周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

桜井著書2

桜井英治『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』(講談社、2001年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

はじめに

P3

 室町亭のもののけといえば、義教の嫡男で義政の兄にあたる七代将軍義勝の死がやはり彼らのしわざと信じられていたことにも触れておく必要があろう。義勝はわずか十歳で世を去ったために、十九歳で父義持に先だった五代将軍義量とともに歴史的には影の薄い存在になっているが、当時の人々は義勝の死を幕府によって抹殺された足利持氏・一色義貫・赤松満祐らの祟りと解釈したのである。義勝の死の直前、幕府が室町亭に霊媒師を招いて口寄せをおこなったところ、一色義貫の霊は「のびのびになっている一色家の相続を早く実現せよ」と語り、赤松満祐の霊は「孫を召し出して赤松家を相続させよ」と語ったという。

 けれども、彼らが発したこれらの言葉は、現代を生きる私たちにとっては少々意外なものであろう。怨霊たちにとっては殺された恨みよりも、家が存続するか否かのほうがはるかに大きな関心事だったのである。このような彼らの価値観をふまえておかないと、彼らの痛みを本当に理解できたことにはならない。彼らが死んでまでこだわりつづけた家とは何か、そのことを念頭においたうえで、さっそく室町時代の歴史をひもといてゆくことにしよう。

 

 →個人の命の存続より、家の存続。この発想がなければ、自殺や切腹についても、理解できないところがありそう。

 

第一章 神々の戦い

P23

 この(後円融天皇の)陰湿さ、執念深さは皇室、とりわけ後光厳流に色濃く受け継がれた資質であったが、一面でこれは中世人に多少なりとも共通して認められる気質でもある。中世人はけっして恨みを忘れたりはしないが、同時に礼節を尽くすことも忘れはしない。恨みを抱いているその相手と平然と語りあい、ともに笑い合えるのが中世人であり、それが彼らの礼節というものであった。私たちが中世の史料を読んでいると、明確に敵対関係にある者どうし平然と贈答をおこなっている例をしばしば目にすることがある。しかしこのことをもって彼らが和解したのだろうなどと考えたらとんでもない。彼らは何食わぬ表情のなかで報復の機会を虎視眈々と狙っているのであり、ときに彼らはその感情を何年ものあいだ温めつづけることができたのである。

 このように述べてくると中世という時代は何とも居心地の悪い時代だと思われるかもしれないが、けれども、ちょっとした一言で「ムカツイタ」り、「キレ」たりする現代人にくらべれば、彼らがはるかに周到な人種であったことだけは疑う余地はない。

 

 →これは身分の高い階層の人たちに限定するべきではないか。笑われただけで遊女を殺害した田舎者の感覚などは、むしろ現代人に近い。

 

P25・26

 そして悲劇はその翌々日(筆者注:1383年・永徳三)二月一日におきた。その夜厳子(いつこ)は後円融上皇から召しをうけたものの、衣服の準備が整っていなかったため参上をためらっていたところ、突如上皇が厳子の部屋に乱入してきて、剣の峰で厳子をしたたか打ちのめしたのである。(中略)事件はすぐさま義満の耳にも入り、義満の処罰を恐れた後円融上皇は、今度は自仏堂に立てこもって切腹すると騒ぎ出す始末であったが、結局義満の説得で上皇は何とか自殺を思いとどまった。翌日、後円融上皇はまたしても母親広橋仲子のもとに逃げ込んで打ちひしがれた心を癒すのである。

 この上皇の錯乱の背景には義満と上皇の愛妾按察局との密通の噂があったらしく、そのために義満は身の潔白を誓う起請文を上皇に提出したりもしている。人妻好きで実弟の妻さえ平気で奪う義満であってみれば、このうわさもおそらくは本当だったと思われるが、もちろん上皇の錯乱の原因はこの一事に帰せられるものではない。義満に寝取られた按察局は、幕府に奪われてゆく朝廷の諸権限を、いわば象徴する存在だったのだ。

 マザコンで暴力夫という現代にもありそうな後円融上皇は、しかしこの事件以降、ほとんど目立った行動をみせていない。かつてのライバルで同年齢の義満が着々と朝廷内で地歩を固めつつあるとき、後円融上皇は静かな敗北感のなかで十年の時を過ごし、一三九三年(明徳四)四月、三十六歳の若さで他界するのである。

 

P27

 朝廷は幕府からの援助なくしてはもはや経済的にたちゆかなくなっていたし、軍事的には言わずもがなである。また個々の貴族たちにとっても、望みの官位を手に入れようと思えば何よりも義満の武家執奏に頼るのが一番の近道であった。皇族さえ常盤井宮満仁親王のように親王の称号が欲しいばかりに自分の愛妾を義満に差し出した者がいたくらいである。貴族たちが義満への阿諛追従に血道をあげたのも無理からぬ話であろう。そしてこのような義満からのバックアップをより恒常的に得るために、彼らのなかに義満と主従関係を結び、その従者になる者があらわれてくる。このように貴族でありながら義満の従者となった者を家礼(けらい)といった。これまでも中下級貴族のあいだでは摂関家などの上級貴族と家礼契約を結んで経済的な庇護を受けることが一般的におこなわれてはいたが、このころには斜陽の摂関家にかわって足利将軍家がもっとも大きな報酬を期待できる主人となったのである。

 

P28

 このような貴族たちの期待をうけて、義満の権力としての性格にもおのずから質的な変化があらわれた。とくに内大臣昇進を境にして吉光は従来用いていた武家様の花押とは別に公家様の花押を使用しはじめるが、これは義満が公家の一員としての自覚に目覚めたことを示すとともに、義満が武家の棟梁から公武双方を支配する権力へと脱皮を遂げてゆく事実上の出発点となった。

 義満のもとにこのころから公家の申次が登場することも見逃せない。申次とは将軍のそばに仕え、将軍に諸事を披露したり、将軍の命を下達したりする、いわば将軍の窓口役であり、従来はもっぱら武家の近習がこれにあたっていたが、内大臣昇進以降、殿上人(四位、五位で昇殿を許された者)クラスの貴族がここに加わり、相手や用件によって武家申次と公家申次が職務を分担する構造ができあがるのである。納言・参議クラスの公卿(三位以上および四位の参議)の家礼が増加するのもこのころだが、これには公卿のなかの公卿としての大臣の地位が大いに役立ったことだろう。

 家礼になれば、武家執奏により官位の昇進が有利になる以上、武士に押領された所領を回復する道も開けてくる。またそればかりではなく、家礼となった見返りとして将軍から新たな怨霊給与にあずかることも夢ではない。貧困に喘いでいた貴族たちにとって、将軍家の家礼になることは家の前途を切り開く起死回生の手段となりえたのである。

 もちろん家礼になれば義務も発生する。殿上人の家礼であれば、右にみた申次のほか、酒宴の際に給仕をつとめることなどが奉公の主な内容であったが、公卿の家礼になると、将軍外出の際にお供をすること、当時「扈従」(こしょう)とよばれた行為が主要な義務となった。参内や院参、寺社参詣など、将軍はほぼ日常的に外出をくりかえし、その多くがやがて年中行事化してゆくか、そのたびごとに彼らは扈従を強いられたのである。将軍が出陣すれば、公卿の家礼が戦場に扈従するということも論理的にはありうるわけで、実際、明徳・応永の乱や後年の足利義持による赤松持貞誅伐の際には公家家礼たちが甲冑を着けて馳せ参じたといわれる。

 このような公家家礼は義満の父義詮の時代にもわずかながらみられたものの、飛躍的に増加するのはやはり義満の時代であり、それが翻って義満の地位にも上昇圧を及ぼしていった。すなわち公家家礼たちは義満の武家執奏を後ろ盾に順調な昇進をとげ、朝廷におけるヘゲモニーを握る。そして朝廷においてヘゲモニーを握った彼らがまた義満の官位を押し上げてゆくという循環構造が、義満をして未曾有の出世コースを歩ませていったのである。

 

P35

 守護職をめぐっては、それを一般の所領と同様、世襲の許される私財とみなす観念(守護所領観)と、古代の国司と同様、中央から任命される一個の地方官・行政官であって世襲は許されないとする観念(守護吏務観)とが鎌倉時代以来対立してきたが、『建武式目』が「守護職は上古の吏務(国司)なり」というスローガンのもと、守護職を恩賞として諸将に与えることを禁じているのは、草創期の室町幕府が守護所領観を斥け、守護吏務観を公式見解としたことを示している。この原則は南朝や直義党との抗争のなかで守護職が高い軍事的機能をになっていた南北朝機にはおおむね維持されたが、南北朝の動乱が終息を迎える十四世紀末から十五世紀初頭にかけてふたたび守護所領観が台頭し、守護職世襲化、所領化が急速に進行してゆくのである。それはたしかに将軍権力が有力守護の圧力に屈した結果にはちがいない。しかし義満自身が守護補任状に「相伝に任せて補任するところなり」という文言をためらいもなく使用しはじめたとき、足利将軍家は『建武式目』に理念をみずから葬り去ったのだと言わざるをえまい。

 その意味で、明徳の乱がおきたころというのは、守護職の歴史にとってまさに転換期であった。山名一族が確保した十二カ国守護職のなかに所領的色彩の強い部分と吏務的色彩の強い部分とが混在していたのはそのような転換期の状況にいかにもふさわしいものといえようが、問題は吏務的色彩の強い畿内近国守護職を義満から与えられたが、総領の師義ではなく、その弟の義理と氏清であった点である。これは有力守護家の庶子を惣領と別個に取り立て、子飼い化(近習化)することによって、惣領への牽制をはかるという、義満・義持・義教三代に受け継がれてゆく守護抑制策の基調であり、山名氏も義満のこの周到な一族離間策にすでに感染していたのである。氏清とともに時熙・氏之討伐を義満から命じられた満幸も、『明徳記』が「御幼少の御時より御在京ありしに、一向御所様(義満)の御扶持をもって人と成らせ給ひぬ」と語るように、やはり幼少から将軍家近習としての洗脳をうけ、惣領への対抗心を燃やしながら人格形成していったのである。満幸が義満の「満」の字を名乗っていることも見逃せない。このように主人が実名の一字を従者に与えたものを偏諱というが、義満はこのような栄誉を与えることを通じて、しだいに有力守護家の庶子たちに将軍家直臣としてのプライドを植えつけていったのである。

