一七 小早川仲義臨時天役免状
(蟇沼)(楽音) (棟)
ひきぬかくおん寺、両寺之段」銭宗別之事、永代をかき」りてさしおき申候、但
(臨時天役)
公方」むきの事ハ、任二先例一可レ有二御」沙汰一候、仍両寺りんしてんやくの」
めん状如レ件、
(1395)
応永貮年〈乙亥〉十一月 日 仲義(花押)
ひきぬ殿
「書き下し文」
蟇沼・楽音寺、両寺の段銭・棟別の事、永代を限りて差し置き申し候ふ、但し公方向きの事は、先例に任せ御沙汰有るべく候ふ、仍て両寺臨時天役の免状件のごとし、
「解釈」
蟇沼寺・楽音寺の両寺の段銭・棟別銭のこと。永久に除外し申します(賦課し申しません)。ただし、幕府向けの段銭・棟別銭については、先例のとおりに、徴収なさるはずです。よって、両寺の臨時天役の免除状は、以上のとおりです。
「注釈」
本郷から南下して忠海(現竹原市)に至る街道(三次往還)の西、蟇沼の観音寺谷にあり、はじめ蟇沼寺と称した。暦応三年(1340)正月八日の預所橘朝臣寄進状(東禅寺文書)に、「蟇沼寺今者号東禅寺」とある。蟇沼山補陀落院と号し、真言宗御室派。もと楽音寺法持院末。本尊十一面観音は行基作の立木仏で、中古、落雷による火災のとき鋸で足下を切って持ち出したと伝えられており、秘仏とされている。
当寺は沼田庄領家側と関係が深く、預所橘氏や弁海名の名主源氏が宗教的拠点とした。鎌倉時代、地頭として小早川氏が来住すると、当寺は領家側と地頭側の勢力の接点となっていたと思われる。東禅寺文書のうち最も古い永仁五年(1297)十月二十二日の地頭尼某下知状によると、当寺の院主職の相論に際し、梨子羽郷地頭尼が裁判権を行使し、裁定を下している。一方、弁海名名主源信成らは元徳二年(1330)に木造四天王立像(県指定重要文化財)を寄進しており(多聞天像胎内墨書銘)、前記橘朝臣寄進状によると、寺院炎上後、修復が進まないので、修理料所として、南方内寂仏・来善・乃力(のうりき)の三名を寄進している。室町時代には諸堂再建と寺院経営に、竹原小早川家代々の当主が力を入れている(東禅寺文書)。
正和三年(1314)五月十八日の一宮修正会勤行所作人注文(蟇沼寺文書)によると、鎌倉時代より楽音寺が中心になって執行した一宮(現三原市の一宮豊田神社)の修正会には蟇沼寺が牛王導師を務めている。なお応永二十六年(1419)八月日付の東禅寺寺領注文(東禅寺文書)によると、得分は年間、米十石九斗一升六合、吉書林代二貫九文、売田代四貫六百文であった。近世以降は真言密教の祈祷寺となり、明治時代には一時無住のときもあった。東禅寺・楽音寺・弁海名にかかわる中世文書(東禅寺文書)十八通を伝える。また蟇沼寺文書として東大史料編纂所に所蔵される史料もある。
「天役(点役)」
─天役とも書く。臨時に賦課された雑役。①調停が賦課した臨時課税、造内裏役や大嘗会役などの一国平均役。②領主から賦課される兵糧米など。
→「一国平均役」─古代・中世に、荘園公領を問わず、公田段別に一律に賦課された国役。大嘗会役・造内裏役・伊勢神宮役夫工米などで、国衙・守護を通じて徴収された(『古文書古記録語辞典』)。
「ひきぬ殿」─蟇沼寺の院主のことか。