周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

小室直樹著書

小室直樹『危機の構造〔増補〕 ─日本社会崩壊のモデル─』(ダイヤモンド社、1982年、初版1976年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第五章 危機の構造

P142

 しばしば論じてきたように、現代日本においては、企業や官庁や学校などという機能集団が同時に共同体となる。これこそ現代日本最大の組織的特徴であり、また、現代日本社会の「機軸」であるといえる。

 年功序列や企業間移動の困難さなど、日本社会の構造的特色だと思っている人が多い。だが、社会学的に分析してみると、決してそうではないことがわかる。(中略)

 そもそも、年功序列制や集団間移動の困難さなどは、共同体の特徴であって、日本社会の特徴ではない。アメリカであろうとどこであろうと、共同体においては、これらの特徴はみられるのである。

 しかし、一般的にいって、アメリカなどの近代社会においては、普通、機能集団と共同体とは分化する傾向がみられる。つまり、宗教共同体、人種共同体、地域共同体などが、企業などの機能集団と重なることはなくなってゆく傾向が一般的で有る。

 ところが、戦後の日本においては、これと正反対の現象がみられる。つまり、企業、官庁、学校などという機能集団が、そのまま、共同体を形成するようになってきたのである。

 

 →前近代も機能集団と共同体は一致していたのではないか。たとえば、武士の家は戦闘を目的とした機能集団であると同時に、惣領とその家族を中核に据えた共同体が拡大したものと呼べそうだ。

 

 

P144

 アノミーとは、無規範(状態)あるいは無規制と訳されることが多いが、直訳ではなくて意訳をしてみると、むしろ、無連帯(状態)とでも訳すべきか。いずれにせよ、このような社会的状態だけでなく、それによって生ずる心理的な危機をもあわせ意味するのが従来の用語法における慣用である。アノミー概念は、社会学の始祖デュルケムによって提案されたものであり、その後多くの社会科学者によって展開せしめられ、現在では、政治学および社会学における最も有効な分析用具となっている。その後の展開のうち、ディグレイジァによるそれが注目に値しよう。彼は、規範の全面的解体を意味する急性アノミーと、規範の葛藤を意味する単純アノミーとを区別した。これらは、それぞれ、次のようなものである。

 ⑴ 単純アノミー。これは、すでにデュルケムによって定式化されている。かつて、デュルケムは自殺について研究した。まず彼は、経済恐慌時のように、急激に生活が悪化したときに自殺率が上昇することを確認した。このことを説明することは容易であろう。しかし経済繁栄時のように、急激に生活が向上したときにも自殺率が上昇することが発見された。この思いがけない発見について、彼は次のように説明する。すなわち、急激な生活の変化に適応することは、それが生活向上の場合でさえも、著しく困難であるからである、と。その理由について彼は、さらに次のように論ずる。一般に、人間の欲望は無限であるにもかかわらず、常に有限の充足しか得られないから、社会的歯止めが必要となる。この歯止めの機能を果たすのが規範である。規範により無限の欲望が制約を課せられ、人は足ることを知るようになる。この意味で規範は、心理的安定の条件でもある。ところで、経済の繁栄によって生活水準が上昇すれば、さらに高い生活水準が要求されるようになり、その充足の困難性はますます増大するであろう。他方、生活水準の上昇は新環境への適応を要求する。しかも、各水準の生活はそれぞれのレヴェルにおいて欲望を制御する規範を有し、異なるレヴェルの生活に対応する規範は、それぞれ内容を異にする。ゆえに、新生活水準によっていて規定される新環境への適応は新規範の需要を必要とするが、この新規範は旧生活水準における旧規範とは内容を異にするであろう。かくて、新旧両規範の間の葛藤は不可避となる。

 これが、デュルケムによって示された単純アノミーの発生過程である。ところが、この規範葛藤は、激しい心理的緊張を生む。人間はこのような心理的緊張に永く耐えることはできない。精神病、破壊行動の全面化からさらに、自殺に追い込まれることもありうる。

 

