝暮所恃医王之効験、本願無誤則令我命助、苟如

 所願則建一宇伽藍、安置髫中之霊像、至誠之感応時而呈、当

 倫実時卒然大亀出首、水上賊兵卒見之嘲笑移時、忘倫実而去、是以

 倫実乗闇夜棹船密上陸、直到闕下奏言凶賊強猛巨之力無能也、請 命

 虎賁之士、謹謝罪焉、

   つづく

 

 「書き下し文」

 純友此の時備前国釜島城に據り、往来の船を妨げ運送の資を奪ふ、倫実官軍を率ゐ釜島を攻め力を尽くして闘戦すれども、賊の勢ひ熾盛にして官軍敗積す、或いは海底に打ち落とされ或いは船中に切り倒さる、倫実未だ死せずして伏せる尸在るの間、便ち死者の腹膲を擒へて心腹の上に置き腥血を手足に塗り、欺きて死人となす、是に於いて鵄烏飛び攅ひ、鵰鷲来たりて摯り、彼の肉を抓き裂き眼精を鑒み啄む、倫実堪へず少し動揺するに、悪鳥斯ち散り乱る、純友怪しみ疑ひて曰く、「船中の屍に未だ死せざる者有るを恐るるなり、兵をして一々之を刺し殺さしめよ」と、倫実嘗て薬師仏の像一寸二分を造り、加冠の年より之を髫中に内れ、十有二請願の力を頼むにより、深く信敬致す、斯に至り愈々益々信を起こし涕泣して曰く、「吾年十三より始め今齢三十二に至り、日夜仰ぐ所の薬師の聖約、朝暮恃む所の医王の効験、本願誤り無くんば則ち我が命を助けしめたまへ、苟も所願のごとくならば則ち一宇の伽藍を建立し、髫中の霊像を安置せん」と、至誠の感応時に呈はる、当に倫実を刺さんとする時、卒然として大亀首を出だす、水上の賊兵卒かに之を見、嘲笑して時を移す、倫実を刺すを忘れて去る、是を以て倫実闇夜に乗じ船を棹し密かに上陸す、直ちに闕下に到り奏して言く、「凶賊強猛にして巨き力無能なり、請ふ 他の虎賁の士に命ぜよ」と、謹んで謝罪す、

   つづく

 

 「解釈」

 藤原純友はこの時、備前国釜島城を拠点としており、船の往来を妨げて運送している資財を奪っていた。藤原倫実は官軍を率い、釜嶋を攻めて戦ったが、賊軍の勢いは盛んで官軍は大敗した。ある者は海底に打ち落とされ、ある者は船中で切り倒された。倫実はまだ死んでおらず、横たわっている死体があったので、そのまま死者の内臓を取り出して自分の胸と腹の上に置き、生き血を手足に塗って、純友軍を騙して自身を死人とした(死人のふりをした)。ここに鳶や烏が飛び集まり、鷲などが飛来して、死者の肉をつかみ掻き切り、目玉を啄んだ。倫実は耐えられず少し動いたので、人に害をなす鳥はすぐに飛散した。純友はこの様子を怪しみ疑って言うには、「船の中の死体でまだ死んでない者がいるのを恐れているのである。兵に死体を一つずつ刺し殺させろ」と。倫実は以前に、一寸二分の薬師如来像を造り、元服の年からこれを髫の中に入れ、薬師如来の十二請願の力を頼りにすることにより、深く信敬してきた。ここに至っていよいよますます信心を起こし、涙を流して泣きながら言うには、「私は十三歳から始め、今の三十二歳に至るまで、日夜敬ってきた薬師如来の請願や、いつも頼りにしてきた薬師如来の効験、本願に誤りがないなら、私の命をお助けください。もし願いのようになるならば、一宇の伽藍を建立し、髫の中の霊像を安置しよう」と。倫実の真心に対する仏の感応はその時すぐに現れた。今にも倫実を刺そうとするとき、突然、大きな亀が首を出した。船上の賊兵たちはすぐにそれを見て、嘲笑っているうちに時間が過ぎた。そして、倫実を刺すのを忘れて立ち去ってしまった。こういうわけで倫実は闇夜に乗じて船を進ませ、密かに本土に上陸した。すぐに朱雀帝の御前にやってきて申し上げて言うには、「凶賊たちは強く勇ましくて多くの官軍は役に立たなかったのです。どうか他の勇猛な軍勢に討伐を命じてください」と。そして謹んで謝罪した。

   つづく

楽音寺文書60 その1

    六〇 安芸国沼田庄楽音寺略縁起写 その1

 

*『広島県史』の読点の打ち方を変更したところがあります。

 

  安芸国沼田庄楽音寺縁起

 歓喜山楽音寺奉 朱雀帝詔志度司〈藤原」倫実〉所建之精舎也、扇毘首羯磨

     〔絵〕                      (平)(藤原)(云脱)