 

P40

「一途」(ひとみち)

 

P44

 人々が地上で戦いをくりひろげているとき、天上では神々が同じように血を流しているとする神軍・神戦思想は、鎌倉後期、蒙古襲来時にもっとも明瞭なかたちであらわれ、ことに異国を相手にするとき、この思想は神国思想のほとんど中核部分を占めていた。そして蒙古襲来から一世紀以上を経たこの時期にも神軍・神戦思想がなお健在であったことを、『明徳記』は物語っている。

 なお、ここで注意しておきたいのは、神々に加護されているのが厳密には幕府ではなく、帝都であるということ、つまり神国的世界観はあくまでも天皇を中心に構成されていたということである。現実の天皇がいかに威勢を失っていようと、また将軍がいかに大きな実権を振るっていようと、この構成にはほとんど影響を与えることがない。皇位簒奪ということがおこりうるとすれば、それはたんに天皇にとってかわるというだけではことたりず、同時に神国的世界秩序に筆を入れ直すことが不可欠となる。けれども血と神話によって巧妙かつ壮大に練り上げられた天皇制のコスモロジーを突き崩し、再構築することがいかにむずかしく、また効率の悪い作業であることか。その効率の悪さが過去のあらゆる権力にその試みを断念させてきたのだといっても過言ではない。

 

P48

 一四〇二年(応永九)二月、了俊七十七歳のときの著作である『難太平記』は、『太平記』批判の書として著名であり、また足利家の血塗られた過去について貴重な証言を与えていることでもよく知られているが、本来これは『太平記』批判を目的として書かれたものではなく、むしろ了俊が今川家の歴史を子孫に伝えるために書いた家訓とでもいうべき性格の書物である。『難太平記』という書名も後人の命名であって、了俊自身がそう名づけたわけではない。この書にはたしかに『太平記』を批判する記述も相当含まれているけれども、そこに貫かれているのはむしろ、自分を九州探題解任に追い込んだ斯波・渋川両氏への憎しみと、恩を仇で返した甥今川泰範への恨み、そしてそれらすべての根源である義満の失政に対する批判である。この書はそのような政道批判の書として読んだほうがおもしろく、また実際にそう読まれるべきものである。

 

P49

「大すがた」(大姿?)=歴史の対局

 

P53

 室町時代の史料に鳩が登場したばあい、その多くは足利将軍の隠喩として語られているということを知っておく必要があろう。

 鳩が足利家の守護神であるとすれば、今川家のそれは赤鳥であった。

 

P62

 けれども十五世紀前半が中世史のなかでは数少ない政治的安定期であったという事実も見落とされてはならない。幕府がさまざまな紛争の火種を抱えながらも全面的な武力衝突を回避し、半世紀たらずとはいえ平和な時代を維持する音ができたのは、そこに高度の情勢判断と自己制御を不可欠の要素とする「政治」が生まれていたからである。

 

 

第二章 「神慮」による政治

P64

 義満がこのように上皇の待遇で迎えられるようになったのは、九三年(明徳四)の後円融上皇の死がきっかけだった。

 

P65

 伝奏とは鎌倉中期、後嵯峨院政期に院の役職として制度的に確立したもので、その後、親政期の天皇のもとにも置かれるようになった。伝奏は天皇・院への奏事や勅命の下達などを職務としていたが、その勅命の下達に彼らが用いていたのが伝奏奉書である。伝奏は当初の二名から漸次増員され、のちには神宮伝奏や南都伝奏など、特定寺社の事務を扱う寺社伝奏や、あるいは大嘗会伝奏、賀茂祭伝奏といった行事伝奏にも派生していったが、この伝奏には主に名家(めいけ)とよばれる実務派の中級貴族出身の公卿が登用された。室町時代の伝奏も、基本的には天皇・院の伝奏として伝奏奉書を発給しており、その点では鎌倉時代の伝奏と何らかわるところはない。後円融天皇三条公忠に京都の地を与えたときに使ったあの文書が伝奏奉書であったことをご記憶の読者も多いだろう。

 ところがその後円融天皇の死後、天皇や院ではなく、幕府の首長たる義満の意を奉じた伝奏奉書が出現してくるのである。当時、廷臣の多くが将軍家の家礼であったことはすでに触れたが、とくにその中心となったのが日野家万里小路家といった、鎌倉時代以来伝奏を輩出してきた名家の人々であった。つまり、伝奏をつとめていた者の多くは同時に将軍家の家礼でもあるという両属的な存在形態をとっていたのである。義満はこの関係を前提とし、さらに後円融上皇の死去にともなって獲得した後小松天皇にたいする「父権」にもとづいて、後小松天皇の伝奏をしてみずからの意を奉じた伝奏奉書を発給させるに至ったのである。

 将軍の意を奉じた幕府文書としては、管領の発給する管領奉書が以前から裁判の判決や幕命の下達などに使用されていたが、伝奏奉書が成立すると、幕府は相手によって管領奉書と伝奏奉書を使い分けるようになった。今日とくに多数の伝奏奉書が残されているのは大和関係のことがらである。大和は中世を通じて武家の守護が設置されず、興福寺が守護権を代行していた特殊な国であり、そのために幕府が大和に幕命を下すときには、公家である南都伝奏が将軍の意を奉じて発給する伝奏奉書が多用されたのである。

 

P66

 将軍家の意を奉じた伝奏奉書が成立したのちも、天皇・院の意を奉じた従来の伝奏奉書は発給されつづけている。けれども、どちらも史料上はたんに「御教書」「奉書」などとよばれていることが多く、文面や発給者もほとんど同じであることから、一見しただけではそれが天皇・院の意を奉じているのか、それとも将軍家の意を奉じているのかが判然としないケースも少なくない。そしてじつはこの点、すなわち公武いずれから出たか意思かが曖昧なまま、伝奏という同一のチャンネルを通過することによって、漠然とした「上意」が形成される構造こそが、室町時代における公武関係のあり方─公武が一体となって支配をおこなう権力構造─を象徴しているのではないかと思われるのである。伝奏の補任権も、形式上は天皇・院にあったとはいえ、現実には天皇・院と将軍家の協議によって決定されており、その意味で室町時代の伝奏は実質的に公武の共有物となっていたということができる。このような両属的な存在形態は公武交渉という機能によく適合しており、そのために義満以降はこの伝奏の一部が、それまで西園寺家世襲してきた関東申次武家執奏にかわって公武交渉の主たるにない手となってゆくのである。

 彼らは十五世紀なかば以降、「武家伝奏」ともよばれるようになったが、この時期にはたんに「伝奏」とよばれている。六代将軍義教の時代に実際に伝奏をつとめた経験のある万里小路時房が、伝奏のことを「公武申次」ともよび、またその職務を「公武の間、御定に随い御使を勤むるのみなり」と表現していることからすれば、彼ら自身はみずから事実上の「武家伝奏」と位置づけていたといえるが、構造的にみるならば、彼らがになっていた公武交渉とは朝廷対幕府という二つの権力間の外交というよりは、一つの権力体を共同で指揮する二人の首長間の合意形成といったほうが実態に近い。義満はこの革命的な権力構造の転換─公武の一体化─を、後円融上皇の死、後小松天皇の若さという朝廷権力の空白を突いて一気に実現したのである。

 

P77

 義持は武家政治の復活といった一貫した政策をもっていたというよりは、義満が残した莫大な遺産に適度な取捨選択を加えていたとみるべきだろう。昇進が内大臣どまりであったことについても、義満が准三宮・太政大臣までのぼりつめることでようやく築きえたものを、官職とは無関係に行為しうることを示したのだから、権力のあり方としては、むしろ義満時代よりも強化されたとさえ言えるのである。たしかに義満の死によって将軍家は後小松天皇に対する「父権」を失ったが、その影響は儀礼的な面にとどまった。義持は、そのような関係に依存しなくても強権を発動しうることをみごとに証明してみせたのである。

 

P78

 義持は義満が没すると義嗣を生母春日局の邸宅に追い出していったん北山亭に入ったが、翌年には北山亭の一部を破却して祖父義詮ゆかりの三条坊門万里小路の地に新亭を築き、ここに移った。これが義持時代の政庁三条坊門亭、通称下御所である(これにたいし、義満の築いた北小路室町亭を上御所とよんだ)。斯波義将(よしゆき)らの諸大名もあいついで北山から洛中に移り、義嗣もこの年の末に三条坊門亭のそばに移住させられた。この御所移転によって、義持は父義満時代の気分を一新しようとしたのである。なお、義持は三条坊門亭に住んだにもかかわらず「室町殿」とよばれた。「室町殿」はこれ以後、その居所にかかわりなく足利将軍家の当主を指す代名詞となってゆくのである。

 

P83

 富樫満成の殺害を命じられたのが畠山満家であったことにも注意する必要がある。将軍家はのちに奉公衆とよばれる独自の軍事力を整備してゆくが、義持のころにはその組織はまだ充実したものではなく、そのかわりに、たとえば一五年七月の義持日吉社山系の帯刀六十余人が畠山被官によって構成され、また一六年六月に義持がおこなった相国寺の武器検知にも畠山被官が動員されているように、義持は畠山氏の軍事力を事実上の将軍直轄軍として利用していたのである。畠山被官は三一年(永享三)四月の等持寺八講でも義教の警固衆をつとめているから、将軍家は少なくとも義教政権初期までは軍事力を畠山氏に大きく依存していたといえよう。

 

