周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)1

    一 某書状  ◯以下二通、東大影写本ニヨル

 

  御状披見申候、

         (朝山)

 一中郡雑説付而、日乗以前者人質□可取候、何事も安やうに被申候条、其時者日乗

  被出候者可然之由申候処、何とや[    ]相違候辻者、人を被出申候て

  被聞け候、依其返事可出候との事にてありけ候、

 一昨日自日乗御方へ之折紙披見[ ]延引不可然候 被申候事ニ尤候へく候、其外

  之儀者受候事いつ□□りたる事に候、事多上ニてハさやうに口ニて申候様には

  不成事存候、彼仁もよく分別あるへく候へ共、何とそむきける事に候や、

 一何ハ不入候、於爰元ハ理すミ候ましく候へく候、それへまいられ候へ者申候而

  可進之候、もしもし中郡衆之儀付而入事共被調候ハんならは、能々被仰合候而、

  一両日中にも可被出候へく候、

 一人質ハ得とられす候共、雑説之儀さあるましき所、被申分候事を、早々被出被申

  候へかしとハ存候へく候、

    かしく

      豊前松山城) 〔吉川〕(市川経好)(坂元祐)(財満忠久)(ヵ)

  又申候、自松山左右候、吉見方市式・坂新・才満・満福寺以下、松山登城候て、

                                (警固)

  自松山之状参らせ候、自是進之候て可懸御目候へく候、唯今之事ハけいこ衆城中

                  さのみ

  へ出入たくさん候て、堅固之覚悟◯仰天なき趣ニ聞え候、先以可然候へく候、

                     かしく

 (後闕)

 (捻封ウハ書)              (報)

 「           隆景まいる御返□」

 

 「書き下し文」

 一つ、中郡の雑説付けて、日乗以前は人質□を取るべく候ふ、何事も安養に申され候ふ条、其の時は日乗出でられ候はば然かるべきの由申し候ふ処、何とや[    ]相違し候ふ辻は、人を出だし申され候ひて聞かれけるに候ふ、其の返事により出づべく候ふとの事にてありけるに候ふ、

 一つ、昨日日乗より御方への折紙披見[ ]延引然かるべからず候ふ、 申され候ふ事に尤も候ふべく候ふ、其の外の儀は受け候ふ事いつ□□りたる事に候ふ、事多き上にてはさやうに口にて申し候ふ様には事成らず存じ候ふ、彼の仁もよく分別あるべく候へども、何とそむきける事に候ふや、

 一つ、何は不入に候ふ、爰元に於いては理済み候ふまじく候ひべく候ふ、それへまいられ候へば申し候ひて之を進らすべく候ふ、もしもし中郡衆の儀付けて入るる事ども調へられ候はんならば、能々仰せ合わせられ候ひて、一両日中にも出でらるべく候べく候ふ、

 一つ、人質は得取られず候へども、雑説の儀さあるまじき所、申し分けられ候ふ事を、早々に出でられ申され候へかしとは存じ候べく候ふ、

    かしく

  又申し候ふ、松山より左右候ふ、吉川方市式・坂新・才満・満福寺以下、松山登城し候ひて、松山よりの状参らせ候ふ、是より之を進らせ候ひて御目に懸くべく候べく候ふ、唯今の事は警固衆城中へ出入たくさんに候ひて、堅固之覚悟さのみ仰天無き趣に聞こえ候ふ、先づ以て然かるべく候べく候ふ、

                     かしく

 

 「解釈」

 一つ、中郡の根も葉もないうわさについて、朝山日乗は以前、「人質を取らなければなりません。何事も心を安らかにして人質の身を養うように」と申し上げなさいました。そのときは、日乗がお出でになりますならようございましょう、と申し上げましたが、どうしたことか、日乗が出向かなかった結果、他の人を遣わし申されましてお聞きになりました。その返事によって、日乗はそちらへ出向くつもりですとのことであったのです。

 一つ、昨日日乗から御方への折紙を披見した。延引することは不適切です。申し上げなさいましたことは当然のことでございます。その外の件については、引き受けますこと 〜?〜 ことです。案件が多いからには、そのように口頭で申し上げますようでは、物事はうまく運ばないと存じます。あの人もよく物事を弁えているはずですが、どうして取り決めに背いたことでしょうか。

