三 毛利弘元書状
爲二末代一愁訴も如何ニ候之間、就二御申一自二御奉行衆一承候者、以レ次心底申上
度候、被二御心得分一候て可レ被レ懸二御意一候、委細之旨、飯田下野守護御使者
可二申入一候、毎事重而恐惶謹言、
三月廿一日 弘元(花押)
(周防興隆寺)
氷上別當御坊
御報 御同宿御中
(切封)
「 ﹅ ﹅ 」
「書き下し文」
末代のため愁訴も如何に候ふの間、御申しに就き御奉行衆より承り候はば、次いでを以て心底申し上げ度く候ふ、御心得分けられ候ひて御意を懸けらるべく候ふ、委細の旨、飯田下野守護の御使者申し入るべく候ふ、毎事重ねて恐惶謹言、
「解釈」
今後のため、愁訴もどのようにするべきか考えておりましたところ、あなた様の御申し出について、大内氏の御奉行衆からお聞きしますならば、ついでをもって本心を申し上げたいです。それをお聞き分けになってお心遣いください。詳細は飯田下野が守護の御使者に申し入れるはずです。すべてのことを重ねがさね謹んで申し上げます。
*さっぱり解釈できませんでした。
「注釈」
「興隆寺」
─現山口市大字大内御堀氷上。天台宗の古刹で、山号は氷上山、本尊釈迦如来。〔創建〕大内盛見が応永十一年(一四〇四)二月、興隆寺本堂の再建供養に際して納めた興隆寺本堂供養日記(興隆寺文書)に、推古天皇十九年に、大内家の祖百済国の琳聖太子が創建した仏閣であると述べている。天長四年(八二七)頃、大内重村が妙見社を寺中に造立してから、大内氏の氏寺と定められたという。
興隆寺の名は正嘉元年(一二五七)大内広定が施入した銅鐘の銘文に「興隆寺 奉施入 権介散位多々良弘貞 娑婆世界南閻浮提大日本国山陽道周防国吉敷郡大内村氷上山興隆寺搥鐘也 正嘉元年丁巳十一月廿七日 鋳冶大工丹治助利 観達金剛仏子定直」とあったという(寛延三年「氷上山秘奥記」)が、鐘は現存しない。また氷上寺とも称したらしく、弘安五年(一二八二)の興隆寺文書に「氷上てらはたゝらのうちてらなり」とみえる。南北朝時代の文書には氷上寺・興隆寺と二つの寺号が入り交じって記される。