周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)3・4

    三 穂田元清書状

 

 此状自吉田只今罷越候、則明日人を差返候条、御返事させられ候て可被下

 候へく候、恐惶かしく、

       八月九日         元清(花押)

 (捻封ウハ書)

 「                  四郎

        隆景様まいる人々御中  元清」

 

 「書き下し文」

 此の状吉田より只今罷り越し候ふ、則ち明日人を差し返し候ふ条、御返事させられ候ひて下さるべく候ふべく候ふ、恐惶かしく、

 

 「解釈」

 この書状はたった今、吉田から参りました。そこで明日隆景様は、使者を差し戻しますことをお返事になりまして、それをお与えくださいませ。恐惶かしく、

 

 

 

    四 廣尊隆亮連署書状(折紙)

 

   現形衆之書立御見せ候、御懇之儀ニ候、留申候、

                  (備中)

 昨日廿一御折帋今日申尅到来拜見候、松山儀内々以御調略之旨、竹井宗左衛門尉・

 三村兵部丞・同名助左衛門尉以下致現形、天神丸大松山御仕取之由、誠御太利尤

 目出候、小松山□ニ可為落去候、早々被仰聞候、恐悦ニ候、廣尊事頓可罷出之通

 存其旨候、御吉事重畳可申承候、恐々謹言、

      天正三年・1575)

       五月廿二日     太郎廣尊(花押)

               (三吉)

                 安房隆亮(花押)

    (小早川)

     隆景

    (福原)   御返報

     貞俊参

 

 「書き下し文」

 昨日二十一御折紙今日申の尅に到来し拜見し候ふ、松山の儀内々に御調略の旨を以て、竹井宗左衛門尉・三村兵部丞・同名助左衛門尉以下現形致し、天神丸・大松山御仕え取るの由、誠に御多利尤も目出候ふ、小松山□に落去と為るべく候ふ、早々仰せ聞きけられ候ふ、恐悦に候ふ、廣尊の事頓に罷り出づべきの通り其の旨を存じ候ふ、御吉事重畳申し承るべく候ふ、恐々謹言、

   現形衆の書立御見せ候ふ、御懇の儀に候ふ、留め申し候ふ、

 

 「解釈」

 昨日五月二十一日の御折紙が、今日申の刻に到来し拝見しました。備中松山城の件ですが、内々にご調略になるという戦略によって、竹井宗左衛門尉・三村兵部丞・三村助左衛門尉以下が裏切り、天神丸・大松山も奪い取り申し上げたことは、誠に大きなご成果であり、たいそう喜ばしいことです。小松山もすぐに落城となるにちがいありません。すぐにわれわれへお伝えくださいましたことを、たいそう喜んでおります。廣尊はすぐにそちらへ出向き申し上げなければならないと存じております。このうえなくおめでたいことをうかがうつもりです。恐々謹言。

   裏切った衆の目録を我々にお見せになりましたことは、ご親切なことでございます。目録はこちらに留め申し上げます。

 

 「注釈」

松山城

 ─現高梁市内山下。高梁市街地の北方にそびえる臥牛山頂の小松山にある山城跡。天守閣の現存する山城としては日本で最高峰(標高460メートル)にある城として知られる。

 松山城承久の乱後、新補地頭として有漢郷(現上房郡有漢町)に来住した相模国三浦市一族と伝える秋庭三郎重信が延応二年(1240)に臥牛山のうち大松山に築城したのが創始と伝えられる(備中誌)。その後、小松山にも出城が築かれ、元弘年中(1331─34)には大松山に高橋九郎左衛門宗康、小松山に弟大五郎が居城していたというが(備中誌)、元弘三年五月北条仲時に従って東上した宗康とその子又四郎範時は近江国で仲時に殉じて寺外した(「太平記」巻九)。高橋氏はその後窪谷郡流山城(現倉敷市)に転じたと伝え、正平一〇年(1355)には備中守護高師秀が入場した。同一七年、南朝方の山名時氏が山陰から美作・備中に進出してくると、師秀は時氏麾下の多治目(多治部)・楢崎両氏と結んだ秋葉三郎信盛によって「松山ノ城」を追われ、備中徳倉城(現御津郡御津町)へ退き(「太平記巻三八」)、以後松山城には六代にわたって秋葉氏が在城し、守護代を勤めた。守護細川氏はおおむね在京していたために、当城が備中北部における守護所の機能を果たしていたと思われる。

 応仁の乱では、秋葉元明細川勝元に属して京都洛東の岩倉山に陣を構え、山名方の軍勢を打ち破っているが(「応仁別記」)、やがて秋葉氏の勢力は衰え、永正年中(1504─21)には下道郡下原郷(現総社市)の鬼邑山(木村山)城を本拠としていた上野兵部少輔頼久が周防国山口の大内義興の支援を得て松山城主となった。上野氏は天文二年(1533)頼久の子伊豆守の時、猿掛城(現吉備郡真備町)城主庄為資に滅ぼされた(中国太平記)。庄氏は為資とその子高資の二代にわたって松山城に在城した。この間備中に進出してきた山陰の尼子氏に攻められたが(「鹿苑日録」天文八年九月一二日条)、やがて尼子氏と手を結んで威を振るった。しかし永禄四年(1561)に高資が尼子氏の加番吉田左京亮と対立して城を出ると、秋の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親が松山城を攻めて左京亮を討ち(同年四月二〇日「小早川隆景感状」萩藩閥閲録など)、松山城主となった。家親は毛利氏と手を結んで美作・備前に進出したが、同九年に久米郡籾村興禅寺(現久米南町)で宇喜多直家のために暗殺され、翌一〇年家親の子元親も明禅寺合戦で直家のために大敗を喫した(備前軍記)。この大敗によって三村氏の勢力が一時後退すると、備中には直家と結んだ尼子勝久の勢力が進出、元親は成羽へ退き、庄高資が再び松山城主となったようである。しかし元亀二年(1571)毛利の加勢を得た元親は再び松山城を回復した(同年二月一八日「穂田元清感状」黄薇古簡集)。

 元亀三年将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると(同年一〇月二九日「小早川隆景吉川元春連署起請文」萩藩閥閲録)、元親は織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻した。かくして天正二年(1574)冬から翌三年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で松山城をはじめ三村方の備中諸城をめぐって激戦が展開される。このいわゆる備中兵乱によって三村氏は滅ぶが、この頃の松山城は小松山に移っており、臥牛山一帯には大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、一大要害となっていた(中国兵乱記)。また城主の居館である御根小屋も後世の場所(臥牛山南西麓)に設けられていたようであるが(同書)、松山城とともにその縄張りや建物などについては明らかでない。三村氏滅亡後の松山城は毛利氏の番城隣、家臣天野氏・桂氏などが在城した(天正四年正月二三日「毛利輝元書状」萩藩閥閲録など)。(後略)(『岡山県の地名』平凡社)。