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また、誤字・脱字の訂正もしていません。
出版年月 | 著者 | 論題 | 書名・雑誌名 | 出版社 | 媒体 | 頁数 | 内容 | 注目点 |
1256? | 北条重時 | 極楽寺殿御消息 | 中世政治社会思想上 | 岩波書店 | 著書 | 326 | 道理のなかに間違いがあり、間違いのなかに道理がある。 | |
1256? | 北条重時 | 極楽寺殿御消息 | 中世政治社会思想上 | 岩波書店 | 著書 | 326 | 土御門上皇(増鏡)の和歌「浮世には かかれとてこそ 生れけれ ことわりしらぬ 我が涙かな」の改作。「浮世には かかれとてこそ むまれたれ ことはりしらぬ 我が心哉」(悲しいこと・嘆かわしいことのあることこそ、この現世の習いであり、自分はその道理に気づいていなかったのだなあ」 | 不条理の哲学につながる。 |
1962.11 | 佐藤虎雄 | 金峰山における祇園信仰 | 神道史研究10−6 | 雑誌 | 196 | 京都祇園社八王子は、『二十二社并本地』では文殊、『山門秘書記』では千手観音。 | ||
1962.11 | 佐藤虎雄 | 金峰山における祇園信仰 | 神道史研究10−6 | 雑誌 | 198 | 吉野曼荼羅では、牛頭の本地は十一面観音、八王子は観音。 | ||
1979.3 | 笠松宏至 | 「墓所」の法理 | 日本中世法史論 | 東京大学出版会 | 著書 | 245 | 宗教集団内部の殺人事件について、被害者の集団が加害者の有した権益を「墓所」として請求しうる法理が、鎌倉中期ごろまでに成立していた。しかし、この法理は、加害者跡の給付という点で、検断権行使者の得分対策と競合する可能性をもつ。また「墓所」の法理を宗教集団内部にとどめず外に向かって適用させようと試みるとき、特に加害者が武士その他の強力な集団に属するとき、「跡型墓所」の法理は現実的に極めて大きな障害に出会わざるを得ない。犯行現場を「墓所」に求める「現場型墓所」は、「跡型墓所」を馬体としてそれを伝統的な根拠としながら、同時に外に向かって求めるとき「跡型墓所」がもたざるを得なかった障害を回避するために、生成された法理である、と。 | |
1979 | 新城敏男 | 中世石清水八幡宮における浄土信仰 | 日本宗教史研究年報2 | 雑誌 | 27 | しかし石清水八幡宮では、以後次第に本地阿弥陀説へと傾き、天永4年(1113)四月十八日の興福寺への返牒で、「当宮者鎮護百王之霊社、弥陀三尊之垂応也」と述べている。さらに鎌倉期に入るとその傾向は明確になっていく。建保4年(1216)の権別当宗清の誉田山陵告文には「夫大菩薩之本地波無量寿之三尊奈利、又異説弖或号釈迦須」と釈迦説を異説とするに止めている。 | ||
1979 | 新城敏男 | 中世石清水八幡宮における浄土信仰 | 日本宗教史研究年報2 | 雑誌 | 30 | こうして他氏を排除したのちには、紀氏内部で田中・善法寺両家に分流していき、法脈も固定しているわけではないが、田中家は天台宗円満院派、善法寺家は真言宗仁和寺系との関係が多くみられる。 | ||
1979 | 新城敏男 | 中世石清水八幡宮における浄土信仰 | 日本宗教史研究年報2 | 雑誌 | 38 | 天王寺は周知のように聖徳太子によって建立されたとされ、律令時代には有数の官寺の一つであったが、摂関時代前期には天台宗の末寺となり、後期に至ると寺門派末寺に顚落してしまった。しかしその頃から天王寺西門は極楽の東門に通ずとの信仰がもたれ、来迎に特に関心を持つ人々の心をひくまでになっていた。 | ||
1983.7 | 千々和到 | 「誓約の場」の再発見 | 日本歴史422 | 雑誌 | 3 | 中世の神々は、目の前に現れたりする存在ではなかった。しかし、中世の人びとは、それでもなんらかの手段で自らの意思が神に伝わり、また神がそれを受け入れたと判断できたに違いない。 | ||
1983.7 | 千々和到 | 「誓約の場」の再発見 | 日本歴史422 | 雑誌 | 10 | 起請文に写が作られる理由は、その場にいる人々、つまり誓約に加わった人びとの側の必要からではない。また、その人びとと神仏との関係から生じた必要からでもない。それは、誓約に加わった人びとと、その場にいない、目の前にいない人びととの関係から生じた必要性に基づく。この必要性、つまり「誓約の場」にいない人々に制約を伝えなければならないということが、「残す起請文」を生み出した最大の理由なのである。 「霊社起請文之御罸」とは「霊社起請文」の「罸」のことで、「起請文前書」のことを指す。 |
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1983.7 | 千々和到 | 「誓約の場」の再発見 | 日本歴史422 | 雑誌 | 12 | 連署者個々の信仰対象は問題ではなく、信長にとって最も恐るべき存在である一向宗との関係で有効と思われる起請文言が選ばれ、強制されたはず。その場合、「御本尊」とは、一向宗の本尊である阿弥陀仏を指すことを意図していたのは、必然であろう。 | 起請文は、書かせる側が雛形を強制する場合がある。また、書かさせられる側がもっとも恐れるべき存在を勧請する。 | |
1983.7 | 湯浅吉美 | 東寺にみる官人俗別当 | 史学 53−2・3 | 三田史学会 | 雑誌 | 82 | 年分度者が真言宗に対して許されるのは、承和二年(835)で、天台に遅れること30年、空海入定の2ヶ月前。 | |
1983.7 | 湯浅吉美 | 東寺にみる官人俗別当 | 史学 53−2・3 | 三田史学会 | 雑誌 | 84 | 承和2年(835)に、天台宗の講読師が任命。承和四年(837)に真言宗の講読師が任命。宗派の伝道を公認されること。 | |
1986.8 | 斉藤国治 | 二星合・三星合の天変とその検証 | 日本歴史459 | 日本歴史学会 | 雑誌 | 70 | 十二世紀後半から十六世紀半にかけて、わが国の天文史料の中に「二星合」「三星合」という天変記事がしばしば現れる。これはわが国の中世に盛行した天文道で使われた用語である。その意味するところは、歳星(木星)・熒惑(火星)・塡星(鎮星とも書き土星)・太白(金星)・辰星(水星)のうちの二星が天球上で接近し、または三星が集合して見える現象を指す。これはまた犯・合とも言われる。 | |
1986.8 | 斉藤国治 | 二星合・三星合の天変とその検証 | 日本歴史459 | 日本歴史学会 | 雑誌 | 74 | また、両星接近の度合いを分類して「犯」「合」「同舎」とした。犯とは0.7度以内に接近した場合のこと、合とは0.7度以上2.0度以内の場合、同舎とは2.0度を越すゆるい合のこととする。 | |
1986 | 早川庄八 | 寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件 | 中世に生きる律令 | 平凡社 | 著作 | 63 | 鬼間議定というのは、清涼殿の西廂の南端にある鬼間で行われる議定であって、この時期には何回か行われたことの知られるものであるが、陣座で行われる陣定すなわち仗議との大きな相違点は、鬼間議定には関白が出席し、関白の領導によって議事が進行することである。すなわち、陣定は、太政官の議政官会議という歴史的な伝統を背負っているから、陣定が行われている間は、関白は、天皇の後見としてその側近に侍し、陣定の終了後、定文の奏上を聞くというと立場に立つが、鬼間議場では関白も臣下として評議に参加するだけでなく、会議を領導し、その結論を天皇に奏上するという立場に立つ。このような形態をとる議定がいつどのようにしてはじめられたかは、この時期の公家方の政治のあり方を考えるうえで興味ある問題であるが、ここでは七月九日に行なわれた鬼間議定の模様を、平戸記の記述を忠実にたどりながらみることにしたい。 | |
1986 | 早川庄八 | 寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件 | 中世に生きる律令 | 平凡社 | 著作 | 191 | こうした意味において、鬼間議定とは、一種の「御前会議」であったのである。 すでに述べたように、太政官の議政官会議としての陣定すなわち仗議においては、このようなことはない。天皇は、摂政または関白とともに別室に控えており、天皇と仗座の公卿との間の連絡は蔵人頭が行ない、天皇は議定の結果の奏上を受けて、摂政または関白の補佐のもとで勅定するのである。 このように、鬼間議定では、天皇がこれを聴聞するのを例とする。そしてこのことは、鬼間議定とは、天皇の積極的な意志で開かれたものではないか、という推測を私に抱かせる。果たして、鬼間議定の出席者への催しは、蔵人が奉じた「御教書」すなわち綸旨で行なわれるのである。 |
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1986 | 早川庄八 | 寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件 | 中世に生きる律令 | 平凡社 | 著作 | 194 | とすれば、後嵯峨親政期に行なわれた鬼間議定とは、かつて後白河院政期に「院」御所で行なわれた公卿の議定の、「内」版と言えるのではなかろうか。上皇の後白河が院宣で出席者を指名選択したのと同じように、天皇の後嵯峨は綸旨で出席者を指名選択しているのである。 | |
1986 | 早川庄八 | 寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件 | 中世に生きる律令 | 平凡社 | 著作 | 195 | これで知られるように、この時期でも、建前としては、公卿の仗議が最高の政務決定の場と意識され、鬼間議定はあくまでも「密々」の議定と考えられていた。だがそれにもかかわらず、第四回の兼盛の罪名定のあとも、第五回の譲位定めのあとも、仗議は行なわれなかった。建前は建前として、仗議は確実に形骸化していたのである。 | |
