周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

中世の祟りは連座制か!? (Curse that spreads)

  長禄三年(1459)四月九日・十四日条

       (『大乗院寺社雑事記』2─133頁)

 

    九日

  (超)

 一越昇寺ノ塔坊自焼云々、自越智方竹木等払之、奈良中人夫悉以衆中ヨリ加下知、

  遣彼在所云々、希代事也、本堂炎上歟之由風聞、事実者以外事也、平城天皇第一

  皇子真如親王正草、随分霊地也、

 

    十四日(中略)

  (超)

 一越昇寺今度不寄思滅亡者、去年炎旱之時、彼寺ノ大池ニ水ナシ、然之間山僧件

  池中ヲ成畠了、其時不思ニ大虵ヲ鍬ニテ打切了、其虵ハ池ノ水神也、大ニ

  タヽリテ、彼打切タル人ヲ取コロシ了、猶口ハシリテ、寺ニタヽリヲ可成之由

  申云々、如此阿弥陀堂以下諸坊令滅亡、以外事也、(後略)

 

 

 「書き下し文」

    九日

 一つ、超昇寺の塔坊自焼すと云々、越智方より竹木等之を払ふ、奈良中の人夫悉く以て衆中より下知を加へ、彼の在所に遣はすと云々、希代の事なり、本堂炎上かの由風聞す、事実ならば以ての外の事なり、平城天皇第一皇子真如親王の正草、随分の霊地なり、

 

    十四日(中略)

 一つ、超昇寺今度思ひも寄らず滅亡すてへり、去年炎旱の時、彼の寺の大池に水無し、然るの間山僧件の池の中を畠に成し了んぬ、其の時思はざるに大蛇を鍬にて打ち切り了んぬ、其の蛇は池の水神なり、大いに祟りて、彼の打ち切りたる人を取り殺し了んぬ、猶ほ口走りて、寺に祟りを成すべきの由申すと云々、此くのごとく阿弥陀堂以下諸坊滅亡せしむ、以ての外の事なり、(後略)

 

 

 「解釈」

    九日

 一つ、超昇寺方は塔頭や僧房を自ら焼いたという。敵対している越智方が竹木等を取り除いた。奈良中の人夫すべてに衆中から命令を下し、この場所に派遣したそうだ。たいそう珍しいことである。本堂も炎上したのだろうと噂された。事実であるならば、とんでもないことである。当寺は、平城天皇の第一皇子真如親王の正統で、すばらしい霊場である。

    十四日(中略)

 一つ、超昇寺はこの度、思いもよらず滅亡したという。去年の旱魃のとき、この寺の大池に水がなかった。そうしているうちに、超昇寺の僧侶がこの池の中を畠にしてしまった。そのとき、思ってもいなかったのだが、大蛇を鍬で打ち切ってしまった。その蛇は池の水神であった。水神は大いに祟って、この打ち切った人に巻きついて殺してしまった。さらに口走って、「寺に祟ってやるつもりだ」と申したそうだ。このように、阿弥陀堂以下、さまざまな僧房が滅亡した。とんでもないことである。

 

April 14th.
 Choshoji temple was destroyed unexpectedly this time. At the time of drought last year, the big pond in this temple dried up. After a while, a monk at Choshoji temple turned this pond into a field. At that time, he unintentionally cut off the big snake with a hoe. The snake was the water god of the pond. The water god cursed him, wound him around and killed him. In addition, the water god said, "I will curse the temple as well." Thus, various buildings such as Amidado in the temple were destroyed. It's miserable.

 (I used Google Translate.)

 

 

 「注釈」

超昇寺(跡)」

 ─現奈良市佐紀町。平城宮跡の北方、式内佐紀神社の東北に位置。開基は平城天皇皇子の真如親王高岳親王)。創立年代は明らかでないが、「三代実録」貞観二年(860)十月十五日の条に「大和国平城京中水田五十五町四反二百八十八歩施捨不退、超昇両寺」とあって、同年にはすでに不退寺とともに創建されていた。その後、同四年に真如親王は後事を託して入唐し(三会定一説)、同七年十月に至って座主の決定を見た(三代実録)。しかし、その後の超昇寺に関する記事は見られない。「大乗院雑事記」長禄三年(1459)四月九日の条に、「超昇寺の塔坊自焼、本堂炎上之由風聞、事実者以外事也、平城天皇第一皇子真如親王正草随分霊地也」と見え、当時すでに興福寺の末寺に属したことが知られる。菅家本「諸寺縁起集」によると、阿弥陀堂には本願真如親王の画像を祀ったという(『奈良県の地名』平凡社)。

 

超昇寺城跡」

 ─奈良市佐紀町字古所。佐紀丘陵西南端、標高82メートルの台地先端、背後に日葉酢媛命陵がある。郭・土塁などの遺構が認められる。一乗院方の国民超昇寺氏の城塁で、「国民郷士記」には「超昇寺平城超昇寺左近良祐」とある。越智氏と争った筒井氏方に属したが、「大乗院雑事記」長禄三年(1459)三月二十八日条に「夜前自相楽新方、琵琶小路之所ヘ押寄テ、琵琶小路ヲ打了、則超昇寺ニ引籠、越智在南之時分タル間、超昇寺ヘ押寄テ相楽新并木津執行之弟二人腹切了、超昇寺之城放火了、今日午剋退陣」とあり、越智方の相楽新氏・琵琶小路氏と戦って敗れている。同記文明三年(1471)七月二十日条に「一乗院公事佐保田庄事故出来也、仍佐保田之下司超昇寺与井戸公事辺ニ成了、先以珍重事也」、同記明応二年(1493)閏四月十一日条に「夕方超昇寺自焼了」とある。また「多聞院日記」永禄十二年(1569)閏五月一日条に「此十日計之間超昇寺城破了、則知行悉渡之、今日人質モ出了」と見え、松永久秀の軍によって破却された。当城は筒井方の南都進出の拠点となり天正八年(1580)まで存在した(『奈良県の地名』平凡社)。

 

「自焼」

 ─敗北した側が自らの城に火を放って崩壊させ、敵方が後にそのまま城郭として転用できないようにすること(酒井紀美「はしがき」『経覚』吉川弘文館、2020年、9頁)。

 

「衆中」

 ─衆徒らの中から選ばれた官符衆徒らの組織で、奈良中検断権などの権限を行使した(前掲酒井著書「満済の死と辺土への追放」90頁)。

 

「正草」

 ─正宗の当て字か。開祖から伝えた宗派。転じて、本系統。嫡流。ほんけ。ほんもと(『大漢語林』大修館書店)。

 

 

*たった一人の僧侶の不注意が水神様を怒らせ、寺を滅亡させてしまいました。

 それにしても水神様の祟りとは恐ろしいものです。加害者の僧侶が取り殺されたのは致し方ないにしても、僧侶の所属する集団全体にまで甚大な被害が及んでしまうのですから。中世では、神の祟りは連座的に及ぶものと認識されていたのかもしれません。