 ⑵ 急性アノミー。これは、簡単にいえば、信頼しきっていた者に裏切られることによって生ずる致命的打撃を原因とし、これによる心理的パニックが全体社会的規模で現れることにより、社会における規模が全面的に解体した状態をいう。このことを、体系的に説明すると次のようになる。社会において権威ある権力が成立し、秩序が保たれるためには、実力的威嚇のほかに、情緒的保護による心理的安定が保たれなければならない。とくに重要であるのは後者である。この心理的安定が保たれるためには、心理的関係として、「権力者とその支持者との間にいわばそうむけいやく」がなければならない。すなわち、「服従する側では、権力の定めるルールにかなった畏敬と服従とを提供し、これに対して、権力の側では、秩序を維持し生存を可能に─あるいは豊かに─して与える、というのがこの双務契約の内容である。もし服従する側がこの契約に違反すれば、服従する側の心理には、不安や安心の呵責が生まれ、もし権力の側がこの契約に違反すれば、服従する側の心理に『唯一の正しい秩序』の崩壊、宇宙の秩序と宇宙の中における自分の正当なあり場所との喪失、という混乱感が生まれる」のである。このことの帰結としての規範の全面的解体を急性アノミーという。ひとは、このような状態に永く耐えることは不可能であり、急性アノミーは、自殺、精神病、破壊性の奔出のような形で収拾されざるをえない。

 ⑶ 複合アノミーと原子アノミー。単純アノミーと急性アノミーとは、すでに従来の社会科学において定式化されたものである。これらの両概念は、本稿においても重要な分析的役割を演ずるが、現代日本における危機的状況を十分に分析するためには、これら両者のみでは不十分である。十分な分析を行なうために案出されたのが表記の二概念である。複合アノミーとは、現代日本のように、多くの規範システムが構造化されず、それぞれの断片としてのみ存在している場合に、かかる状況における情報効果によって生ずるアノミーである。また、原子アノミーとは、複合アノミーを前提とし、これが日本社会のように、「所有」が社会的文脈から分解不能であることによって生ずるアノミーである。なお、これら両者については、後に詳論する(一六六〜一七二ページ参照)。

 構造的アノミー 右に、とくに重要な四つのアノミー概念について論じたが、その発生源については触れなかった。それらは社会システムの外から侵入することもあろうし、社会システムの中にその原因を見出すこともあろう。とくに動学的に重要であると思われるのは、社会構造がアノミーを再生産するような作動過程の原理を内包している場合である。このような原理によって造出されるアノミーを構造的アノミーという。

 

P147

 さて、右の諸概念を用いて、現代日本の危機構造を分析しよう。

 現代日本における急性アノミーは、社会を根底からくつがえす契機を内包しているが、その源泉は、①天皇人間宣言、②デモクラシー神話の崩壊、③共産主義神話の崩壊、の三者である。もとより、最も致命的であるのは①であり、②も③も、①の原形をたどりつつ急性アノミーに導かれたことに注目されるべきである。つまり、戦後デモクラシーも共産主義も、天皇人間宣言によって「失われた秩序の再確立」を目指したものではあったが、そのために必要な条件が満たされず、同様な過程をたどりつつ(逆コース。スターリン批判および中ソ論争)崩壊したと思われる(本項では、この点に関する分析省略)。ゆえに、以下では①に焦点を合わせて分析を進める。

 戦前の日本において、「象徴としての『天皇』は、或いは、『神』として宗教的倫理の領域に高昇して価値の絶対的実体として超出し、或いは又、温情に溢れた最大最高の『家父』として人間生活の情緒の世界に内在して、日常的親密をもって君臨する。しかし又その間にあって、『天皇』は政治的主権者として万能の『君権』を意味していた」のである。ゆえに、天皇人間宣言は、根本規範の否定であり、全宇宙の秩序の崩壊である。そのことによって生じた急性アノミーは致命的なものとならざるをえない。そこで、頂点における天皇シンボルの崩壊によって、「国民の国家意識は、……その古巣へ、つまり社会構造の底辺をなす家族・村落・地方的小集団のなかに還流」することになる。このことによってのみ、致命的な急性アノミーによって生じた「孤立感と無力感を癒し」、「大衆の心理空白を充たす」ことが可能であるからである。いかにも、村落共同体(およびそれを原形としてつくられた集団)こそ、底辺から天皇制を支えた日本の基底であった。

