永享三年(一四三一)六月十九日条 (『図書寮叢刊 看聞日記』3─295頁)
十九日、晴、月次連歌定直申沙汰、
(中略)
抑聞、去五月十四日相国寺沙弥預〈勝定院沙弥、〉被打擲、鹿苑院僧所行云々、依
堂
之沙喝蜂起、僧■ニ閇籠、寺を欲焼鳴鐘、寺中騒動之間、諸大名馳集云々、自公方
(満祐)
被宥仰、先退散、此間猶有御糺明、鹿苑・勝定僧四十余人被召捕、侍所赤松、被預
云々、後聞、張本僧三人被流罪、自余被追放云々、
「書き下し文」
十九日、晴る、月次連歌定直申沙汰す、
(中略)
抑も聞く、去んぬる五月十四日相国寺沙弥預〈勝定院沙弥、〉打擲せらる、鹿苑院僧の所行と云々、之により沙喝蜂起し、僧堂ニ閉籠し、寺を焼かんと欲し鐘を鳴らす、寺中騒動の間、諸大名馳せ集ふと云々、公方より宥め仰せられ、先づ退散す、此の間猶ほ御糺明有り、鹿苑・勝定僧四十余人召し捕へられ、侍所赤松に預けらると云々、後に聞く、張本の僧三人流罪せられ、自余追放せらると云々、
「解釈」
十九日、晴れ。月次連歌は島田定直が準備した。
(中略)
さて、聞くところによると、去る五月十四日相国寺の沙弥預〈勝定院沙弥〉が殴られた。鹿苑院の僧侶の仕業だという。これによって沙弥や喝食が蜂起し、僧堂に閉じ籠り、寺を焼こうとして鐘を鳴らした。寺中は騒然としたので、諸大名が馳せ参じたそうだ。公方足利義教がお宥めになり、ともかく沙弥・喝食らは退散した。こうしている間に、さらにご糺明になった。鹿苑院・勝定院の僧四十人余りが召し捕らえられ、侍所赤松満祐に預けられたという。後で聞いたところによると、事件の張本人の僧三人は流罪に処され、その他の僧は追放されたそうだ。
「注釈」
「定直」
─島田定直。後小松院の院庁官。同年十一月十五日には院主典代となっている(『薩戒記』同日条)。*「主典代」とは、『職原抄大全』によると、書記官で、院宣あるいは院中の記録を掌る役で、右筆に堪えているものの役だと言っているが、『江次第』には、蔵人所の出納を主典代とすることが書いてある(『新訂官職要解』講談社学術文庫)。
「勝定院」
─相国寺にある足利義持の塔頭(蔭木英雄『蔭涼軒日録 室町禅林とその周辺』そしえて、1987)。
「鹿苑院」
─もと安聖寺と言われ、足利義満が日野宣子の菩提を弔う弁道所となっていた(「空華日曜工夫略集」永徳二年六月条)。相国寺が創建される際に聖寿寺(白雲慧暁開基)に移建され、その跡に義満が「小御所」を建て(「吉田家日次記」永徳三年八月六日条)、同年九月にその「小御所」が鹿苑院と改称されたものである(「空華日用工夫略集」同月十四日条)。禅宗寺院を管轄し人事をつかさどった僧録(僧職)は当院の住持が兼帯することになり、これを「鹿苑僧録」と呼んだ(『京都市の地名』平凡社)。
「侍所赤松」
─赤松満祐。1373?─1441(応安6?─嘉吉1)室町期の武将。1381(永徳1)生まれともいう。法名性具。父は義則。播磨・備前・美作の守護、侍所所司。赤松氏の嫡流として重きをなした。将軍足利義教が一族貞村を寵愛したうえ、有力大名を討滅したことから身の危険を感じ、1441義教を自邸に招いて暗殺した。その後、領国播磨に帰ったが、山名・細川氏を主力とする幕府軍に攻められ、自殺した(『角川新版日本史辞典』)。
「流罪」
─居住地から遠処に身柄を移される刑罰。都からの遠近により、遠流・中流・近流の三等とした(『古文書古記録語辞典』)。
「追放」
─強制的に他の土地に追い放つこと。追放刑は中世法に始まる。中世末期の惣の掟の中にも追放刑が見える(『古文書古記録語辞典』)。
*中世のお坊さんが武闘派であったことは、これまでにもいくつかの事例を紹介してきました。今回の場合、その理由はよくわかりませんが、相国寺の沙弥預(沙弥の統括者か)が鹿苑院の僧に殴られます。そして、中世では定番のパターンですが、個人的な暴行事件が、両者の所属する集団どうし(勝定院と鹿苑院)の争いになり、収拾がつかなくなって、将軍が仲裁に入ったのです。
事件の結末ですが、事件の張本人たちは流罪に処され、その他の僧は追放されることになりました。どうやら流罪のほうが重い刑罰で、追放のほうが軽い刑罰だったようです。つまらないことかもしれませんが、初めて知りました。