 風文会之造之霊像也、尋濫觴、承平天慶之際有将門純友者一、

 驕誇凌王莽奢侈欺董卓猛威儔呂布相与企非望、将門龍元東国純友

 〔鯨〕

 鯢呑西海、万邦之貢献為抑留而、三條九陌遏絶粮食、 天子下詔覔

 逆徒征伐之将師凶賊奮撃之士卒、於是公卿会議曰、藤倫実近謫居芸州

 其武似漢家高祖而、勇類本 朝田村、宜罪補一レ功也、各奏

 之其議適 叡慮、郎徴倫実令純友

   つづく

 

 「書き下し文」

  安芸国沼田庄楽音寺縁起

 歓喜山楽音寺は、朱雀帝の詔を奉り志度司〈藤原倫実〉の建つる所の精舎なり、毘首羯磨の風を扇ぎて、文絵を稽え造る所の霊像なり、其の濫觴を尋ぬるに、承平・天慶の際将門・純友と云ふ者有り、驕誇王莽を凌ぎ、奢侈董卓を欺き、猛威呂布に儔び相与に非望を企つ、将門東国を龍元し、純友西海を鯨呑す、万邦の貢献を抑留せんとして、三條九陌を遏り粮食を絶つ、天子詔を下し逆徒征伐の将師を覔め、凶賊奮撃の士卒を募る、是に於いて公卿会議に曰く、「藤倫実近く芸州に謫居す、其の武きこと漢朝の高祖に似て、勇ましきこと本朝の田村に類す、宜しく罪を赦し功を補はしむべきなり」と、各々之を奏聞するに、其の議叡慮に適ひ、郎徴倫実をして純友を討たしめ給ふ、

   つづく

 

 「解釈」

  安芸国沼田庄楽音寺縁起

 歓喜山楽音寺は、朱雀天皇詔勅をお受け申し上げて、四度使藤原倫実が建てた寺院である。仏師たちの気風を煽り、飾りや模様に趣向を凝らして造った霊像である。当寺の始まりを尋ねてみると、承平・天慶のときに平将門藤原純友という者がいた。奢りたかぶる姿は王莽をしのぎ、身分不相応な暮らしぶりは董卓と張り合うほどであり、勇猛な性格は呂布に並び、双方ともに身分不相応な望みを企んだ。将門は東国を危険を冒して統治し、純友は西国を一飲みに侵略した。あらゆる国々の租税を抑留しようとして東西の交通路を遮り、都への食糧の補給を絶った。朱雀帝は詔勅を下して逆徒征伐の将軍を探し求め、力を奮って凶賊を攻撃する兵卒を募った。そこで、公卿会議で言われたことには、「藤原倫実という人物が、最近安芸国に配流された。その猛々しいことは漢朝の高祖に似ており、その勇ましいことは日本の坂上田村麻呂と同類である。彼の罪を赦して手柄で(その罪を)償わせるべきである」と。公卿たちはそれぞれこのように申し上げたところ、その意見が帝のお考えにぴったり合い、徴事郎藤原倫実に純友を討伐させなさった。

   つづく

 

 「注釈」

志度司」─未詳。「四度使(しどのつかい)」の当て字か。

 

「王莽」

 ─ 前45─後23 新の皇帝。在位8─23。字は巨君。元城県(河南省)の人。前漢外戚として台頭、幼少の平帝を擁立して劉歆らを重用しつつ讖緯思想で人心をつかんだ。5年に平帝を毒殺して仮皇帝、8年には正式に皇帝となり「新」王朝を創始。即位後、大土地所有・商工業の抑制、貨幣改革などに着手するが、周を理想とした非現実的な政治は国内を混乱におとしいれ、さらに対外政策の失敗で赤眉の乱など各地に反乱が相次ぐなか、反乱軍に殺され、新はわずか15年で滅んだ(『角川世界史辞典』)。

 

董卓

 ─ ?─192 後漢末の群雄の一人。字は仲穎。臨洮(甘粛省)の人。粗暴で任侠の風あり。桓帝末以来、軍功を重ねて実力を蓄える。霊帝崩御後、宦官誅滅のため何進らに召されるが、入朝後は少帝を廃して献帝を立てた。その後袁紹らが挙兵したので長安へ遷都。その暴逆さはいっそう激しく、宰相王允らに誅殺された(『角川世界史辞典』)。

 

「欺」

 ─漢字のとおりに「欺く・騙す」の意味で解釈すると、意味が分からなくなるので、上述のように意訳しておきました。

 

「龍元」

 ─未詳。「竜頷」のことか。「鯨呑」との対句で、「危険を冒して統治・支配する」といった意味を表すと考えられます。

 

「郎徴」─未詳。「徴事郎」のことか。

遊行と巡礼

  五来重『遊行と巡礼』(角川選書、1989年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1章 歩く宗教

