周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

歴史・民俗・宗教系論文一覧 Part2

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

出版年月 著者 論題 書名・雑誌名 出版社 媒体 頁数 内容 注目点
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 250 一般に一つの荘園、一つの村落は、いわば封鎖的・牧歌的小宇宙と考えられやすい。だが、現実はそれとは逆であって、一つの荘園の内部でも、荘民たちのある者は領主の神人・供御人などという特定身分となり、あるものは荘官たる在地領主の下人・所従的身分となっている。一つの荘園・村落の農民たちが、個別に上位者とのあいだに特定の人的結合=保護隷属関係をとりむすぶのが中世社会の特有の在り方であったから、農民たちのあいだの身分的分裂は、しばしば、生産・生活面における共同体的関係を破綻させる役割を演じた。またそれに加えて、一つの村落や荘園は、しばしばそれ自体完結的な政治的世界ではなく、支配関係が交錯し、また周辺荘園とのあいだに、山野・水利利用や境界問題などをきっかけとしてたえず小規模な紛争をくりかえし、荘官・在地土豪はたがいに隣荘に精力を浸透させて、百姓たちをここに味方に引き入れようとするのが常だった。従って、そこではたえず荘民のあいだの分裂と抗争がさけられず、したがって叛逆者くりかえし生み出される可能性が大きいのである。 こんな社会であるからそこ、抑うつよりも怒りが許容されなければ、自身の生活を守ることができなかったはず。
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 252 それでは流亡・追放などによって、村落共同体から流出した人々は、どのような形で生命を維持し、どのような社会的な存在形態をとったであろうか。
いうまでもなく、それもまた多様であったに相違ない。個別家族の零落にもとづく流亡の場合には、縁故をもとめて近隣の有力者のもとに家族ぐるみ隷属する場合もあろうし、それが一家ごとの身曳という形態をとることもあった。また場合によって、家族を維持しえず、一家ばらばらに人身売買されて、家内奴隷化してゆくことも稀でない。しかし大規模な飢饉のような場合には、そうした有力者への隷属はほとんど不可能だったから、広範な地域の多数の農民が大挙流亡し、食糧を求め都に流入することが多かった。
 
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 253 つぎに追放の場合はどうか。荘外追放がおこなわれるとき、周辺の縁者たちが犯科人を寄宿させることを禁止する場合が多かったし、それら犯科人が追放後も「荘内経廻」して問題になっていることが少なくない。したがって追放即流亡と見ることは速断にすぎ、むしろ荘域外の地に小屋住みし、縁を求めて還住の機会を求めたり、小屋住みのまま河原や谷あいの奥地に定住することが多かったと見た方が無難であろう。
およそ以上のような過程を念頭におけば、村落共同体からの流出者の中世的存在形態は、⑴乞食・非人、⑵散所、⑶間人という三類型に整理することが可能である。以上順を追って検討しよう。
 
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 255 非人宿と交通路上の宿駅との関係は必ずしも明らかでないが、非人集団の宿々はたんに物乞いの便宜から自然に非人が集まっただけではなく、領主制がゆき倒れ人の処理や、交通路に不可欠の牛馬が斃死した場合の処理、あるいは牛馬取引などに関係させていたからと考えられるのである。そのように見れば、中世の社会秩序のもとにおいて非人はそれなりに不可欠の社会的機能をもっているのであり、それは皮仕事にたずさわる関係から武具製造に関連し、非農業者の集団として宿に蝟集する点からはのちの馬借につらなる交通業務にも関連する可能性が生まれてくるのであって、そすれば、非人集団が賤視されて、一般村落共同体から切り離され、権門社寺に直属することは、一般農民とそれら特定の技能者を切り離し、領主制が独自にそれを掌握することによって支配権力を強化する役割を果たすことは明らかである。
以上で乞食・非人の主要な存在形態の輪郭を見たのであるが、もちろんかれらのすべてがこのような形をとるとはかぎらないのであって、各地の荘園村落から、完全に遊離しない場合も稀でなかった。その一つの例としては、越後国荒河保の在家注文にみえる非人所がある。(中略)これによれば、非人在家五宇は入出山の山堺にあり、集団をなして定住し、いくらかの水田や開発耕地をもっているが、非人個々人の名前もはっきりしないような存在であった。この非人について、井上鋭夫氏は、入出山の位置を考証し、それが現在鍬江沢と呼ばれる地域に属し、勝つ付近には金掘沢という小字名もあったことが江戸期明暦四年の検地帳から知られる点から、ここで鉱石採掘がおこなわれていたと推定し、この非人は金掘りに従事していたといわれたのである。井上氏の推論は、鍬江沢・金掘沢という地名と否認とを直接結びつける点で、論証方法としてはなお検討の余地もあろうが、農業外労働が賤視される傾向は中世社会に一般的に認められるから、非人が採鉱労働に従事していたことも十分ありえたと考えられる。この点が承認されるなら、非人労働力は非農業部門=手工業、鉱山などにかかわる下級労働力としてひろく機能していた可能性もあるわけで、かれらの領主への直接隷属は、それら生産物の領主的支配にも通ずることになり、いっそう大きな意味をもつものとして注目する必要が起こってくるのである。
 
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 266 中世後期に入って卑賤視=差別意識がかえって強化される重要な根拠は、この時期に入ると、村落共同体の、社会的・政治的機能が強化され、「村の自治」が進展することと深く関わっている。すなわち、アジア型の総体的奴隷制社会を史的前提として成立してきた日本の中世社会においては、中世前期では、支配権力への抵抗のとりでとなる村落共同体の社会的・政治的結合=自治権は弱いため、共同体の排他性が稀薄であり、従って、共同体成員の非成員に対する排他的意識も弱い。それに対し中世後期に入って、村落共同体の政治的機能が強まり「自治」が強まると、成員の非成員に対する差別意識は強められていくのである。  
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 267 以上きわめて荒けずりな素描に終始したが、荘園体制は、このようにして村落共同体からの流出民を支配の体制に適合的に再編することによって、その基盤を強化していったのである。もちろん荘園体制の基本的な社会基盤は、名主的階層であり、それのとりむすぶ村落共同体にあった。しかしそれと同時に、その共同体から流入した人々を特定の身分に編成し、それに特有の社会機能を付与することによって、支配の体制が補完強化されているのであり、そこに律令体制の転形の中から成立した荘園体制の、いわばアジア的ともいうべき特徴があると考えられる。  
1971 永原慶二 付説 富裕な乞食 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 268 これによれば、かれらはやはり塩の施しを受けねば生きられないような窮乏者だったが、少なくとも乞食の頭は、第一の話のように豊かな暮らしができた。したがって、「乞食」とは、当時、たんなる生活状態をさす概念ではなく、一定の身分的状態を表す言葉であったことがわかる。  
1971 永原慶二 付説 富裕な乞食 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 269 ここでも巨万の財宝をもっていることと「乞食」であることに矛盾していないから、乞食はやはり一定の身分的状態だといわねばならない。(中略)
これは乞食ではないが、放免という前科者で死体片づけなどの雑役をしていた人の手下にされた青侍が観音の御利益で大金持になるという筋の話の背後に、当時、死体片づけにあたっていた、いわゆる「卑賤」民が、金の面では案外にゆたかであったとも読み取ることができよう。その点ではやはり富裕な乞食と相通ずる話だといってよい。
 
1971 永原慶二 付説 富裕な乞食 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 270 子を見殺しにしても、卑賤視する人々に肌をゆるさぬ行為を、ほめたたえる物の考え方の強烈さは、今日のわれわれには到底理解できぬものがある。しかも『今昔』をよんですぐわかるように、一般には、男女間の貞操はきわめてゆるやかであり、他人の女房であれ、行きずりの姫であれ、男たちはつねに大胆に女に働きかけるし、女もまた自由であるのである。したがって、この乞丐を拒否した女の場合は、相手の身分なるがゆえの拒否であって、一般に母性愛よりも貞操を重しとしているのではないのである。
こう解すると、差別意識の強烈さにはあらためておどろかざるをえないのものがある。右に紹介した最初の話では、無縁の若僧が比較的かんたんに乞食頭の聟となるように思われるが、それはあくまで「無縁」の者のうえ、聟となったからには生涯、世間から隔絶した生き方をえらばねばならない点を強調しているのである。物語は、むしろ、富裕という物質的な現実と、身分的差別とが、はっきりk区別されねばならないことを強調しているようである。
 
