周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)6・7

    六 吉川元春書状

 

 今日鉄炮可令放せ之由、従安国寺承候、聢其御催候哉、左候ハヽ爰元之儀

 申触候、御返事可示給候、恐々謹言、

       卯月廿六日       元春(花押)

 (後闕)

 

 「書き下し文」

 今日鉄炮放たせしむべき之の由、安国寺より承り候ふ、聢と其の御催候ふか、左候はば爰元の儀も申し触るべく候ふ、御返事示し給ひ候へ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 今日鉄炮を放出させなければならない、と安国寺恵瓊からお聞きしました。しっかりとご催促があるでしょうか。そうであれば、こちらの件も伝え申し上げるつもりです。お返事をお示しくださいませ。恐々謹言。

 

 

 

    七 小早川氏奉行人連署書状

 

 (端裏書)

 「於厳島四十貫文可渡御奉書〈天正十」七月四日〉」

    呉々来十三日より内ニ厳島へ御着肝要候べく候、

                         (内侍方、小早川氏御師

 於厳島舞楽御調候間、御段銭方百貳拾貫文被仰談、急度竹林殿へ登せ可被置候、

 然者俄之儀候間、四拾貫文宛御調専一候、恐々謹言、

     天正十午(1582)        鵜飼新右衛門尉

       七月四日        元辰

                横見和泉守

                   景俊

       井上但馬守殿

       東光寺

 

 「書き下し文」

 厳島に於いて四十貫文渡すべき御奉書、天正十七月四日、

 

 厳島に於いて舞楽の御調候ふ間、御段銭方百貳拾貫文仰せ談ぜられ、急度竹林殿へ登らせ置かるべく候ふ、然れば俄の儀に候ふ間、四拾貫文ずつの御調専一に候ふ、恐々謹言、

 

    呉々も来たる十三日より内に厳島へ御着肝要候ふべく候ふ、

 

 「解釈」

 厳島で四十貫文を渡さなければならないことを指示した御奉書。天正十年七月四日。

 

 厳島舞楽の奉納がありますので、御段銭から百二十貫文支出することをご相談になり、きちんと内侍方で小早川氏の御師である竹林殿へお渡しにならなけばなりません。したがって、急な件ですので、四十貫文ずつ奉納することが第一でございます。恐々謹言。

 

    くれぐれも、来たる十三日よりも前に、厳島へ費用がご到着になることが大切でございます。