P8 1 一所定住と一所不住

 宗教には日常化された面と、非日常的で異常な面とがある。しかし本来宗教というものは、人間が日常から超脱しようとするはたらきである。現実の動かしがたい桎梏や束縛、脱れがたい煩悩や繋縛(けばく)、日々の行動を律する制度や道徳から解き放たれたら、どんなに自由で楽しいことだろう。それは理想といってもよいし憧れといってもよい。日常の束縛が苦しければ苦しいほど、この憧れは強くなる。中世や近世の農民が、一生涯、土地に緊縛された過酷な労働の救いを、伊勢詣でや金毘羅参、西国巡礼や四国遍路にもとめたのは、非日常をもとめるという宗教的行動の一つであった。

 宗教といえば神や仏への絶対的帰依といったり、唯一社だの超越者だの、解脱とか涅槃とか回心とか、どうして宗教をこんなに固苦しく、七面倒くさいものにしてしまったのだろう。これは少数の支配者やエリートが、愚昧なる庶民をだましたり、こけおどしをするための詐術だったにちがいない。ところがそのようなエリートは宮殿や大伽藍、僧院などに閉じ込められ、繋縛から絶対に脱け出すことはできなかった。そのうえ戒律などというものをつくって自縄自縛する。どうせそのようなものは守れないから、自責の念でいっそうくるしむのも、無知な庶民をだました報いというものであろう。

 

P18 4 回峰行と供花

 以上のことからわかるように、「行」とは「行道」すなわち歩くことであり、「歩く宗教」は「行力」「験力」「呪力」を身に付けることであった。「行」こそ宗教的実践の極致であって、人間のもっとも原始的な行動なのである。「行力」は超人的なカリスマであり、これなしに宗教は成り立たない。「行力」のない宗教者の、お為ごかしの説教ほど空々しものはないと思う。回峰行はこの「行力」を付けるための「行」であるから、人々も回峰行者の行力を信仰する。

 

P21 5 遊行と遊部

 宗教が歩かなくなってから久しい。神殿や伽藍をかまえて文化を生んだけれども、その代わりに信仰を失ったのではないかと思う。しかし歩く宗教は宗教、宗派を超えた庶民信仰として残留し、ひろく巡礼という現象を残している。

 

P22

 しかし遊行というのは、定まったコースがあったり目的があったりしないのが、本来の遊行であろう。

 

P24 六 鎮魂呪術者の遊行

 古代の鎮魂呪術者の遊行は、やがて大別して二つの遊行者を生んだものと考えられる。その一つは山を他界とする「山の司霊者」と言われる山伏で、その遊行形態は山岳抖擻または入峰という「歩く宗教」であった。彼らは地獄谷や賽の河原での亡魂供養から、進んで入峰そのものを死後の地獄遍歴として、十界修行という「擬死再生」と「即身成仏」の実践を行なうようになった。その入峰路には七十五靡とか二十八宿九十九王子というような拝所を設けて、これを巡拝する巡礼の形を整えた。また海を他界とする辺路の修行も逢って、四国の辺路や熊野の大辺路などが、霊場とか王子をめぐる遍路になった。

 

 

第2章 巡る宗教

P31

 どうして聖なるものを巡ることが最高の宗教的実践になり、信仰の表現になるかは私にもよくわからない。哲学的にはいろいろの理屈がつけられようが、円運動というものは無限を表すものだから、無限の尊敬を表現するものだったかもしれない。わが国では創造神話の「国生み」に、伊弉諾、伊弉冊の夫婦神が、天柱または国柱を旋って遘合(みとのまぐわい)し、大日本豊秋津州を生んだというのが、「巡る宗教」のはじめである。この場合に柱を右旋、左旋することを、陰陽、吉凶に当てたのは、中国の陰陽道の影響を表しているが、わが国では神霊の依代のヒモロギを踊り旋ったり、走り旋ったりするのが、鎮魂の呪術だったものと思われる。(中略)

 京都の葵祭は5月15日に勅使参向のパレードを、都大路に展開するけれども、すでに5月12日に上賀茂神社では「みあれ祭」、下鴨神社では「みかげ祭」で神祭は済んでいる。ことに「みあれ祭」には「みあれの御囲」が「みあれ野」に立てられ、中に角と称す二本の杉のヒモロギが立てられる。古図ではこれは二股の木の柱であった。この祭は十二日の深夜、すべての灯火を消して行われる神秘の行事であるが、私は白丁に化けてこれを見学させてもらったことがある。浄穢の神官10名余り、地面に腰を下ろして腊の飯を「摑みの御料」と称して手掴みで食べ、それから颯颯(さつさつ)という足音を立ててこのヒモロギを巡るのであった。「みあれ祭」は一種の鎮魂祭儀なので、このように巡ることが荒魂を鎮めて和魂にする咒術だったのである。

 