 一つ、何も立ち入りません。こちらでは、訳がわかろうはずもございません。そちらへ参上なさいますので、申し上げまして、これを差し上げるつもりです。もし中郡衆の件について、立ち入りを調整なさいますならば、よくよくご相談になりまして、一両日中にもお出かけになるのがよいでしょう。

 一つ、人質は手に入れることができませんが、根も歯もないうわさの件は、そのようなことはあるはずもないことを申し開きなさいますことを、早々にお出かけになり申し上げなさってくださいよ、と存じ上げております。

    かしく

  また申し上げます。豊前国松山城からの書状があります。吉川元春方の市川経好や、坂元祐・財満忠久・満福寺以下が松山城に登城しまして、松山城からの書状を受け取って参りました。こちらからその書状を差し上げまして、お目に懸けるつもりでおります。ただ今の状況は、大友方の警固衆が松山城中へ何度も出入りしておりまして、堅固に守ろうとする心構えはそれほど驚くほどではないと申し上げております。まずはよいことでございます。

                     かしく

 

*解釈はよくわかりませんでした。

 

 「注釈」

松山城

 ─福岡県京都郡苅田町松山。周防灘に突き出た半島に所在した中世の城郭。半島の頂上部(城山、標高127・9メートル)を削平して本丸とし、南東に向けて郭を連ね、南麓に大手口を開く。海と急峻な斜面に囲まれた天然の要害である。「豊前古城記」や「豊前志」などには天平一二年(740)に藤原広嗣を防ぐために築城されたとあり、その後の動向も詳しく記されているが口承の域を出ない。

 弘治二年(1556)に否定される九月二〇日の大友義鎮書状写し(横山文書/大一一)によれば、義鎮は同年八月一三日「松山城切岸」において戸次中務少輔に戦功があったと賞している。同三年大内義長が毛利元就に滅ぼされると、大友氏と毛利氏による豊前争奪戦が繰り返される。永禄四年(1561)一一月門司城(現北九州市門司区)攻略戦で大友軍が総崩れとなり敗走すると、毛利軍は松山城を確保し(十二月八日「小早川隆景書状写」麻生文書/麻)、城番を置いた(一二月二三日「毛利元就感状」萩藩閥閲録三)。しかし翌五年九月頃には大友方の攻勢が強まり(九月一〇日「戸次鑑連書状」田尻文書/佐七)同月十三日に大友軍の城攻めが始まった(一〇月一二日「大友宗麟書状写」真修寺文書/大一三)これに対して同年一一月元就は松山城へ兵糧の搬送を指示し籠城戦に備え(一一月一六日「毛利元就書状」萩藩閥閲録三)、翌一二月には毛利隆元が参陣している(一二月二二日「毛利隆元書状」同書三)。さらに当城に籠る天野隆重・杉松千代(重良)らの奮戦もあり(正月二七日「毛利隆元袖判奉行人連署書状」同書二)、戦線は膠着状態に陥ったが、幕府の調停により戦闘を終結、当城は大友方に引き渡されたらしい(中国治乱記)。しかし同九年に尼子氏を破った毛利氏は再び九州での動きを活発化させ、当城も回復する。同一一年五月当城周辺で大友軍が構成を強めると(同月二九日「毛利元就・輝元連署書状」堀立家証文写/内海文化研究紀要一六)、城将杉重良らが防戦に努め(九月二〇日「杉重良分捕并手負討死人数注文」萩藩閥閲録二)、翌一二年毛利方は城普請を行って備えを固めた(閏五月六日、「毛利元就・輝元連署書状」同書四)。しかし同年一〇月大友氏の後援を受けた大内輝弘が周防山口を強襲、毛利勢が九州から撤収し当城は再び大友方となった(同月二八日「吉弘鑑理書状写」無尽集/史一〇─三)。

 天正六年(1578)一一月大友勢が日向国耳川の合戦で薩摩島津氏に大敗し、反大友勢力が決起すると、松山城将出会った長野氏も大友方に反旗を翻している(九月二八日「長野助守覚」神代長野文書/北九歴二)。この背景には毛利方による積極的な工作があったとみられ、同九年には毛利輝元が松山近辺の動向をめぐって指示を与えている。(一〇月二八日「毛利輝元書状」萩藩閥閲録一)。同一四年大友氏の要請により豊臣軍が島津軍鎮圧のために九州に進出した際、当城へは先鋒となった小早川隆景が家臣の仁保氏や湯浅氏を城番に据えている(一二月二日「小早川隆景軍忠状」同書三)(「松山城跡」『福岡県の地名』平凡社)。