1978 上田正昭 第1章 史心映像 古代からの視点 PHP研究所 著書 43 応仁・文明の大乱で、京都の大半が荒廃に帰したころのできごととして興味深いエピソードが、当時の記録にみえる。文明十三年(一四八一)六月、堺の福神の女房たちが入洛し、京都の貧乏神の男たちが堺へ下ったという風説がそれである。堺からの福神らの入洛説には、京都の復興を切望する町衆のこころが投影されていた。  
1982.2 黒田日出男 史料としての絵巻物と中世身分制 歴史評論382 歴史科学協議会 論文 72 したがって、網野氏や大山氏が論じられているのは、基本的な非人たちの身分規定ではない。両氏の規定に実体として対応するのは、座的な編成をとっている非人の長吏とその配下の者たち、すなわち、非人の長吏集団ないし長吏層ともいうべき存在なのではあるまいか。史料解釈のレヴェルでは、前述のように「疥癩の類」とありながら、実体は宿の長吏で、癩者たちではなかった場合があるように、史料上の「非人」のどれに対応するものなのかに十分留意するべきである。
すなわち、獄囚が、平安期以来非人施行の対象であることは周知のことであるが、その囚人と非人の両者に共通する可視的な特徴のひとつは、蓬髪や坊主頭であって、烏帽子を被れない存在であるというところにある。
 
1982.2 黒田日出男 史料としての絵巻物と中世身分制 歴史評論382 歴史科学協議会 論文 73 すなわち、坊主頭を含む髪型・被り物のレヴェルからは、次の四つの存在に分類されるのである。説明を単純化するために、第一は、「童」=「童髪」、第二は「人」=「烏帽子」、第三は「僧侶」=「坊主頭」、第四は「非人」=「蓬髪」と把握しておきたい。
第一の「童」は、まだ「人」ではない。「童」は成人儀礼によってはじめて「人」になる存在である。それは髪型・被り物のレヴェルでは、童髪から、髻を結い烏帽子を被ることによって変換されるのである。
第二の「人」は、髻・烏帽子によって象徴される。この「人」の世界は、「出世間(聖)」に対する「世間(俗)」であり、上は天使から下は諸人(凡下)に至るまで、烏帽子(有帽)の体系をなしているのである。これは、峰岸純夫氏の中世の身分体系図式の第一の部分(「俗」の身分)にほぼ対応するが、私の場合、①そのX軸を、国家の成員⇄非成員とされ、Y軸の世間⇄出世間とは異質な軸の設定である。②下人・所従は、「童」⇄「人」の対立に位置づけられる点を考慮されていないように思われる。この世間における身分秩序の原理的把握には、やはり黒田俊雄氏が利用された『普通唱導集』の十分な分析が必要であって、わたくしは、この「人」の世界のうち「聖霊」の身分秩序は、(a)国家的官位・官職の体型と、(b)家族的・血縁的紐帯に媒介された主君⇄主従関係によって成り立っていると考えている。
 
1982.2 黒田日出男 史料としての絵巻物と中世身分制 歴史評論382 歴史科学協議会 論文 74 第三は、髪型のレヴェルで坊主頭によって象徴される「僧侶」である。彼らは、「世間」(俗)と対立する「出世間」(聖)の存在であって、『普通唱導集』の「聖霊」出世間部に見られるように、僧綱制や師範⇄弟子の関係によって体制内に位置づけけられている。そして、「人」と「僧侶」は、剃髪・還俗という行為によって相互に移行しあうのである。
第四は「非人」であって、蓬髪によって象徴され、囚人、乞食僧ないし非人僧、乞食非人・不具者、そして最も穢れた存在とみなされる差別された癩者が位置づけられる。
ここで「非人」に焦点を当てれば、①「非人」の子は、基本的に「非人」として生まれるので、「子」→「非人」という矢印はない、②また「非人」→「人」という→も、「非人」→「僧侶」も捨象しうる。とすると、「非人」は、点線の矢印のように、罪・病気などによって穢れた存在とされて「人」の世界から追放・転落させられ、「人」の身分標識たる烏帽子を取り上げられて、新たなる身分標識としての蓬髪を強制された存在なのである。また、同じく点線の矢印のごとく「僧侶」の清浄なる世界から離脱し、遁世した存在もまた「非人」となる。「非人高弁」と自署した明恵の場合はそれにあたる。いわば「僧侶」は、聖なる世界における「人」であって、その体制からの離脱=遁世は「非人」化にほかならないのである。
「非人」→「人」の可能性はありうるか。乞食門次郎が米商人となったのは、その事例になりそう。
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 14 それで、仏教自身も穢ということをひじょうにやかましくいうわけです。とくに法相宗がそうです。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 15 それで法相宗では「薫修」ということをいって、身も心もきれいなものにして浄土にいけるようにするわけです。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 19 いや、室町以降じゃないですか。まだ鎌倉の段階では、移動するから賤視するというよりも、むしろ自由に移動できるというのは、きわめて重要な特権なんだと思いますね。そういった室町以降に出てくる賤視の根をたどれば、いろいろ問題は出てくると思いますが、そういう賤視の観念が庶民の世界に定着する方向へ向かっていったのは、やはり室町以降じゃないでしょうか。
もうひとつ米づくりに関連していいますと、筋目という問題があります。スヂがいいとか悪いとかのスヂです。そのスヂというのはじつは種もみのことなんです。スヂダワラというのはじつは種もみのことなんです。スヂダワラというのを正月に飾って年神を祀るわけですけど、そのスヂダワラを持っている家が筋目のある家ということになるんです。
 
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 20 そして、だんだん種もみをもつ人間が増えてきて、惣村の段階になると種もみをもつ人間のほうが多数派になるんですね。そうしますと意識の質的な変化がおこり、種もみを持っていない人間は、スヂのない人間だということで排除されるようになって、そこで差別観念の定着化がおこったのではないかということなんです。ですから鎌倉のころはまだ、種もみをもっている人間のほうが少なかったんじゃないか…。 結局、マイノリティーが差別されるということになる。とある集団がマジョリティー化し、固定化すると、マイノリティーも固定化されて差別されるのではないか。
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 22 それからゲザイという鉱夫のことをいう言葉がありますね。それが明治のころ「下罪」という字があてられている。
江戸時代は「下財」ですね。
ところがこのことばの源流をたどっていきますと、「身体の外の財産」というのがほんとうの意味なんです。だからこれは職人の芸能と不可分の関係にあるんですね。たんに鉱山労働者や技術者だけじゃなくて、「内財」つまり家のなかの財産にたいする外の財産なんです。ですから供御人の課役は「外財」に賦課する課役なのだというようなことも出てくるわけです。
それはいつごろですか。
鎌倉時代ですね。つまりこのころは、「外財」で、なんら差別的な意味はないわけです。ところが室町以降になると、「下財」「下才」という字もつかわれ、いやしめる意味が入ってきて、特定の鉱夫という職業だけに、このことばが使われるようになる。これは散所の場合も同じで、もともと散所御家人とか散所召次のように、賤視の意味はなかったと思いますが、室町期以降、散所非人にもっぱら使われるようになり、その段階になってはじめて賤視の入ったことばになる。これは脇田晴子さんのいわれるとおりだと思います。それから「当道」ということばがありますね。
盲人のばあいにも使いますね。
ところが鎌倉時代では、これは「道道の朝柄」らが自分たちの道をいうときのことばなんです。それがやはり江戸時代には特定の職掌のことばに分化・定着していくわけです。
 
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 23 それから差別の要因についても、遍歴からくる差別、穢からくる差別、根拠のない「異民族」(たとえば朝鮮人)ゆえの差別、それから技術・職掌からの差別、課役を負担しないことからくる差別などひじょうに多様ですよね。これをたんに「被差別部落」として、ひとしなみにまとめたり、一つの要因だけに、差別の原因を求めるのではなくて、もっと相対化してみる必要があると思うんです。とくに歴史学の問題としてはですね。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 24 けっきょくたんなる区別であったものが、ある特定の人びとに不利益や損害を与えるようになるのが差別だろうと思うんですけど、そういう意味ではなんでもかんでも差別しようと思えばできるわけですよ。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 26 ただ、だいじなことは、中世前期でも「職人」は課役を負担しないというところに、身分としての特徴がありますね。これはもともと、自由通行権とおなじく特権だったと思うんです。この特権はずっとあとまでつづくわけですが、室町時代には、あるばあいその点がひっくりかえって逆に差別の原因となりうることを考えておく必要がある。平民が、あの連中は自分たちとおなじように課役を負っていないのだといいだして、差別視するばあいがあるんですね。ですから、職人が現実にはすべて差別されたわけではないんですが、こうした平民の気分が、職人の一部を差別するときの根底にあるのではないか。そのことをもっと明らかにすれば、被差別部落形成史のなかになる。職業起源論を克服する道もひらけるのじゃないでしょうか。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 32 外国人にたいする差別意識は国家意識の成立と関係すると思いますが、私は安土桃山時代西洋文化との接触後に本格化するのだと思うんです。あの時期に国家意識がはっきりするようになるのであって、それ以前の段階で、中国人や朝鮮人にたいする差別意識は存在しなかったでしょうね。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 35 そういったいろんな条件のなかで、生活程度があがっていくと、差別意識が出てくるんですね。つまり生活程度があがった部分で、差別というものが理由に使われてくる。中世までのふつうの村では、おたがいに差別できるほどの差はなかったと思います。
生活程度が大幅にあがればいいんだけど、中途半端にしかあがらないから差別が出てくるんですね。だからもっとあがりたいんだけどあがれないから、けっきょく下をみて弱いものをみつけてくることになる。これは世界に共通する差別心理じゃないですか。
そういう意味では、中世の惣村というのは、以前にくらべればかなり生活がよくなったんだけど、全体としてはもうひとつあがりきれない。
 