P39

 修験道では最高の実践は「捨身」である。私はこれは原始的宗教者が、共同体の危難に際して、事故の生命を神に捧げて神の怒りをしずめた自己犠牲から出たものと思う。これがキリスト教ではイエスの十字架となり、仏教では地獄で亡者の身代わりになる代受苦者、地蔵菩薩に表現される。巫女の捨身は若い女の人身御供の昔話に変化してしまったが、山伏の捨身は、文献的にも伝承的にも数多く伝えられる。それが実践されたのがこの平等岩の行道で、この下の阿古谷が「捨身谿」と呼ばれたことは、平安中期の日記『吏部王記』逸文に見えるのである。この逸文鎌倉時代の『古今著聞集』(巻二)の「金峯山神変ノ事」に引用されていて信用できる。このようなところから見て、行道岩の行道という巡る宗教は、捨身と隣り合わせ、命がけの修行だったことがわかる。

 

P42 5 野外の行道と室内の行道

 巡る宗教は四国や西国の霊場を巡る「巡礼」として、宗派・宗教の区別を超えた一大宗教的実践になるが、その起源は神や仏の宿る木や柱や岩や山を巡ることにあった、というのが私の考え方である。

 

P43

 「お百度踏み」というのはもと堂や祠を巡ったものが、山道の「百度石」の間を往復することに変わったまでである。いま京都では右京区千本通りの「釘抜地蔵堂」へ行けば、百本の計算木を持ってこの堂を巡る人をいつでも見ることができる。

 

P45 6 常行三昧の念仏行道

 踊り念仏を含む念仏芸能が、比叡山に伝えられた常行三昧から出ていることは、私がしばしば論じたところで、繰り返すのも煩わしい。しかし念仏という信仰と実践が浄土教教団によって「往生」のためとだけ解かれたために、いささか常識化してしまった蒙を啓いておかないと、話が前に進まない。まずわが国の念仏の源流をなす比叡山の常行三昧の念仏は、悟りを開くための方法としての四種三昧の一であったことを知らなければならない。したがってこれは「成仏」を目的とする念仏であったが、同時に歩きながら節を付けて詠唱する「歌う念仏」であった。私は恵心僧都以後盛んになった往生を願う念仏を「願生の念仏」と名付け、常行三昧の念仏やその系統の「歌う念仏」を「詠唱の念仏」と名付けて区別する。

 四種三昧というのは第一に文殊菩薩を本尊とする常座三昧、第二に阿弥陀如来を本尊とする常行三昧、第三に釈迦如来を本尊とする半行半座三昧(法華三昧)、第四に普賢菩薩を本尊とする非行非座三昧である。いま比叡山西塔には常行三昧の常行堂と法華三昧の法華堂が残っている。常行三昧は慈覚大師によって始められたもので、念仏を詠唱しながら阿弥陀如来のまわりを休むことなく巡り、無念無想の境界の中で悟りを体験する。その念仏の音曲は慈覚大師が入唐したときに、中国第一の霊場、五台山で行なわれていた法照和尚作曲の「五会念仏」であった。これがわが国のすべての念仏芸能の源泉になる。

 

P47

 常行堂の念仏詠唱と行道をする専門僧は「堂僧」と呼ばれ、学問よりも芸能を専門とするので、比叡山僧の中では低い身分であった。この堂僧の中から出て、後世に一宗の祖師と仰がれる良忍融通念仏宗)と親鸞浄土真宗)である。堂僧は定員四十八人が最も多く、二十四人のときと十二人の場合もある。四十八人が一剋(二時間)交代で、阿弥陀仏のまわりを四人で巡る。二十四人ならば二人で巡り、十二人ならば二人が二剋(四時間)交代で巡る。

 高野山でも中世には常行三昧による二十五三昧が行なわれたらしく、現在伽藍にあって高野山最古の建築(建久年間)とされる不動堂はもと阿弥陀堂(五室寂静院)であったと私は推定している。そして常行念仏交代僧のための控室(脇間)が四室ある。その他平泉毛越寺や日光山輪王寺、神戸垂水の大山寺などの天台宗の大刹に常行堂があり、真言宗でも備前牛窓町の千手山弘法寺にも常行堂がある。いずれも巡る宗教があった証拠であり、そこから日本の念仏信仰は地方へ広まっていった。そしてこの時の念仏は心の中で念(観念)じたり、口先で唱(称名)えるばかりでなく、身体の行動を伴うものであったことに、注目しておく必要がある。すなわち身口意の三密に相当する念仏であった。

 このことからかと思われるが、平安時代中期からの常行堂本尊の阿弥陀如来は「宝冠の弥陀」と呼ばれる仏像が多く、これは阿弥陀如来でありながら大日如来の宝冠を被っている。すなわち弥陀大日一体の姿である。これはまた「紅玻璃阿弥陀」や「日の丸名号」のような密教的浄土信仰を生み、太陽信仰と結合した念仏信仰に深く根を下ろしていった。

 

P48 7 九品念仏の行道

 比叡山の常行三昧の念仏行道は、日本のいろいろの宗教儀礼や芸能の源になったが、灯籠の大臣のような美女の念仏行道でなくとも、美声の念仏僧を行道させて、結縁と称して鑑賞する如法念仏というものあった。これは「九品念仏」ともいい「能声の念仏」とも言ったことが、中世の文献にたくさん出てくる。