1987.3 | 千々和到 | 中世民衆の意識と思想 | 日本の社会史第8巻 | 岩波書店 | 論文集 | 23 | 地蔵講の実態。律宗や時宗といった宗派とは直接の繋がりを持たずに構成された集まりで、ある宗派の指導のもとにある信仰ではなくて、民衆の基底部にある信仰に基づいている。そうした信仰が造塔・造仏という形で表現されるときには、供養や法会などの儀式を通して、宗派とつながっていかなければならなかった。 | |
1988.3 | 鍛代敏雄 | 石清水放生会に於ける「神訴」 | 国史学 134 | 雑誌 | 23 | 第三には、どのような実力行使の手段を取るか、という点に答えよう。(1)閉籠(社頭─本殿の前庭、下院、絹屋殿)。(2)神幸妨害(神輿抑留─すがる・抜刀・神輿下地に置く・神幸ボイコット、切腹─ケガレによる神幸阻止・示威行為)。「神訴」の手段は、右のようになる。もっとも神人らの通常の訴訟は、放生会の祭日につかかわりなく見られ、社務へ、社務を通して幕府社家奉行へ、または直接幕府(守護や奉行人)へ行なわれている。だが放生会最中やその直前に多く集中して、閉籠・神幸妨害といった「神訴」がなされたことは、審議中の対決を有利にしたり、訴訟を受理させる方法として、放生会での「神訴」がより有効であった点を物語ってる。まさしく伊藤清郎氏が鎌倉期の強訴で述べた、神人らの「戦術的論理」を看取できよう。 | ||
1988.3 | 鍛代敏雄 | 石清水放生会に於ける「神訴」 | 国史学 134 | 雑誌 | 24 | なお、放生会の祭儀にあてたものではないが、『看聞日記』応永三十一年六月十六日条に、「神人ニ不限郷民与力大勢取陣閉籠」とも見え、訴訟内容によっては、石清水周辺の荘郷民の一揆的訴訟へと展開したことがうかがえる。 ただし、応永三十二年の放生会に、「神訴」して召籠められた父を助けるために、その子が自害し神幸を妨げたような個別的な訴訟もある。また、桑山浩然氏が詳述した永享二年の「神訴」は、訴人・論人ともに本所神人であって、一概に「神訴」が神人の相違のもとになされたというわけにはいかない。 |
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1988.3 | 鍛代敏雄 | 石清水放生会に於ける「神訴」 | 国史学 134 | 雑誌 | 28 | 最初に、訴人を列挙しておこう。 公文所・供僧・社僧・巫女・神人(紀氏・他姓、本所・散在・住京、禰宜・御殿司) 公文所は、神人の惣官職である。供僧・社僧は、供所に奉仕する神人身分のものと思われる。巫女は神人の妻の場合もあるが(『看聞』応永三十一年六月二十七日条)、自身神人身分である。紀氏・他姓(源氏・紀氏以外)は家格を示すが、二十四名の神人がいた。住京は、京都に居住する神人である。禰宜は四十五名おり、内訳は山城方十五名、楠葉方三十名の神人であった(以上、『年中用抄上』)。御殿司は、山上御殿司とも称され、ご神体に関わる所司で、ことに放生会において最勝妙経を謹読し三所の神威に資した。それは紀氏から任命されていた。 |
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1988.3 | 鍛代敏雄 | 石清水放生会に於ける「神訴」 | 国史学 134 | 雑誌 | 29 | 戦国期の史料だが、大永二年(1522)四月二十二日付石清水八幡宮住京大山崎神人中申状(桑山浩然氏校訂『室町町幕府引付史料集成』上491、2頁)によると、石清水社の霊験は「武運守護之尊神」で、日使頭役以下の大神事を奉勤するための神人の生業は「神職商売」である。そしてこのような「神役」を勤めることは、「社頭神事興隆」を目的とするものなので、生業の油輸送にかかわる諸関勘過については、幕府が安全を保障すべきである、という論理が読み取れる。 | ||
1988.3 | 鍛代敏雄 | 石清水放生会に於ける「神訴」 | 国史学 134 | 雑誌 | 30 | それによると、放生会の「役」負担には、二つあった。一つは、七月二十五日石清水近在の神領荘郷に宮寺政所下文を以て賦課された、八月一日から十四日までん「人夫役」である。いま一つは、八月十五日の放生会本祭に奉仕する「神人役」で、八月一日付の同じく政所下文によって放生会神人に賦課されている。 ここでは「神訴」の主体となる、後者の「神人役」が重要である。右に戦国期の史料で述べた「神役」(=「神人役」)の考え方を敷衍させると、「神人役」を奉仕するかぎりにおいて、放生会神人の身分を得ている。したがって国家の大会を支える「神人役」を勤めるための、神人の生業を保証することは、「役」を賦課した社務、ひいては放生会を武家の沙汰として主催する幕府、将軍の義務である、という論理を汲むことができよう。なおいえば、放生会神人の特権身分であるからこそ、たとえ放生会での「神訴」が「理不尽」であろうとも、正当性を持ちうる、と神人らが意識していたのではないか。 換言すると、「神役」を奉仕することは、神人らが仏神と「結縁」している証である。だから神人らの「神訴」は、いわば「仏神の訴訟」とみなされる。そして、室町幕府が国家の大会である放生会の祭祀権を掌握すると、俗界の盟主、統治権者である幕府に向けて「神訴」がなされた。なぜなら、「神訴」の内容は、主に社務の権限の及ばない、俗的世界における日常的な生業の保証にあったからである。 |
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1988.3 | 鍛代敏雄 | 石清水放生会に於ける「神訴」 | 国史学 134 | 雑誌 | 32 | すなわち、社務職補任権・解却権に関与する幕府は、社務の受訴権を保証し訴訟吹挙を義務付け、社務の社内検断権を牽制している、と解することできよう。 | ||
1988.3 | 鍛代敏雄 | 石清水放生会に於ける「神訴」 | 国史学 134 | 雑誌 | 37 | 放生会での実力行使である「神訴」は、社務の吹挙や次第の沙汰を経ないことから見て、いわば直訴の一つであると言える。藤原良章氏の論考によると、幕府は「庭中」(「奉行を越えた直訴」)を禁じてはいるものの、一般的には「庭中」を受理している、という。「神訴」と「庭中」とを、同じ次元で短絡的には論じられないが、ともにに直訴であり、それを受理した点から、そこに共通の政策意図を汲むことは許されよう。なぜならこれらの直訴を受理することによって、幕府と訴人とが直接的な関係を取り結ぶことができるのであり、幕府にとれば、当初は公家にかわって直訴を受理することで、公家政権の権能を分割奪取し、またそれは、幕府政権の権力、権威を訴訟面から高めるための施策であったと考えられるからである。 | ||
1988.3 | 鍛代敏雄 | 石清水放生会に於ける「神訴」 | 国史学 134 | 雑誌 | 38 | 「神訴」の態様は、神人らが放生会を楯にして、主に神領の保証と、神人の生業の支障や身分特権に関する訴訟を受理、裁許させることを目的とした点にある。この言葉は、社務や神人だけでなく、公家や神人だけではなく、公家および室町幕府によって意識的に使われており、強訴を「神威」の面で体現したものとみてよい。 | ||
1995.8 | 菊池大樹 | 持経者の原形と中世的展開 | 史学雑誌104−8 | 雑誌 | 4 | 持経者とは、「経典を憶持し誦持する者」。 | ||
1995.8 | 菊池大樹 | 持経者の原形と中世的展開 | 史学雑誌104−8 | 雑誌 | 6 | 憶持・誦持は暗誦と同義。 | ||
1995.8 | 菊池大樹 | 持経者の原形と中世的展開 | 史学雑誌104−8 | 雑誌 | 12 | 僧尼令的秩序が10世紀に放棄されるに従って、暗誦奨励政策も消滅。暗誦から山林修行へ。時経者のあり方は10世紀を画期とする。 | ||
1995.8 | 菊池大樹 | 持経者の原形と中世的展開 | 史学雑誌104−8 | 雑誌 | 15 | 持経者が山岳修験の中で指導的な立場にあった。山林行を修めるなかで、最終的に暗誦を達成しているかどうかが重要。暗誦は神仏の示現を伴うような極めて呪術性に富む行為。持経者とは本質的に呪術宗教者であり、その源泉は暗誦の達成に求められる。神仏の示現を促すことが、山林修行者の持つ数々の呪術力のうちでもっとも高級な部類に属するものと考えられ、持経者が山林修行者の上位に位置づけられた。 | ||
1995.8 | 菊池大樹 | 持経者の原形と中世的展開 | 史学雑誌104−8 | 雑誌 | 20 | 夜間や早口の読誦の描写は、持経者説話において『法華経』の暗誦が完璧であることを強調する。中央でも地方でも11世紀頃から持経者の世俗社会への進出が始まった。持経者の寺院定住(高木豊『平安時代法華仏教史研究』) | ||
1995.8 | 菊池大樹 | 持経者の原形と中世的展開 | 史学雑誌104−8 | 雑誌 | 23 | 恒例仏事に持経者が出席。持経者が顕密寺院のなかに恒常的な活動の場を確保した例と見ることができる。11〜12世紀は、持経者が、前代からしばらく盛んになりつつあった山林修行を本来的な基盤としつつも、顕密寺院や世俗社会のなかに進出し、そのなかに確固とした位置を占めた時期である。 | ||
1995.8 | 菊池大樹 | 持経者の原形と中世的展開 | 史学雑誌104−8 | 雑誌 | 28 | 主要な顕密寺院の一つである東大寺に持経者の活動の場が確保されたこと、さらにその場を通して、持経者が顕密寺院に組織化されていった可能性がある。 | ||