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 36 琵琶湖の北の端に菅浦という有名な集落があります。ここは中世の段階では惣村というより、むしろ小さな都市といったほうがいいと思いますけど、あそこでは門があって、家事を出した人はその外に追い出してしまうんです。たぶん、間人もはじめは門の外に住まわされたのでしょうね。だから門の外に追い出されれればある種の差別をされたのでしょうけど、門の内にいれば、これは階層のちがいはあったでしょうけど、差別されるというのとはちがうようです。
差別ではないですね。
そういった門とか堀のようなものが南北朝ごろからはっきり出てきて、その内にいるか外にいるかということが差別の意識につながるというケースは、かなり出てくるでしょうね。
けっきょく中世のばあいは、門の外にはじき出されたのが被差別民になるわけですし、それが近世になると、はじき出された人間をまとめて場所を指定するようになる。それが被差別部落になるわけでしょう。
そのことが中世と近世のもっともはっきりしたちがいですね。たとえば遊郭なんかにしても、中世では遊女じゃなくて、遊行の女婦(うかれめ)だったのが、近世になると遊郭という特定の場所を指定されて、そこから出てはいけないことになる。そうすると遊女という存在におし込められる。それとおなじことですね。
区別による不利益や損害があって、はじめて差別と呼べる。階層差による蔑視程度は、差別とは呼べないということか。
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 42 網野:それから赤ですね。興福寺の非人を統括しているトガメ(戸上)、カサイデ(膳手)という公人がいるんですが、この二人は嗷訴のときや祭のときに真っ赤な狩衣を着ているんです。検非違使の看督長も赤い狩衣を着るし、やはり、赤は非人と関係があるようですね。
おそらく、赤は清めの機能とひじょうに関係があるんじゃないでしょうか。破邪とおいう意味でね。
おそらくこういった赤は、さっきの柿色のばあいと、また別の意味があると思いますね。
その赤色は、悪党、悪七兵衛の悪とおなじような意味じゃないでしょうか。
 
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 290 以上、長々と具体例を紹介してきたが、南北朝から室町期にかけての土豪層による開発の進展は、その多くが、以前の用水路の復旧や新しい池の築造によって、畠地の水田化を目指す再開発であったことを明らかしえたと思う。もちろん荒廃地を直接開田する場合もあったであろうが、この時期の特徴を示す開発としては荒川荘や蒲御厨や上野庄の場合のような畠地の水田への展開にもとめたいと思う。  
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 291 第一は、鎌倉期を通じて展開した畠作の発展と、鎌倉後期以後特徴的に現出してくる小規模開発の蓄積とを基礎に、経営的な安定を獲得した小農民が、名体制を克服し村落内の地位を上昇させつつあるのに対抗して、土豪層が小農民層の農業生産・技術の成果と彼らの水田耕作に対する欲求を吸収しつつ、逆に自らの主導で畠地の水田かを実現することによって、村落内の地位を確立しようとするものであった。
そして、その開発が用水の復旧や池の築造を重要な要素としていることは、開発耕地に対する領有権にとどまらず、用水権をも掌握することによって、村落内のより具体的な勧農権を掌握したことを意味し、それが土豪層の領主権を確固たるものにしたと考える。有名な暦応年間(1338〜42)の桂川今井用水をめぐる土豪連合の用水契約も、以上のような文脈のなかで理解することも可能であろう。
 
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 291 しかし第二に、畠地の水田化は、上野庄の事例から明らかのように、土豪層だけではなく名主百姓を含めた階層の欲求であったことは注目しなければならない。そしてこれは畠地の水田化ではないが、小百姓層の小規模な水田開発も活発化してくることを考え合わせるならば、この時期の水田に対する欲求の高まりは幅広い階層のものであったとしなければならない。峰岸氏のいう、中世後期の農業生産力発達の方向としての二毛作可能乾田の開発とはこのような事態を意味しているのであろうが、このことは、畠地の水田化を第一の土豪層の階級的指向性からのみでは説明できないことを意味し、別の要素の存在を想定しなければならないことになろう。  
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 291 それを、佐々木銀弥氏が中世後期の産業経済の特色として指摘されている畿内を中心とした米市場の発展と、地方特産物の豊富化と固定化という現象に求めたいと思う。前者は、室町幕府の成立による京都周辺への支配層の集中、そして一方における荘園制の解体にともなう荘園領主層の畿内米市場への依存の強化などによって、米の需要が増大したため水田造成の方向が強められることになったと理解できよう。
問題は後者との関係であるが、地方特産物の豊富化と固定化は、鎌倉期を通して進展してきた畠作生産や畠作物の価値の分化をもたらしたのではないだろうか。すなわち単純化していえば、特産物として中央市場への商品流通のルートに乗った畠作物と、それに乗れず地方の市場圏の中でしか流通しえないような畠作物の分化である。
例えば、国内産業において大きな比重を持っていた養蚕・製糸の関連史料が著しく少なくなり、その一般的衰退が推測される一方で、京都など畿内諸都市における絹織の発展と結びついて、品質が優れ、運送条件に恵まれていた山陰・北陸地方の養蚕・製糸が著しく進出してくるという現象が指摘されていることも裏付けとなろう。
 
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 292 平安後期から、耕作の安定性とその生産力的価値に注目された畠作物は、鎌倉期を通して飛躍的に発展するが、それはいわば量的な(面積という意味だけではない)発展であったと考えられる。それが鎌倉末期・南北朝期の農業技術と商品経済の発展にともなって質的な発展に転化し、流通経済との関わり方における分化が生じたと理解したいと思う。
このような現象と、一方における米市場の発展という現象が重なったとき、畠地の水田化という欲求が土豪層だけでなく、百姓層を巻き込んで展開したのではないだろうか。もちろん、特産物生産以外の畠地のすべてが水田化されたというつもりはない。地方の市場圏との関係のなかで新たな発展を作り出していくが、上記のような傾向がこの時期に生じたのではないか、と考えるのである。
とはいえ、土豪層が積極的に畠地の水田化に取り組んだのは、村落の全階層の利益を代表して行なったわけではない。それは第一で指摘したように、百姓層の欲求を吸収しつつ、かつ、彼らの小規模な水田開発をこえた再開発を主導し推進することによって、自らの村落内の地位を確立することにこそ真の目的があったのである。
一部地域で畠作の価値が下がるから、水田化が望まれる。