 

P52 8 暮露と虫供養念仏

 九品念仏は「巡る宗教」と「歌う念仏」の結合したものであったと私は推定しているが、朱なる伴奏楽器は尺八であったと思う。尺八はすでに慈覚大師が常行三昧の念仏として、中国五台山竹林院の法照流五会念仏をもたらすとき、その調律楽器に持ってきたものである。したがって平安時代の「山の念仏」の文献には出てこないが、鎌倉時代まで継続して九品念仏(如法念仏)の伴奏楽器だったと思う。そうすると『徒然草』(百十五段)の暮露(ぼろぼろ)の九品念仏にも、尺八は吹かれていたであろう。尺八が正しくは歩行しながら吹くというのも、行道の伴奏だったからである。

 

P54 9 宮巡りと護法憑け

 巡礼の起源をなす「巡る宗教」はいろいろの形に見られるが、熊野詣は三山を巡るばかりでなく、それぞれの山で社殿を巡ったことが、後白河法皇の書かれた『梁塵秘抄口伝集』(巻十)に見える。現在は三山ともに社殿の前に瑞垣に立ててしまったので、とても近づくことができない。しかし那智大社の瑞垣の中に入れてもらったら、社殿はそれぞれ巡れるようにあっているばかりでなく、通夜する人が寝ることのできる張り出し縁まで付いていた。昔は参詣人本位だったことがわかる。(中略)神社に着けば宮巡りすることが当たり前の参拝であった。これが神を敬う心の表現だったのであり、神に願をかけるには宮巡りと通夜が必要であった。そのために那智の社殿には通夜の張り出し縁が付いていたのである。しかし多くは社殿を巡ってから、社殿で通夜するのが普通であった。後白河法皇の三日ずつの参籠とあるのは、三日間宮巡りと通夜を繰り返したのであって、宿坊の上段の間でぬくぬくと寝ていたわけではない。しかも通夜の間に千手経を三夜で千巻転読するのだから寝る暇もなかったわけである。法皇以外の参詣人もおって居眠りをはじめ、お供の通家は法皇の読んだ経巻を巻いていたが、これも眠りしはじめた夜中に、宝殿の御正躰の鏡(懸仏)が照り輝いたなどと、これほど詳しく自分の熊野詣を書いた上皇法皇も稀である。

 

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 巡るということはその中心になる人や木に、神や霊を降臨してもらうときにも行なわれる。依代や尸童(よりわら、のりわら、よりまし)を中心に置いて、大勢の人がぐるぐる廻っていると、神や霊が憑く。尸童の場合は目が回って異常心理になり、シャーマンならばトランス状態になるが、日本では参籠潔斎や精進したものでなければ、このようにしても神は憑かないと信じられていた。現在尸童を「護法実」(ごほうざね)といって、護法(天狗)を憑けて託宣を聞く行事は、美作(岡山県)の久米郡各地の山岳寺院で行なわれ、「護法飛」(ごほうとび)といっている。護法実は1ヶ月ないし10日の参籠潔斎をして、最後に本堂の外陣で篠と御幣を持って座っていると、山伏や村人、子供などがその周りを廻る。太鼓が急調子に鳴って、巡るのも急調になると、護法実に護法が憑いて外へ飛び出し、寺の庭を走り回る。多く旧七月十五日の満月の夜なので、その光景は壮観である。託宣は私が25年前に見てからは行なわれないということであるが、護法実に憑く護法様は烏天狗なので、両脇から捉えていないと飛んでしまうと信じられている。

 かつてはこのように託宣を聞くために尸童を廻って、神や霊を憑ける巫術は至るところで行なわれていた。人々が託宣を信じなくなると、この「巡る宗教」は子供の遊戯になり、「かごめかごめ」とか「中の中の小坊主」、または「お乗り(憑り)やれ地蔵様」という地蔵遊びにもなったのである。

 

P57 十 葬送と巡る宗教

 巡るという宗教的行為は、また目に見えない垣(結界)を結って、中の霊を外へ出ないようにする呪力があると信じられた。私はこれを封鎖呪術と名付けてきたが、いろいろの封鎖呪術があるなかで、巡ることを最もプリミティヴな結界として位置づけた。このようなことは宗教学の方でも規定しないが、私は宗教民俗学の立場から、足踏(だだ)とともに最も原始的な封鎖呪術と考えている。

 密教の結界には軍荼利法による金剛橛(地結)、金剛墻(四方結)、金剛網(虚空網)、金剛炎(火院)、大三昧耶の五種印明がある。しかし日本では巡ったり、踏んだり、注連を張ったり、忌垣を廻したり、鳥居を立てる結界法があったのである。こうした原始結界は、死者の霊や怨霊、御霊を封鎖するときに行なわれたもので、殯がその封鎖の場と構造物であった。殯を詳しく説明する余裕はないが、現今でも墓地に見られる霊屋や龕前堂(がんぜんどう)、忌垣、須屋、犬はじき、サンギッチョ、モンドリ、四十九院などはその名残である。