P85

 ところがこの称光天皇の行状が芳しくなかった。生来の武芸好きで日ごろから太刀や弓矢をもてあそび、近臣や女官らが意に背こうものなら、金の鞭で打擲したり、弓で射たりということを平気でする乱暴者であった。義持も使者を遣わして諌めたが、一向に聞き入れようとしないため、一六年六月、義持は禁裏小番制(廷臣が交代で禁裏に詰める制度)を強化して廷臣たちに終日天皇を監視させる体制をしいた。同年十二月に称光天皇が実名を躬仁から実仁に改名させられているのも、「身に弓あり」と書く「躬」の字が天皇の気性に悪影響を与えていると考えた義持の判断であった。

 

P86

 →崇光法皇の皇子でかつて後円融天皇との皇位を争った栄仁(よしひと)親王は、〜居所を転々とする。結局、栄仁がふたたび伏見にもどるのは義満死去の翌年、一四〇九年六月のことであった。けれども伏見には(火災のため)御所もなく、栄仁はやむなく宝厳院という尼寺を仮御所として生活をはじめた。

 

P88

 ところがその直後から貞成に治仁毒殺の嫌疑がかかった。あの不自然な死に方からすれば無理もないが、この事件の詳細を伝える史料が貞成の『看聞日記』しかなく、しかも一四二五年(応永三十二年)以前の記事はのちに貞成自身が全面改稿していることもあって、事件の真相は今日もなおベールに包まれている。

 

P93

 「始終の儀如何」=長居は無用。

 

P99

 義持が畠山満家の軍勢を事実上の将軍直轄軍として利用していたことは前に触れたが、大内盛見の軍勢も義持のいわば影の直轄軍として、在京守護および関東公方にたいする押さえの切り札としての役割をになっていたのである。

 

P104

 もともと日本には「兼参の輩」(けんざんのともがら)といって同時に複数の主人をもつことが許されるような主従関係のルーズさがあったが、そうしたルーズさは国境を越えて展開していたわけである。ここでも彼ら(朝鮮から官職をもらった日本人受職人)には、それが国家への背信行為にあたるといった意識はみじんもなかったであろうし、国家の側にもそれを問題視した形跡はまったくみられない。

 

 海禁政策をとっていた明が「人臣に外交なし」を原則として「日本国王」(将軍)による朝貢貿易しか認めなかったのにたいし、朝鮮は朝貢貿易(使送倭船・客倭)のほか民間貿易(興利倭船・商倭)も認め、大名や国人、商人たちにも広く貿易を許した。

 

P110

 明徳の乱の際にみられた神軍・神戦思想はまたしても(応永の外寇でも)健在であった。彼らにとっては遠国で流されている人間の血よりも、危なっかしい神々の目撃談のほうがはるかに大きなリアリティーをもって受けとめられていたのである。

 

P114

 一四二三年(応永三十)七月、義持は評定会議を招集した。招集された大名は管領畠山満家以下、細川満元・斯波義淳・山名時熙・赤松義則・一色義範・今川範政の七人で、大内盛見は病のため欠席だった。三管四職家(斯波・細川・畠山の三管領家と侍所の長官である所司を出せる山名・赤松・一色・京極の四職家。ただし京極家だけは評定会議に加わったことがない)に加え、大内盛見も出席予定者に数えられていた点は、義持政権における大内氏の地位の高さを物語る。また駿河守護である今川範政は関東問題にのみ招集される非常任メンバーであった。

 評定は管領畠山満家亭で開かれ、三宝満済と満家の弟畠山満慶(みつのり)が管領亭と義持との連絡役をつとめた。評定会議は通常議案提出権をもたず、将軍(大御所)の諮問に即して議論がなされたから、その意味では意見具申機関に近いが、このことについてはのちに詳しく述べる。

 

P115

 評定会議は有力守護の政治参加を保障し、将軍権力の先制化を抑止する機能をはたしたと考えられているが、ここでは、その機能を強く求めているのがむしろ将軍権力の側であることに注意しなければならない。幕府の決定は幕閣たちの全会一致を原則とした。

 

P117

 (八幡神人の嗷訴)それがとくに義持の時代に高揚したのは、義持の石清水崇敬が神人たちのあいだにも知れわたっていたからにほかならない。義持の敬神につけこんで一度の何十カ条もの無理な訴訟を押し通そうとする神人たちの行動は、けっして同時代人の共感を得るものではなかった。そしてこのような神人たちへの反感が、やがて嗷訴という訴訟形式そのものを葬り去ってゆくのである。

 

P118

 「無為の儀」=穏便な措置。

 

P122

 「正体あるべからず」=意味がない。

 

 

第三章 「無為」と「外聞

P133

 ただ、満済が提案した折衷案(所領返付法)にしても、それが広く知れわたればかならずや混乱がおこる。それを懸念した管領畠山満家の意見で、この所領返付法は隠密の法(司法当局のみが知る非公開の法)として施行されることになった。中世には法が人びとに周知されないまま施行されることがけっしてめずらしくなかったのである。

 

内奏と外様

 まずこの時代の訴訟には近習などのつてを頼って将軍に訴える方法と、外様の訴訟によって慣例に訴える方法とがあった。前者を内奏(ないそう)というが、これは要するにコネを使った非公式の訴訟ルートであり、近習のほか、女房や幕閣など、幕府の有力者にコネのある者はみなこのルートを使った。そのほうがはるかに有利に、また迅速に裁許が得られたからである。一方、外様(とざま)とは表向き・表沙汰の意であり、要するに通常の訴訟ルートのことである。コネのない者は必然的にこのルートをとらざるをえないわけだが、(万里小路)豊房のいうように、このルートは裁許までにかなりの時間を要し、ばあいによっては何年間も放置されることもあった。つまり、公正な入学試験とともに裏口入学もなかば制度化されており、しかも裏口入学のほうがはるかに優遇されていたというのが当時の裁判なのである。

 訴訟の実質的な審理にあたったのは奉行人とよばれた法曹官僚たちである。訴訟が起こされると、まず当該訴訟についての担当奉行が指名されるが、この手続きを賦とよんだ。内奏を使えば、賦は将軍によっておこなわれ、担当奉行が決定されたのちもたえず将軍の目が光っているので、審理も迅速に進められた。豊房が義教に「どうか奉行人を指名してください」と述べているのはまさしく将軍の賦を求めているのである。一方、外様の訴訟のばあい、賦は一般に管領の被官である賦奉行のもとでおこなわれた。外様のルートを使う者の多くはコネのない弱者であったから、賦の時点でまず待たされ、担当奉行が決まったのちもその奉行が熱心に動いてくれる保証もなかった。だから中世の訴訟には必然的に賄賂がつきまとう。中世においてコネもカネもない者が訴訟をおこすのは至難の業であった。豊房の直訴は、そのような境界におかれていたものがとったやむにやまれぬ選択だったのである。

 

「諸人愁訴を含まざる様に」

 義教が評定衆引付頭人を再設したいと言い出したのは、万里小路豊房の直訴から七日後のことであった。義教はその理由を「御沙汰を正直に諸人愁訴を含まざる様に御沙汰ありたき事なり」(人びとが愁いを残さぬような公正な裁判をおこないたい)と語っている。(中略)

 

P135

 評定衆引付頭人(引付方)は鎌倉幕府以来、裁判制度の根幹をになってきた機関だが、義満のころにその機能を停止し、その後は家格に名をとどめるだけになっていた。義教はその評定衆引付頭人を実体のある裁判機関として復活しようと考えたのであろう。結局このプラン自体は実現しなかったものの(ただしのちにみる意見制の導入がこのプランにあたるとみる余地はある)、義教は奉行人の服務規定に関して次々と立法をおこなっており、司法改革、とりわけ外様訴訟の公正化・迅速化は義教政権の継続的な課題となった。

 

 

P136

 (奉行人飯尾為種(いのおためたね)が『新続古今和歌集』に入選した)ことについて、義教は「為種、奉行人として毎事雑訴のごとき取り乱るる者なり。何(いず)れの暇をもって詠歌すべけんや」と激怒したという。義教にとって、奉行人とは訴訟の処理に専従していればよい存在であり、文芸にうつつをぬかしている暇などあってはならなかったのである。将軍家の和歌会や連歌会に招かれる諸大名や近習たちとはちがって、奉行人にはいわゆる武士のたしなみなどというものは必要ない。義教が養成しようとしたのは、そのような専門的技能者に徹しうるストイックな官僚たちだったのである。

 

『御前落居記録』

 義教時代における裁判の実態を伝えるものに『御前落居記録』とよばれる資料がある。これは一四三〇年(永享二)九月から三二年十二月までの計七十二件の訴訟について、訴人(原告)・論人(被告)双方の主張、審理の過程、義教の裁許(判決)を事細かに記録したもので、一件ごとに筆跡が異なることから、各件の担当奉行が訴訟のつど作成した幕府の公式な裁判記録であることがわかっている。また三一年十二月までの四十六件についてはそれぞれの袖(右端)の部分に義教の花押がすえられており、義教の積極的な関与をうかがわせる。ただ、その花押がなぜ途中で消えてしまうのか、またこのような記録がなぜ義教政権期のうち、とくにこの期間にかぎって存在しているのかなど、未解明の問題も多い。義教の花押が消滅する時期については、同月に義教が下御所(三条坊門亭)から上御所(室町亭)に移住していることとの関連性が指摘されており、また『御前落居記録』が残されている期間については、それが退嬰的な管領として知られた斯波義淳の在任機関とほぼ重なる事実が注目されているが、それ以上のことはまだよくわかっていない。

 義教時代の裁判はたしかに将軍親裁の色彩が強く、従来訴訟を指揮してきた管領の影が薄い。そのため、そこに管領抑制策としての意図を読み取ろうとする見解もあるが、義教時代においても、外様訴訟の賦は依然として管領のもとでおこなわれているし、審理の過程でも奉行人たちは管領と密に連携をとりながら動いていたことが知られており、とくに管領が排除されていた様子はない。義教が裁判に熱心に取り組んだことは事実だが、それは、管領抑制策というよりはむしろ、「諸人愁訴を含まざる様に」との純粋な意欲に発していたと考えたほうがよい。

