周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)5

    五 吉川元春書状

 

 去廿五日御状今日廿九拜見候、

          (播磨)

 [  ]州人質之儀、上月一着之上にてハ可返置之由堅約諾候而差出候、付而

 重畳被[  ]可有御推量候、就夫以使者申入候、御方様色々御短息候て、

                (宇喜多)

 黒岩所へも人共被遣内儀御聞候而、直家への御理彼是相しらへられ、此度相調候様

 にと被思食候へ共、此方使被仰聞候所不致分別、得御意候欤、若輩者事候間、然々

 と不申理候ハヽ、其許御事繁も候する、又直家御蹡深々と可有御座候間、

 礑可申由申聞付而不預御気色申候欤、今程彼方此方為使差遣、 為然々者

          (恵瓊)

 不進之候而迷惑候、安国寺岡山への儀を被罷上之由肝心存候、弥被仰登候て

                         (備中)

 可然候、已前之此方使にも申聞候、定而得御意候哉、北賀茂人質を返候事ハ、

            (伊賀家久)

 対景継御遠慮之儀候ハヽ、賀茂へハ不遣候て我等預り可置候条、以此段可被

 仰分通申入候キ、左様なく候へハ、神文辻咲止候、去とてハ直家此方神文数通

 取置候而こそそれを辻ニ諸事被申事候、手前之儀をハ役ニたて人の手前をハ

 役ニ立間敷との儀ハ、余恣之申事候不及沙汰候、百ニ一ツ千一つ分別候ハヽ

 可預御飛脚之由候間、則賀茂へ可申遣候、尚吉事重畳可申述候、恐々謹言、

     天正六年・1578)

       十月廿九日       元春(花押)

      隆景まいる  御返報

 

 「書き下し文」

 去る二十五日御状今日二十九拜見し候ふ、

 〜?〜 州人質の儀、上月一着の上にては返し置くべきの由堅く約諾し候ひて差し出し候ふ、付して重畳 〜?〜 せられ御推量有るべく候ふ、夫れに就き使者を以て申し入れ候ふ、御方様も色々御短息し候ひて、黒岩所へも人どもを遣はされ内儀を御聞き候ひて、直家への御理彼是相調べられ、此の度相調へ候ふ様にと思し食され候へども、此方の使ひ仰せ聞けられ候ふ所分別致さず、御意を得候ふか、若輩者の事に候ふ間、然々と理を申さず候はば、其許の御事繁も候はする、又直家御蹌も深々と御座有るべく候ふ間、礑と申すべき由聞き付け申して御気色に預からず申し候ふか、今程彼方此方使ひとして差し遣はし、然々たらば之を進らせず候ひて迷惑し候ふ、安国寺岡山への儀を罷り上らるるの由肝心と存じ候ふ、弥仰せ登せられ候ひて然るべく候ふ、已前の此方の使ひにも申し聞かせ候ふ、定めて御意を得候ふか、北賀茂の人質を返し候ふ事は、景継に対し御遠慮の儀候はば、賀茂へは遣はさず候ひて我等預り置くべく候ふ条、此の段を以て仰せ分けらるべき通り申し入れ候ひき、左様なく候へば、神文の辻笑止に候ふ、去りとては直家も此方神文数通取り置き候ひてこそそれを辻に諸事申さる事に候ふ、手前の儀をば役にたて人の手前をば役に立つまじとの儀は、余恣の申事に候ひ沙汰に及ばず候ふ、百に一つも千一つも分別し候はば御飛脚に預かるべき由候ふ間、則ち賀茂へ申し遣はすべく候、尚ほ吉事重畳申し述ぶべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 去る二十五日のご書状を今日二十九日に拝見しました。