1995.8 | 菊池大樹 | 持経者の原形と中世的展開 | 史学雑誌104−8 | 雑誌 | 57 | 中世の人びとは他界・異界の存在を、目には見えないもの、と理解していた。その代わりに、彼らが他界・異界の発する信号を感じ取ることができたものこそ、先ほど述べた音楽と異香だったのではないだろうか。 | 見えない存在を、音・香・味・皮膚などで感じたということか。 | |
1996.11 | 千々和到 | 中世日本の人びとと音 | 歴史学研究691 | 雑誌 | 56 | 音声は、ただ発すればよいのではなく、その音声の発せられる場の雰囲気や儀礼、その場での仕草が、その音声を補完していたと考えるべき。音声の一回性の補強。 当時の人びとが往生伝などの記事を信じることができたのは、それらの記事がどれもみな類型的だったから。類型的だからつまらない、という読み方もあるが、当時の人々からすれば、滅多に起こらない往生を信じるためには、そこに誰もが信じることのできる類型的な現象が生じる必要があったに違いない、 |
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1999 | 鍛代敏雄 | 石清水神人と商業 | 中世後期の寺社と経済 | 思文閣出版 | 著作 | 25 | とすれば、神輿や神宝と等しく、神事の公役を勤める神人は、「神之器」ということになる。他の記事を勘案すると、石清水八幡宮寺側の訴訟の論理は、公・武両政権が愁訴を受理し裁許しなければ、「神之器」の破損を招き、「神事違例穢気不浄」となる、とするものであった。 また、宮司側の訴訟を朝廷に裁許させる論理としては、前述した天平勝宝七年の八幡大菩薩託宣を引用して、「宮寺惣官神人訴宥輩、皆以蒙神罰候、是大菩薩ノ御託宣、他国ヨリハ吾国、他人ヨリハ吾人ト申明文候」(嘉禎二年、『石』一、95頁)とも見える。神罰のないように、まず第一に石清水社の社司・神人の訴訟を裁許すべきことを訴えている。すなわち、彼らの特殊な身分を訴訟の論理に転化させたもので、朝廷や幕府に向けて発せられた。 |
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1999 | 鍛代敏雄 | 石清水神人と商業 | 中世後期の寺社と経済 | 思文閣出版 | 著作 | 26 | 石清水社の場合、神輿動座の列参強訴とともに、放生会にあてておこされた嗷訴が特筆される。弘安八年(1285)十一月十三日付後宇多天皇宣旨(『石』一、318号)には、「一、一切可停止諸座神人直訴事」「一、同神人等近年恣假神威、動成諸国庄薗之煩、或好路次點定、致闘乱殺害、或私事猶及狼藉、如此之類者、社家解其職、経 奏聞、云公家、云使廳、殊可被加懲しゅう事」とあり、また、永仁三年(1295)四月二十二日付伏見天皇綸旨にも、「一、神人訴訟諸座一同向後可停止」「而無理之輩假諸座與同之威、企嗷訴及上聞之條太不可然」と見える。これら13世紀後半には新制をもって、諸座を組織する神人集団の一揆的訴訟を禁止しなければならい状況にあったのである。殊に前者の弘安新制では、神人の悪党的行為には神人職の解却を命じる厳しいもので、嘉元二年(1304)九月日付社頭閉籠神人悪党召捕交名(「八幡宮寺縁事抄」『宮史』四、891頁)が残っており、神人の処罰がなされたことが確かめられる。 別稿で論述した通り、鎌倉末・南北朝期から「神訴」という言葉が史料上に多く管見されるようになる。それは戦国末期まで表出し、近世には見られないので、中世後期に寺社関係にあらわれた造語としてよい。「神訴」は、寺社の神人側だけでなく、公・武の両政権も認定する言葉であった。その語義は、神威や神慮を体現する神人の訴訟で、理非にかかわりなく、たとえ理不尽であっても受理し裁許しなければならない、超法規駅な措置を要求する内意をもった言葉である。石清水社においては、やはり放生会の「神訴」が有効だが、国家的祭祀を主催する王権の保持のためには、祭礼を楯とした神人の「神訴」をある程度認めざるを得なかった。 |
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2000.1 | 五来重 | 十一面観音と千手観音 | 観音信仰事典 | 戎光祥出版 | 論文集 | 78 | 金光明経では吉祥天が懺悔を求める。修正会・修二会の本尊は十一面観音。十一面悔過法を行う。 | |
2000.1 | 中村生雄 | 観音信仰と日本のカミ | 観音信仰事典 | 戎光祥出版 | 論文集 | 240 | 『今昔物語集』は二話一類の連鎖的説話接続形式(国東文磨)。 | |
2000.1 | 松永勝巳 | 湯屋の集会 | 歴史学研究732 | 雑誌 | 2 | まず網野善彦氏は、鎌倉期の律僧による非人施行の事例に関して「温屋もそれ自体『無縁』の特質を持っていた」とし、別の著書では、「中世寺院の湯屋が湯起請・集会・拷問などの場とされたことを踏まえて、「これは湯屋が一種の広場の性格を持っていたことを示すものといえよう」としていて、おそらくこの「広場」というのも無縁の場ということであろう。(中略) 次に永村真氏であるが、氏は東大寺寺院組織を考察する中で言及していて、「東大寺の大湯屋が、しばしば集会の会場とされたのは、清浄を実現するという湯屋の機能と、衆議における清浄の理念とが重なり、集団的な意志決定をなすにふさわしい場であると認識されたからではなかろうか」としている。 |
清浄空間である湯屋で拷問や自害が行われることは、矛盾しないか? | |
2000.1 | 松永勝巳 | 湯屋の集会 | 歴史学研究732 | 雑誌 | 5 | 「聖僧」(しょうそう)とは、漠然と「高貴で立派な僧」というような意味で用いられる場合もあるが、本来的な仏教用語としてはより具体的で、小乗における賓頭盧尊者、大乗における文殊菩薩を指すものとされる。 | ||
2000.1 | 松永勝巳 | 湯屋の集会 | 歴史学研究732 | 雑誌 | 6 | このように、『三宝絵』の記述によって、少なくとも10世紀段階の南都寺院の湯屋は、湯を沸かして賓頭盧を請じる機能を有すると考えられてたことがわかる。(中略) 以上、賓頭盧・文殊が湯屋に来臨する例を一つずつ見たが、そこにはいずれも「聖僧」という言葉は使われていない。そして賓頭盧も文殊も「聖僧」としての機能がすべてではないことは言うまでもない。しかしながらこの二つの共通点は何であるかと言えば、それはともに小乗・大乗の「聖僧」であるということにあり、しかも下って建久2年(1191)成立とされる『澄憲作文集』には、この両者が揃って記されているのである。(中略) 以上から、湯を沸かすという機能を有する寺院の湯屋は、古代から中世に至るまで、「聖僧」が来臨する場であるという観念が存在していたと理解できよう。大衆が日常的に集会を行なっていた湯屋とはこうした場であったのである。 |
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2000.1 | 松永勝巳 | 湯屋の集会 | 歴史学研究732 | 雑誌 | 8 | つまり、金堂遷座時における興福寺大衆集会の場は「聖僧」の御前で、それに対面する形でなされるということになる。 以上に見てきたように、興福寺大衆による集会は、日常的には「聖僧」来臨の場である湯屋において行なわれ、進発により寺外に出た場合でもその御前で行なわれているということが理解されよう。 |
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2000.1 | 松永勝巳 | 湯屋の集会 | 歴史学研究732 | 雑誌 | 9 | したがって大衆としての総意の正当性というものは、実際に統一意思であるか否かによるのではなく、聖僧の影向があるか否かによると思われ、聖僧の影向がありその御前でなされた衆議であるならば、それは「擬似僧伽」の総意とみなされると言うことであったのではないか。いわば大衆が「僧伽になる」、もしくは寺内の僧侶たちが中世的な意味での「僧伽になった」ものが大衆なのである。そして正当性を獲得したならば、その総意は一見いかに不合理に見えようとも、仏法久住・仏法興隆という合目的的なものとして観念されていたのではないだろうか。 | ||
2000.1 | 松永勝巳 | 湯屋の集会 | 歴史学研究732 | 雑誌 | 10 | 以上を要約する。中世興福寺における大衆集会は、日常的には「聖僧」来臨の場である湯屋で行なわれ、進発の際にもその御前で行なわれると言うように、常に「聖僧」の御前で行なわれていた。「聖僧」は寺僧たちにとって僧伽の紐帯として信仰されていて、平等・和合という伝統的な理念に則った彼らの結合を可能ならしめたのは、そうした「聖僧」に対する信仰であったと思われる。したがって擬似僧伽は日常的に存在したのではなく聖僧の存在によって出現するものであり、大衆は「僧伽になる」ことによってその正当性を論理を越えて確保しうるのであった。(中略) 最後に課題をいくつか掲げる。第一に、湯屋の集会の成立に関して、特に「布薩」との関係についてである。「布薩」とは本来的には、半月ごとに寺僧らが集まりそれぞれの戒律違反を懺悔するという法会である。(中略)しかしその「布薩」も変質をきたし、懺悔の実質的な意味は失われ、現前僧伽の成立の象徴的儀式となったという。こうした変化はインドの初期の仏教教団のいてすでに生じていたものであり、集会は僧伽の伝統の会議であるという従来の定説は、以上の点からも理論的・実証的に否定されよう。(中略) 第二には、南都と北嶺の違いについてである。湯屋を集会の場として利用するのは先述のように南都寺院に限られるようである。 |
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2002.1 | 大山喬平 | 歴史叙述としての「峯相記」 | 日本史研究 473 | 雑誌 | 13 | 安達景盛息修道房が播磨から美作へ逃げる。 | 播磨・美作ルートを考える。 | |
