八 小早川氏奉行人連署請取状
肴注文
一干鮭 拾喉
一ほしふく 数百ほん
一するめ 拾連
一しひたけ 壹斗温泉津舛
以上
右之請取所如件、
(天正九年・1581) (政綱)
〈辛巳〉六月四日 横見助右衛門(花押)
(元盛)
河本源右衛門(花押)
(尊継)
飯田 讃岐守(花押)
南平右衛門殿
山縣十郎衛門殿
*書き下し文と解釈は省略します。
「注釈」
「喉」─こう・こん。魚を数えるのに用いる。
「温泉津舛」─島根県大田市温泉津町地域で用いられた収納枡か。
九 小早川氏奉行人連署勘合状
陶保〈永禄七」甲子〉御米之内拾八石分
銀子貳百七十文目小数大小拾貳
但石別拾五文宛勘合
(1565) 楊井刑部丞
永禄八年三月十二日 元勢(花押)
粟 小
盛忠(花押)
令存知之訖、
◯紙破損ノタメ図省略
*書き下し文と解釈は省略します。
「注釈」
「陶保」
─山口市大字陶。新開作によって南側に名田島村ができるまでは、小郡湾(山口湾)の奥に海に面して位置する村であった。東は鋳銭司、西は中下郷、北は狐ヶ峰を境に平野の各村に接した。村内南部を東西に山陽道が通る。小郡宰判所属。
陶の地名は古代この地で須恵器を製したことによるといわれ、村内北方の山麓には所々に陶窯遺跡があり、現在でも多くの須恵器の破片が散乱する。この地に良質の陶土があり、それを材料としたわけで、近代に至るまで続けられている。平安時代初期、周防鋳銭司が設置されたのは、陶の寺家の地で、その後東方潟上山に移った。
陶の名は正治二年(1200)一一月日の周防阿弥陀寺田畠坪付(周防阿弥陀寺文書)に「陶一丁 矢地里」とみえるのが早い。中世、大内氏の支流右田弘賢はこの地を領し、居館をここに定めて陶氏を称した。しかしその子弘政の時、巨漢は都濃郡富田(現新南陽市)に移された。なお陶保宛毛利隆元書状(「閥閲録」所収)などに「就陶保之儀に、書状にて申越候通」など頻出しているが、詳細は不明。なお児玉氏は「周防国陶保之内四拾石足」(天正一〇年八月三日付毛利輝元書状)を知行していたらしい。(後略)(『山口県の地名』平凡社)。