村落内の地位の向上と確立というが、本当にそれを第一の欲求として生きていたのか?
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 293 第三に、佐々木氏が指摘されえているもう一つの特色に注目したい。それはこの時期の特産物や産業のあり方が、近世初頭のそれに著しく傾斜・接近を始めているという点である。そして、前述のような水田農業への転換が畿内や中間地帯にとどまらず、九州南部の薩摩入来院でも生じていることなどを考え合わせると、稲作と畠の商品作物栽培とを中心とする近世的な農業構造の特色が、すでにこの時期に形成されはじめていると理解することも可能であろう。永原慶二氏は豊富な史料を駆使して、木綿作が十五世紀末から急速に普及することを指摘されているが、それも以上のような中世後期の農業構造の発展過程の延長線上で理解できよう。黒田日出男氏の言葉を借りるならば、「中世末期ないし戦国期の農業が、そのような商品作物の栽培に実に鋭敏に対応しうるレベルに達していたことを、端的に物語っている」のである。  
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 294 村落内部における情報の交換は、文字では残さなかったものの、座や講などのさまざまな集団のなかで活発に行われていたであろうし、それを通じて中世的な農業技術の維持・伝承と発展が実現されていったのである。その一端は「田植え草子」の歌詞の中に読み取れよう。  
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 295 (寛元2年(1244)の「大隅やさ入道・同西面連署田地売券」の付図「八条朱雀田地差図」)このように、鎌倉前期に播種期、播種量、施肥の有無など集約的な経営の維持のために不可欠の農業技術の蓄積が一定度実現されていたこと、そしてそれらを伝える意識がすでに形成されていたことに注目したい。
(中略)(共同体外の)五人の所有者に次々と伝領されていることをなどを考えるならば、古島氏のいう慣行として維持・伝承する集団=村落共同体が存在しない京中=「都市」の耕地のためにこのような注記が残されたとも考えられる。
このように、中世の農業技術は文字を用いて体系化された形で残されることはなかったが、「旧来の社会関係のなかで、集団的な慣行として維持・伝承される」とともに、経験をもとに確定された技術として文字で残される可能性も存在したことを指摘しておきたい。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 114 身分とは、社会ことに前近代諸社会に存在する各種自律的集団・社会組織の存立とかかわって、その内部に形成される多少とも永続的な人間の類別─不必要な部分の集団外への放逐も含めた─であり、類別は上・下に序列化されることが一般的である。類別、序列の永続化・固定化に一定の役割を果たすものが、それら諸集団(組織)の内部を律する諸規範(掟・法)であるため、身分は発達した形態では法制的関係としてもあらわれるが、その成立の真の根拠は、法の場合と同様集団自体のうちにある(大山喬平「中世の身分制と国家」、矢木明夫『身分の社会史』)。
以上のことからして、人の身分は彼の所属集団自身によって決定せられた。人はまた、彼の身分に応じて集団(組織)に対する諸役(義務)を負い、具体的な権利の主張を認められる。義務を遂行せず、集団の秩序を破壊することは、身分の放棄・剥奪につながる一方、権利の享受およびより上位身分への上昇の裏付けとなるものは、主として彼の実力であった。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 115 日本中世の社会において、今日我々が身分と呼ぶところのもは、分・分際・分限・品・種姓(しゅしょう)・種などという語で呼ばれていたらしい。当時、身分を生み出す主要な自律的集団・社会諸組織として、およそ以下のものが見られた。
(イ)社会単位としてのイヘ(家)─典型的には農民・在地領主のイヘ。
(ロ)族縁的集団─一類・一家・惣領制的武士団・党・一族一揆など。
(ハ)地縁的・職能的に形成された共同団体─ムラ(村)・チョウ(町)・国人一揆国一揆・商工業者の座など。
(ニ)権門勢家とその家産的支配体制─王家・摂関家・幕府・大寺社など。
(ホ)日本国全体。
(ロ)は(イ)の展開形態、(ハ)は(イ)の横の連合である。(ニ)は大寺院の場合を一応除くと、他は(イ)・(ロ)・(ハ)を包括する極度に拡大された擬制的な大イヘ、実体としては多くの場合上位のイヘと下位のイヘの縦の連合形態(社会組織)である。
このように、個人ではなくイヘが各種集団の基礎単位であるのは、中世においては個々の人間が通例イヘと一体化しており、言ってみれば、人格化されたイエだからで、近代的意味でのたんなる個人ではなかったからである(黒田俊雄「中世における個人と『いえ』」)。
個人として振る舞っているように見えるが、その行動原理にその人が属している集団の利害が強く影響していたり、他者からの認識のされ方として、個人の前に、所属集団の身分・階層が強く現れるということか。
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 116 集団・組織内に人間(イヘ)の類別を生み出す契機、すなわち集団・組織の維持(統合)・発展・拡大の契機であり、それを通して身分を成立せしめる契機となるものは、各種の分業、支配─被支配の関係、管理能力をそなえた集団上層の形成と再生産、イデオロギーほかである。
分業には大別して、各種自律集団内にみられる「自然発生的分業」─性別・年齢別等の「純粋に生理的な基礎の上」に発生する分業(マルクス資本論』)─と、社会的分業─「もとから違っているが互いに依存し合ってはいない諸生産部面のあいだの交換によって成立する分業(同右)─がある・支配─被支配の関係は、土地支配を媒介として成立する人間支配と、人間支配そのものが先行する関係の両局面を含む(これも主従関係と所管─被官関係に分かれる)。内容的には必ずしも、単純な搾取─収奪の関係に限定されることなく。贈与─返礼の互酬的な関係、保護─被保護の関係をともなうことが多い。集団の上層は、ムラやチョウなど下位の集団にもみられるけれど、もっとも発達したかたちは、いうまでもなく日本国における国家機構、中央・地方の行政にかかわるそれである。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 123 だから、ムラ仕事や共同の負担によって維持された生産諸条件(灌漑水利や山野)も、用益にあたっては、住人(成員)の優越的・特権的占取と、間人(準成員)らのこられ諸条件からの一定の排除、という冷厳な現実が串貫していた。
ムラでは、村内の神社・堂・寺院の仏事祭礼を遂行するため、祭祀組織たる宮座がつくられた。これらは構成員の同席による地縁的な共同組織であり、惣の母体にもなるという意味で、中世のムラ共同体の中核をなした。宮座には座入りの資格が有力住人に限定されるものと、間人も含めて広く開かれた村座の形態をとるものがあった(肥後和男『宮座の研究』)。今堀郷のように、間人の宮座出仕が認められても、同時に座入りした一般の村人より﨟次で三歳の格差がつけられたり、末席の新座の者は惣並の意見が禁じられる場合も珍しくなかった(仲村研『中世惣村史の研究』)。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 126 第二は、平民が荘園公領制下の被支配身分の基本だという点である。平民は年貢と公事、とくにくじを負担する義務を負った。公事の負担は、荘園領主国衙にたいする、彼らの人格的「自由」や自立性を基礎づけるものと観念され、その意味において、むしろ彼らの特権・権利とでもいうべきものであった(網野善彦『日本中世の民衆像』)。  
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 131 このイヘの社会的な格づけ=家格とかかわって成立する身分系列が、ハインリッヒ・ミッタイスのいう出生身分である。人間に生得的区分のみならず生得的不平等をもたらす出生身分こそ、常識的な意味でもっとも身分らしい身分であろう。「各人はその生まれに応じて、他人の上位仲間となりまた下位仲間となる」のである(『ドイツ法制史概説』)。  
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 135 社会的分業が家業=イヘの職能として固定する時、身分の一類型が生まれる。ふたたびミッタイスにならって右の類型を、職業身分と呼ぶことにしたい。
権門の職能的分類である公家・武家・寺家・社家を一応別格とすれば、日本中世の職業身分の大枠は、(イ)文士・武士、(ロ)農人、(ハ)道々の細工、の三つに分類される。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 137 彼ら(道々の輩)の中には、積極的に家業というよりは、エタのように社会からドロップ・アウトした弱者が、劣弱な立場ゆえに、特定の卑賤・不浄視されてゆく職業に固定的にかかわらざるを得なくなった婆も、少なくないと判断される。山水河原者に「屠家に生まれる」という自己認識があったことは(『鹿苑日録』延徳元年六月五日条)、イヘと無縁であったはずの彼らの意識の中にさえ、歪んだ社会的分業観にもとづく家業・家職の観念がおしよしせていたことを示す(彼らの中に擬似的なイヘを形成するものが生じたことは否定しえない。かかる被差別民こそ、大山喬平氏の「凡下百姓の特殊形態」という規定[前掲論文]が適合する。  
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 141 身分は、各種自律的集団・諸組織の存立とかかわって形成されるため、それなりの社会的な現実性と「合理」性をそなえていた。一方これら集団(組織)が搾取と収奪をうちにともなう組織体でもある場合、身分が表現する人間の序列や分業関係は、同時にこの搾取関係を維持固定するための手段として、また経済外強制そのものとして機能せざるを得ない。
この時身分は、成立の経緯や、存在の現実性から離れて独り歩きしはじめ、逆に支配・差別・搾取などを当然視させ合理化するところの根拠と化す。諸身分がこのような機能を有するにいたる過程で、大きな役割を果たすのはイデオロギーであろう。というより、身分と身分発生の契機の因果連関を、観念的に逆転させてとらえ、上・下の身分にあるがゆえに支配・被支配の関係が成立し、尊貴・卑賤の身分に生まれたがゆえに差別・被差別が生じると説明する、意識・無意識を問わない倒錯した虚偽の観念そのものが、すでにして一個のイデオロギーないしイデオロギーの萌芽である。
国家全体の序列というよりも、集団内の序列の厳しさの方が、日常的であるがゆえに恥を生み出しやすかったのではないか。
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 145 イデオロギー的な身分も含め、いったん全社会的に、確固たる身分制が成立すると、身分は不可避的に、可視的・明示的な表現を随伴せざるを得ない。前近代における人と人の関係は、当然に身分人と身分人、または身分人と身分人たり得ないなもの(身分人たり得ないというのも、結局そのような特殊な身分人ということであるが)の関係であるから、社会生活をつづけてゆく以上、人はいついかなるところにあって、自他の身分上の位置関係を確認し、それぞれの分に応じたふるまいをせねばならないからである。 個人が先立つのではなく、その身分としてふさわしいふるまいをすることが大切にされ、要求される社会。男は男らしく、女は女らしく、白人は白人らしく、黒人は黒人らしく、アジア系はアジア系らしく、ということか。
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 146 立烏帽子・風折烏帽子・平礼烏帽子(ひれ)・折烏帽子・萎烏帽子など各種の烏帽子があり、それぞれ殿上人・地下・従者・武士・衆庶の料として用いられたという。
人ナラヌモノとしての童や非人の外見が、無帽・覆面と童髪・蓬髪であったことも、自然に理解し得よう。
自分より身分の低い者に対しては、身分秩序の可視的表現は、いわゆる徽章のようなものになるだろうが、自分より身分の高い者に対しては烙印となり、慢性的な恥の原因となるのではないか。子どもは「人ナラヌモノ」。
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 149 もちろん、過差禁令がしばしば出されるのは、服装規定によって示される身分秩序が、決して安定したものではなく、たえず無視・否定の動向に脅かされていることを意味する。禁制の贅沢な衣装を身にまとうかと思えば、「あるいは裸行、腰に紅衣を巻き、あるいは放髻、頂に田笠を戴」(『洛陽田楽記』)く異形の振舞におよんだ、永長の大田楽のように、いったん、民衆運動の大きな高揚がおこると、国家の身分秩序は一時的に麻痺されられた。 厳格な身分秩序の中にいるからこそ、それへのストレスによって大田楽が起こったのではないか。祭りは本来、そうしたストレス解消の意味合いもあったのかもしれない。宗教的ファナティシズム
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 153 以上述べてきたことを総括すると、南北朝期を画期とする身分体系の変貌は、大別して、
⑴下位身分にある者の上位身分への直接的な上昇。
⑵ある身分の中心・上層をなした実体の上昇離脱の結果、同じ身分呼称の下落・卑賤化の進行。
⑶出生身分の職業身分化、社会的分業の進展による商人の独立。
の三つの傾向を示しながら進んだといってよい。
⑴は、まさに中世後期の〝下剋上〟の動向を直接表現するものである。そして、このたえざる下剋上現象こそ、中世後期の身分制をついに体系的・固定的たらしめなかった最大の要因であった。
これにたいして⑶の傾向は⑵とあいまって、士・農・工・商を大枠とする近世的身分制の成立へと、遥かに連続するものといえるであろう。
身分体系は変貌していったが、上昇する人間もその身分制に依存している以上、新たな差別を受けることになる。
たとえば、百姓が侍身分に上昇した場合、その人物は百姓身分を卑賤視するだろうが、同時に最下層の侍身分として本来の侍身分からは卑賤視されることになる。結局のところ、上昇しても、身分社会のなかで生きている以上、恥から逃れることはできない、ということ。
1997 高橋昌明 付論1 「中世の身分制」執筆にあたって力点をおいたこと 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 163 ある個人が自らの身分を維持するにあたって、もっとも拠りどころとなるものは法でも制度でもない(法や制度は補助的な役割を果たすことができるだけである)。前近代社会─中世社会において典型的─にあっては、権利は現実的な支配を欠いたただの抽象的な権原ではない(観念的な権利を主張するだけで、国家・共同体によってそれを保護してもらえる近代社会とは違う)から、自らの権利や立場をまもるためには、当事者主義的性格に彩られれたながながしい訴訟、またはそれ以外のなんらかの実力行使によらねばならない、というあの原則(自力救済の原則)が貫徹している(もちろん近代社会も、強力な国家機関の存在を前提とした、別の実力主義的な競争社会であるが)。
身分が権利や立場や序列上の位置の主張・享受である以上、これもまた当然同じ原則の支配下にある。このことは中世では、実力の有無によって、身分間移動(より上位の身分への上昇・下位身分への下落)が比較的容易に起こったということでもある。そして、下位身分出身者の流入が進行すればするほど、その流入を受けた上位身分の下落・卑賤化が進む。歴史の展開とともに身分の下落現象が起こるのは、一種の法則的な傾向である。
なお、近年日本文化論などで、日本社会の特徴の一つとして、階層間移動が容易であることが指摘されている。真偽のほどがまず問題であろうが、仮にそういうことがいえるとすれば、日本封建制の特質論とも関連する問題であろうし、身分論の立場からも、慎重に検討してみる必要がある。
鎌倉時代西園寺家室町時代の日野裏松家などが、序列の厳格な公家に社会にあっても起きた身分間上昇の1つと言える。