2005.2 | 千々和到 | 大師勧請起請文 | 中世の社会と史料 | 吉川弘文館 | 論文集 | 4 | 時宜「それならばそれでよい」。 | その時の宜しい状況、という意味か。 |
2006.7 | 佐伯真一 | 「兵の道」・「弓箭の道」考 | 中世軍記の展望台 | 和泉書院 | 論文集 | 38 | このように、「兵の道」とは、広い意味では「兵」という職業、あるいは戦闘の専門家として生きることそのものをいう言葉なのではないか。ただ、「兵として生きる」ために具体的に重要なことは何かと言えば、多くの場合は武芸の技能、勇敢さ、智謀などといった、具体的な戦闘に関わる能力のことになるわけだろう。 | |
2006.7 | 佐伯真一 | 「兵の道」・「弓箭の道」考 | 中世軍記の展望台 | 和泉書院 | 論文集 | 41 | このように、軍記物語では、「…の道」の語が種々用いられ中で、「兵の道」はあまり使われなくなっていると言ってよいだろう。これは、中世の文献全般に共通する傾向でもあるようだ。「兵の道」に代わる「…の道」の語の中で最も多いのは、「弓箭の道」であり、『十訓抄』『沙石集』『蒙古襲来絵詞』各二例、流布本『太平記』八例というように、次第に多数を占めるようになってゆくのである。「兵の道」の衰退は、『今昔物語集』においては武士を表す言葉がほとんど「兵」だったのに対して、『平家物語』などでは「武士」に取って代わられていることに対応する現象であろう。 | |
2006.7 | 佐伯真一 | 「兵の道」・「弓箭の道」考 | 中世軍記の展望台 | 和泉書院 | 論文集 | 44 | 以上、『平家物語』諸本などにおいては、「兵の道」に代わって「弓箭の道」の例が増加し、それは『今昔物語集』に見られたような「弓射の能力」を意味する本来の用法から変化して、武士の精神的な側面に関わる例をも多く含むものになっているが、あくまで「武士らしさ」の表現であって、武士らしい道徳を「道」として説いたものではない。 | |
2006.7 | 佐伯真一 | 「兵の道」・「弓箭の道」考 | 中世軍記の展望台 | 和泉書院 | 論文集 | 45 | だが、そのような(精神性や倫理)思考の論述が一緒にまとめられるのは、『義貞軍記』(15世紀中頃までに成立)を待たねばなるまい。武士の「道」に関する自覚的な思考の表現は、軍記物語の文学としての隆盛が頂点を極め、ようやく衰えに向かおうとする頃に、それとすれ違うように頭をもたげてくると言えるのではないだろうか。 | |
2006.10 | 斎藤英喜 | 祭文研究の「中世」へ | 中世文学研究は日本文化を解明できるか | 笠間書院 | 論文集 | 352 | 祭文とは、何よりも太夫や法者、博士といった民間宗教者たちの活動や、祈祷、神楽の現場と密接に成り立つテキストであるからだ。そしてそこにこそ、「祭文」を中世神話に加えることの意義があるはずだ。記紀神話という書かれた神話の枠組みから、祭祀や儀礼の現場との相関、宗教者の身体や声の側へと「神話」を奪還すること。それこそが神話研究における「祭文」の意義であった。 | |
2006.10 | 斎藤英喜 | 祭文研究の「中世」へ | 中世文学研究は日本文化を解明できるか | 笠間書院 | 論文集 | 354 | いざなぎ流の祭文から見える神話と呪術・呪法の関係は、たとえばエリアーデによる「神話」の定義とも通底しよう。 神話の物語る「話」は、…呪術・宗教的力に伴われるためにも秘技的である「知識」を構成する。なぜなら、物体、動物、植物などn起源を知ることは、それらを意のままに支配、増加、再生産できる魔力を得ることに匹敵する(ミルチャ・エリアーデ『神話と現実』、中村恭子訳、1973、せりか書房)。 神話は、たんに神々の起源や祭祀の由来を語るだけではなく、そこに語られる神々の力を自由に操作し、使役する「魔力」と不可分なのだ。神話が語る「起源」の知識を宗教者・呪者が独占的に管理することの理由は、そこにあった。いざなぎ流の祭文は、「神話」の実践的な意味を知らしめてくれるわけだ。 |
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2007.3 | 桑谷祐顕 | 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺院 | 叡山学院研究紀要 29 | 雑誌 | 39 | 比叡山常行堂は、円仁によって承和15年・嘉祥元年(848)に初めて建立。平安期になって五大明王を祀る五大院が叡山上に建立。弘仁14年(823)以降、真言・天台両宗からの地方講読師の補任や諸国の別院設置の教勢拡大。 | 地方講読師とは?石井義長『空也上人の研究』 | |
2007.3 | 桑谷祐顕 | 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺院 | 叡山学院研究紀要 29 | 雑誌 | 40 | 常行堂の播磨への普及は900年代 | ||
2007.3 | 桑谷祐顕 | 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺院 | 叡山学院研究紀要 29 | 雑誌 | 42 | 鶏足寺本尊は十一面観音。法華山一乗寺本尊は千手観音空鉢の守仏。 | 法道仙人の守り本尊か? 比丘六物 |
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2007.3 | 桑谷祐顕 | 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺院 | 叡山学院研究紀要 29 | 雑誌 | 47 | 横川形式の三尊形式。聖観音・不動明王・毘沙門天。この三尊形式は、天延3年(975)の良源による横川中堂改修に起源を持つ。 | ||
2007.3 | 桑谷祐顕 | 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺院 | 叡山学院研究紀要 29 | 雑誌 | 51 | 播磨の勧請神開眼供養導師は円仁。天長十年(833)諸国講読師に天台座主義真が任ぜられる。 | ||
2009.12 | 山本幸司 | 第1章 穢とされる事象 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 27 | 日本では神社や神事そのものと関わらなければ、流血に触れること自体が忌まれることはなかった。 | |
2009.12 | 山本幸司 | 第1章 穢とされる事象 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 28 | 日本の死穢の観念で特徴的な点は、殺人が死穢一般ととりわけ区別されていないこと、また殺人者が持続的に穢とされることがないことである。 その理由は、死穢を忌む程度が死に方の違いによるのではなく、死体との接触の仕方の違いによって判断されたからだろうと推定されるが、刑事上のサンクション(制裁措置)と穢とが連動していいない点で注目される。 |
ということは、自殺についても死穢一般と区別されることはない、と読める。 |
2009.12 | 山本幸司 | 第2章 穢とされるその他の事象 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 36 | 通常は動物の死・産が汚れを生じるものと考えられているようだが、資料上では、単なる動物一般ではなく、「六畜」に限定される。六畜というのは、元来、中国の概念が伝わったもので、具体的には馬・羊・牛・犬・豚・鶏の六種の動物をさす。その共通性を端的にいえば、家畜ということになろう。 | 化け物はどうするのか? |
2009.12 | 山本幸司 | 第2章 穢とされるその他の事象 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 39 | 猪は豚に準じて六畜と同様に穢があると決定されるのだが、それが以後の慣例となったかどうかは不明である。 鹿は、大神宮などの神社の境内における場合のみが例外的に穢とされた。 |
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2009.12 | 山本幸司 | 第3章 穢の伝染と空間 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 61 | 河原は記録の上でも、穢れた品や死者の捨て場としてよく挙げられるが、これはあるいは、そのような穢れた品物を捨てても、周囲にその穢が伝染によって広まることがないことによるのかもしれない。つまり安心して捨てることのできる場所だったのである。 | |
2009.12 | 山本幸司 | 第3章 穢の伝染と空間 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 71 | 水といっても、浄化力が認められるのは流水だけで、池とか井戸のように限定された範囲に溜まっている水は、浄化力が無いばかりでなく、もしこの水中に穢物が入れば、水全体が穢となり、そこから穢が伝染するのである。 | 流水ならば穢にならない。 |
2009.12 | 山本幸司 | 第3章 穢の伝染と空間 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 77 | 一方で火は浄化力に富むものであるには違いないが、他方、不浄なものを焼いた火、あるいは不浄な場所にあったり不浄な人間の触れた火は、逆に不浄な存在と変わるのである。 | 化け物はだから焼けない? |