 ところが、村落共同体もまた安住の地ではありえない。すでに村落共同体は、身分秩序と共同体的生産様式に内在する矛盾の展開により解体の危機に直面していたが、終戦とともに、確実に解体を開始する。そして、この解体過程を全面的なものとし決定的に加速化したものこそ、高度経済成長のスタートである。

 

P149

 解体した村落共同体にかわって、組織とくに機能集団が運命共同体的性格を帯びることになる。これを、共同体的機能集団と呼ぶ。このことこそ、現代日本の最大の組織的特徴であり、現代の危機構造も、かかる社会学的特徴をもった共同体的機能集団の独特な運動法則によって規定される。

 この、共同体的機能集団こそ、大日本帝国の組織的特徴たる頂点における天皇制的官僚機構と、底辺における(村落)共同体的構造とを再編し、一つに統合するものである。

 

 →運命共同体的機能集団は、日本の場合、前近代社会でも一般的に見られたのではないか。公家・武家・寺家だけでなく、商人・職人の徒弟制度なども、まさに「イエ」という共同体の拡大ではないか。

 

P150

 現在においては、共同体的身分秩序と資本主義的機能集団(としての要請)という相互に矛盾した景気の微妙な均衡は、この共同体的機能集団という同一の集団に基礎をおくこととなる。

 官庁、学校、企業などの機能集団は、同時に生活共同体であり、運命共同体である。各成員は、あたかも「新しく生まれたかのごとく」この共同体に加入し、ひとたび加入した以上、他の共同体に移住することは著しく困難である。しかも、彼らは、この共同体を離れては生活の資が得られないだけでなく、社会的生活を営むことすら困難である。かくて、共同体は、各成員の全人格を吸収しつくし、個人の析出は、著しく困難なものとならざるをえなくなる。

 

P151

 このような共同体構成からくる社会学的帰結は、第一には、二重規範の形成であり、第二には、共同体が自然現象のごとく所与なものと見えてくることである。このことにこそ実に、既述の盲目的予定調和説的行動を生んだ社会的基盤であるとともに、後に論ずるように、両者は相互に補強しあいつつ、特殊日本的行動様式の構造的特徴を再生産するものであると思われる。

 すでに述べたように、内外が峻別され共同体が各成員のパースナリティを吸収しつくすことにより、共同体独自のサブカルチャーはますます進化し、彼らのパースナリティ構成までこのサブカルチャーによって再編されることになる。かくて、共同体外とのコミュニケーションは、マスコミの介在により外面的には頻繁でありながら、その内実においては、ますます無意味なものとなる。このようにして、外部に対する鋭い関心を喪失することと比例して、各成員の主要関心は共同体内部にのみ集中し、共同体組織は天然現象のごとく所与不動のものと見えてくる。そして、このことからの当然の結果として、共同体における規範、慣行、前例などは、もはや意識的改正の対象とはみなされず、あたかも神聖なるもののごとく無批判の遵守が要求されるようになる。とくに共同体の機能的必要は絶対視され、その達成のために全成員の無条件の献身が要求されるようになる。

 

 →「共同体が各成員のパースナリティを吸収する」というのは、共同体にとって各成員は、共同体構成員としての特徴を備えていれば(与えられた役割をその通りに演じていれば)よいだけで、個性的である必要性はないということか。また、「共同体独自のサブカルチャーはますます進化し、彼らのパースナリティ構成までこのサブカルチャーによって再編される」というのは、その共同体でしか通用しない特有の文化(サブカルチャー)の発展によって、共同体内での役割が明確化し、その役割を与えられた各成員がそれを自身の個性だとみなすようになる、ということか。

 前近代の社会も同様であり、共同体間・集団間を移動しにくいからこそ、そこでの役割を適切に演じることを重視せざるをえなくなり、自身の命を手段・方法とみなしてしまう思考になってしまうのではないか。移動しやすい時代と移動しにくい時代、たとえば戦乱期と安定期では、自殺率や自殺の理由が変化するのではないか。

 

P152

 このような社会学的背景において、前述の盲目的予定調和説的行動が作動するとき、それは直ちに技術信仰に結びつく。すなわち、自己が所属する海軍、通産省、企業、赤軍などの共同体の機能的要請は絶対視され、それを達成するための技術は、社会分業における役割遂行のための手段とはみなされず、日本国存立(革命達成)のための条件として物神的に崇拝されるにいたる。したがってこの技術発揚という神聖なる任務遂行を妨害する徒輩は、許すべからざる国賊(人民の敵)であるということになり、彼らの批判に対して向けられるのは、反批判ではなく、「反逆者への怒り」である。(中略)。