 

P60 十一 巡る鎮魂

 葬送に死者を巡ることは、史料の荒魂を鎮魂して和魂にする呪術であるが、いつの間にか葬列が棺とともに巡ることになったので、死者に方角がわからないようにして、帰って来られなくするという解釈もできた。わが国の葬送儀礼には、たしかに死者帰来防遏儀礼が多いが、巡るということは、死者を封鎖しておいて、そのまわりを呪術者が巡りながら鎮魂するのが、殯儀礼というものであった。

 

P67 十三 キリスト教の巡礼

 キリスト教の巡礼は神の恩寵を受けるために、キリストの受難の遺蹟を巡ることや、聖母マリアをはじめ、多くの聖者の墓や遺蹟、遺物を巡ることであるが、中世には滅罪の巡礼も多かった。巡礼をパルドンというのは「謝罪」の意味から出ている。文献にもその例は多いし、巡礼地にはこれを伝える遺物や伝説が残っている。

 

 

第3章 西国巡礼の成立

P93 3 巡礼の札打ちと山伏の碑伝(ひで)

 また巡礼の札打ちということがこのころ行なわれていたことを示すもので、これは納経とは別に祈願札を札所の木や建物に打ち付けていたのである。そしてこの札打ちは山伏の入峰にあたって、拝所の木に「碑伝」というものを打つことに、起源があったと私は考える。いま西国霊場に行けば屋号や商標の札が、柱をいとわず天井といわず貼られているけれども、その源は山伏の碑伝にあったのである。そうとすれば巡礼が専門の山伏の修行であったことがよくわかるし、巡礼のはじめから、札打ちがあったものと推定できる。

 現在入峰修行する山伏の碑伝は板製で、不動明王の種子(しゅうじ/梵字)の下に入峰者名(講名)と年月日を記してある。これを大峰七十五靡(拝所)ならば七十五枚を用意して、いちいち打ってゆく。しかしもとは木の枝に文字を彫ったらしく、永仁三年(1295)の真木碑伝(重要文化財)が、大峰山中第一の秘所である笙の窟に残っていた。これを前鬼山伏村の森本坊が保存していたが、現在奈良国立博物館に寄託されている。しかし私は碑伝にはもう一段前の段階があって、生木の枝を置いてきたものと思うが、今は触れないことにする。ともあれ巡礼札は紙の前は板(簡)であり、その前は木の枝であった。

 

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 私はこれらの事実から、平安時代の修行者には、修験派と巡礼回国派の二つがあったのではないかと考えている。これは修験派が密教に傾斜していたのに対して、巡礼回国派は法華経中心だったからである。観世音菩薩も法華経の普門品に説かれた仏であるが、日本回国も法華経六十六部を如法書写して、六十六ヶ国に納経することから始まった。この巡礼回国派が西国観音霊場巡礼を開いたために、三十三所に「納経」するという巡礼方式が出てきたものと、私は考えている。

 しかも面白いことに御室戸僧正隆明は「居おこない」で大峰抖擻はしていないので、もっぱら巡礼回国派を援助したらしい。これに対して一乗寺僧正増誉は大峰修行して修験派の偶像になった。このようなところからも叔父甥の争いになったのであろうが、注意すべきことは、辺路修行の延長の峰路修行と私が推定する葛城修験は、法華経の納経埋経を修行形態とし、巡礼回国派と一致する。そしてこの辺路と峰路に沿って、もっとも古い巡礼霊場の一番から八番まで布置されていることも、偶然とは言えなくなると思う。

 

 

第4章 四国遍路と辺路信仰

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 修行者というものは恐ろしいことをするものである。千仞の谷の上で、遊園地などにある回転鎖にぶら下がって回るようなものである。私は梯子があっても、とてもできる芸ではなかった。私は修験道の実践には行道が必須であることを力説してきたが、これほど厳しいものとは思わなかった。大峰山上ヶ嶽の行道岩(平等岩)でも私は戦慄した経験があるけれども、菅生の岩屋寺白山権現の行道は、もっと危険をともなうものであった。それは目を瞑って一心に神や仏を念じて、無心にならなければできない行道である。

 しかもこれは青年空海も遊行前の一遍も、ここへ来たからには、必ず行なったにちがいない行道なのである。そのうえ、そのころの行道には頂上の鉄の輪も鎖もなかったのであるから、必死で爪で石にしがみついて回ったはずである。空海や一遍の偉大な宗教的人格は、この必死の宗教的体験なしには生まれなかったであろう。近頃流行する甘い空海論や一遍観は、排除されなければならない。

 