2009.12 | 山本幸司 | 第5章 穢の本質 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 83 | 死の社会的意味。まず死であるが、死は特定の社会集団からある成員が脱落することであり、それによって残された成員間の社会関係の再調整が必要とされる。 | 本来、死にそんな意味はない。死にそんな意味を付与しただけ。死の社会的な見方であり、一面的な見方に過ぎない。 |
2009.12 | 山本幸司 | 第5章 穢の本質 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 89 | 穢の観念の本質が、穢の発生源と関わる人間の間における社会的関係・社会的接触である。 | |
2009.12 | 山本幸司 | 第6章 秩序と穢 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 103 | 人間の社会生活・社会関係が人間社会を取り巻く周囲の自然とともに形成し、人間社会と自然界とを貫通している。人間を取り巻く全環境における安定した事物の事態を秩序を呼ぶ。 この秩序においては、政治的事件や社会状況など人間社会の事象が、安定的に円滑に進行しているか否かががそのまま、天体の運行、気象の変動、天災、作物の豊凶といった自然現象に影響を与える。他方、そうした自然現象の変調は、必ずなんらかの人間社会における異変と結び付いた。者として捉えられる。 |
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2009.12 | 山本幸司 | 第6章 秩序と穢 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 117 | (御所だけでなく、京中の神社で発生した穢によって起きた皇族の体調不良事件)こうした事件が、当時どのように解釈されていたか史料の上には記されていないが、前述したような神と天皇との関係からいえば、穢によって直接皇族が損なわれたと考えるより、汚れの発生を許したことに対する神の怒りが、神を祀る側の代表である天皇以下の皇族に向けられ、神罰が下されたのだと理解すべきであろう。 | |
2009.12 | 山本幸司 | 第6章 秩序と穢 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 119 | だが、時間的な前後関係や因果関係の上では、汚れの発生がこれまで説明したような異常現象に先立つものと史料には記述されていたとしても、実際には病気とか物怪、天変地異などの知覚されうる現象が怒ったときに、その原因を求めたら、汚れに触れるようなことがあった、というのが一般的な認識の順序である。 | 結果からその原因を導く原因推論と、原因からその結果を推論する結果推論との違い。 |
2009.12 | 山本幸司 | 第6章 秩序と穢 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 122 | それ(穢)は天罰を招くと同時に、それが引き起こした天罰そのものであるのだ。 | |
2009.12 | 山本幸司 | 第8章 穢の知覚と穢の観念の変化 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 165 | 本文が飛んだ。 | 時と場合によって、規定や対処法が変化する柔構造だったから、長期間にわたり穢は持続した。 |
2009.12 | 山本幸司 | 第6章 秩序と穢 | 穢と大祓 | 解放出版社 | 著書 | 167 | すなわち、穢の観念が秩序の安定性を乱す事象を排除することによって、秩序の維持・強化に役立っていることは、同時に穢の観念が、広い意味で社会的サンクションの体系の一環を担っていることでもある。しかし盗みのような犯罪行為は、法と警察制度というサンクション機構の別の一環の主たる対象であり、こちらが機能している限りは、穢の観念が機能する必要性は乏しい。そのために、相対的には警察機構の機能している京都を中心とする貴族社会の記録類に、犯罪に関する穢の観念が現れることが少ないのではないかと推測されるのである。 | |
2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 202 | (領主による地域支配)そこでは、領主による非血縁者の被官・家人・所従・下人らに対する家父長制的支配と、領主による名主・百姓らに対する地域支配との質的相違を軽視している。前者は家臣団や家中、後者は所領や当知行などであるが、両者はともに領主制の内部問題とされてきた。しかし、権力の場である城と民衆の視点から見直せば、前者は領主の家政権力としての私的支配の問題であり、後者は領主のもつ国政権力としての公的支配の問題として区別して論じられなければならない。前者を主従制的支配、後者を統治権(構成)的支配と区別する佐藤進一・大山喬平らの見解をさらに発展させて、両者の区別を明瞭にする必要がある。とりわけ、後者の問題こそ、領主と国王、領主と国家に連続していく諸問題として分析されなければならないと考える。中世領主の権力は家政権力と国政権力の一部であるという二面性を兼ね備えていたことに留意して分析されなければならないといえよう。 | |
2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 203 | 国政と家政の共同執行論の立場から、中世領主層を見直せば「中世国家による地域支配のための家政権力」と規定しなければならない。領主とは、「国政と家政との共同執行」によって地域支配を行う社会権力とうことになる。中世領主層は、党・一揆や氏・一門・親類などのヨコ結合を利用して利害調整をはかりながら、家司・下家司・家人・家侍・被官・郎等・中間・所従・下人・端女など家政職員をタテに権力編成して、家政権力を強化して、郷・村の徴税機能を請け負って地域支配を行う国政権力の一部である。そのため領主層は、権力の場として居館・城郭・砦・山小屋・宿所・町家・在家・関所・湊・津・渡・河口・警固所など流通・交易のネットワークを多様に張り巡らせていた。 | |
2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 204 | 国政家政共同執行論では、中世領主権力は、名字の地である本貫地のみならず全国的な所領群をもち、京都と鎌倉に家地や墓所・宿所などを配置した複合分散的な居館・家地群を編成し、全国的な交通・流通網を家政的に編成・組織していたことを重視する。全国的規模に散在した所領群の経営管理者が中世領主であった。 | |
2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 205 | 鎌倉期の武家は、全国的に散在した所領群をもっているのが一般的であり、地頭納や地頭請所として開発所当・本所年貢・国衙年貢などの代納義務を負っていた。とりわけ基金や不作などの際に名主・百姓の未納分を代納する義務をもっていたから、全国的所領に配置した居館や蔵には「数多の公物私物」(『今昔物語』巻24・第14)、「公私之課役」(「専称寺文書 鎌倉遺文24404)、「公私納物」(大乗院文書 鎌倉遺文27355)、「公私の負物」(円覚寺文書『鎌倉遺文』14824)などの収納機能をもっていなければならなかった。 | |
2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 207 | 御家人クラスの領主とって、京都・鎌倉における浜倉・土倉・宿所は女房や白拍子らを配置して公私の倉納物を活用して貸借活動によて利殖をはかる財政運営を行う拠点でもあった。 京都・鎌倉の家地・宿所・土倉群は、領主の家産財政運営機関の拠点であったといわなければならない。 |
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2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 209 | このように12〜14世紀の武士は、田舎に屋敷・館を構え在地性を強固に残した農村領主とする旧領主制論によって説明できない。中世前期の領主は、田舎の所領群と都市の財政運営機関と全国各地の交通流通機構の一部を全国的規模で家政機関の中に取り込み、農村領主・都市領主・流通領主でもあるという未分化な家政権力であった。 | |
2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 212 | こうして13世紀末〜14世紀には、在地の紛争を、京都や鎌倉での裁判(「上訴」「上裁」/上部権力の裁判)によるんではなく、地下での「衆中評定」「衆中一同の儀」によって解決をはかろうとする自治的な社会思潮が一般化してきた。これこそ、紛争処理方法として権力による裁判を受ける権利とともに、自治に夜紛争解決をはかろうとする自力救済原理の深化がみられるようになったといえよう。 14世紀に「衆中一同の儀」による紛争処理が増加する時期は、一揆契状の増加する時代でもあり、南北朝内乱とともに国人領主と被官人との「私弓矢」「私戦」「私所務相論」が激化する時代でもあった。 |
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2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 214 | 将軍家に反抗していた高梨朝秀や村上頼清ら国人領主は、私戦を差し置き公戦を優先せよという社会正義の原理を前に禁裏・将軍家に服属していった。 | |