 

 ところで、右に述べたような(共同体の機能的要請を達成するための)技術を信仰する人びとは、いかなる意味においても、自らを権威とする決断主体ではありえない。ゆえに、彼らがリーダーとして決断を迫られれば当惑せざるをえない。このとき救いとなるのは、彼らが所属する共同体の機能的要請である。その達成は神聖なる任務ではなかったか。ゆえに、彼にとって、この神聖なる任務を遂行する以外に、いかなる決断を下しえようか。かくて、決断の責任が漠然とした使命感の中に解消するとともに、この決断がいかに特殊なものであり、多くの選択肢の中の一つの選択に過ぎないことが意識にのぼらなくなる。したがって、この選択に対する責任が背後に押しやられ、ついにするごく意識化されなくなることによって、この神聖なる所与に向けられた批判に対しては、本能的な全身をつらぬく「聖なる怒り」が向けられることになる。このようにして、いわば体質的であった批判拒否症は、規範性を獲得しついに宗教的正当性を具有するまでに高められるのである。ところで、この「規範性」は、共同体の機能的要請に依拠することからも明らかなように、客観的な判定基準を有せず、きわめて状況的、流動的である。ゆえにそれは、合理的制御の可能性を有せず、情緒を通じての無限の恣意性の流入を阻止しえない。

 

 →「神聖なる」という認識であったかどうかまでは、言い切れないのではないか。言葉の使用には注意が必要。

 「宗教的正当性」とは、神への批判を許さない、絶対的に信じるという感覚のことか。

 

P156

 しかし、さらにそれ(アノミー)を深刻ならしめる理由として、生活変化における非対称的二重構造に注意しなければならない。つまり、一方では自動車、カラーテレビなど十数年前には高嶺の花であった商品が容易に入手できるようになるほど生活水準のある側面が上昇する反面、他の側面は、住宅不足、公害、交通地獄などによって、シビル・ミニマムの維持すら困難になる程下落しているのである。このような生活水準の構造的変化に際しては、ひとはこれを消費生活の上昇と感ずべきかどうかとまどい、心理的不安は著しいものとなる。また、インフレによる物価上昇もこのような二重構造を有するため、実際の物価上昇率以上に痛切に感じられることになる。たとえば、高級ウイスキーやカセットテープが値下げになっても、豆腐や風呂代が値上がりするとき、たとえ物価指数計算の上で両者がバランスしたとしても、人びとの感覚においては、前者は後者の埋め合わせになるとは感じられないであろう。この理由によってインフレは、「生活水準」を全体としては下落させない場合においてすら、生活そのものに対する挑戦と受け取られることになり、本能的拒否反応と心理的不安とを生む。これらの意味において、「生活の上昇」による新環境への適応は、想像にあまる困難なものとならざるをえない。

 以上が現代わが国における単純アノミーの分析である。われわれが対決を迫られている構造的アノミーは、単純アノミーの段階においてすら、非対称的二重構造に裏打ちされて、右のように史上類例を見ないような特異なものとなっていることに注意されなければならない。ところが構造的アノミーは、これにとどまるような生易しいものではない。

 

P157

 高度成長の結果、まず、経済財の意味が根本的に変わる。すなわち、生活水準が低い間は、経済財は、もっぱら、物的欲望達成のために求められる。しかし、生活水準が高まるにつれ、物的欲望の比重は低下し、社会的欲望の重要性が増大し、経済財といえども、その物的欲望のゆえにではなく、社会的欲望のゆえに求められる。この場合には、デモンストレーション効果が中心的役割を演ずる。

 金持ちと貧乏人との間に、衣食住のような基本的欲求充足の程度に大きな差異が見られるのは、所得水準が比較的低い国においてである。現在アメリカでは、食については、貧乏人も、かなりの大金持もほとんど差がないといえるであろう。(中略)住居についてはもちろん大きな差異がみられるが、家もある程度以上になると、住みごこちのよさ(residential comfortability)よりも威信(prestige)のような社会的欲望によって求められる比重が大きくなるであろう。