 

P138

 管領は、裁許状(判決)の発給にも深くかかわっていた。裁許状には、内容の軽重や相手の身分に応じて、御内書・御判御教書・管領奉書・奉行人奉書等の文書が使い分けられていた。所有権の移転をともなうような重事には御判御教書が、堺相論(所領の境界をめぐる訴訟)のような軽事には管領奉書が、さらに年貢未進のような動産訴訟の類には奉行人奉書が使われた。また通常なら御判御教書を用いるべきケースでも、相手が摂関家のような上級貴族のばあいには御内書(将軍の書状)が用いられた。

 これらのうちもっとも格式の高い文書は、将軍自身が花押を据える御内書と御判御教書だが、これらも単独で機能しえたわけではなく、管領と守護の副状がなければ無効とされた。管領の副状を施行状(しぎょうじょう)、守護の副状を遵行状とよんだが、『御前落居記録』にはしばしば「未施行」「未遵行」などの言葉が出てくる。管領施行状と守護遵行状とを兼備していなければ、たとえ御内書や御判御教書を所持していても法的な効力は認められず、その状態を「未施行」「未遵行」などとよんだのである。このシステムは将軍の恣意を制限し、将軍権力の先制化を防止する効果をもたらした。このシステムがなければ、あの後小松上皇院宣濫発と同様の事態を招いていたことはまちがいないだろう。室町幕府は有力守護の連合政権であるとの評価はこのようなところからも出てくるのである。

 けれども遵行システムは、勝訴者たち、とりわけ寺社本所にとってはジレンマ以外の何物でもなかった。というのも、主語こそが彼らの所領を押領していた最大勢力であるにもかかわらず、その当事者が判決の執行にかかわっているのである。幕府から勝訴判決を受けながら、守護から遵行状を出してもらえずに四苦八苦する寺社本所の姿を、私たちは当時の史料のなかにいくらでも見出すことができる。寺社本所が遵行状のことをしばしば「去(避)状」(さりじょう)(権利を放棄することを示す文書)とよんでいるのは、遵行状の本質をじつによく突いているといえよう。

 

 

P140

「意見」の成立

 ところで義教時代の裁判を特徴づけているものに「意見」という手続きがある。『御前落居記録』には義教が諸人に意見を求めている例が多数見られるが、その中心的機能をになっていたのが、評定衆と奉行人である。評定衆とは鎌倉幕府以来の伝統的な高級官僚の家柄である摂津・波多野・二階堂・町野の諸氏をさすが、前述のようにこの時期には評定衆は形骸化しており、司法業務も奉行人層の手に移っていたから、彼らが法や裁判にかかわる機会は少なくなっていた。けれども、義教は彼らが家業として蓄積してきた幕府法の知識に期待し、判断に窮したときには彼らに意見を求めたのである。一方で、奉行人は別名右筆ともいい、家格は評定衆より低かったが、評定衆と同様、飯尾・清(しょう)・斎藤・松田・布施・諏訪など、鎌倉幕府以来の法曹官僚の家々から任用された・義教は、とくに判断のむずかしい問題のばあい評定衆のみならず、奉行人たちにも意見を求めたのである。

 義教は評定衆や奉行人以外にも、貴族どうしの訴訟であれば伝奏の、職人同士の訴訟であれば公方大工の、僧侶どうしの訴訟であれば諸門跡の、神主どうしの訴訟であれば神宮祭主らの意見を聞くといった具合に、訴訟の内容に応じてじつにさまざまな人びとから意見を徴している。義教が、誤った裁許を下さぬように石橋を叩いて渡るような慎重さでこれらの裁判に臨んでいたことは明らかである。そしてこのような緊張感に満ちた義教の姿勢が、意見制を生み出す背景となったのである。

 私は、義教のこうした姿勢の背後には、やはり籤引きで将軍に選ばれたプレッシャーが大きく横たわっていただろうと思う。義教を選んだ神慮に誤りがなかったことを是が非でも証明しなければならないという、なかば焦りにも似た使命感が義教の心を強く駆り立てていたのである。義教が「外聞」に異常なほどのこだわりをみせたのもこのことと無関係ではあるまい。

 

 →「意見」は今で言うところの、公聴会のような機能を果たしているか。

 

P141

 (奉公の実績や)このような口入が裁判の公正さを乱す元凶であることは義教も十分に認識していたはずである。にもかかわらず義教がこのような不透明な裁許を下した理由は、敗訴者の大館満信(おおだちみつのぶ)・松梅院がいずれも裁判当時、失脚中だったことにあった。

 『御前落居記録』の訴人たちは失脚者を待っている。そして失脚者が出れば、その所領に群がるのである。そうすれば義教が、どのような屁理屈をこねてでも失脚者を敗訴に追いこむことを彼らはよく知っていたのだ。

 

P142

 じつは『御前落居記録』が収める七十二件の訴訟中、論人(被告)勝訴の判決はわずか四件ほどしかなく、他は、勝敗のはっきりしない若干の事件をのぞいて、ほとんどが訴人(原告)勝訴なのである。この訴人有利の傾向は、公正な理非判断からはけっして導かれるものではない。

 ここで想起されるのは、二代将軍義詮のころにおこなわれていた特別訴訟手続きである。これは寺社本所から押領排除の訴えがあったばあい、理非判断を省いてまずは訴人勝訴の判決を下すと言う措置で、押領者=論人側に言い分があれば、彼らはあらためて出訴しなければならなかった。これは南北朝の動乱下、武士の寺社本所領押領をめぐる訴訟が急増するなかでとられた特別措置であって、義教の時代とはもちろん社会状況は大きく異なっていた。それに義教は理非判断を省いていたわけではないから、両者をまったく同一視するわけにはいかない。だが裁判の迅速化をはかろうとすれば、それらはおのずから特別訴訟手続き的な性格を帯びざるをえないのではあるまいか。義教にとって裁判の迅速化は、公正さを犠牲にしてでも優先しなければならない喫緊事だったのである。

 

P143

神訴から理訴へ

 右の事例についてもうひとつ見逃せないのは、妙華庵が岡のことを「八幡神人に罷り成り、神事の時を得て御教書を申し請く」と批判している点である。「神事」とは八月十五日の石清水放生会をさしている。前述のように、石清水放生会をねらって神訴(嗷訴)をおこすのは当時の八幡神人の常套戦術であったが、妙華庵の批判によれば、岡も神訴によって「御教書」(管領奉書)を手に入れたというのだ。

 ただ義持時代から深まっていた神訴への嫌悪は、たしかに義教において頂点に達する。『御前落居記録』には八幡神人にかかわる訴訟がほかにもみられるが、神訴によって彼らが手に入れた裁許状は概してその効力を否定される傾向にあった。妙華庵がそのような傾向をいち早く看取し、一定の効果を狙ってこの批判を盛り込んだ可能性は小さくないだろう。

 この三年後、山門延暦寺が「およそ山門の訴訟は非をもって理となす」という伝統をたてに神訴をおこしたとき、義教は「神訴ならばどんな不当な要求でものまねばならないというのか」と悔しがった。この神訴はやがて義教時代最大の仏教弾圧となる永享の山門騒乱へとつながってゆく。神訴の特権性を否定し、理訴の下に屈服させることは中世の俗権力が長年いだいてきた宿願ともいえるものだが、義教はそれをもっとも悲劇的なかたちで実現させたのである。

 

 →これが神訴の減少する理由。八幡神人の自害事件が減少するのも同じこと。命懸けで守ろうとした(得ようとした)神人としての特権などが、神訴によって得られない以上、自害してまで放生会を妨害するメリットはない。その後、神人たちはどのように対応していったのか。結局、何もできず、保持している権益を通常の訴訟や権力者とのネットワーク、あるいは武家への両属などを通して守る方向へとシフトしたのか。

 

P144

 義教が力を注いだ司法改革にもかかわらず、外様訴訟の判決は内奏によって容易に覆ってしまったのである。

 守護や守護の有力被官にかかわる訴訟は、失脚などよほどの事情がないかぎり、当初からもっぱら内奏が用いられた考えるべきだろう。強大な守護勢力に外様の訴訟で立ち向かうことなどほとんど不可能に近かったのである。当時、外様の訴訟は「雑訴」「雑務」などとよばれていたが、外様の訴訟にたいする幕府の評価とは所詮その程度のものにすぎなかったのかもしれぬ。

 

P149

 当時、守護被官や国人たちの以降を「国の時宜」「国様」とよんだが、義教は守護家の家督争いがおこると「国の時宜」を丹念に調査させた。なにしろ将軍が指名する守護は強力でなければならない。守護が弱体で分国支配もままならぬようでは、彼を守護に指名した将軍の判断ミスが問われるからだ。強力な守護を創出することは地域の平和と安定にも不可欠であったから、この点では満家が重視した「無為」の政治とも合致した。そして強力な守護とは、守護被官や国人たちから多くの支持を集めている者にほかならない。家臣の支持が主君を決定するという新しい家督相続の論理がこの時代に進出してきたのも、このような前期義教政権の方針と無関係ではなかろう。

 

大名取次制

 地方の武家の文書を読んでいると、そのなかに管領でも守護でもない幕閣の書状が含まれていることがある。このような書状をみると、ついつい私信と考えてしまいがちだが、その書状が将軍の命によって書かれ、その文面も将軍によって入念にチェックされていたとしたら、もはやこれを私信とよぶことはできまい。このようなケースに出会ったら、私たちはその幕閣が同家の取次・申次をつとめていた可能性をまず考えてみる必要がある。

 当時、将軍と地方の守護・国人とを取り次ぐ役割をはたした幕閣を取次とか申次とよんだ。申次といえば、将軍の窓口役をつとめた近習の申次がすぐに思い浮かぶが、ここでいう申次は、有力守護がこれをつとめている点、また地方を主な対象としている点で近習の申次とは性格を異にする。以下、近習の申次と区別するために、これを取次とよぶことにしよう。