2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 217 | 六条河原・四条河原はもとより都大路・獄舎などは検非違使庁と侍所の共同管轄下にあったといわなければならない。(赤松満祐は)治罰の綸旨で追討された国家の犯罪人であったが故に、謀反人の公開処刑は禁裏と室町殿の統合システムによる国家行事として検非違使庁・侍所・河原者によって共同執行されていたとみるべきであろう。こうしてみれば、六条河原・四条河原・近衛西洞院の獄舎・都大路と検非違使・侍所は、公武一体による中世国家の裁判・警察機構であったといわなくてはならない。 | |
2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 219 | 禁裏が幕府との共倒れ構造から離脱し、公家御料所を基盤にしてここの大名との個別交渉によって禁裏用途の惣用方財政確保に動き出すようになるのは、16世紀後柏原・後奈良天皇以降であると考える。15世紀・室町期の守護と守護代は、禁裏と室町殿の統合システムの中では、国司にかわって諸国所課を担当する行政担当者として位置づけられており、その機能する範囲内で国家の支払システムが機能していたといえる。 | |
2010.3 | 井原今朝男 | 日本中世における城と領主権力の二面性 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 221 | 室町期禁裏は、蹴鞠会などに参加する武家輩のメンバーとして守護代を組織していた。その上禁裏御料所の代官職に彼らを任じ、御料所からの運上物の確保のために違乱停止などを守護代に命じていたことがわかる。 | 幕府を通してではなく、直接命令しているところが、これまでの理論とは違う。 |
2010.3 | 小島道裕 | 洛中洛外図屏風と描かれた公武関係 | 武士と騎士 | 思文閣出版 | 著書 | 287 | 以後、彼女は「一対(いちのたい)(一台)の局」と呼ばれていたが、「対(台)とは、寝殿造の「対屋」すなわち正殿とは別に建てられた「はなれ」のことで、そこに住む人物をも指す。 | |
2010.10 | 浦西勉 | 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代 | 龍谷大学論集 480 | 雑誌 | 98 | 普及と定着を分けて考える。受け入れる側の人間の分析視角を落とさないこと。 | ||
2010.10 | 浦西勉 | 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代 | 龍谷大学論集 480 | 雑誌 | 102 | 水利開発と牛頭。新たな地域紐帯として勧請。水利慣行の相論が原因か。 | ||
2010.10 | 浦西勉 | 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代 | 龍谷大学論集 480 | 雑誌 | 105 | 祇園御師の活動。それと民衆を媒介する在地僧の存在が重要。商人・職人などの活動が活発化している。 | 全国に教線を拡大していくのかもしれないが、それがなぜその地域に定着するのかは、考えておく必要がある。 | |
2010.10 | 伊藤俊一 | 省陌法をめぐって | 室町期荘園制の研究 | 塙書房 | 著作 | 463 | すでに石井進は「五十文 此内 卅四文精銭・十五文地悪銭」と記された相州文書の事例を挙げて、銭四十九文を五十文とみなす観光があったことを指摘しており、渡政和は五十文が「半連」と呼ばれていたことを指摘している。以下では、銭四十九枚をつないで五十文とみなした緡を「五十文緡」、九十七枚をつないで百文として使われた緡を「百文緡」と呼ぶことにする。 | |
2010.10 | 伊藤俊一 | 省陌法をめぐって | 室町期荘園制の研究 | 塙書房 | 著作 | 464 | 五十文緡は百文緡を作るまでの一時的な形態にすぎず、加算する場合は崩されてのである。 | |
2010.10 | 伊藤俊一 | 省陌法をめぐって | 室町期荘園制の研究 | 塙書房 | 著作 | 469 | ここから、「目」と注記されない五十文は四十九文の五十文緡で、注記されたものはバラ銭五十枚と推測できる。 | |
2010.10 | 伊藤俊一 | 省陌法をめぐって | 室町期荘園制の研究 | 塙書房 | 著作 | 471 | 一、下二桁が五十文の金額を支払う場合、銭四十九枚を緡にして五十文として通用する慣行があった。 二、五十文緡は、他と合算して百文緡を作る際は四十九枚に崩した。 三、緡にされていないバラ銭五十文を表記する際に、「目」と注記することがあった。 百文緡とは異なり、五十文緡は合算の際に崩されるから、緡のままで残ることは稀であるが、存在したことは確かであり、出土事例の精査が待たれる。また省陌法や五十文緡を考慮せず、調陌法で計算が行なわれている帳簿類もあり、その使い分けや時期による違いの検討は今後の課題である。百文緡と五十文緡を考慮した計算をしても史料の記載と合わない場合もあり、さらに未知の慣行が働いている可能性もある。 |
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2010.10 | 伊藤俊一 | 省陌法をめぐって | 室町期荘園制の研究 | 塙書房 | 著作 | 471 | 日本中世お省陌法において、百文緡の実枚数九十七枚と百文の名目との差にはどのような意味があるのだろうか。素朴に考えると、この差額には銭を数え、縄でつないで扱いやすくする手間と縄代が含まれているのではないかと推測される。 | |
2010.10 | 伊藤俊一 | 省陌法をめぐって | 室町期荘園制の研究 | 塙書房 | 著作 | 474 | このように、調陌法で勘定される段銭を緡につないで納入するために、一緡あたり縄代二文と、銭を数える手間賃一文が計上されており、百文緡の実枚数九十七文と名目百文の差の三文がこれらに由来すると考えられる。省陌法で勘定すれば、縄代と数え賃を納入者側が負担しても、緡にすることで価値が高まるので相殺される。しかし段銭の納入では調陌法で勘定される決まりになっていたため、普段は隠されている負担が表面に現れたのである。 | |
2010.10 | 伊藤俊一 | 省陌法をめぐって | 室町期荘園制の研究 | 塙書房 | 著作 | 476 | 以上のとおり、銭を数え、縄をつないで緡を作る作業が無償の労働ではなかったこと、百文緡の実妹数九十七枚と名目百文との差の目銭には、この作業と緡縄の代価が含まれていることが明らかにできた。 | |
2011.5 | 渡邉俊 | 『春日清祓記』の基礎的考察 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 184 | 勝俣説をめぐる研究史の祓に対する理解と、従来の法制史(三浦周行・中田薫)が示してきた祓に対する理解との間に、やや齟齬が生じていることがわかると思う。祓を穢の除去と捉えて議論を展開する前者に対し、後者は、神への祈謝を祓の機能と捉えている。それとともに後者は、祓に付随する財産刑的性格を指摘するのである。 | |
2011.5 | 渡邉俊 | 『春日清祓記』の基礎的考察 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 195 | したがって厳密に言えば清祓とは、穢物を除去ないし汚染場所を洗浄(=「清」)し、祭物を用いた祭祀(=祓)をとり行うことを意味する。 | 「清」と「祓」は違う。両方するのが「清祓」。ちなみに、汚物は酒で清める。 |
2011.5 | 渡邉俊 | 『春日清祓記』の基礎的考察 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 196 | (従来の法制史研究では)すなわち祓とは、当事者に祓具(祭物)を負担させて行われる神への祈謝・贖罪行為なのであり、記紀神話の段階からすでに財産刑の性格をもつものと指摘されていた。 | |
2011.5 | 渡邉俊 | 『春日清祓記』の基礎的考察 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 197 | 人為的に穢を除去することはできない。 | だから、穢が明けるのを待つ。 |
2011.5 | 渡邉俊 | 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 209 | (明治43年に経済学者の福田徳三氏が)祓は神に対して背負ってしまった債務を犯人が自身の財産をもって決済するのものと捉えられている。すなわち、祓えと支払い、贖うことと購うこととの間に関係性を見出したうえで、神への一方的な債務決済=祓が、交換売買や貨幣の起源・発達とも密接に関係する点を鋭く指摘していたのである。 | |
2011.5 | 渡邉俊 | 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 210 | むしろ論点は、祓のなかに追放の意が含まれているか否かという問題などのにあった。1980年代以降、祓を、罪=穢をおびた犯人およびその財産を消滅させる行為(解体・焼却・追放)として捉える見方が広がっていったのである。 ここに、祓における犯人の財産は、神に捧げられるべきものから、神から遠ざけられるべきもの、消滅させれられるべきものへとその性格を反転させたのであった。 |
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2011.5 | 渡邉俊 | 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 211 | 人為的に穢を除去することはできず、穢が消滅する日数の経過を待つほかなった。加えて死穢・産穢が持続する期間は、祓自体を行うことができなかった。祓自体が穢を忌避するのである。 | |