 

P158

 さて、以上はアメリカの話であるが、近い将来、日本も高度成長の結果このようになるであろう。すなわち、経済財は主に、社会的欲望によって求められるようになる。そうすると、デモンストレーション効果(demonstration effect)が中心的役割を演ずるようになる。このことは、電気洗濯機、テレビ、自動車などの耐久消費財の普及過程を思い出すと容易に理解できるであろう。周知のように、隣人、知人などが買ったという理由が、この場合、最大の購買動機になっている。このことは、自動車のモデルチェンジ、衣服における流行などを考えても容易に理解されようが、この傾向が極端にまで進むと、財はすべてそのデモンストレーション効果のゆえに求められるようになる。

 

P159

 現在にあっては、効用関数は所与ではなく、コミュニケーションによって改造され、創作される。現在の消費者は、商品のイメージを消費するといわれるが、商品そのものの品質よりも、イメージがより重要視されるようになってきた。つまり、はじめに効用ありき、という伝統的思考法にかわって、効用はイメージによって創作されるとの思考法によらなければ現実は説明しがたくなりつつある。ここにも従来の経済理論は限界を見出し修正を迫られている。イメージの創出過程とイメージによる効用決定課程を分析しえない経済理論は、現在ではあまり意味がない。

 すでにデモンストレーション効果や、ラチェット効果(ratchet effect)─過去の最高消費水準によって、現在の効用の高いか低いかが左右されること─の重視は、経済理論の内部においてみられたが、現在ではむしろこれらの効果こそ、消費を決定する中心的要因なのであって、これらを伝統的思考法に対する修正因子とみるには、あまりにもその重要性が増加している。

 

P161

 デモンストレーション効果も、アメリカの場合には、零次の同次性を持つといわれている。つまり、各人の効用(財やサービスの消費によって得られる満足度)の高さは、自分の消費だけ(絶対的消費水準)によって決まるのではなく、他人の消費との間の相対比によって決まるのであるが、零次の同次性が成立する場合には、自分より高い消費水準の人びとの生活をみることによって自分の効用が低められる半面、より低い消費水準の人びとの生活をみることによって自分の効用は高められる。

 

 →他者の消費生活を見ることによって、自分の効用も変動する。

 

しかし、日本独特の共同体構造は、このような対称性をもたらさない。共同体の内外は峻別されるから、共同体外にどんな消費水準の低い人があっても比較の対象にはならない。他方、機能集団としての共同体は、各成員の人格のすべてを吸収しつくしてしまっているから、共同体内における人間関係は全人格的なものとならざるをえない。したがって、共同体的基準が要求する最低の消費水準は、共同体内での地位を維持するため不可欠である。それどころか、共同体における地位を離れて社会的存在はありえないから、このことは、社会的存在維持のための不可欠の条件でもある。ところで、極度に発達したマスコミによって理念化された高水準の消費は、繰り返し宣伝されることによって比較の基準となり達成目標を与えることになる。

 このように、日本におけるデモンストレーション効果は非対称的なものであり、下にガッチリと歯止めが付されている半面、上には歯止めはなく、上限は常に上昇の可能性を含む。消費水準上昇の必然的傾向は、構造的に内包されているといえよう、そして、この下の歯止めと上方における比較基準とは、双方とも、高度成長の結果、普段に上昇する。

 

 →最低の消費水準も上昇すれば、理念化された高水準の消費水準も上昇する。つまり、高度成長は、常に上昇することを要求しつづける。

 

 このようにして、常に加速化されつつある高水準の消費は、一種の社会的義務となり、たえず遂行を迫られる。この恒常的に上昇する消費生活を維持するため、日本人は必死になって働かなければならない。この必死の労働への要請は、泥沼のようなアノミー状況と日本経済の共同体的特性のもとにおいては、容易に無限の献身に転化する。深刻なアノミー状況において、「宇宙の中で失われた自己の位置」を再発見する一つの有力な方法は、すべてを忘れてガムシャラに馬車馬のごとく働くことである。

 