 取次の実例をいくつかあげると、篠川御所足利満直や、伊達・蘆名以下の南陸奥国人たちはみな細川氏を取次としており、細川持之も「佐々河(篠川)殿へ仰せ出さるる事、毎度取りつぎ申し入れ候。また佐々河より申し入れらるる事も同前に候…」と語るように、幕府が彼らに命令を下すときや、逆に彼らが幕府に上申するときにはかならず細川氏が仲介をつとめた。同様に、肥後菊池氏や伊勢の長野氏は畠山満家を、駿河の今川氏や信濃の大文字一揆は山名時熙を、薩摩島津氏や伊勢国司北畠氏は赤松満祐を、下野宇都宮氏や周防大内盛見、伊勢守護土岐持頼は三宝満済おそれぞれの取次としていた。

 取次は地域単位に設定されているケースもあり、細川氏と南陸奥の関係もその一例だが、そのほかにも畠山満家が越後・信濃の、山名時熙が駿河の、満済が南都の取次をつとめている。

 

P151

 取次は親から子へ、兄から弟へ相続されうるものだったのである。

 もちろん、その一方で取次が交代しているケースも少なくない。(中略)

 取次となる幕閣とその対象の守護・国人とは古くから親交のあったケースが少なくない。

 

P152

 取次は、将軍と地方の守護・国人との交渉・意思伝達をになったが、具体的には御内書や管領奉書に副状を付けたり、あるいは使者を派遣して幕命の趣旨を補足説明するなど、交渉を円滑に進めるための潤滑油としての役割をはたした。用件によっては将軍がみずから御内書を出すのが憚られるようなデリケートな問題もあり、あるいは将軍は表向き知らないふりをしていたほうが都合の良いケースもある。そのようなときには取次の私状が御内書の機能を代行することになるのだが、とくに文章に神経質だった義教は、取次の私状にもこまめに目を通しており、気に入らなければ何度でも添削を加えた。このようにして作成された書状を私信と位置づけるわけにはいくまい。それはれっきとした幕府文書なのである。

 一方、地方の守護・国人にたいしては、彼らの訴訟や要望を将軍に取り次いだり、あるいは将軍への返事の書き方や進物の贈り方を指南するなど、細事にわたって面倒をみた。そこには当然のことながら一種の癒着が生じることにもなり、取次は地方の守護・国人たちの中央における代弁者となったのである。

 

P153

 足利義持は、一四一八年(応永二十五)十月に一色義範を山城守護に補任したとき、同時に「当国の事等、内々申し次ぐべし」と満済を山城取次に任じた。(中略)訴訟の世界に外様と内奏があったように、政治の世界にも外様と内々の二つのルートが存在した。守護がその国の表(外様)の支配者であったとすれば、取次は裏(内々)の支配者である。同じく満済が取次をつとめた南都についても、外様の交渉ルートとして南都伝奏や南都奉行が置かれてはいたが、南都取次はあくまでも「内々」に徹しつつ、しかし南都伝奏や南都奉行でははたしきれない交渉の機微をになったのである。

 取次の機能とは、一言でいえば根まわしである。取次制とは、ひところ問題となった国会にたいする国対政治のようなもので、明文化されることはけっしてないのだけれども、本当のことはそこで決まっているような、制度ならざる制度なのである。日本的な根まわし政治の源流はまさに室町時代にあったといえよう。ともかく室町幕府の全国支配は、同心円構造の内円(近国)にたいしては幕閣たちが直接支配をおこない、彼らが守護職保有していない外円(遠国)の諸国にたいしては取次というシステムを介して、求心性を確保していたのである。

 

P154

「大名意見制

 ただ、取次は一種のロビイストであって、政策決定者ではない。幕府の政策・方針がどこでどのように決定されていたかは別の問題である。前に義持時代の政策決定の場として評定会議のことを紹介したが、義教時代になると、幕閣たちが一堂に会して話し合うような狭義の評定会議はあまり開かれなくなり、在宅諮問が一般化する。室町幕府の政策は合議制によって決定されていたというのは義教政権に関するかぎり正確でなく、むしろ大名意見制とでもよんだほうが実態にあっている。

 構造としては訴訟の世界に登場した評定衆や奉行人の意見とほぼ同じ仕組みだが、評定衆や奉行人の意見のばあい、彼らの内談がおこなわれ、意見状も連署形式をとったのにたいし、大名意見制のばあいには大名どうしのヨコの協議はおこなわれず、意見状もめいめいに提出されていたから、個別分散性が強かったといえる。ただし大名の意見状は、同時期の評定衆や奉行人の意見状とちがって将軍に対する強い拘束力をもっていた。というのも、幕府の意思決定は幕閣の全会一致を原則としていたからである。

 大名意見制においては、将軍がまず「…したいと思うがみんなはどう思うか」と原案を提示し、それについて大名たちの意見が求められる。大名側に議案提出権がなかったのは義持時代の評定会議と同様である。将軍の原案にたいし、大名たちすべてが賛成であれば原案は通過し、逆に全てが反対であれば原案は撤回される。一方、賛成意見、反対意見が相半ばするばあいには、将軍は反対意見を述べた者だけに再諮問をおこなう。そしてなぜ反対なのか、詳しい説明を求めるのである。その過程で「御意にしたがいます」と折れる者も多いが、畠山満家のような一徹者になるとなかなか折れないので、全会一致に至るまでにかなりの時間を要することもあったし、どうしても賛成が得られないばあいには将軍が原案に修正を加えることもあった。

 評定会議のばあいには大名たちが意見を取りまとめ、全会一致を満たしてから将軍に上申されるが、大名意見制のばあいには全会一致をみる前のばらばらの意見がそのまま将軍に上申されるので、全会一致を満たすのは将軍側の仕事になる。ここでは将軍自身が反対者を説得し、賛成へと誘導してゆく。大名のヨコの連絡を絶ったうえで個々に攻め落としてゆく戦法は将軍先制化の有効な手段であり、この点で義教は義持よりも専制君主であったといえるが、そのかわり将軍自身が背負いこむ仕事量は膨大化する。義教のような強烈な政治的意欲をもった将軍でなければ、とうてい堪えうるものではなかった。

 

P155

 大名意見制に参加しえたのは、義教政権初期の顔ぶれでいうと、斯波義淳・細川持元畠山満家・山名時熙・赤松満祐・一色義貫・細川満久・畠山満慶の最大八名である。三管領家と、四職家のうち京極家をのぞいた三家、それに三管領家庶子から二名という構成だが、本書でいう幕閣とはおおむねこの範囲の大名たちをさしている。

 ただしこのうちの畠山満家と山名時熙の二人は宿老とよばれ、他の六名とは別格の扱いをうけていた。義教が大名に意見を求める際にも、まず畠山・山名の二名、もしくはこれに管領を加えた三名に意見を求め、その後さらに必要があれば他の大名の意見を求めるという二段階構成をとっていた。急を要するばあいや宿老の意見だけで十分と判断されたばあいには、他の大名たちにはかならずしも意見が求められなかったのである。そして、どのようなばあいにどの範囲の大名に意見を求めたらよいかを「内々」に差配していたのが三宝満済である。つねに「内々」に動いていた彼の立場を幕制上に位置づけることはなかなかむずかしいが、その影響力からいえばまさに最高政治顧問という名にあたいする存在であった。

 

P156

 それにしても全会一致原則といい、時間がかかることといい、室町幕府の意思決定方法は、宮本常一が『忘れられた日本人』に描いた村の寄合と何と似ていることか。おそらく中世惣村の寄合も同様の方法をとっていたと思われるが、室町幕府もまた、中世に存在したさまざまな社会集団のひとつとして、それらと共通の原理に規定されていたいのである。

 そもそも中世の人びとは、死票が出ること、つまり自分の意見が却下されることを大きな不名誉と考えていたから、彼らの意思決定方法もおのずから全員の意見を掬い上げるという体裁をとらざるをえなかった。そしてこの方法が採用されているかぎり、白黒はっきりした結論が出ることは少なく、だいたい中間の灰色ぐらいのところで折り合いがつくのが常であった。そのような社会では急激な変革がおこることは少ないから、全会一致原則は保守的、伝統回帰的な社会によく適合した意思決定方法であり、またそのような社会を維持・再生産してゆく機能を果たしていたといえるのである。その点で、南北朝時代国人一揆が採用していた多数決制は、大量の死票をともなう点で歴史的にきわめて得意な位置を占めているが、これはやはり、迅速な決断を迫られることの多かった、動乱期の特殊事象が生み出したものであろう。

 

 →階層の限定があるのかないのかわからないが、意見の却下が恥となるという事実は大事。曖昧な決定は変化の少ない保守的な社会となり、しかもそれが再生産されてゆく。以前、「中世は身分差別や序列の厳しい社会(基準の厳格な社会)」(自殺の中世史3─16)と推測したが、それは全会一致主義による保守的・伝統回帰的社会だったからということになる。

 

P157

 ところで地方との交渉が取次をつとめる幕閣たちによって分担され、政策決定においても宿老が重用されたとなると、管領に就任することの意義はおのずから低下する。それほどうまみがないうえに、さまざまな公式行事に駆り出されて多大の出費を余儀なくされ、煩瑣で実り少ない外様訴訟の業務まで背負わされるとなれば、管領就任を忌避する動きが出てくるのも当然だろう。畠山満家にしても、斯波義淳にしても、このころの管領はいつもやめることばかり考えていた。二人が口を揃えて指摘するのは、管領の経済的負担の重さである。とくに斯波義淳は在京の負担にさえ堪えられず下国未遂事件をおこすほどの窮乏ぶりであったから、管領に就任するときにも散々駄々をこねて義教をてこずらせた。

 

P158

 義満が公家社会にデビューし、公武権力の一体化を確立して以来、将軍はもはや武士の味方ではなくなったのである。寺社本所領保護政策はこの権力構造に拠って立つ将軍権力が宿命的に背負い込んだ使命であり、将軍権力はこのためにやがて守護勢力の支持を失うことになる。