下落現象の事例は、職人や下人のこと。

かりに階層間移動がしやすかったとしても、それでも身分秩序(上下関係)が厳格に存在していることが、恥を考えるうえでは最も大事。
1997 高橋昌明 付論1 「中世の身分制」執筆にあたって力点をおいたこと 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 164 このことは、中世の苛烈な生活諸条件のもとにあった集団が、自己維持をはかろうとすれば、それらの社会的弱者を切り捨てることも決して不思議ではない。つまり、差別にもそれなりの根拠と合理性があるということになる。
以上が差別を合理化しようとしての言説ではないことは言うまでもない。むしろ、このことを通して、最近プラスメリットをもつものとして強く喧伝されている、日本社会における「集団主義」が、差別や排他的措置をたえず生みだしている現実を指弾し、近代社会の理念たる自然権思想・基本的人権論の、あらゆる人間は生まれながらにして存在の価値をもっており、等しく犯すことのできない固有の権利をもつという主張の、画期的な意味を確認したいと思っているのである。
非人は集団から排斥された存在で、非成員。下人はイヘ集団の準成員。間人はムラの準成員。
1997 高橋昌明 付論1 「中世の身分制」執筆にあたって力点をおいたこと 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 165 四で述べた自力救済、実力主義が原則の社会では、躍動的な個性、致富の才能、武的能力、旺盛な闘争心・競争心等を必須とするが、それは健康・境涯等の不幸・不運に容易に左右される。また、このような競争原理の支配する社会は、直接競争に役立たないその他の多面的な人間的諸能力の豊かな発達・開花を阻害するから、真の意味での人間的実力・能力が発揮されるようなことはありえず。実力主義の反対物を不断にうみだす。実力主義は身分的な流動と固定をともども作り出すのである。
今日の日本において「自力・自助」ということが声高に主張されているのは、国民の側において、基本的人権意識の空洞化・形骸化という事態が進行していることとも関係があろうが、歴史的には前近代の野蛮への回帰であり、現実には弱者切り捨ての体制化にほかならない。それは、必ずあらたな差別を生みださざるを得ない。
現代の自己責任社会がまさにそう。
これはブルデューや小坂井と同じ発想。東島が現代と中世にアナロジーを感じたもの納得。
現代のアメリカ社会の姿を見事に表現した言説であり、これが中世社会の姿でもある。つまり中世は、症状的には、現代日本よりも現代アメリカに近いのではないか。
経済至上主義の再生産が、一部の富裕層と、大多数の貧困層という階級を生み出し、富裕層が捏造した(本人たちはそう思ってない)自由や自己責任というロジックがその階級差を再生産し、のちの世代へと固定化し、差別を生み出しているのが現代社会。
1998 小松和彦 はじめに 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 9 すなわち、「福」とは、「神」などから直接に授けられた「富」や「仕合わせ」を身しているのである。(中略)
言い換えると、はっきりと神仏などが登場しなくとも、「福引き」「福袋」「福相」「福茶」など、「福」の字を冠した言葉の背後には、神的なもの、異界的なもの、神秘的なものが隠されているのである。それが、現代ではたんなる世俗的な「富」や「幸せ」を意味するだけになっていたとしても、わたしたちは、少なくとも、当初はそれを感じ取っていた時代があった、ということを忘れるべきではないのである。
 