P163

 そもそも、欧米型の資本主義社会においては、労働力は商品である。労働者はそれを最も有利な取引において売っただけのことである。したがって、生活水準が高まり、レジャーが上級財となれば、労働力の供給は減少する。しかし、労働者が共同体に丸ごと召し抱えられた日本においては、事情は根本的に異なる。労働と労働力とは分化せず、企業共同体の支配は、従業員の全人格に及ぶ。しかもこの「全人格」は、共同体に吸収されつくしているから、共同体の組織的要請はまさに根本規範である。たとえば、現代日本においては、レジャーさえも一種の義務のごとく、ステレオ化された集団行動によって費やされるから、労働とレジャーとの境界は明確ではない。

 

 →生活水準が高まってお金が余り、余暇がみなの望む高級財となれば、余暇の消費に時間と金を使うようになるから、労働力は減少する。だが日本の場合、労働力の提供のみならず、会社への忠誠や規範への従順さも求められる。労働とレジャーとの境界が明確でないという事例としては、休日を自己啓発の時間に使うように求められたことなどが当たるか。

 

 かくて、企業の側における組織的要請が従業員の側における必死の労働への要請と合致するとき、それは直ちに、無限の献身への要求に転化する。このようにしてエコノミック・アニマルが誕生する。それが、欧米型資本主義社会における労働者の理想像とどれほどかけはなれているかは明らかであろう。必死になって働いて、車も買った、ゴルフ用具も買った、モーターボートも買った。しかし、これらをどう楽しんでよいのか用途もわからない。これは、マンガというよりも、見事にエコノミック・アニマルの本質を衝いている。

 

P164

 このようにして、高度成長による消費水準の上昇は、さらにいっそうの上昇への衝動を生むだけであって、なんら満足度の上昇を生まない。働いても働いても生活は楽にならないという感覚は、急速な消費水準の上昇にもかかわらず、というよりも、それによってますます拡大再生産される。もっとわるいことに、消費の変化は、単純な上昇ではなく、前述のように非対称的である(つまり、他面における下落を伴う。ひとは、従来享受してきた製品に新製品享受の可能性が加わるとき、消費水準の上昇を実感するであろう。そうでなく、享受可能性そのものが根本的に変化した場合には、これを消費水準の上昇とみなすべきであるかどうか、とまどうであろう)。物価上昇も、このタイプであることにより、物価指数の上昇以上に痛切に感じられる(すなわち、クーラーや高級ウイスキーが値下げになっても、豆腐や風呂代が値上がりするとき、人々の感覚においては、前者は後者の埋め合わせになるとは感じられないであろう)。

 かくて、アノミー状況は、高度経済成長と互いに育成しあいつつ、無限に拡大再生産される。ゆえに、新環境に対する再適応と新規範の受容という困難な作業は、すべての人びとに強制される。しかもこの強制は、一度だけでなく、繰り返し何度でも、定常的に行われることになる。

 

P165

 デュルケムが分析したように、アノミーからの帰結の一つは自殺である。しかし、別の帰結もある。破壊衝動である。ひとは、アノミーによって生ずる恐ろしい心理的混乱から逃れるため、爆発的破壊衝動を発動せしめる。現在日本に蔓延する不気味な破壊衝動は、深刻なアノミー状況を雄弁に物語る。それはいつ爆発するかしれず、点火を待っている。

 

P166

 現代日本における規範状況の特徴は、多くの規範システムが併存して体系化されず、それらの断片がバラバラのままに放置されていることにある。(中略)

 この規範状況からの第一の帰結は、規範的行動における非対称性である。規範がまとまったシステムとして構造化されている場合には、必ずカウンター・バランスするようなサブシステムが発生する。たとえば、親分子分の関係において、子分の側において「白いものを黒い」といわれても服従することが要求される反面には、親分も親分として必要な修行を積むことが要求される。これが不足すると「親分の器でない」として地位が危ないのである。そのほか、西欧にける権利と義務、貴族社会におけるノブレス・オブリッジなど、このカウンター・バランスの例である。これがあってはじめて、規範は社会において有効に機能しうる。ところが、各規範が断片としてのみ存在している場合には、ひとは「自分に都合のよい」断片のみを享受し、これとカウンター・バランスするサブシステムを棄ててかえりみないことになる。かくて、子分に無理のみを要求して立場や気持などを思いやってくれない親分、義務を忘れ権利のみを主張する若者、特権のみを享受して責務を引き受けようとしないエリートなどが群生するようになる。このことからの必然の帰結として、巨大な「責任の真空地帯」が発生する。それは、だれかが生さなければならないことではあるが、だれの責任であるか明確でない領域である。この場合には、責任のなすりあいすら不可能である。その理由は、この責任領域の対極にある社会的利益を保証する規範の断片はあまりにも多種多様であるため、どれがどれに対応するか識別不可能であるからである。