2011.5 | 渡邉俊 | 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 212 | 要するに、『春日社清祓記』に基づいて清祓を厳密に定義するとすれば、清祓の「清」とは穢物ないし穢が付着した場所の洗浄・撤去を意味し、清祓の「祓」とは神への謝罪・贖罪を意味する。つまり清祓の「清」は、言うなれば原状回復のための損害賠償としての性格をもつ。したがってその費用は、穢した者本人または縁者が負担するのが鎌倉期春日社の基本的なあり方であった。そして当事者は、神への冒涜行為を謝罪・贖罪する儀式であった祓を執り行うために祭物を提出しなければならないのである。 また、当事者から提出された祭物は清祓を終えた後、社家内部の担当者へ配分される。つまり祭物は、社司らにとってみれば得分としての性格をもっていた。だからこそ、清祓を担当する組織をめぐって、しばしば社家内部に混乱が見られたのである。問題は、その祭物がどのように処理されていたかという点にある。 |
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2011.5 | 渡邉俊 | 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 216 | 興味深いのは、撤去された穢れた畳が若宮神主祐春の得分となっていることである。従来の研究では、穢物は忌避されるべきものであると捉えられてきた傾向がある。そのような理解に基づいて、種々の論を形作ってきたように思う。しかし『春日社清祓記』には、畳に限らず、穢が付着したことによって撤去された「打板」「沓抜」「敷居」「板并ツカ柱」などの資材が若宮神主の得分となる例をいくつも見出すことができる。神域が穢れた場合、当事者に損害賠償させるなどして原状を回復しなければならないが、撤去された穢物は社司の得分とみなされているのである。彼ら社司が問題視するのは、神域が排泄物や血液などによって穢されること、すなわち穢と神と接触させることなのであって、自身が穢物を取得することについては何の躊躇もないのである。資材などの穢物が得分となっているのである。 | |
2011.5 | 渡邉俊 | 「罪科」と清祓 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 246 | ここで確認しておきたいのは、「但被行清祓之後、可被行罪科候」と記されているように、衆徒の科す「罪科」と社家の行う清祓とは、やはり区別されるべきものであるということである。衆徒のかす「罪科」に祓の意味を読み取ることは、やはり困難だと思う。清祓が行われた後に「殺害罪科」=「焼失屋」が執行されるのであるから、両者は別個のものであると考えるのが自然である。 | |
2011.5 | 渡邉俊 | 「罪科」と清祓 | 中世社会の刑罰と法観念 | 吉川弘文館 | 著作 | 247 | 結論は、「罪科」と清祓とは、やはり別個のものであるということである。検断の対象行為が、清祓の対象行為と重なった場合、犯人は興福寺からの「罪科」と清祓の両方を科される。当然のことながら、犯行が清祓を科される条件を満たしていないのであれば、「罪科」のみが単独で科される。興福寺による「罪科」が清祓の役割をも兼ねるというわけではないのである。 それでは、どのような意図をもって荘園領主は、住宅検断のなかでも特に住宅焼却といった財を無に帰してしまうような処分を行っていたのか。(中略)現段階においては追放や住宅検断について、犯人の還住防止・原状回復阻止のための方策であったと評価する以上のことはできない。 |
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2012 | 林晃平 | 中世の「湯屋」と「風呂」に対する一考察─「湯屋」と「風呂」は違うのか─ | 『和歌山大学 学芸』58 | 和歌山大学学芸学会 | 雑誌 | 51 | 本章をまとめると次のとおりである。 ①中世前・中期以前においては、「風呂」という用語はほとんど使われておらず、施浴施設としては「湯屋」という用語が一般的であった。 ②①のことを踏まえれば、「湯屋」「風呂」に対する従来の研究での定義では、中世前・中期には温湯浴が主流で、次第に蒸気浴が一般化してくるということなり、通説と矛盾する。 ③史料1では「湯屋」内に「内ふろ」があることが明記されており、「風呂」が「湯屋」に包摂されていることを示している。 ④14世紀前半から温湯浴の様子を描いた絵巻物が作成されること、「風呂」という用語が史料上に登場することから、このころから「湯屋」から「風呂」が独立していったと考えられる。 |
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2013.3 | 大塚紀弘 | 中背仏教における融和と排除の論理 | 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29 | 雑誌 | 31 | ここで注意したいのは、中世の「宗」が現在の教団とは異なることである。当時、現在の宗派、教団のよう な強固な組織は存在しておらず、いくつかの僧侶集団が寺院ごとに存在し、本末関係や法流関係によって、ゆるやかに結びついていた。そして、仏教の教学・教義に相当する「宗」は、各寺院、各僧侶集団で兼学されていた。そこには、各自が依拠する単一もしくは複数の「宗」を持ちつつも、互いの「宗」の価値を認め合う 〈融和の論理〉が存在した。それゆえ、一定の「宗」の間では、表立って論争が交わされることはなかったのである。 | ||
2013.3 | 大塚紀弘 | 中背仏教における融和と排除の論理 | 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29 | 雑誌 | 32 | 平安時代までに成立した「宗」は、華厳宗・三論宗・法相宗・律宗・成実宗・倶舎宗の南都六宗に真言宗・天台宗を加えた八宗で、中世寺院 では複数の「宗」が修学されていた。例えば、『簾中抄』では、東大寺は八宗(特に三論・華厳・律)、興福寺 は法相、延暦寺は天台・律・真言、園城寺は天台・真言、仁和寺や醍醐寺は真言を旨とするとされている。そして、どの寺院でも最初に習うものとして、倶舎が挙げられている。また、永仁四年(一二九六)の『天狗草 紙』によると、園城寺では、真言、天台、法相、倶舎といった顕密教学の修学のみならず、修験道を兼ね備え ているという。 | ||
2013.3 | 大塚紀弘 | 中背仏教における融和と排除の論理 | 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29 | 雑誌 | 34 | 中世寺院では、八宗を始めとして、様々な「宗」が修学されており、同じ寺院に所属する僧侶でも単一の 「宗」を専門にしていた訳ではなかった。 世の「宗」を包括する枠組みとして、第一に挙げられるのが、顕教と密教である。八宗のうち、真言宗が 密教で、それ以外の七宗が顕教ということになる。朝廷(公家)は平安後期以降、それぞれ顕教、密教を修学 する有力寺院として、東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺の「四箇大寺(本寺)」、東寺・延暦寺・園城寺の「三門真言」との結びつきを深めた。例えば、朝廷が主催する御斎会などの顕教法会には「四箇大寺」から、後七日御修法や五壇法などの密教修法には「三門真言」から僧侶が招請された。「三門真言」の東寺とは、東寺という寺院自体ではなく、空海に連なる密教の法流を相承する小野流の醍醐寺、広沢流の仁和寺などを合わせた呼称で、その名目的な頂点に東寺長者が位置づけられた。 以上をふまえると、黒田俊雄氏が「顕密仏教と国家権力の癒着の独特の体制」と曖昧に定義した顕密体制 は、顕教の「四箇大寺」および密教の「三門真言」と国家の関係を示す概念として明確に再定義することができる。そして、これらの有力寺院を基盤に形成された僧侶集団の総称が顕密仏教ということになる。 |
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2013.3 | 大塚紀弘 | 中背仏教における融和と排除の論理 | 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29 | 雑誌 | 35 | 「聖道」は元来、浄土門に対して、自力で悟りを得ようとする教えである聖道門を意味したが、そこから派生して顕密八宗、すなわち顕密仏教を指す呼称としても用いられた。そして、この「禅律」は、禅僧、律僧によって形成された、禅家・律家という僧侶集団を念頭においた呼称と考えられる。 | ||
2013.3 | 大塚紀弘 | 中背仏教における融和と排除の論理 | 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29 | 雑誌 | 36 | 「四箇大寺」のうち、主に延暦寺・園城寺・興福寺の僧侶が、朝廷などの主催する顕教法会に招かれたことが示すように、顕教七宗では天台宗と法相宗が重んじられたが、それ以外の五宗もいったん公認された「宗」 としての意義を否定されることはなく、真言宗も含めた八宗の共存が秩序づけられた。つまり、顕教・密教の 二分法の下、八宗は個別の「宗」として横並びの位置を占めたのである。こうした「顕密」八宗観と呼ぶべき 仏教観は、王法仏法相依論によって結合した朝廷と顕密仏教で共有されていく。 「顕密」八宗観に基づいて、仏教の「宗」を顕密八宗に限定する秩序は強固で、新たな宗派を立てる試みに対して強硬に反発する際の根拠となった。つまり「顕密」八宗観は、一方で〈排除の論理〉としても機能したのである。 |
