二九 左衛門尉遵行状
備後国金丸・上山村地頭職 并草村公文職事、任今年十月六日御寄進御下文 并同日御施行之旨、悉沙汰付浄土寺雑掌之状如件、
(1339)
暦応二年十二月七日 左衛門尉(花押)
「書き下し文」
備後国金丸・上山村地頭職并びに草村公文職の事、今年十月六日御寄進の御下文并びに同日御施行の旨に任せ、悉く浄土寺雑掌に沙汰し付くるの状件のごとし、
「解釈」
備後国金丸・上山村地頭職ならびに草村公文職のこと。今年十月六日御寄進の御下文(62号文書)ならびに同日御施行状のとおりに、浄土寺雑掌に引き渡す。施行状は以上のとおりである。
「注釈」
「金丸」
─現新市町金丸。藤尾村の西方、神谷川の上流に位置し、「備後郡村誌」に「山七合田畑三合村ニ御座候、但旱損所」とある。芦田郡に属した。暦応二年(一三三九)一〇月六日付足利尊氏寄進状案(浄土寺文書)によれば、この時足利尊氏により「金丸・上山村地頭職并草村公文職」が備後国塔婆料所として浄土寺(現尾道市)に寄進されている。ところが二年後の同四年一〇月二三日付足利直義下知状(同文書)によると、在庁官人の常五郎左衛門尉経康が金丸名の知行権を主張し、寄進をやめるよう要求した。そこで金丸名が浄土寺の本所領たるか否かを備後守護細川頼春に尋ねたところ、「金丸名為竹内弥二郎兼幸跡之間、為闕所、御寄進浄土寺、但彼名内応輸田者、国衙相云々、(中略)応輸田国衙進止、其外為地頭職之由、雖承及、無分明所見云々」とのことで、経康の主張は根拠なしとして退けられた。
室町時代には金丸名は長福寺(現京都市右京区)領となっており、長福寺文書に応永一五年(一四〇八)一二月一八日付沙弥覚勝打渡状以下、延徳三年(一四九一)一一月一〇日付太田垣俊朝施行状まで一一通の関連文書があり、宝徳四年(一四五二)七月一〇日付備後守護山名宗全安堵状には「梅津長福寺領備後国苻中金丸名事、亡父(時熙)令寄付之」の文言がみえる。段銭・諸公事・臨時課役が免除されていたが、応仁の乱頃から在地領主によって押領されつつあったようである。なお、天文二三年(1554)正月九日の毛利元就・隆元連署の湯浅五郎二郎(次郎)宛書状(「閥閲録」所収湯浅権兵衛家文書)に「旧冬金丸表之時早々御馳出候、御馳走無比類」とあり、毛利氏が金丸に軍を進めた時、国人衆湯浅氏が宿所を提供し協力している。(中略)
「備陽六郡志」「福山志料」「備後郡村誌」によれば村内に仏徳山多聞寺(現真言宗御室派)、光円山西福寺・法身山光秀寺・紫雲山西円寺(現浄土真宗本願寺派)、八幡宮・天神宮・釜俊大明神、天神山城跡・田能城跡などがあった。厚山の畑治助家には康暦二年(1380)建立の宝篋印塔(県指定重要文化財)がある。
天神山城跡は山名時興の麾下村田八郎高数が享禄年中(1528―32)に築いたという。村田隼人高英の時大内氏に従い、のち入江大蔵に従い父木野の石屋原城(跡地は現神石郡三和町)に移ったと伝える(福山志料)。なお「備後古城記」の一本は城主を島津壱岐守朝家とし、子孫は大永年中(1521―28)に日向国に移ったと記す。田能城跡は田能山にあり、「福山志料」は城主を金丸宗左衛門利改(利政か)とし、「金丸ハモト山名ノ旗下ナリ、後ニ尼子ニ属シ義久ノ時利之ト云モノ伯州米子ニテ討死スト云、備後古城記ニハ金丸殿ト云ノミニテ姓名ツタハラスト云」と記す(「金丸村」『広島県の地名』平凡社)。
*『広島県重要文化財 浄土寺文書の世界』(ふくやま書道美術館、2017年、89頁)