 

 →戦国時代の大名対家臣の構図のよう。カウンター・バランスは、地域の問題ではなく、各時代のパワーバランスの問題にすぎないのか。

 また、規範の断片とは、権利のみを主張し、義務を果たさないこととほぼ同様のことか。自分にとって都合のよい規範の断片を集めて、自分にとって都合のよい規範を作り上げているが、それに対するカウンターノーム(規範)がないため、自己規制が働かないということ。

 

P167

 かくて人びとは、自己においてはこの巨大な責任の一端をも引き受けることを拒否するとともに、「どこか間違った人びととの大海」にかこまれているような疎外感にさいなまれることになる。

 

P168

 このことから、さらに次の第二の帰結が導かれる。それは一般的正当化の可能性である。すなわち人々は、各規範の断片を適当につなぎ合わせることによって、いかなる行動をも正当化しうるようになる。しかも一般に、かかる行動は、共同体の機能的要請から発せられ、独自のサブカルチャーに心情的根拠を有するために、行動者にとってはあまりにも自明であると同時に、外部の者にとっては了解不可能なものである。ゆえに、この「規範の断片のつなぎ合わせ」は、当事者にとっては疑う余地のないほど正当に見えるにもかかわらず、他人には想像を絶するデタラメに見えてくる。これは、単なる断層などという生易しいものではない。お互いにとってそれぞれの相手は、一方では、明確に存在する断層を認めようとしないだけでなく、他方では、断層とはとてもいえないものを「越えがたい断層である」として騒ぎ回っている奇妙な人種に見えてくるからである。そして、この相手は、自明のことすら理解しえないだけでなく、こちらとしては絶対に容認できない不合理な主張をなんべんでも繰り返して押しつけてくる“言語道断な暴力人間”にみえてくるであろう。こうなれば、人びとの疎外感は、「この宇宙の中に身のおき場所がなくなる」どころではなく、宇宙そのものの消滅感となって迫ってくるであろう。このようなディスコミュニケーションによる規範の錯綜を、複合アノミーという。とくに既述の共同体的規範状況、すなわち客観的判定基準を有せず、情緒を通じて無限の恣意性の流入が可能であるような規範状況において複合アノミーが作動するとき、情緒を共有しない人々との間においては、相手の行動はお互いに全くナンセンスにみえてくる。たとえば、大学紛争の団交において、教授の言は学生には全くナンセンスであったが、学生の主張もまた教授にはナンセンスであった。このようにして、規範的正当性は、きわめて不安定な情緒の大海の中にことごとく見失われてしまうことになる。

 

 →安倍派の裏金問題もそうであるし、プーチンウクライナ侵攻の思想的背景や、ハマスイスラエルの戦争も、すべて複合アノミーが原因になっている。

とくに、トランプによる分断現象などは、まさにお互いの理屈が通用しない、情緒のみの応酬になっている。この主張は、日本だけを分析対象にしているが、日本だけの問題ではない。

 

P169

 川島武宜教授が指摘したように、また後に詳論するように(179ページ参照)日本社会における「所有」概念は独特のものであって、西欧型の近代資本主義社会におけるそれと著しく社会学的意味を異にする。

 近代資本主義社会における「所有」の社会学的特徴は、その抽象性にある。たとえば、現実にその「物」が手許にないことは、全く所有権の有無に影響を及ぼさないのである。

 日本では、「所有」は抽象的ではなく、たえず状況に左右されるから、その「物」を実際に保有している者は、なんらかの意味での「所有権」を有するようになる。たとえば、「役得」「社用族」などは、このことからの必然的帰結である。欧米人の倫理感覚からすれば、「株主の金をみさかいもなく私用に流用するような人物」は、それだけで信用がおけないことになるであろうが、日本においては、必ずしもそうは思われていない。その理由は、会社は株主だけの占有物であるとは考えられていないからである。会社は、株主のものであると同時に、経営者のものであり、従業員のものでもある。従業員の家族のものでさえある。しかも、だれがどこまでこれを所有し処分権を有するかに関しては、その境界は明確ではなく一義的でもない。会社はみんなものであるとともに、この「みんな」は、それぞれの状況に応じてこれを享受し処分しうることになる。ゆえに、それは状況に応じて無制限に拡張されうる契機を有する反面、「権利」として確立されたものではない。

