周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

子どもの腕を食う女

  文明三年(1471)八月十七日条

        (『経覚私要鈔』9─29頁)

 

  十七日、丁巳、

    (中略)

  (覚尋)      (九條政忠)     (悚悚)        添上郡

 一東南院房官永家語申先内府云、一日比シヤウヽヽヽトシタル女房、手害ノ

  鑵子屋云々、

  チキリ屋来テ、ハタコヲアツラヱ食之、然自懐小者ノウテヲ取出、カフリ食

  了、チキリヤノ者アマリ不思儀之間、帰所ヲ見遣之処、東大寺中門ヱ入不見

  云々、仍東大寺薬師図絵在之、其外老若薬師法ヲ修云々、暫ナラニ可有之由、

  此女申ケルト云々、

 

「頭注」

東南院坊官長家が九条政忠に不思議な話を語る。女人ちきり屋に入り懐から小児の腕を取り出し齧り食い、東大寺中門に入り姿を消した。東大寺薬師図絵供養を修した。女人はしばらく奈良に滞在するという。

 

 「書き下し文」

 一つ、東南院房官永家前内府に語り申して云く、一日ごろ悚悚としたる女房、手害のチキリ屋(鑵子屋と云々)に来りて、はたこをあつらえ之を食らふ、然して懐より小者の腕を取り出し、がぶり食らひ了んぬ、チキリ屋の者あまりに不思議の間、帰する所を見遣るの処、東大寺中門ゑ入り見えずと云々、仍て東大寺薬師図絵之在り、其の外老若薬師法を修すと云々、暫く奈良に有るべきの由、此の女申しけると云々、

 

 「解釈」

 一つ、東南院覚尋の房官永家が前内府九条政忠に語り申していうには、「一日ごろぞっとするほど恐ろしい女が、手害のチキリ屋(鑵子屋〈茶屋〉という)にやって来て、「はたこ」を注文して食べた。そして懐から子どもの腕を取り出し、がぶりと食べた。チキリ屋の者あまりにも思いもよらないことだと思ったので、帰っていく先を見ていたところ、東大寺の中門へ入り見えなくなったという。そこで、東大寺薬師如来の図像があり、寺僧以外の人々が薬師法を行なったという。しばらく奈良にいるつもりだと、この女は申したそうだ。

 

 「注釈」

「手害」

 ─手搔郷。東大寺七郷の一。郷名は東大寺転害門にちなみ、転害・天害・伝害・手害・手貝・輾磑・転(石+盡)とも書く。長暦元年(1037)一二月八日の王某田地売券(保坂家所蔵文書)に「在手搔御門佐保大路北辺後田字地際杜本二宮者」とあり、平安中期には水田であったことがうかがえる。

 鎌倉初期に転害門前に郷が成立した。元久二年(1205)三月一八日の僧定西家譲状(筒井家所蔵文書)によると家地の東は京大道で限られ、転害門前の手搔大路の西側にあったことがわかる。また建暦三年(1213)二月一二日の比丘尼菩提等連署家地相博状(大東急記念文庫所蔵文書)によると、家地は手搔大路にあって、東は大路によって限るという。手搔郷は京街道に沿った東向きの町で、町並は東大寺大垣に面していた。

 正応二年(1289)八月の東大寺文書には「彼手搔辺者、一向令宿人、為其業支身、今所令渡世也」とあって旅宿ができており、のちには「旅宿郷」ともいわれた(東大寺文書)。嘉元二年(1304)の有徳人注文(東大寺文書)に、手搔の有徳人(富裕郷民)として上三人、中二人、下一人計六人をあげる。戦国期には「天害市」が「二条宴乗記」にみえ、延徳四年(1492)正月八日条には「夜伝害焼亡、紙屋ヨリ出火、宿屋六七間大焼亡也」とある。永正四年(1507)の執行方諸補任引付(東大寺図書館蔵薬師院文書)に「腹巻屋助民」、天文八年(1539)の転害会記(東大寺文書)に「柳屋祐賢」がみえ、腹巻屋・柳屋は転害郷の有徳人である。腹巻屋は「多聞院日記」同一一年一一月一五日条に「去一三日公方様御代官トシテ、伊勢守殿御社参、人数上下三・四百人アリト云々、御宿新禅院ノ通也、転害ハラマキヤ也」とみえるように、将軍家代官の宿所として三、四〇〇人が泊まれる格の高い大旅宿、一方では酒屋・金融業なども兼ねていた(「多聞院日記」元亀二年二月一八日・天正五年一一月二五日条)。また、柳屋は、同記永禄一〇年(1567)八月二九日条に「柳屋ノ皮子ヨリ上代小袖一・ワタ一・鳥目一貫文取了」とみえ、土倉業者であったようだ。

 「大乗院雑事記」によると、文明元年(1469)七月晦日、講衆が蜂起し、子守および南室・西天害などの傾世屋に発向した。同一一年閏九月五日には筒井方の足軽が当町辺りに乱入、一一日には転害で合戦があった。同一七年九月一四日には、土民が寄せて来て転害町屋に乱入、三条口に放火した。延徳四年正月八日、紙屋より出火し、宿屋六、七軒が焼亡したことなどが知られる(「手搔郷」『奈良県の地名』平凡社)。

 

 

【コメント】

 解釈が判然としないところもあるのですが、間違っていなければ…。

 ゾッとするほど恐ろしい女が懐から子どもの腕を取り出して、がぶりと食べたそうです。この女は実在するのか、それともバケモノなのか。中世とは、なんとも恐ろしい時代だったようです。