 

P159

 もちろん政治・軍事問題でも(大名たちの意見に対して)将軍が拒否権を発動しようとした例は少なくない。しかしそのようなときには大名側も一種の実力行使に出る。前にみた一色義貫の供奉ボイコット事件で、義教に処罰を断念させたのが諸大名一同による嘆願であったことをご記憶だろうか。このような大名の総意にもとづく意見・嘆願・抗議を「一同の儀」とよんだが、それは別の言い方をすれば、将軍にたいする大名たちの一騎である。その作法は、一般には連絡役の大名が将軍亭に赴いて大名の総意を伝えるという、通常の評定会議と同様のスタイルをとったが、とくに自体が深刻なばあいには、諸大名がみずから御所に参列した。

 私はこの列参という行為は、諸大名の軍勢が将軍御所を取り囲む、いわゆる「御所巻き」の疑似行為だろうと思う。つまり諸大名の列参は将軍に突きつけられた刃そのものなのだ。将軍への意見具申機関である、その評定会議がいつでも謀議の席に一変するという緊張感、評定会議のもつこの自立性こそが将軍権力の先制化を食いとめる防波堤となっていたのである。

 

P163

将軍直轄軍、奉公衆

 (畠山)満家の反抗と死は将軍の軍事力編成にも変化をもたらした。義教は軍事力を畠山氏に依存してきた義持以来の構造を見直す必要に迫られ、その結果、奉公衆(番衆・小番衆)とよばれた将軍直轄軍の整備を進めるのである。将軍家の直臣には、上級の直臣として将軍の申次などをつとめる狭義の近習(御供衆)がおり、その下に武官である奉公衆と文官である奉行人とがいた。義教は司法改革の一環として奉行人を重用する一方、軍事力増強の必要から奉公衆の充実にも力を注いだのである。奉公衆は五番に分けられ、各番五十〜百人、総勢三百五十〜四百人を擁した。さらに各奉公衆はそれぞれ数十人規模の若党・中間をしたがえていたから、これだけで五千から一万程度の軍勢となる。また、各番はそれぞれ近習身分の番頭によって指揮され、所属する番は世襲的に決まっていたから、同じ番に属する奉公衆は強い連隊意識で結ばれていた。その連隊意識を背景に彼らはやがて幕府内にひとつの勢力を築いてゆくことになる。

 

P164

 在京の奉公衆は御所の警固や将軍出行時の随兵などを日常的な任務としていたが、奉公衆のなかには在国の者も少なくなかった。彼らは地方に所在する将軍家御料所の代官をつとめたほか、地方における将軍権力の拠点として守護を軍事的に牽制する役割もになっていたのである。奉公衆は守護の庶子家や足利市の根本被官、有力国人などからなり、そのうちとくに有力な者は近習にのぼった。

 

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永享の山門騒乱

 事件は一四三三年(永享五)七月に山門延暦寺が光聚院猷秀の不正を訴えておこした嗷訴にはじまる。猷秀は手広く金融業を営んでいた山徒(延暦寺の下級僧侶)で、かつて義持の寵愛をうけて権勢を誇っていた北野松梅院禅能の所領を借銭のかたに手に入れたほか、同じ山徒のあいだにも多額の貸付をおこなって彼らの恨みを買っていた。(中略)

 嗷訴に激しい嫌悪感を抱いていた義教は、当初山門の要求に強い抵抗をみせていたが、諸大名の熱心なとりなしで、嗷訴の首謀者を断罪することを条件に猷秀と飯尾為種流罪を認めた(もっとも流罪とは名ばかりで、義教はほとぼりの冷めるまで二人に身を隠すよう指示したにすぎないのだが)。

 

 →ほとぼりを冷ます流罪もある。ということは、身を隠す場所さえ確保できれば、流罪に処されても、逐電しても生きていけるということ。このあたり、自殺の関連で意識しておくべき。

 

P166

 このように幕府や守護が村の軍事力を本格的に動員しはじめたことは、永享の山門騒乱においてとくに注目される点である。正長の徳政一揆で民衆がみせたエネルギーを逆用すれば、それが有効な軍事力になりうることを、彼らは直感的にみてとったのである。村の軍事力をいかに味方に引き入れるかが、これ以後、支配階級にとって大きな関心事になってゆく。

 

P171

 有力守護を滅ぼし、近習を新たな守護に取り立てていこうとする義教の意図が白日のもとにさらされた事件(一色義貫・土岐持頼の謀殺)であった。

 

P175

 一方、ここに出てくる「家に拝領」「家に付けらるべき」などの表現から、この当時、家産観念、すなわち個人ではなく、家に付随する財産という考え方がすでにめばえていたことがわかる。この観念は明らかに嫡子単独相続の定着とともに発生してきたものだが、ここでの家は家産を管理する企業体としての性格をもち、家臣たちも惣領という人に仕える存在から、家という企業体に仕える存在へと性格を変化させる。ここでは先祖から受け継いだ家産を目減りさせることなく子孫に伝えてゆくことが送料の最大の義務となる。それにしくじれば彼は凡庸な惣領と評価され、家臣たちの支持を失ってしまうのである。満祐が一介の土地にこれほどまでの執着をみせたのはそのためであった。

 

P177

 これら一連の行動からわかるように、後花園天皇は明らかに幼少の将軍家家督にかわって幕府を指揮していた。足利義満が推し進めた公武の一体化は、かつて将軍家による朝廷支配を実現させたが、その同じ構造が当初は予想だにしなかったであろう天皇による幕府支配というまったく逆の事態を出現させたのである。公武の一体化という構造がもつこの可逆性を人びとはこのときはじめて眼前にしたのであった。

 

 

第四章 徳政一揆

P181

 ところで、このような「もののもどり」現象が起こる重要な契機となったのが将軍の代替りである。将軍の代始にあわせて徳政一揆がおこるというのも同じ理由だが、これは中世の人びとがもっていた特殊な時間観念と関わっていた。すなわち彼らは、新たな将軍(あるいは天皇)の代がはじまると、前将軍の時代に形成された諸関係が精算されると考えていた。彼らは将軍の治世を時間の大きな区切り、ひとつの完結した時間と認識していたのである。将軍の交代にあたって前将軍の発給した安堵状を更新する代始安堵の手続きが必要とされたのもそのためであるし、訴訟が将軍の代始に集中する傾向がみられたのも、将軍の交代によって前将軍の下したさいきょが覆る可能性がきわめて高かったためである。

 

P182

 荘園が複雑に入り組んだ京都近郊では、しばしば複数の村々が領主の支配領域をこえて連合したクミ郷とよばれる横断的な組織形態がみられた。京都東郊の山科七郷はそれぞれの領主の異なる七つの本郷と九つの枝郷よりなるクミ郷(惣郷)を形成し、春秋二回の定期的な寄合と、非常時には臨時の「野寄合」を開くなどして連帯性を強めていた。

 

P187

 このようないくさの作法は、村民のうち、とくに殿原とよばれた侍身分の者たちが幕府や守護による軍事動員のなかで習得し、村々に持ち帰ってきたモノだろうと私は想像する。

 

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 ともかく荘官・殿原層にとって、このような幕府や守護からの軍役賦課は恰好の軍事教練の場となったにちがいない。村どうしの合戦ともなれば、彼らは指揮官として村民を統率する立場に立ったが、その際にもこの経験が大いに生かされたことだろう。

 

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 けれども村の資金がいつでも村役によってただちに調達しえたわけではない。飢饉であるとか、あるいは菅浦が背負いこんだような莫大な戦費ともなれば、いくら厳しい共同体規制が存在していようとも、村民から一時に徴収するのは困難である。そのようなばあい、菅浦が実際にそうしたように、村は当座の資金を諸方からの借り入れに頼ることになるが、このような村の債務を惣借(そうがり)といった。主な借り入れ先の中には荘園領主や代官も含まれていたが、荘園領主や代官からの借銭というのは実は年貢の未進が姿を変えたものであるケースが多い。このころ年貢の未進は債務として処理され、利息を生じたので、年貢の未進を続ければそれだけで荘園領主や代官にたいする債務は膨らんだのである。しれが個々の村民の債務とならず、村の債務となったのは、惣村のもとでは一般に年貢・公事の納入を村が一括して請け負う村請制が取られていたためだが、もちろん個人の債務が消えるわけではなく、彼らは村という、より身近な権力から催促をうけることになる。

 

P194

 祭りの加熱ぶりと一揆の心性とはかけ離れているようにみえて、じつはきわめて似通った性質をもっている。集団化した人間、非日常的な状態に置かれた人間というものは、個人の日常からはおよそ想像できないような残虐性をあらわにするものである。歴史に残る大量残虐の多くが、一部の狂信者によってではなく、ごく平凡な市民によっておこなわれている事実を想起すべきだろう。徳政一揆があれほどの拡大をみせた原因を説明する際にも、村落への高利貸資本の浸透ということももちろんだが、やはりこのような群集心理の作用というものを考慮しないわけにはいかないのである。

 

P200

 そして、このような観念を背景に荘園の代官職もなかば商品化し、一種の代官職相場が立つようになる。厳密にいうと、代官請負には、毎年の豊凶によって年貢額が変動する「所在所務」と、毎年の豊凶にかかわりなく一定の年貢額を納めつづける「請切」という二つの契約方法があったが、より投機性の高い後者の「請切」額があたかも為替相場や商品相場のように政治情勢や気象、その他風説のたぐいによっても激しく変動したのである。

 

P202

 荘園領主たちの窮乏の原因が武士による荘園・所領の侵略にあったことは動かしようのない事実である。しかし彼らはこのような事態をただ拱手してみていたわけではないし、さらにいえば、武士の荘園侵略といわれるものが往々にして荘園領主層の扇動によってなされていた事実も見逃すわけにはいかない。武士から所領を取り戻すことがむずしいとなれば、荘園領主たちに残された最後の手段は他の荘園領主から所領を奪うことである。こうしてこの時代には荘園領主うしの生存競争がにわかに激化するが、その際、毒をもって毒を制すといわんばかりに彼らは武士の力を巧みに利用したのである。