1998 小松和彦 はじめに 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 12 「幸せ」とは、このように、みんなが欲しがるから自分も欲しがり、その結果、ますます手に入れにくくなり、ますます価値が高くなる、という構造をもっている。そして、苦労の末にそれを手に入れた時に「幸せ」と感じるわけである。このことはまた、個人的な事柄のように見えながら、じつは欲望というものがきわめて社会的な性格をもったものなのだ、ということも語っている。  
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 24 その後、髪を肩のまわりに切りまわし、柿色の帷子を着て、手には団扇をもった30人ほどの貧乏神が集まり出てきて、梅津の里に入ってきた。 梅津長者物語
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 30 これは、二重構造になっており、第一段階が貧乏をもたらしている「厄」すなわち「貧乏神」の追放であり、第二段階が富裕になった段階で、この「福」、つまり「富」を隙を見ては奪い取り破壊しようとやってくる「盗賊」や、「怨霊」を撃退するとして語られている。つまり、「福」とは、こうした「貧乏神」や「鬼」や「盗賊」を遠ざけることによってもたらされるということでもある。  
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 31 このように、「福」を語るということは、「厄」を語ることでもあり、これらの物語がそうであるように、福神の活躍を語るということは、貧乏神=厄神の退散を語ることでもあった。  
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 32 さらに、貧乏神を「かむろ髪の、柿色の帷子を身につけ、団扇をもっている」と描いているということも興味をひく。慎重な検証が必要であるが、このイメージ形成には、想像上の存在である鬼や天狗のイメージとともに、実在の乞食僧(非人)や「童子」のイメージも利用されているかに見える。  
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 37 こうした物語や「大黒舞」の歌詞の中に語り込まれた「福」から明らかになってくる「福」の具体的なイメージ。それは、貴族的な社会での出世であり、それによって獲得される領主としての地位、それによって蓄積される物質的な「富」である。屋敷に蔵が建ち並ぶことが、「長者」のシンボルなのであった。
これが中世の庶民が思い描いた「幸せ」であり、「富」のイメージであり、そのようなイメージが描きつつ日々を過ごしていたのである。
そのような生活を手に入れることを夢見て、当時の人々は、福神系の寺社に参詣し、祝福芸人・宗教者の売る「福」を買い、家の中に福神の神像を祀ったのである。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 40 神像の「鯛」と「米俵」の対比からうかがえるのは、恵比寿がもたらす「福」は「海産物」=海の幸であり、大黒のもたらす「福」は「五穀」=里(山)の幸である。「烏帽子」と「大黒頭巾」の対比からうかがえるのは、神道(神官)的なイメージと仏教(僧侶)的イメージで、これは二神の出自を暗示している。
そして、興味深いことに、実際、福神としての大黒天は、支配者層が海の向こうから迎え入れた神あるのに対して、恵比寿は民間の中から出てきた神であった。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 41 日本では、天台宗の開祖の最澄が、この厨房の神としての大黒天を日本に持ち込み、天台系の寺院の厨房で、「三面大黒」として祀ったのが始まりだという。「台所の柱」「手に金袋」「大黒という名称」などに、大黒天がその後「福神」へと変貌を遂げていく可能性がすでに示されているといえるかもしれない。(中略)
したがって、民俗学者宮田登が、大黒天がもたらす繁栄・富は、家を単位にしたものであり、当初は台所の大黒天の祀り手が、必然的に台所仕事をする女性たちであった、と推測しているのもうなずける。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 42 ネズミは火災などを予知することができるとみなされていたため、古くからその挙動で福禍の予兆を判断することが行われていた。特別な霊性を認めていたわけである。しかし、その一方では、作物を荒らし、家の中を徘徊し、食べ物などをかじったり盗んでいったりする害獣としてひどく嫌われていた。
ところが、大黒天が台所の守護神として勧請されることになったためめに、大黒天にはこのネズミ駆除の役割も付与されるようになり、さらに、ネズミにはいささか不本意だったかもしれないが、大黒天はネズミを意のままに操ることができる、とみなされるようになったらしい。
もっとも、大黒天の縁日は干支でいう子の日ということになっているので、ネズミも大黒天信仰に影響を与えたと言っていいかもしれない。(中略)
民俗学者南方熊楠は、子の日は民間ではネズミ駆除の呪術的な祭をする日であった、と推測している。したがって、わたしはネズミが大黒天の縁日の決定に影響を与えたとする方が妥当だと思っている。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 45 後世、記紀神話のなかの蛭子や事代主命などに否定されたりしているが、宮本常一や吉井貞俊といった研究者は、恵比寿が、もともとは海辺の民の間で信仰されていた、性格の荒い「寄り神」(漂着神)だったのではないか、と推測している。(中略)
すなわち、漁民・航海者の信仰であったものが、やがて、魚介類を他のものと交換するための市が立つところにも祀られて「市神」となり、それが都市地域では商業の神へと変貌し、さらには農村地域に浸透するにつれて、農神的な性格も獲得していったのである。ところが、漁村のみならず、都市部や農村部に入っても、その神像には原初の漁業の神としての痕跡をと留め続けたわけである。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 48 大黒天信仰は、大筋においては、天台系諸寺院の台所を介して、民間の家々の台所に浸透するという形で、「家に富(米その他の食料)をもたらす守護神」としての民衆の間に受容されていった。しかし、恵比寿の場合には、海産物を交換する市を介して、商人たちの間に浸透し、それが「商売繁盛をもたらす守護神」として商家をはじめとする民間の家々に受容されていった。  
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 52 西村千穂は、民俗学者の若尾五雄などの研究に導かれながら、「ムカデ」(毘沙門天の使者)という語は動物の百足を意味するだけでなく、その形態の類似から鉱脈も意味する語であって、「百足を制圧する」ということは「鉱脈を発見する」ということであった。したがって、毘沙門天信仰の初期の信者層は鉱山業関係者であり、さらにそれが刀鍛冶など、金属加工業者の間に広がっていたのであろう、と説いている。
つまり、初期の毘沙門天に期待された「福」は、金や銀、鉄などの鉱物であったが、その信仰が広く民衆の間に流布するにつれ、中世では「福」一般になっていった、というわけである。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 58 おそらく、天台系の修験僧たちが琵琶湖周辺の山や島を修行の道場として開拓し、その信仰圏の中に組み入れる過程で、中世の初期に弁才天が勧請されたのではなかろうか。
弁才天は相当ややこしい神である。弁才天は天女(女神)とされていたことから、穀物の霊である宇賀神や水神、その化身としての蛇や狐との間にも信仰的連関が生じたようで、これは弁才天が海辺や湖や池の島、あるいは洞窟などに祭祀されていることが多いことからもうかがうことができるであろう。
もっとも、弁才天は、恵比寿や大黒天、毘沙門天などに比べれば、中世においてそれほど福神として人気があったわけではない。竹生島弁才天は、水神信仰を基盤に、むしろそれ以前に人気のあった観音信仰や吉祥天信仰、ダキニ天(稲荷)信仰などを吸収・継承することで、人気が高まったものと思われる。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 59 もう少し具体的にいうと、弁才天が吉祥天の地位や属性を奪い取ってしまったのである。たとえば、密教系寺院に祀られている三面大黒像では、大黒の右に毘沙門天、左に弁才天を配している。  
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 60 このように、弁才天は、仏教の教義に由来する「福」とは別に、民衆が期待する豊穣・多産・エロス・蓄財・出世といった、「生命」や「現世利益」に深く関わる「福」を授ける神としての性格を膨らませていったわけである。この延長として、中世末頃から、恵比寿や大黒とともに「七福神」に選び出され、加速的に福神としての性格を強めることになったのであろう。
その結果、「弁才天」を「弁財天」と書くといったことにも示されるように、きわめて即物的な意味での「福」=蓄財の神とする観念が生まれてきたのである。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 61 日本では神格化されてしまったが、布袋は、中国唐代の実在の人物で、生涯、放浪の生活を送った乞食僧であった。  
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 62 こうしたことを考え合わせると、私には、三神のみならず、七福神のすべての選考にも、禅僧たち、少なくとも禅僧文化が深く関わっていたのかもしれないということを想像してみたくなってくるのであるが、さてどうであろうか。  
1998 小松和彦 厄を祓い、福を売る 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 70 「大黒舞」「恵比寿かき」(恵比寿まわし)「毘沙門経」などを行なった、下級の宗教者・芸能者の先祖は、歴史学者盛田嘉徳によれば、「声聞師」に求められるという。  
1998 小松和彦 厄を祓い、福を売る 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 73 多くの研究者が指摘してきたように、この「散所の乞食法師」、つまり「声聞師」と呼ばれるような人々は、既成の身分秩序や職の体系におさまらないような周縁的な仕事を行う人々、言い換えれば、既成の身分や職の枠内にある人々が忌み嫌うようなことに従うとともに、そのような仕事を媒介にして、新しい仕事を作り出していく人々であった。
これらの仕事の内容は多岐にわたっている。その仕事を大きく分けると、二つのカテゴリーがあった。
一つは、ケガレとみなされたものを、物理的・具体的に除去したり、あるいは呪術的・精神的な意味で除去することで、清らかな状態(=ハレの状態)を作り出す「キヨメ」の仕事、たとえば、清掃、死人や死んだ牛馬の片づけ、罪人の追捕・処刑といったけがれに関わる仕事から、目に見えない、あるいは直接扱うことのできないような自然の秩序の乱れや、社会の秩序の乱れなどのケガレ=災厄の除去という仕事である。
もう一つは、そうしたキヨメによって生じた好ましい状態を祝福し、その末永い存続を祈念・祈願するための「言祝ぎ」に関わる仕事であった。表面的には、この二つの仕事は、対極にあるかに見える。一方はケガレに、他方はハレに関係した仕事である。しかし、これは表裏一体になったものなのである。
 