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 いま青龍寺真言宗智山派になっているけれども、天台寺院だった時代に白山神社ができたのであろう。本堂と白山神社の間に小さな薬師堂があるのが、天台宗時代の本堂と考えて誤りはない。そして今の本堂、すなわち不動堂の左側の大師堂は、四国霊場札所としてできたものであろうが、不動堂がどうして本堂になったのか問題である。

 それはこの寺のある如意山と摩尼山の、向かって左手の、海に面した岬の上が独鈷山で、ここに奥之院不動堂があるからである。

 

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 (我拝師山/がはいしさん)稚児大師像があるのは、ここが「捨身ヶ嶽」と言われるところだからで、大師伝のなかで有名な空海七歳のとき、我が師釈迦如来に逢わんがために身を投げた山である。それで我拝師山というが、ここから腹這いになって下を覗くと、なるほど垂直の断崖である。このように谷を覗く「覗きの行」を「捨身行」と言ったのであろう。青年空海がこの捨身行を行なったために、捨身嶽の名ができたと推定できる場所である。これも辺路修行の一形態と思われ、実際には修行者の体を藤蔓などでしばり、断崖上の松の木の枝などから吊り下げたものと、私は推定している。

 

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 しかし捨身行は山岳宗教では滅罪行であって、罪穢に満ちたこの肉体を捨てて、成仏した精神が永遠に生き、無限の衆生済度をするための実践である。これを実際の捨身でなく、「業の秤」や「覗き」として行なう場合は、滅罪によって再生し即身成仏するためである。これが伝承化されて、七歳の空海が肉体を我が師釈迦如来に供養せんがために捨身して、釈迦と天女に抱きとめられたという大師伝の一節になった。

 しかし一般にこの山は「わしのやま」と言って霊鷲山に擬せられたので、釈迦如来に逢わんとしたと言われている。これもおそらく後世の伝承で、西行が「わかいし」と呼ばれたと書いたことから見て、もとは「わかいち」すなわち熊野若一王子(にゃくいちとも読む)が祀られていたのではないかと思う。若一王子は熊野の辺路に多く祀られているので、瀬戸内海のように熊野信仰が濃厚に伝播したところでは、若一王子がある可能性が強い、というのは熊野そのものが海洋宗教だったからである。

 我拝師山はやはり空海以前からの辺路の霊場であったので、青年空海がここで辺路修行したために、禅定院の本尊は求聞持法の虚空蔵菩薩になったのであろう。我拝師山捨身嶽の石の護摩壇は辺路の聖火跡と考えられるが、この山に連なって「火上山」があるから、これも聖火を焚いたものかもしれない。いずれにしても我拝師山は空海の生地に近いということもあり、彼の辺路修行の出発であったのではないかと思う。

 

 

第5章 紀伊の遍路と熊野詣

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 もちろん王子は辺路の拝所に熊野信仰がダブったときに名づけられるもので、国東半島の守江港(杵築市)にある王子社には、熊野の神木である梛(なぎ/竹柏)の木が神木となっていた。ここは海岸の陸繋島のようになった樹叢(楠・山桃・タブ・榊・ヤブニッケイネズミモチ等)の山で、鳥居には八幡宮とあったが、バス停は「王子」だったので、入ってみると「八王子八幡」の石額である。このように王子が他の神社と合併して名を変えることはしばしばあるもので、夷社や弁天社や八幡社、稲荷社に変わることが多い。単純な神道の常識では処理できないのである。「八王子」というのも掲額や絵馬が王子神社とあることから見て、八幡と合併してから、八幡の神紋の八の字形の鳩が、「八」の字になったものと推定できた。そしてこの鳥居内の十戸ほどの集落が「王子」であった。

 

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 阿須賀社(飛鳥社)の山を蓬莱山と呼ぶのは、これがもと海中の島であったからで、そのために徐福伝説もできたのである。

 この蓬莱山には弥生時代の遺跡も発掘されているが、熊野川の河口で瀬が変わりやすく、昨日の渕は今日の瀬となるような浅州(あすか)のために、この名ができたらしい。

 

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 そこで神社での行事は神に神饌を毎日差し上げたり、採点の準備万端を調えるものであるが、阿須賀社が「大行事」であれば、ここから新宮に対して神饌として懸魚(けぎょ)その他の海の幸を差し上げ、祭典には重要な役を務めたであろう。私はその名残りが先にあげた『和漢三才図会』(紀伊)の、「飛鳥社は祭神未詳で、九月十五日の祭典にはこの社の内陣から錦ノ袋を、馬で新宮内陣へはこぶ」とあるのに残ったのであろうと思う。ところが三山構成の中では承仕大行事が三所三殿の横に若宮として入り込んでしまったのである。

 私がこのように推論するのは、白山大行事の例があるからである。白山三所権現の中の白山大行事も従来解釈のできない神であった。したがって私の考えをここで簡単に述べても説明不十分の不徹底な理解に終わるかもしれないが、山岳宗教の立場からの見方を述べておこう。