 伏見宮貞成親王は細川満重の被官富田中務丞を利用して、当知行者を排除した。万里小路時房は守護請の未進分(不良債権)を将軍に譲渡して、回収させた。

 

P204

 ここで満済は二重の裏切りを犯した。ひとつは荘民を欺いたこと、もうひとつは守護を悪役に仕立てたことである。汚れ役は守護に押しつけてみずからは慈悲深い領主にとどまろうとする満済の態度は、荘園領主のずるさをまざまざと見せつけるとともに、〈武士は加害者、荘園領主は被害者〉という構図がいかに一面的で皮相的なものであるかを端的に示している。

 

P213

 →守護出銭(しゅっせん)は、分国数を基準に賦課。将軍がその負担を諸大名に命じるのではなく、あくまでも諸大名が将軍に申し出るかたちをとった。これらの特徴は、守護出銭が、諸大名から将軍にたいしておこなわれる贈与としての性格をもっていたことを示唆している。

 

P215

 一国平均役の徴収にはすでに鎌倉時代から幕府・守護が深く関与していたが、最終的な賦課権・免除権はあくまでも朝廷にあった。それらが名実ともに幕府の手に移るのは一三八〇年前後、義満と後円融天皇の時代である。これ以後、幕府は自らの裁量で段銭を賦課できるようになり、その用途も本来の国家的行事から将軍亭や五山禅院の造営・修理といった幕府固有の用途にも拡大された。

 

P216

 →段銭徴収代官も、荘園の代官請負と同様、オークション形式が取られることもあった。」

 

P217

 →段銭の徴収代官は、実際には必要以上の段銭を現地から徴収し、その差額収入を得ていることが多かった。段銭守護請も同様。守護が独自に賦課したものを守護段銭と呼び、史料用語としては「要脚段銭」とか「屋形要脚」。幕府段銭は臨時課税だったが、守護段銭は恒常的な課税に転化していった。守護は守護段銭の徴収権を一般の所領と同じように守護被官や国人に給与することもあり、守護が独自の軍事力を構築するうえでも守護段銭は重要な役割をはたしたのである。

 段銭京済(きょうせい)の特権を得た荘園領主も、幕府の命じた賦課額よりも多い金額を在地に賦課して差額収入を得ていた。また、荘園領主も独自の段銭を賦課していた。これを領主段銭と呼ぶ。

 

 

第五章 酔狂の世紀

P224

 →足利義満は当初、世阿弥を寵愛したが、その後近江猿楽の犬王道阿弥に心が移り、足利義持は田楽の増阿弥を寵愛した。将軍から声がかからなくなり、活動の舞台を京都郊外の寺社へ移したころに、最も著作が多くなる。

 

P227

 智薀(ちうん)は政所代蜷川親当(ちかまさ)。

 

P236

 一方、ひとたび義徳に嫌われた芸能は悲惨だった。あまり知られていないが、当時能に勝るとも劣らない人気を博していたものに平家語りがある。称光天皇は琵琶法師を禁裏に招き入れようとして父後小松上皇と大喧嘩をしているし、義教も義円時代には琵琶法師常順検校に心酔していた。その常順を「物語は上手だが、平家は下手だ」と批評するのは義教以上の平家好きだった貞成親王であるが、いずれにしても当時の貴人たちが平家語りに夢中になっていた様子がうかがえよう。ところが1436年(永享8)に珍一検校が義教の不況を買ったころから、義教は次第に琵琶法師を遠ざけるようになる。義教が琵琶法師を毛嫌いしているとなれば、それまで好んで琵琶法師を招いていた人々とも今までのようなわけにはいかなくなり、貞成も泣く泣く彼らの出入りを差し止めざるを得なくなったが、ある日どうにも我慢できなくなり、義教が北野参籠で不在のおり、夜陰に紛れてそっと琵琶法師を招き入れて平家を聴聞している。

 

 →この平家ブームが、室町人に「美しい死に様」(自殺の美学)というイメージを与えたのか。平家研究を読まなければならない。

 

P238

 「二日酔」という言葉の所見は、『満済准后日記』1416年(応永23年)12月27日条「御二日酔気」で、足利義持

 

P240

嘔吐の象徴性

 足利家の血筋なのか、歴代将軍はめっぽう酒に強かったが、「御酒御下戸」(ごしゅおんげこ)といわれた後花園天皇をはじめ、皇室・公家の人びとは概して酒に弱く、そのような人びとにはせっかくの酒宴も苦痛以外の何物でもなかったかもしれぬ。義持時代に伝奏をつとめた広橋兼宣の日記からは、連日の酒宴についてゆけずに苦悩する兼宣の痛ましい姿が伝わってくる。また貞成の『看聞日記』には「当座会」(とうざのえ)という言葉が頻出するが、酒で嘔吐することを当時「当座会」といったらしい。三〇年十二月に義教が貞成の伏見御所を訪問したとき、勧修寺経成(かじゅうじつねしげ)が酒宴で「当座会」に及び、貞成が室礼のために広橋親光から借用していた屏風に嘔吐してしまったが、経成がとっさに「広橋に懸けて濯ぐべし」と言ったので、一座は大いに盛り上がったという(「広橋」は広い橋に広橋親光を掛けたもの、「濯ぐ」には洗うの意味のほかに、酒宴で嘔吐した者が罰ゲームとして後日酒宴を用意する「当座すすぎ」が掛けてある。

 私たち現代人からみるといささか奇異なことだが、この事例からも明瞭にうかがえるように、当時酒宴で嘔吐することは少しも憚られなかったばかりか、むしろ最高の座興とさえ考えられていたのである。義教の時代、酒宴でよく嘔吐することで有名だったのが、関白二条持基である。彼は吐きながら飲む特技の持ち主であり、三五年正月に貞成が上御所を訪問した際にも、「関白盃を受くるの時、当座会。散々吐かれ、永豊朝臣これを拭いて掃除す。主人興に入る」と例の特技で大いに喜ばせている。

 

P244

 公文官銭も義政時代の財政を支えた重要な財源であった。室町幕府がいわゆる五山十刹の制を導入して臨済宗寺院の官寺化をはかったことはよく知られているが、官寺たるこれらの寺院の住持任免権は将軍にあり、具体的には公文・公帖などとよばれた将軍発給の辞令によって命令されたのである。この辞令の発給手数料として幕府が住持就任者から徴収したのが公文官銭であった。

 五山十刹の制においては、諸山住持→十刹住持→五山住持という昇進コースが定められていたため、下位寺院の住持を経なければ上位寺院のそれには就任できないしくみになっていた。ところが幕府は官銭収入をめあてに公文を乱発し、官銭させ納めれば実際には入寺しなくても住持経験者の資格が与えられるようになった。これを坐公文(居公文/いなりのくもん)といったが、これらの官銭は寺院の修理費などに寄付されることもあり、また複数の寺院の公文を何十通もまとめて修理の必要な寺院に寄付し、当該寺院をしてそれらの公文を売却させて修理費を稼がせる売公文(うりくもん)もおこなわれるようになった。それが大がかりにおこなわれた例としては、一四五一年(宝徳三)の遣明船のケースがある。このとき一号船を請け負った天龍寺にたいし、義政は百六通にも及ぶ諸寺の公文を与え、天龍寺はそれらを希望者に売却して渡航費用を捻出したのである。これはまさしく五山禅院を舞台とした売官にほかならなず、その結果、五山長老を名乗る僧侶たちが全国各地にあふれかえることになったのである。

 

P247

 こうした幕府はようやく徳政分一銭(ぶいちせん)の制度を固めることができたわけだが、これらの財政再建の工夫はこれまでともすれば幕府の品格の低下、節操のなさとして否定的に評価されることが多かった。だが、すべての財政的失敗を次世代へのツケにして平然としている現代人に、彼らの再建努力をあざ笑う資格がどれだけあるだろうか。人間の力量は豊かな時代ではなく、このような窮乏の時代にこそ試されるものである。彼らが生み出したさまざまなシステムは、ひとつひとつはたとえ姑息なものにみえても、ぎりぎりの状況下で発揮される人間の叡智の結晶であることにかわりはないのである。

 

 

P249

 銅銭や紙幣のように貨幣の額面価値がその素材価値を上回る場合、発行者には額面価値から素材価値と製造コストを差し引いただけの利益がもたらされるが、中国隣国型国家が行なった貨幣発行事業には、国民への流通手段の供給を目的としたものよりも、このような貨幣発行収入の獲得と目的としたものの方がはるかに多かったのである。中世日本にも唯一後醍醐天皇という銅銭と紙幣の発行を考えた人物もいたが、後醍醐の貨幣発行計画は大内裏造営計画の費用を捻出するために構想されたものであり、目当てはやはり貨幣発行収入にあった。その意味で後醍醐の発想は古代的であり、紙幣の併用によって原材料費を切り詰めようとした点を除けば、平城京造営事業のために和同開珎を鋳造したときの発送から一歩も踏み出してはいないのである。

 後醍醐天皇以外の中世の為政者たちが貨幣の発行を思い立たなかったのは、結局のところ大内裏造営計画のような金のかかる事業を企図した者が後醍醐以外にはいなかったためである。中世の天皇は里内裏と呼ばれる市中の仮皇居に居住し、将軍亭にしてもその規模は大同小異であった。中世日本は中国のように為政者が大宮殿に住まうという発想を根本的に書いた安上がりな国家だったのである。(中略)

 一方、流通手段としての貨幣は自鋳するまでもなく、中国から十分に供給されていた。十分供給されているものをことさら莫大な費用とリスクを賭けて自鋳する必要はない。外国の物を用いることについて日本の中世国家は恐ろしく無神経であり、外国から入手できるもの(銅銭だけでなく、磁器などもそうである)はけっして自分でつくろうとはしなかったかのである。日本においてこの必要が生じるのは、中国からの銅銭供給が途絶する16世紀後半以降であり、さらにそれが実行に移されるのは江戸幕府による寛永通宝の発行まで待たねばならなかった。