1998 小松和彦 厄を祓い、福を売る 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 75 丹生谷哲一は、中世の八坂祇園社に属する下級の宗教者であった「犬神人」は、延暦寺の大黒天を祀る釈迦堂の「寄人」でもあったという。その一年間の仕事を見ていくと、犬神人は、ケガレとハレに関わるまことに多様な職能をもっていたことがわかる。  
1998 小松和彦 長者と貧者 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 104 こうした成り上がりの物語は、毎年、いや何世代にもわたって、ほとんど同じことを繰り返していく農村世界では、成り立ち得ない話である。農村に生まれた貧者がどんなに神仏に祈っても、そして勤勉に働き、「徳」を重ねようとも、農村世界にとどまっている限り、長者になることは難しい。生産できる「富」は限られているからである。
もちろん、民俗社会にも、長者伝説や長者の登場する昔話が伝承されてきた。しかしながら、落合清春などの長者伝説に関する民俗学的な研究によれば、民俗社会の長者伝説は、黄金を発見することを主題にした話と、水田などの耕地の大規模開発者にまつわる話の、大きく二系統があり、しかも、前者が長者の繁栄を語るのに対して、後者は長者の没落を語る傾向があるという。圧倒的に多いのが前者である。
 
1998 小松和彦 長者と貧者 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 107 はっきりいえば、支配層(貴族や武士)とは異なり、農民層とも異なる人々、すなわち、商い・交換に従事している層の貧者の中からこそ、長者は生まれてくると言っていいだろう。そして、そのような仕事は、賤視される仕事であった。(中略)
つまり、飛躍した言い方をすれば、「長者」とはケガレた仕事と見做されがちであった職能者の中から立ち上がってくる者であったのである。
「貧者」から「長者」へというプロセスは、「貧乏神」から逃れて、「福の神」に選ばれるというプロセスであり、それは「厄」から「福」へ、「賤」から「浄」へ、「ケガレ」から「ハレ」への以降のプロセスでもあった。
 
1998 小松和彦 福神信仰の民俗化 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 110 これまでの検討から、福神信仰が、下克上・成り上がりの可能な動乱の時代を背景に、京を中心とする都市部で発生し、下級の商人や職人、芸人たちに支持されて広まっていったらしい、ということが明らかになってきた。 室町時代は身分秩序の厳格な社会だと思っていたが、乞食が米商人に成り上がった事例もあるように、成り上がりの可能な時代でもあった。どう理解すれば、整合性がつくか。公家・武家・寺家内部と、公家・武家・寺家とそれ以外の格差が激しいと理解しておけばよいか。厳密に定義できないか?
1998 小松和彦 福神信仰の民俗化 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 116 七福神たちは、長者の家でどんちゃん騒ぎの宴会を楽しんでいた(梅津長者物語)。いってみれば、福神たちは長者になった者たちを訪問しては、その「富」のお裾分けに浴する「たかり」や「物乞い」の類なのである。(中略)
もっとはっきりいえば、福神とは、福をもたらす神ではなく、福を持っている者のところに、それを祝福するためにくる神なのである。
もっとも、「山崎長者」伝説が語っていたように、「施行」というかたちで長者から「富」を引き出すのも、「福の神」のきわめて重要な仕事であり、その意味では「福の神」が、目に入った長者・有力者の家を、彼らがそのことを自覚しているかどうかは別にしても、まず訪問するのは納得できるものである。
しかし、そのかげで、貧者こそが「福の神」の来訪を待っていたのであり、わずかな「施し」であっても、それによって、「梅津長者物語」のように、貧者を助けて長者に成り上がらせた恵比寿のような福の神が訪問してくるのを期待して待っていたのだ、ということも忘れるべきではないだろう。その期待が、門付が訪れた町や村で、その芸能をさまざまなかたちで吸収し、自分たち自身で演じることになった各種の土着・民俗的な「福神」系の芸能や儀礼を生み出したのだと思われる。
 
