(端裏書) (作)
「蟇沼寄進契約状 暦応三〈庚辰〉正十一 美作前司殿 上⬜︎分」
(安芸豊田郷)
契約 沼田庄梨子羽郷内蟇沼寺寄進事
右、捧二宝治二年之寄進状一、賢祐寂仏来善乃力寄進之事歎申間、任二彼状一令二
下知一畢、仍頼慶者出二帯寄進状一、賢祐者京都致二労功一云々、依レ有二其謂一、
両人御年貢御公事米等半分宛相互無二異論一永代可二知行一、若為二一方一背二半分
之儀一、雖レ為二一塵一令三抑二留年貢公事米一者、雖三充二給下知状一被レ処無、
如レ元可レ為二公方沙汰一、且頼慶与二賢祐一契約之段、被二聞食一畢、仍於二下知一
者被レ下二頼慶一、至二契約一者、被三充二行賢祐一者也、将又請人於三申二乱彼
寄進一者、両人致二御公事沙汰一、可レ令三知二行領家所務一、仍契状如レ件、
(1340)
暦応三年〈庚辰〉正月十一日
(橘)
披朝臣(花押)
「書き下し文」
契約する沼田庄梨子羽郷内蟇沼寺寄進の事
右、宝治二年の寄進状を捧げ、賢祐寂仏・来善・乃力寄進の事歎き申すの間、彼の状に任せ下知せしめ畢んぬ、仍て頼慶は寄進状を出帯し、賢祐は京都に労功を致すと云々、其の謂れ有るにより、両人御年貢・御公事米等半分づつ相互に異論無く永代知行すべし、若し一方として半分の儀に背き、一塵たりと雖も年貢・公事米を抑留せしめば、下知状を充て給ふと雖も処せらるる無し、元のごとく公方の沙汰と為すべし、且つ頼慶と賢祐と契約するの段、聞こし食され畢んぬ、仍て下知に於いては頼慶に下され、契約に至りては、賢祐に充て行はるる者なり、将又請人彼の寄進を申し乱すに於いては、両人御公事沙汰を致し、領家所務を知行せしむべし、仍て契状件のごとし、
「解釈」
契約する沼田庄梨子羽郷内蟇沼寺寄進のこと。
右、宝治二年の寄進状を捧げ、寂仏・来善・乃力名の寄進について、賢祐が訴え申したので、その寄進状のとおりに判決を下した。この訴訟のために、頼慶は寄進状を提出し、賢祐は京都で力を尽くしたという。そうした事情があったので、両人は年貢や公事米等を半分ずつ、お互いに異論を唱えることなく、永久に支配しなさい。もしどちらか一方が半分知行の取り決めに背き、わずかでも年貢や公事米を不法に留めるならば、たとえ下知状を与えたとしても、この取り決めのように処置することはない。元のように、領家の支配とするべきである。前もって頼慶と賢祐とが契約したことを、領家方はお聞きになっていた。だから、下知状については頼慶にお与えになり、契約状については賢祐にお与えになるものである。あるいはまた、保証人がこの寄進契約を破り申すならば、両人が訴訟を起こし、領家の所務を執行するべきである。よって、契状は以上のとおりである。
「注釈」
「宝治二年寄進状」─未詳。領家方が蟇沼寺に与えた寄進状か。
「賢祐・頼慶」
─未詳。両名とも、一号文書にあらわれた楽音寺院主「頼賢」の弟子か。
「公方」─この場合は、領家を指すか。
「所務」
─年貢・雑公事の徴税や勧農などの務め(奥野義雄「荘園公領制における『荘務』と『所務』をめぐって」『佛教大学歴史学部論集』2、2012・3、https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0002/RO00020R021.pdf)。