 白山三所は中心に「白山妙理権現」(大御前峰)、左に越南知権現(大汝峰)右に「別山大行事」(別山)の三社から成っている。従来は白山妙理権現は菊理媛で、熊野新宮の速玉大神のように、伊弉諾尊の穢を払う神とされ、越南知権現は大己貴神とされて地主神と言われた。いずれも十一面観音、阿弥陀如来を本地とする。しかし別山大行事は別山に祀られる神で本地を聖観音とする。これは白山を開いた泰澄が、白山階層にどこから登ったかが明らかにされなかったから大行事の意味がわからなかったのである。

 平安中期に遡りうる泰澄伝では、越前の越智山から九頭竜川を遡って、石徹白から別山を経て登頂したと推定される。したがって石徹白中居神社は、白山妙理権現と越南知権現に奉仕する、大行事としての泰澄を祭神として祀ったことになり、開山堂(体調像を本尊とする)が中居神社境内にあった理由も明らかになる。

 このように大行事は本社の紙に奉仕する者が、神として祀られたもので、阿須賀大行事も王子神(夷神)が本社に奉仕する形をとって、神饌を捧げることからミケツカミ(御食津神・御狐神・三狐神)と呼ばれ、やがて稲荷神と成ったのであろう。

 

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 高倉下(たかくらじ)は「高倉主」の約音で、高倉(高座)すなわち今の神倉の主(神)ということになろう。

 

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高倉下の配下で、神武天皇の嚮導者(みちびきひと/先達)を命じられた頭八咫烏(やたがらす)は、神話では鳥の烏とされるけれども、「頭八咫烏」の文字が示すように、頭に大きな烏帽子を被った山伏で、山野を踏み分ける「先達」であった。烏帽子が熊野山伏のシンボルだったことは、「熊野那智参詣図」(那智曼陀羅)の滝本衆の烏帽子を見ればわかるが、山野跋渉に不便なこの烏帽子を被るのは、鵜匠や浦島太郎の絵に見られるように、海民の被り物が海の熊野の山伏の被り物になっていたのかもしれない。

 

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 今まで王子は伊弉諾命と伊弉冊命の間に生まれた王子、天照大神と説明されてきたが、これに疑問を持つものは多かったと思う。また熊野詣の途中で、熊野三所権現を遥拝する社とも説明されたけれども、これも間も無く到着する本社であれば、遥拝などせずに本社へ急ぐべきであろう。しかしこの「遥拝」を辺路の遥拝、すなわち常世への遥拝とすれば、海洋宗教の聖地とすることができよう。また第三の説明は熊野詣の途中で、休息したり宿ったりする社を王子とするが、海洋宗教ではそこに留まって修行する場所が王子なのである。このように見ると、三山信仰以前の海洋宗教の聖地が、その機能を保持しつつ、三山信仰の聖地に転化したことが読み取れるのであり、地形的にはほとんど変化がなかったであろうと思われる。

 

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 このように王子と稲荷は、食物を豊かにする神としての機能を一にするので、一体化したり、分離しても一方が失われれば、一方が残るという関係にある。(中略)王子と王子の間の距離には大小はあるが、4キロないし5キロが多いからである。

 

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 しかし東寺の鎮守に稲荷が出現するより前に、熊野の王子に稲荷が現れたという主張は、常世から去来する神(祖霊)が稲をもたらすという信仰を想定しなければ、あまりにも突飛な物語になってしまう。(中略)しかし王子が常世の海洋神であり、辺路の王子がその拝所であるとすれば、王子は「弥勒踊」(鹿島踊)の文言の示すように、米をもたらす神である。

 これを南島の古代伝承と類比すると、琉球に稲種をもたらしたのはニライカナイ根の国常世)から渡ってきたアマミキュ・シネリキュであったという伝承とも一致する。この去来神を『琉球神道記』(袋中上人著、慶長十三年)の巻五は、

  又ヲウチキウト云海神、長一丈許、キン大ナリ。

と書いているので、ヲウチと王子の共通性も考えられるかもしれない。キュ(キウ)は海から来るとの意である。

 私はこのアマミキュ・シネリキュが稲種をもたらしたという久高島の海岸に立ったことがあるが、その印象は熊野の海と同じであった。そうすると熊野の辺路の王子が稲荷とされ、王子が失われても稲荷が残る可能性はあると言わなければならない。

 

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 (「熊野那智参詣図」)そのほか大鳥居の前には3人の赤い帽子をかぶった山伏が立って読経しており、その後ろに余人の層が四本幡を捧げている。四本幡は葬式の幡であるが、これも生者の渡海を死者に擬して送ったかもしれない。しかしこの図の雰囲気は必ずしも生きながら渡海する者を送り出す生々しさが感じられない。これは補陀落渡海がもと死者の霊を常世へ送る水葬儀礼だったものが、中世には辺路修行者の捨身と入水往生に変化し、近世に近づくにつれて再び水葬儀礼に戻ったことを示すものと、私は見るのである。