1998 小松和彦 福神信仰の民俗化 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 139 ところで、私はこうした「民俗化」、つまり村落の外部からやってきた人たちによる儀礼・芸能から、村落の内部の人々による儀礼・芸能への移行に伴って、相対的にいえば、外部に向かって開放されていた村落が、閉鎖的な性格を深めていくことになったのではないか、と推測している。
なぜならば、たとえ乞食同然の芸能者であっても、村落内部に蓄積された「富」の一部が、たとえわずかなものであっても、外部の人々に分け与えられていたのに対し、それを村落内の人々が演じることになったならば、そうした「富」は村落の内部での分配に留まってしまうからである。
この「民俗化」が、祝福芸人が来なくなったから自分たちで演じるようになったのか、それとも祝福芸人を排除する心性が強まったからそうなったのかは定かではない。
しかし、これまで見てきたような「民俗化」は、村落の内部と外部の間の「交換」から、村落内部での「交換」への変化であり、それがもたらすものは、「共同体」内部の「富」の偏在の調整=「富」の平準化ではあるが、それは同時に、村落共同体の排他性も高めることになったとも思われるのだ。
簡単に言ってしまえば、「長者」の「施行」の対象が、村落の「外部」から「内部」へと変化したというわけである。物部村の場合もそうだった。その結果、村落に寄生するかのような、「周縁的・外来的な存在」であった祝福芸人たちの生活すべき領域が狭まり、消滅を強いられていくことにもなったのではなかろうか。
さらにいえば、「福」がどこからくるのか、といった事柄に関する民俗社会の人々の観念にも、大きな変化が生じていたのかもしれない。つまり、それは、民俗社会が「異人」という「外部」を失っていく過程でもあったのかもしれない。
そして、この均質化した領域の彼方に、「貨幣」という新たなる「外部」が登場してくるのである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 150 ところで、「地蔵」は村はずれの峠や辻に祀られている仏像で、ムラとマチ、ムラとムラの境界の標識になっていた。しかし、この仏像の本来の役割は、「この世」と「あの世」の境界にいて、善人を「極楽浄土」に導くことにあった。つまり、「現世」の「利益」ではなく、「来世」の「利益」をつかさどる神であったのである。
しかし、こうした異界・他界との媒介者的な機能のために、村落共同体においてはその社会が認識する「異界」との境界に祀られることになり、さらには「現世利益」を得るという役割まで託されるようになっていったらしい。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 158 つまり、民俗社会では、人々が普段は恐れている妖怪変化に近い「鬼」や「山姥」に、時と場合によっては「福の神」の役割を担わせていたのである。善良な心を持っていれば、たとえ「鬼」や「山姥」でも、心を和らげ、「富」を授けていくれる、というわけである。  
1998 小松和彦 「富」はどこからくるのか 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 164 たしかに、古代の神話や伝説には、神が「小さ子」の形をとって現れることがある。したがってそうした信仰の系譜の中に、この「子ども」を位置付けることは可能だろう。
しかし、私は、柳田國男も指摘しているように、太古の方に目を向ける前に、足元の文化からの影響にもっと目を向けるべきだと思っている。というのは、この「小さ子」には、古代以降に展開した「童形」信仰・「童子」信仰が複雑な形で入り込んでいるからである。
その中でも、最も重要だと思われるのは、仏教の側から説かれ出した「護法童子」信仰や「竜宮」信仰である。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 170 「福子」とは、民俗社会で、心身に何らかの「異常」(知的障害や脳性小児麻痺、水頭症が多い)を持っているとみなされた人、とくに「子ども」を意味し、日本のかなり広い地域において、そのような子どもが生まれると、家に富をもたらしてくれる好ましい子どもが、神から授かった子どもと考えて、大事に育てる習慣があった。近世に「福神」として人気のあった「福助」も、実在の人物が福神化したもので、この人物は水頭症であったらしい。  
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 171 しかしながら、心身に何らかの「異常」をもった子どもが、すべて「福子」とみなされたわけではない。その対極には、そうした類の「異常」を、人間社会や家の不幸をもたらす子ども、つまり悪霊に類が送りつけてきた子どもと理解して、生まれたときにすぐに殺してしまうこともあった。そうした子どもたちは、「鬼子」とか「魔物の子」「化け物の子」といった表現がなされた。
注意しなければならないのは、「福子」と判断される子どもの「異常」と、「鬼子」と判断される子どもの「異常」の特徴が同じであるわけではない、ということである。
たとえば、生まれたときに、黒々とした神が生えていたり、歯が生え揃っていた子どもを「鬼子」とみなして忌み嫌い、そのような子どもが生まれると間引く習慣があった地方は多いが、そのような「異常」を逆に「福子」の印とみなして喜ぶ地方があったわけではない。しかし、ある種の「異常」は両義的な性格を帯びていて、「福子」とみなされたり、「鬼子」とみなされたりしていたのであった。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 173 「福子」伝承は、「障害児」にとって、一見したところ好ましい伝承であるというふうに理解できるかもしれない。しかしながら、現在のような福祉制度や人権意識が発達していなかった時代においては、むしろこうした「神話」とは裏腹に、「障害者」に対する民俗社会の処遇の仕方は、まことに厳しいものがあった。右で紹介した話に見える「宝子」を産んだ女房が、その子の「生涯」を恥じていることにも示されるように、つまり「化け物の子」(鬼子」と判断したらしいことにも示されるように、さまざまな形の差別・排除が加えられたのである。  
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 174 もっとはっきり言えば、そのような子どもを大事に育てることができる自信と勇気、あるいは経済的余裕がないものは、同様の子供が生まれたとしても「化け物の子」としてその子どもをやむなく「処分」したらしい。
つまり、「福子」とは、「大事に育てるとその家に福が来る」というのではなく、「経済的に豊かな状態にあるから育てられている子ども」ということになる。このことは、「福神がやってきたから長者になったのではなく、長者だから福神が移り住んだのであり、貧乏神が移り住んだから貧乏になったのではなく、もともと貧乏だから貧乏神が移り住んできた」ということと、同じことなのである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 175 しかし、忘れてはならないのは、そのかげに、裕福内では「福子」として大事に育てられることになるはずの子どもが、貧しい家に生まれたために「化け物の子」として処分されなければならなかったということが隠されている、ということである。「福子」伝承をもって、近代以前の「福祉制度」などと簡単には言えないわけである。
貧乏な家の者が「福子」を授かったとき、「福子」が生み出すさまざまな「不幸」を克服して莫大な「富」を築き上げ、この子は本当に「福子」であって、と感謝できるようになる人生を体験することは、農山村ではめったになかったのである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 176 「富」についても同様である。村の中にある旧家がずっと長者であり続けているのはなぜか、急速に長者になったのはなぜか、急に長者が没落したのはなぜか。それはかくかくしかじかであると、嘘とも本当ともいえるような、しかしもっともらしい因果物語が、人々の間で作られ、納得のいくと思われる話が選び出されて、定着・共有化されていく。
それが民俗社会の伝承なのである。そして、その目の前の事実を説明するための「知識の収蔵庫」のようなう役割を果たしているのもまた、「伝承」なのである。もちろん、その中には「信仰」や「昔話」や「伝説」も含まれている。
「知識の収蔵庫」としての役割を、かつては宗教も担っていたが、現代では「科学」が担うようになっている。信用できるものが変わったというだけ。信用の精度が変わった?というだけ。合理性の説明根拠が変わっただけ。
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 177 (科学的な説明方法を)十分には知らなかった昔の人々は、その事実をどのように説明し納得しようとしたのだろうか。
その一つは、その「富」は神=共同体の外部から授けられたり、奪われたりするものである、という説明である。つまり「富」は「異界」からもたらされ、「異界」に消えていくのである。あの家が金持ちになったのは、山で鬼や山姥に出会って、「打出の小槌」の類を手に入れたからであるとか、竜宮の主から人には見えない「不思議な童子」をもらってきたからだ、というような説明の仕方がなされるわけだ。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 179 もう一つの説明は、共同体内部の「富は限られている」、という観念を前提とした説明の仕方である。ゼロサム理論である。「限られた富」の考えに立てば、誰かが急速に長者になれば、それが誰だとは言えないにはせよ、共同体内部の誰かの「富」がそこに移動したことになる。村の中である者が急に長者になり、別のある者が急に没落したということがあれば、その繁栄と没落の間に連関を見出し、後者から前者へ「富」が移動したと解釈することになる。(中略)
しかし、こうした(「憑きもの」信仰:動物霊が住み着いて、その家の主人の望みを叶えるために働くという)説明の中には、マヨヒガから富を授けられた者に対する羨望の念とは異質な感情が込められている。というのは、この動物霊は、自分が住み着いている家を富ますために、隣家に災厄をもたらしたり、その富を密かに盗み取ってきたりする、と考えられていたからである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 180 「憑きもの」がいる家では、それは「福の神」である。だが、その被害を受ける家にとっては「邪悪な神」ということになるわけである。このために、「憑きもの持ち」の家に対するさまざまなかたちでの反感や排除の行動がとられることがあった。
ここでは、「富」は村落共同体の内部にあった、その内部の「富」が神秘的で邪悪なやり方で変動しているということになる。
遠野地方の「座敷わらし」伝承は、「マヨヒガ」タイプの説明と、「憑きもの」タイプの説明の中間に位置するような説明である。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 181 金持ちになったから福の神がいるとされた典型例であろう。
自給自足的な生活をしている村落共同体では、「富」の急速な変動が、内的な要因で生じてくることは少ない。大きな変動は共同体の外部からの働きかけ、とりわけ貨幣経済の浸透がなければ考えられない。「福子」がいるから長者になったとされる家も、マヨヒガから「富」を授かった家も、「憑きもの持ち」と指弾された家も、さらには「座敷わらし」の移り住んだ家も、いずれも市場経済貨幣経済の原理に従って、その家の者たちの努力と才覚によって利潤をあげて、その結果、長者になることができたのだ、と分析することができる。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 184 こうした昔話と比較したときに、この「異人殺し」伝承の特徴が浮かび上がってくる。「大年の客」や「竜宮童子」では、乞食や座頭の背後に「異界」の神々が控えているのである。乞食や座頭はそうした神々が身をやつした姿かもしれないし、神々が派遣した使者かもしれない。そういうメタファー(暗喩)が働く仕掛けになっているのだ。つまり、「富」の源泉は「異界の神々」なのである。
ところが、「異人殺し」伝承では、その「異界の神々」のメタファーであった「六部」などの「異人」が殺されてしまうのである。これは明らかに、この伝承の語り手たちの観念のなかで、すでに「異界の神々」が殺されてしまっていることを物語っているはずである。つまり、「異人殺し」伝承とは「神殺し」以降の伝承なのである。そうでなければ、このような伝承は成立し得ないはずである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 185 村に急速に金持ちになった家がある。人々はその家が貨幣経済の原理に従って成功したことを知っている。その世界を生きる才覚があったことを承知しているのである。しかし、これまでの村落共同体を破壊していく貨幣に反感を抱いている人々は、そうした成功者を村落からさまざまなかたちで排除しようとした。その理由が「強盗殺人」という犯罪事件の「想像」(創造)であった。
「異人殺し」伝承には、はっきりと、「貨幣」が本来の「貨幣」の機能をもって立ち上がってくる姿が描きこまれているのである。そして、この伝承のすぐ向こう側に、貨幣経済に組み込まれて解体してく共同体としてのムラの未来が待っているのである。
 
2003 大山喬平 ゆるやかなカースト社会 ゆるやかなカースト社会・中世日本 校倉書房 著書 28 トリルのもっとも本質的な意味はジャジマーニー関係を随伴し、そうした関係を成立せしめている一個の儀礼空間における有意労働であるところに存しています。その労働は多かれ少なかれ、純粋な経済行為としてではなく、経済外的な、宗教的な領域に踏み込んでおり、そうした空間において直接的に意味のある有意労働として現れます。近代社会はあらゆる労働を純粋な経済行為に大規模に還元させたのですが、中世社会においては多くの労働が直接的に意味をもっていたのであり、それらは純粋な経済関係に還元することがもともと不可能な種類の労働であったということができます。  
2003 大山喬平 ゆるやかなカースト社会 ゆるやかなカースト社会・中世日本 校倉書房 著書 36 くわしいことは申せませんが、平安時代に日本貴族層のあいだに上下の家格と家職が形成・固定され、王家と摂関家のあいだに、ほとんど内婚制に等しいような婚姻がくりかえされると同時に、彼らの世襲的な儀礼行為が犯しがたく確立していきました。これは新しい一つのジャーティーの形成にほかならないのであり、彼らの世襲的で排他的な儀礼行為は南インドタミル社会の差別されたアーサーリーやヴァンナールがうけもつ儀礼行為と内容こそちがえ、本質的には通底する性格のものであったということができます。平安時代にケガレの意識が浸透し、この列島社会に被差別身分が姿を現すようになるのも同じ流れに乗った現象と見ることができます。平安後期の列島社会はカースト制への傾斜を示し、そうした色彩を明らかに強めていたと認められます。
私の判断では、日本の王権である天皇制がどうして断絶することなく続いてきたか、という素朴な問いにたいする簡単な回答は、それが一つのジャーテイによる世襲的な職能として確立していたからだ、ということになります。カースト社会における特定の職能は特定のジャーテイによって、世襲的に独占され、他者からのむやみな侵害を拒絶する強固な慣行の上に成り立っています。俗にいわれる天皇への人々の尊敬は歴史上、そのことが機能したことがあったにもせよ、付随的・二次的な歴史現象であって、ことの本質ではありえません。他身分・他ジャーテイとの通婚期人、そこに見られる実際上の内婚制を伴う特定職能の世襲的独占などは、同時に社会の底辺の被差別民にも見られる現象にほかなりません。時として勃興してくる侵攻政治勢力と王家との通婚の実現は、その意味でカースト的慣行への歴史的抵抗として大きく位置づけられうるものです。平安時代には列島のあらゆる部分で大小のジャーテイが形成されつつあったと考えていいのです。