 〜?〜 州の人質の件であるが、上月城の戦いが決着しうえで返し置かなければならない、と厳格に約束しまして差し出しました。付して重ねがさね 〜?〜 なされご推量にならなければなりません。それについて、使者を遣わして申し入れます。御方様もいろいろとご尽力なさいまして、黒岩の所へも人どもを遣わされ、内々の取り決めをお聞きになりまして、宇喜多直家へのご説明もあれこれと調べられ、今回で調整しますようにとお思いになっています。しかし、こちらの使者に言い聞かせなさいましたことを、私は理解しておりません。お考えを伺えますでしょうか。若輩者ですので、それほど説明し申さないでおりますなら、そちらのことはさまざまなことがございますのでしょう。また宇喜多直家の動きはひっそりと静まりかえっていらっしゃいますので、こちらから強く申し上げるべきだと言っていることを直家は聞き付け申して、毛利輝元様のお考えを聞かずに申し上げているのでしょうか。今ほどあちこちへ使者を派遣し、そのままであるなら、これを差し出さないままで迷惑します。安国寺恵瓊が岡山へお出かけになることが大切だと存じ上げております。ますます岡山に向かわせるようにご命令になることが適切です。以前、こちらの使者にも言い聞かせ申しました。きっと宇喜多直家のお考えを伺えるでしょう。備中国北賀茂の人質を返しますことは、草刈景継に対してご遠慮がありますなら、賀茂へは返さずにおきまして、我らが預り置くつもりでおりますことを、この折に言い聞かせなさるとおりに申し入れました。そうでなければ、起請文の書いた結果がばかばかしいことになります。だからといって、直家もこちらの起請文を数通取り置いておりまして、それを根拠にいろいろなことを申し上げなさることでしょう。こちら(宇喜多側)の起請文を役に立て(〜起請文は信用におけて?)、相手(毛利側)の起請文を役に立てない(〜信用がおけない?)とするのは、あまりに恣意的な訴えで、取り合うまでもございません。百に一つも千一つも取り合いますのなら、ご飛脚を用いてすぐに賀茂へお知らせ申し上げなければなりません。さらに、喜ばしいことを重ねがさね申し述べるつもりです。以上、謹んで申し上げます。

 

*書き下し・解釈ともにさっぱりわかりませんでした。

 

 「注釈」

「上月」

 ─佐用郡上月町上月・荒神山佐用川西岸の標高194メートルの荒神山山頂にある中世の山城跡。荒神山上月城とも称する。通説では荒神山から谷を挟んだ北側の太平山(280メートル)の山頂に築かれていたが、のち荒神山に築城されたとされるが不詳。太平山にも小規模な山城遺構が認められ、太平山上月城の通称が残る。当城は赤松円心の嫡男範資を祖とする赤松七条家が拠ったことから七条城ともいう(天正六年一月二日「羽柴秀吉感状写」生駒家宝簡集など)。一方、「播磨鑑」は築城者を上月景盛とし、赤松氏の一族である上月氏が在城したと記す。荒神山東麓を古山陽道山野里宿(現上郡町)で分岐して、佐用村(現佐用町)へ至る道が通り、また地内で北西に分かれ美作国境の杉坂峠に出る道も通っていた。天正五年(1577)一一月二七日、城主赤松政範が毛利方であったことから、羽柴秀吉勢に城を囲まれた。そして後詰に駆けつけた毛利方の宇喜多勢が敗退し、水の手を絶たれ、三重の鹿垣を結いめぐらされて攻められ、一二月三日に落城する。このとき秀吉は降伏を許さず「女子供二百余人、備・作・播州三ケ国之堺目ニ、子ともをハくしニさし、女をハはた物ニかけならへ」たという(同年一二月五日「羽柴秀吉書状」下村文書)。この惨状ののちに入城したのが出雲尼子氏の遺臣山中鹿介である(同書状)。しかし同六年四月中旬には、織田方の撤退によって孤立した当城は逆に毛利勢に囲まれ、籠城の末落城した(七月一八日「足利義昭御内書」吉川家文書など)。この戦いの後、佐用郡の中心は利神城(現佐用町)に移ったようで、当城はほどなく廃城となった。遺構は頂上の二ヵ所の郭を中心に尾根筋や斜面にも郭を配置する。しかし各郭とも大規模なものはなく、防御施設も西側に二重、北側に一重の堀切が認められるのみである(『兵庫県の地名Ⅱ』平凡社)。

 

「北賀茂」─現津山市加茂町のことか。