 義政時代にはたしかに幕府自身の銅銭ストックは減少していたかもしれないが、極端な物価下落も見られないから市場にはまだ十分な銅銭が流通していたのだろう。そしてその限りにおいて義政時代の幕府が銅銭を自鋳する可能性はほとんど皆無に近かったのである。

 

P251

 幕府の銅銭ストックが底を突いたとき、それに変わる支払い手段となったのは将軍家が所有する莫大な美術品であった。これらのコレクションは、一般に「東山御物」(ひがしやまごもつ)とよばれてはいるが、実際には義満・義持・義教ら、義政以前の将軍たちによって収集された品々も多く、義政の時代にはむしろこれらの美術品は流出に転じているのである。

 幕府が「御物」をもって支払いに充てることを当時、売物(うりもの)とか代物(だいもつ)とよんだ。

 

P264

 閏月は年中行事が少ないので有馬の湯には他にも大勢の湯治客があり、また京都の歴々が滞在しているとあって、訪問客も絶えなかったが、その中にも多くの変人たちが交じっていた。日野勝光の被官墓崎若狭守はだれかれかまわずキスをするのが癖で、老齢で足が不自由な安富勘解由入道は逃げきれずにその餌食となった。きわめつけは奉行飯尾之種(いのおゆきたね)の使者という口実でやってきた成知客(せいしか)である。飯尾家からは事前に成知客は酒乱だから絶対に酒を飲ませないようにとの忠告を受けてはいたが、ある晩どこで酒を仕込んだか、成知客が半狂乱でやってきて、こともあろうに満座で脱糞してしまった。それが大画家宗湛の手につき、宗湛も戯れてその手を名将多賀高忠の花に押し付けたが、その悪臭たるや凄まじいものであったという。

 

 

第六章 下剋上の波

P285

 〜持国はなんとも煮え切らない性格の持ち主であり、また尾張守護代更迭問題でも当初は更迭に賛成しておきながら、のちに反対に回るなど、言動に一貫性を欠くところもあった。そこには曇天になると気が滅入って人に会おうとしなかったといわれる持国の持病も影響していたかもしれない。この種の精神疾患といえば、足利家が抱えていた病として有名だが、同じ血は足利一門に広くばらまかれていた可能性が強いのである。

 

 →足利一門は、天気痛の持病があったということか。

 

P293

 伊勢氏は足利家譜代の家宰であるが、もともと幕府内における地位はさほど高いものではなかった。とくに畠山氏からはなかば被官的な扱いをうけ、酒宴の際には将軍だけでなく、畠山氏の給仕をつとめるのも伊勢一族の仕事となっていた。

 

P295

 守護や近習の被官人が罪科を犯したばあい、その所領が将軍から守護・近習に与えられた給恩地であれば、被官人が処罰されたとしてもその所領が守護・近習の手を離れることはない。けれどもその所領が給恩地でないばあい、たとえば荘園の請負代官などであったばあいには、被官人が罪科を犯せば、彼が請け負っていた代官職は荘園領主によって回収されてしまう。ところが、この御判御教書は、(伊勢)貞親の被官人が罪科を犯しても、彼が請け負っていた代官職は荘園領主には返還されず、自動的に貞親のものになると謳っている。貞親にとって被官関係の拡大は所領の拡大とほとんど同義語だったのである。

 貞親以外でこの特権を与えられていた人物に細川勝元がいた。

 

P296

 →細川勝元は守護だったから、この特権を分国支配につなげることはできたが、伊勢貞親は守護ではないから、所領を散在的に増やすにとどまった。

これが伊勢氏が戦国大名化できなかった理由。

 

P298

 斯波家は足利一門のなかでも将軍家につぐ高い家格を誇った名門であり、歴代当主も将軍家と同じく実名に「義」字を関することを許されていた。つまり斯波家は、将軍家にとって警戒を怠ることのできないナンバー・ツーだったのである。そのようななか、斯波家の被官でありながら、将軍家から斯波家を監視する目付としての役割を期待されていたのが甲斐氏にほかならない。甲斐氏は義持時代以来、守護被官として唯一将軍家の定例的な御成がおこなわれていた家であり、将軍家が甲斐氏に命令を下したり、恩賞を与えたりするときも主家である甲斐氏を通さずに直接おこなわれていた。将軍家にとってなかば陪臣、なかば直臣という位置づけを与えられていたのは他の守護被官も同様だが、甲斐氏のばあいとくに後者の側面が強かったといえるのである。

 

P301

 →長禄・寛正の飢饉における餓死者には、畠山義就畠山政長の内紛による難民も多数含まれている。この飢饉は人災でもあった。

 

P305

 義政は兼ねてから畠山家の内紛に介入しないように諸大名に強く要請していたが、この要請を忠実に守った勝元は老獪な宗全にまんまと出し抜かれたのである。「弓矢の道」に背いて政長を見捨てたとして世間の厳しい批判にさらされた勝元は、否が応でも宗全への報復をはたさざるをえなくなった。

 

 →恥辱が怒りへと変化し、その対象を西軍に求めた。これが自身に向けば自殺になる。

 

P312

 そもそも中世の貴族たちがもっとも晴れがましいことと考えていたのは、ふさわしい官位と立派な衣服をまとって年中行事に臨み、そして洗礼に違わぬ正しい作法で儀式を無事やりおおせることであった。さらに長期的には、彼らは自分が極めた昇進コースを子や孫にも歩んでくれることを望み、そしてそのために最大限の努力をした。昇進人事で後輩に再起を越されたといっては猛抗議し、宴会の席次が気に入らないといっては着席を拒むような、現代人からみれば一見瑣末な事柄に彼らが多大なエネルギーを費やしたのも、不本意な結果が先例化して子孫たちの昇進を妨げることを恐れたためである。彼らはけっして将来に悪しき先例を残してはならなかったのだ。ところがいまや彼らには立派な衣服を調達する財源もなければ、何よりも肝心の年中行事が大乱により中絶していた。彼らが将来に希望をもてなくなったのも当然だろう。

 

P 323

 けれどもそれ(応仁・文明の乱)が、なぜかくも破滅的な大乱に発展してしまったのかについてはほとんど説明のしようがない。ただ、もしも御霊合戦で山名勢や斯波義廉勢が畠山義就に加勢していなかったら、勝元も面目を保てたはずだから大乱は避けられたかもしれない、とはいえそうである。だとすれば、この乱は「弓矢の道」、武士のメンツというきわめてメンタルな、しかし中世武士の真髄にかかわる要因によって引き起こされたということになる。

 

 →P304・305参照

 

 

第七章 京都開陣

P328

 彼ら(後土御門天皇足利義政)にとって、二人が剣を授受するという象徴的な行為(公方御倉から借り出し剣を後土御門天皇の剣として足利義政に与えた行為)さえ演出できれば、その剣がどこから来てどこへ行くのかなどさしたる問題ではなかった。この空虚さ、極端な形式主義こそ、彼らが生きた中世儀礼社会の本質なのである。

 

P331

 守護在京原則とは、諸大名が将軍の膝下に駐屯すると言う戦時の体制をそのまま平時にもちこんだ制度であり、軍事政権たる幕府の本質にかかわる重要な伝統であった。暇を請わずに下刻することが無条件に幕府への反逆とみなされたのも、それが戦線離脱と同一視されていたからにほかならない。

 

P342

 「一分」を「腰にまく」という表現が最大のキーワードになろうが、文脈から判断して、これは財力を身につけるということ、それも財政的な手段によって得られた財力ではなく、市場経済的な営利活動によって得られた財力をさしているとみてまちがいない。つまり、政治力ではもはや諸大名を振り向かせることができない現実を悟った義政は、経済力で彼らの優位に立つ戦略への転換を決意したと厳宝(尋尊の弟随心院)は報じているのである。厳宝によれば、富子の離職活動もそうした新しい経営戦略の一環にほかならなかった。

 一口にいえば、武力から財力へ、政治力から経済力へということになろうが、こうした経営戦略は、じつは幕府がすでに歩みはじめていた道であったが、ただ、それが一種の諦念をともないつつも明確に自覚化されたところにこの時期の新たな局面があったのだろう。しかもそれはたんなる戦略の転換というだけではなく、幕府により重大な決断を迫るものでもあった。政府であることをやめよ、一企業として生きよ、それがこの戦略の含意するところなのである。

 これにたいし、段銭・棟別銭・地頭御家人役など、幕府の伝統的な税制を正統に継承していったのはむしろ大名たちのほうであり、それがやがて戦国大名の経済的基礎となっていった。ここに、十六世紀の戦国大名経済がより伝統回帰的であり、十五世紀の幕府経済がより市場経済的であるという一種の逆転現象があらわれることになったのである。

 

P347

 大山崎神人ももはや他の油商人たちの攻勢に嗷訴で応じることはできなくなった。ここに彼らは経営戦略の転換を迫られることになったのである。彼らは、かつて嗷訴で培ってきた戦闘能力を合戦に生かし、戦功を上げることで大名の保護を勝ち取る戦略に出た。要するに、神威から武威への乗り換えをはかったのである。彼らの拠る大山崎が京都の西の玄関口にあたる軍事的要衝であったこともあって、応仁・文明の乱がおこると彼らは東軍に属して積極的に西軍と戦った。このころから彼らに充てられる文書の充所には「大山崎神人中」とならんで「大山崎諸侍中」の文字が登場してくるのである。

 

 →神訴が通るときなら、自殺を質にすることもできたが、そういう時代で亡くなったため、神人たちは自殺よりも命懸けで戦うことを選ぶようになったということ。神人の自殺が減るのは、こうした社会の変化の影響を受けている。そうすると、改めて、神訴を通すために自殺するというのは、いったいどういう心理なのか。所属集団や子孫の権益を守ることが自分の命よりも重要だということになる。個の命よりも集団の命を優先するということか。