 このような法則は、企業だけでなく、あらゆる共同体的機能集団(機能集団としての共同体)において働く。

 

P170

 ところで、すでにみたことから明らかなように、共同体的組織状況において複合アノミーが作動するとき、ひとは結局、情緒を共有し「本当に気心の知れたグループ」の中にしか安住の地を見出し得なくなる。しかも、当然このグループはきわめて小さいから、この小さなグループを単位として「内外が峻別」されることになる。そしてこの小さなグループにおいて右に述べた法則が働くとき、このグループは成員の私有物と感じられ自我との同一視が進む。そして、内外が峻別されることによって生じた断層が、批判拒否症が宗教的規範性を獲得するという既述の社会過程に投入されるとき、右の同一視によってこの小グループはトーテム的に機構信仰の対象となる。さらに、この過程の前提とされる複合アノミーが真正の「正当性」に基礎をおかず、ある「許容範囲」に基礎をおくようになるとき、この小グループ内外のディスコミュニケーションはほとんど絶望的となる。

 

 →P170真ん中の「このような法則」と「右に述べた法則」は、「公私混淆」と言い換えてよいか。

 

P171

 そもそも、規範は必ずしも完全な遵守を要求せず、許容範囲(お目こぼしの幅)を有する。これを下位規範というが、右の小グループのように、規範的判定の基礎を情緒におく場合には、情緒を共有しないグループの間における下位規範の相互理解は、絶望的に困難である。すなわち、情緒を共有する仲間の間では「これぐらいのこと」として通ることが、外からは「とんでもないこと」にみえる。たとえば、代議士にとっては生活必需品である政治献金という名前の「賄賂」は、大学教授には厚顔無恥な行為にみえ、逆に、代議士には、「過激派」学生を教育しえないような大学教授には教育者としての資格はないように思える。かくて、各小グループは、単に規範の解釈を恣意的なまでにことにするだけでなく、お互いに自己の理想を基準として相手の「おめこぼし」レヴェルの行為を評価することによって、お互いに相手が言語道断な人間にみえてくる。ヤングにとって「大人」が信用できなくなるのと同時に、大人にとっては、「現在の若者は外国人と思え」ということになる。年齢による断層だけでなく、政治家、知識人、実業家などの間の相互不信、さらに細分化されたグループ間の断層は、このようにしてはてしなく進む。かくて、すべての人が、「何をするかわからない言語道断な不徳漢の大海にかこまれた孤島に住むような心理」となり、疎外感は極点に達する。このような規範の粉末化を、原子アノミーという。

 

 →SNSの炎上の説明がよくできている。

 

P172

 この原子アノミーは、もし収拾されうるとすれば、小グループにおける機構信仰によるほかにないのであるが、この小グループは、日本社会の構造的特徴からして、他のグループと縦に連結している。そして、右に述べた原子アノミー社会学的特徴からして当然に、この小グループの成員は、より上のグループの言語道断な横暴に対して「聖なる怒り」を爆発せしめるであろう。しかもこのことは、より上のグループにとっては、理由なき反抗であり、ゆるすべからざるわがままにみえる。ゆえに、断固弾圧あるのみである。さらに、このディスコミュニケーションにもとづく闘争はより下のグループとの間にもくりひろげられる。

 はたして、各グループは、それぞれの機能的要請の命ずるところに従ってより上のグループに対しては、はてしなき反乱を続けるとともに、より下のグループに対しては、問答無用の弾圧を加えることになる。これをセルローズ・ファシズムという(そもそもファシズムの本質は、ドグマではなく、集団の機能的要請にもとづいて行動するにある)。かくて各社会集団間の機能的協同は絶え、社会は解体への道を進むことになる。