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2013.3 | 大塚紀弘 | 中背仏教における融和と排除の論理 | 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29 | 雑誌 | 46 | このように法然・日蓮は、末法の世には三学(戒律・禅定・智恵)の修得が困難だという立場から、信心を拠り所にした救済の体系を提示した。類似する見解は杲宝の『開心抄』にも見出せるが、こちらでは三学の意義自体が否定されている訳ではない。また延暦寺では、智恵に偏重しつつも、修行の根本には三学の体系が存在したようである。 徳治二年(一三〇七)の後宇多上皇院宣では、「破戒之僧」「邪法之族」として、称名念仏の「異類異形之 党」(念仏者)と諸教を誹謗する「法華法門之宗」(法華衆)は、まとめて処罰の対象とされている。法然・日蓮の門流が形成した信心を紐帯とする集団の主体は、顕密仏教や禅律仏教とは異なり、在家衆にあり、僧俗合わせて念仏者、法華衆などと呼ばれた。以上もふまえ、私見では、中世の僧侶集団は、その特質によって次のように分類できると考える。 | ||
2015.3 | 平雅行 | 日本中世における在俗出家について | 大阪大学大学院文学研究科紀要55 | 雑誌 | 3 | 本稿では、在俗出家のうち、出家した後も家長・家妻として家督・家政権を維持して世俗活動を継続するものを「出家入道」と規定し、家督・家政権を放棄してこれまでの世俗活動を停止するものを「遁世」と呼ぶことにした。つまり、中世の在俗出家には「出家入道」と「遁世」の2タイプがあることになる。 | ||
2015.3 | 平雅行 | 日本中世における在俗出家について | 大阪大学大学院文学研究科紀要55 | 雑誌 | 5 | 出家による治病効果が強調されるようになった背景には、浄土願生を死を祈ることと考え、それを不吉とみなす思潮があった。(中略)高取正男氏が指摘したように、平安前中期においては、このように念仏や浄土願生を忌む風習が存した。それだけに、出家の功徳として病悩平癒の機能を強調する言説は、この意味の習俗を乗り越えて浄土信仰を定着させてゆくには必要なものであった。 | 浄土願生を不吉とする感覚はあった。 | |
2015.3 | 平雅行 | 日本中世における在俗出家について | 大阪大学大学院文学研究科紀要55 | 雑誌 | 21 | 近衛少将藤原教信は舅である大納言源雅親の推挙で昇進し、寛喜三年(1231)賀茂祭の近衛使に指名された。しかし、近衛使を務めるには相当な費用負担が必要であるため、その経費を捻出できないということで辞退した。ところが後堀河天皇は辞退を認めず、再三譴責して教信の勤仕を求めた。一方、教信の方もあくまでそれを拒絶し「対捍之様、非普通之儀」と評されている。近衛使の辞任が予想を超えた大問題に発展したのである。結局、教信はこの後、「渡世之計」を失って高野山で出家しているが、これも挫折・失意。諦念による出家と考えてよい。 | 困窮が自死に繋がるとは限らない。出家という手段をとる場合もある。 | |
2015.3 | 平雅行 | 日本中世における在俗出家について | 大阪大学大学院文学研究科紀要55 | 雑誌 | 23 | 恥辱および不満・抗議の出家。弓の名手下河辺行秀が大鹿を仕留め損ね、面目を失った行秀はその場で出家・逐電した。検非違使源為義の郎党が前紀伊守藤原季輔に乱暴を加えた。被害者の季輔は、恥をかいたとして出家した。『古今著聞集』。徳大寺中将公衡は会の人物に超越された。超越されたら出家をするものではないかと西行に尋ねられたが、公衡は言い訳をして出家しなかった。西行は「無下の人」と失望し、絶交した。 | 超越は恥だから、出家すべきという観念があり、出家しないのは恥知らず。恥辱が自死に繋がるとは限らない。 | |
2015.3 | 平雅行 | 日本中世における在俗出家について | 大阪大学大学院文学研究科紀要55 | 雑誌 | 40 | 名越光時・時幸兄弟が九条頼経と結んで北条時頼を排除しようとする宮騒動が起きたが、光時は髻を切って出家、時幸は病を口実に出家した。その後光時は伊豆流罪、時幸は自害に処された。 | ||
2015.3 | 平雅行 | 日本中世における在俗出家について | 大阪大学大学院文学研究科紀要55 | 雑誌 | 45・46 | 中世は主従制が展開した時代であるが、その反面、殉死が少ない。(中略)中世では、六道輪廻の世界で再び邂逅することはほぼ不可能だとの観念と、同じ浄土、同じ蓮の台に座をわかるように二人一緒に生まれ変わりたいとの願望が共存・相克していた。考えてみれば、寺檀制によって往生成仏を祈る体制が整備された江戸時代では、人々の往生成仏は普通のこととなり、一蓮托生の観念が広く流布してそれが心中を支える思想的背景となる。ところが、中世では基本的に往生は稀有なことと考えられていた。一蓮托生の願いがあったとしても、浄土往生そのものが稀である以上、半座の願いは実現性不確かな願望でしかなかった。そういう中にあっては、殉死では一蓮托生の思いを叶えることができない。むしろ死者の菩提を弔い、自らの往生を祈る方が、一蓮托生を実現する、より確かな道であった。しかも中世では、夫や主人の死を契機に出家してその菩提を弔うという、より穏やかな殉じ方が流布していた。死者への思慕の念は、出家という穏やかな自己犠牲によって満足させられたのである。日本中世で殉死が少ない理由は、このように考えられる。逆にいえば、16世紀に在俗出家の風習が衰え、主人の死を契機とする出家が減少していったこと、および戦乱が終焉したことが、近世初頭に殉死を成功させる原因となった。 | 主従制と殉死は必ずしも結びつかない。殉死は主君の供をすることだが、死後同じ世界に生まれ変われないなら、殉死の意味はない。 | |
2015.3 | 池田浩貴 | 『吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆 | 常民文化38 | 成城大学 | 雑誌 | 3 | 既に平安時代の朝廷において、前述のような特異な自然現象が観察された場合に、「特異な自然現象の報告→卜占による勘申→対策の検討→祈祷や謹慎などの実施」という政務手続が確立されていた。朝廷における卜占の種類は、神祇官所属の卜部が用いる亀卜と、陰陽寮所属の陰陽師が用いる六壬式占の二種があったが、この政務手続が鎌倉時代前期を通じて段階的に鎌倉幕府に移入される際、安倍氏を中心とした陰陽道のみが吸収され、鎌倉の武家陰陽道が成立していった。すなわち、都市鎌倉の内部で特異な自然現象が発生した際や東国地域から同様の報告があった場合、幕府は在鎌倉の陰陽師に六壬式占による占断を命じて現象の意味するところを勘申させ、不吉の場合には鶴岡八幡宮への奉納や各種の陰陽道祭を実施することが幕政の一部となっていた。 | |
2015.3 | 池田浩貴 | 『吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆 | 常民文化38 | 成城大学 | 雑誌 | 7 | 鎌倉に大量の蝶が発生し、飛び回るという現象は『吾妻鏡』中に5件記録されている。これらすべてにおいて、蝶は「黄蝶」と表現されている(表1)。また蝶の行動に対する表現は、「群飛」と「飛行」が各二例、「群衆」が一例である。しかし、後掲する条文の内容を鑑みるに、いずれの事例も一匹の黄蝶が奇怪な行動を示したという怪異ではなく、多くの黄蝶が飛んだということが怪異と判断されたものである。 | |
2015.3 | 池田浩貴 | 『吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆 | 常民文化38 | 成城大学 | 雑誌 | 9 | ただし、この託宣(史料1)は編纂時に創作され使いされた疑いが強い。託宣の内容がその後の流れを実に都合よく予兆しているからである。(中略) したがって、偶然鶴岡で黄蝶群飛が発生し奉納が行なわれた直後に源行家が捕縛されたため、群飛が叛逆者を予兆する怪異であったとの評価が事後に定着し、編纂の際に恣意的な内容の託宣が追加されて、八幡神の告を得て叛逆者を討った幕府のストーリー」が形成されたと見るのが自然だろう。ただ、託宣の内容は改竄によるものとしても、この文治2年の事例により鎌倉幕府においては黄蝶郡飛を反乱の予兆とみなす先例が確立されたのは間違いない。 |
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2015.3 | 池田浩貴 | 『吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆 | 常民文化38 | 成城大学 | 雑誌 | 13 | 以上、『吾妻鏡』における黄蝶群飛h文治2年例(史料1)を初見とし、同例は鶴岡八幡宮を舞台とし幕府が祭祀を講じた際初期の怪異の例としても注目される。この例が源行家捕縛の直前に偶然発生したことで戦乱予兆の先例とみなされ、和田合戦(史料2)や宝治合戦(史料3・5)の前後にも黄蝶群飛が記録されることとなった。逆に、それ以外の時期には記録がないが、これはk枕で幾度も発生したであろう黄蝶群飛のうち、たまたま戦乱の前後に発生した事例のみが後代に戦乱と結びつけられ、記録に足るものとして『吾妻鏡』に採録されたということであろう。その編纂の際に幕府にとって都合の良い架空の先例が付され、幕府を襲う戦乱を八幡宮が告げ知らせる怪異として意味づけがなされていったものと考えられる。ただし、史料3の宝治元年の事例のように、黄蝶群飛の発生そのものが改竄により生み出されたと疑われる例もその中には混在している。 |