2018-09-01から1ヶ月間の記事一覧
四 毛利輝元加判并同氏奉行人連署制札 (輝元) (花押) 右當寺立山竹木採用之事、堅加二制止一畢、若於二違犯族一者、可レ被二厳科一之旨、 依レ 仰制札如レ件、 (1572) 赤川(元秀) 元亀参年二月九日 十郎左衛門尉(花押) 粟屋(元眞) 掃 部 助(花…
三 毛利弘元書状 爲二末代一愁訴も如何ニ候之間、就二御申一自二御奉行衆一承候者、以レ次心底申上 度候、被二御心得分一候て可レ被レ懸二御意一候、委細之旨、飯田下野守護御使者 可二申入一候、毎事重而恐惶謹言、 三月廿一日 弘元(花押) (周防興隆寺)…
二 後村上天皇綸旨(宿紙) (賀茂郡) 安藝國東條郷之内三永村事、爲二福成寺領一令二寄附一了、寺務不レ可レ有二相違一 者、天気如レ此、悉レ之、以状、 (1358) 正平十三秊十二月八日 左中将(花押) 「書き下し文」 安芸国東條郷の内三永村の事、福成寺…
【福成寺文書】 解題 この寺は真言宗の古刹で、縁起によると聖武天皇の開基で寺号を「福納寺」と称えていたが、弘法大師巡錫の時、寺地を移し、その後は「福成寺」と呼ぶようになった。源平合戦のころ、源範頼の軍勢は平家を討つためこの地方へも下向し、安…
応永二十八年(1421)五月二十八日条 (『看聞日記』2─133頁) (冷泉範綱ヵ) (後小松上皇) 廿八日、正永参語世事、洛中病死興盛、言語道断事云々、此間仙洞有御夢想、相国 寺門前ニ牛千頭許群衆、門内へ欲入、而門主防之追出、前ニ進ム牛声ヲ出…
【榊山神社文書】 解題 熊野庄内各社の物申役を勤めた梶山氏に伝来する文書である。 一 熊野社神田注文 熊野之内御神田[ 一米五石 八幡御神田 物申かゝへ (ヵ) 一壹石五斗 す才神田 物申かゝへ 此内四斗五升ハ不作 一米五斗 熊のう神田 物申かゝへ (王)…
三 阿曾沼元秀宛行状(切紙) (安芸安南郡) (成) 爲二太郎給地一、上世能之内貳貫目宛行候、彼者盛人之間者、其方奉公肝要候、 左候者従二勲功一弥々可レ加二扶持一候、仍状如レ件、 (1579) 天正七年〈己卯〉十一月吉日 元秀(花押) 野村淡路守殿 「…
二 阿曾沼元秀宛行状(切紙) (野村) 今度上口淡路守供之段神妙候、弥奉公肝要候、於レ然者壹貫五百目太郎ニ可レ遣 者也、仍所レ定如レ斯、 (1579) 天正七年〈己卯〉 貳月六日 元秀(花押) 野村太郎殿 *割書は〈 〉で記載しました。 「書き下し文」 今…
解題 野村氏は承久三年(一二二一)阿曾沼親綱が甲斐国より安芸国世能庄に移った際に、その三男信綱・四男貞綱が従って来たのにはじまるという。 一 毛利輝元書状(切紙) (捻封ウハ書) (元勝) 「 國司右京亮殿 (就秀) 粟屋宗兵衛殿 輝元 [ ]殿 」 …
解題 三戸源十郎は有次の二男で、元就の代に新規に召し出され、別家を建てたという。永禄五年(一五六二)元就から就の一字を賜り、就安を称することになる。元亀二年(一五七一)西市助、同三年輝元から一郎右衛門に任じられている。 一 毛利輝元書状(切紙…
五 矢野八幡宮御供注文 一 御くう上せんの事 もちかす 大宮十六 十一せん 小せん もちかす 十 十一せん 合廿二前 一しゝこまいぬのもち二ツつゝ 門まろうと二ツつゝまり 一ゑひすのもち一ツ まいさん米一升三合 (1554) 天文廿三年八月 「書き下し文」 一つ…
四 元勝名字状(折紙) 實名 勝重 永禄拾(1567) 十一月十八日 元勝(花押) 矢野祝部 香川神六殿 ○以上、四通ヲ一巻ニ収ム *書き下し文、解釈、注釈は省略しました。
三 神田勝乗寄進状 (営) 屋能八幡宮江爲二御造榮一、屋能郷内壹貫貳百目、岡入宮之脇在レ之、 右御神田、當年天文拾年之従二上毛一引進上候、彼田年々之土貢を以可レ有二 御造立一之由候、 (1541) 神田三河守 天文十年十月三日 勝乗(花押) 物申源左衛…