周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

三原城城壁文書12

    一二 毛利輝元書状

 

 元太之儀頓落去候、誠御心遣御短息故候、大慶此事候、仍御太刀一腰御馬一疋令

 進之候、表御祝儀計候、尚此者可申候、恐々謹言、

       卯月六月        輝元(花押)

       隆景 参 御陣所

 

 「書き下し文」

 元太の儀頓に落居し候ふ、誠に御心遣ひ・御短息の故に候ひ、大慶此の事に候ふ、仍て御太刀一腰・御馬一疋之を進らせしめ候ふ、御祝儀を表すばかりに候ふ、尚ほ此の者申すべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 本太城攻めの件はすぐに決着しました。本当に小早川隆景殿のお心遣いとご尽力のおかげです。このうえなくめでたいこととは、まさにこのことです。そこで、御太刀一腰と御馬一疋を進上させます。お祝いの気持ちを表しただけです。この使者が詳細を申し上げるはずです。恐々謹言。

 

*『三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)』12号文書と同じ。

 

 「注釈」

「元太」

 ─本太城。現倉敷市児島塩生 宇頭間(うとうま)。宇頭間の南端突出部にある。元太とも記された。東・西・南ともに海面より断崖絶壁の地形で、「東備郡村志」には「昔は海四方に周るれり」とある。現在は水島臨海工業地帯の一部になっている。突端部に本丸(標高約39メートル)があり、石塁をとどめている。本丸に出丸が続いているが、その間は鞍部になっていて堀切跡と考えられる。築城年代などは不明。永禄一〇年(1567)一一月九日の小早川隆景感状(萩藩閥閲録)には阿波三好勢の攻撃に対して籠城したことがみえ、毛利氏の備中・備前進出後の比較的早い時期に同氏の属城なっていた。元亀二年(1571)日比浦(現玉野市)の四宮壱岐守が讃岐の香西宗心に与力して兵三千余が日比・渋川(現同上)・下津井に上陸、香西勢は下津井より当城を攻めたが敗退した(「備前軍記」など)。当時の城主は能勢修理であった。「萩藩閥閲録」に収める毛利氏・小早川氏関係の書状類によると、天正二年(1574)・八年の戦いが知られる。廃城年代は不明(「本太城跡」『岡山県の地名』平凡社)。

 小早川勢が攻め寄せて、本太城が陥落したと記されているので、この書状は元亀二年(1571)に比定できる。詳しくは、「島吉利」(『戦国日本の津々浦々 ライト版』https://kuregure.hatenablog.com/entry/2021/05/29/131143、「本太城」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E5%9F%8Es)参照。