周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

東禅寺文書1

 【東禅寺文書】

解題

 当寺は真言宗の古刹で、行基開基と伝えている。沼田庄内で、この寺と関係の深かった楽音寺や弁海神社の近くに所在している。旧名を蟇沼寺というが、暦応四年(1341)の沼田庄の預所朝臣寄進状に「蟇沼寺今者号東禅寺」と見えるから、そのころには東禅寺と呼ばれるようになっていたことがわかる。永仁五年(1297)から天文四年(1535)までの文書十九通が火災を免れて伝えられている。このうち弁海名知行に関する文書九通がまとまっている。

 当寺の本尊十一面観音に従う多聞天には、元徳二年(1330)源信成造像の旨が記されているので、付録(1182頁)に収めた。信成は稲葉桂氏所蔵文書によると弁海名の名主であった。

 

 

 「東禅寺」(『広島県の地名』平凡社より)

 本郷から南下して忠海(現竹原市)に至る街道(三次往還)の西、蟇沼の観音寺谷にあり、はじめ蟇沼寺と称した。暦応三年(1340)正月八日の預所朝臣寄進状(東禅寺文書)に、「蟇沼寺今者号東禅寺」とある。蟇沼山補陀落院と号し、真言宗御室派。もと楽音寺法持院末。本尊十一面観音は行基作の立木仏で、中古、落雷による火災のとき鋸で足下を切って持ち出したと伝えられており、秘仏とされている。

 当寺は沼田庄領家側と関係が深く、預所橘氏や弁海名の名主源氏が宗教的拠点とした。鎌倉時代、地頭として小早川氏が来住すると、当寺は領家側と地頭側の勢力の接点となっていたと思われる。東禅寺文書のうち最も古い永仁五年(1297)十月二十二日の地頭尼某下知状によると、当寺の院主職の相論に際し、梨子羽郷地頭尼が裁判権を行使し、裁定を下している。一方、弁海名名主源信成らは元徳二年(1330)に木造四天王立像(県指定重要文化財)を寄進しており(多聞天像胎内墨書銘)、前記橘朝臣寄進状によると、寺院炎上後、修復が進まないので、修理料所として、南方内寂仏・来善・乃力(のうりき)の三名を寄進している。室町時代には諸堂再建と寺院経営に、竹原小早川家代々の当主が力を入れている(東禅寺文書)。

 正和三年(1314)五月十八日の一宮修正会勤行所作人注文(蟇沼寺文書)によると、鎌倉時代より楽音寺が中心になって執行した一宮(現三原市の一宮豊田神社)の修正会には蟇沼寺が牛王導師を務めている。なお応永二十六年(1419)八月日付の東禅寺寺領注文(東禅寺文書)によると、得分は年間、米十石九斗一升六合、吉書林代二貫九文、売田代四貫六百文であった。近世以降は真言密教の祈祷寺となり、明治時代には一時無住のときもあった。東禅寺・楽音寺・弁海名にかかわる中世文書(東禅寺文書)十八通を伝える。また蟇沼寺文書として東大史料編纂所に所蔵される資料もある。

 

 

 「弁海名」(『広島県の地名』平凡社より)

 現本郷町南方。梨子羽郷内の名。弁海名内年貢注文(東禅寺文書)に船木村・尾原村の名が見えるが、いずれも南方の地にある。楽音寺から南へ約1キロ、尾原川の支流三次川中流の谷は現在小船木(こぶなき)と呼ばれ、さらに北西に山を越えると尾原である。弁海名とはこの一帯に広がり、小船木には弁海神社が鎮座し、境内地北側に弁海の小字が残る。弁海神社は、今川了俊の「道ゆきぶり」に「此南によろづ神々いはい奉る中に、おとこ山もいますと申」と記されている。

 正和三年(1314)正月二十日の梨子羽郷預所下文写(稲葉桂氏所蔵文書)に、源信継を弁海名名主職に任じたとあり、預所東禅寺文書により橘氏であることが知られ、地頭小早川氏に対抗する領主川勢力が沼田庄内の存在していたことがわかる。名主職は信継・信賢・信成・孫鶴丸・見月と、暦応三年(1340)まで相承されており、東禅寺に四天王像を寄進した信成は、建武元年(1334)五月十二日に梨子羽郷預所下文写(稲葉桂市所蔵文書)により、羽坂(はさか・羽迫)門田三〇歩の百姓職も与えられた。延文五年(1360)十月八日付と思われる賢阿譲状(東禅寺文書)に弁海名内の田畠・林・屋敷などが見え、明徳四年(1393)三月十一日の和気掃部入道譲状(稲葉桂氏所蔵文書)に「弁海名主分之事」とあり、弁海名は室町時代には竹原小早川家の勢力下にあったと思われ、室町期のものと推定されている弁海名名主職知行注文・弁海名私注文・弁海名内不知行在所注文(東禅寺文書)」には、弁海神社後背地に竹原小早川家代官の屋敷が見える。これらの文書によると弁海名は、田二町五反六十歩、畠六反ほか十五カ所、林九カ所、屋敷三カ所などで構成されていたことがわかる(『広島県の地名』平凡社)」。

 

 

 

    一 地頭尼某下知状

 

              (安芸豊田郡)    東禅寺

 正信房頼実与実道房頼賢相論沼田庄梨子羽郷内蟇沼寺院主職事

 右訴陳之趣、子細雖之、所詮如頼実申者、親父実賢令領之処也、

                         (豊田郡)

 而実賢死去之後、頼実相継之進退領掌之処、聊触縁平坂罷越剋、於

 名田者、令置兄弟等畢云々、如頼賢陳者、実賢死去之後、頼実浄密等

                        (楽音寺)

 相充弘安正検、不勘料段米逐電之間、隆憲申付頼賢、莫大勘料

 段米沙汰仕畢云々、頼実者為乱僧之上、令住他領平坂寺之間、競望

                  

 無其謂欤、頼賢者自師匠隆憲之取之、致勘料段米之沙汰之上、

 為隆憲付属之弟子、其身則浄行也、然者早頼賢令領彼寺務、可

 御祈祷忠勤之状、下知如件、

     (1297)

     永仁五年十月廿二日

  地頭尼(花押)

 

 「書き下し文」

 正信房頼実と実道房頼賢と相論する沼田庄梨子羽郷内蟇沼寺院主職の事

 右訴陳の趣、子細之多しと雖も、所詮頼実の申すごとくんば、「親父実賢之を拜領せしむる処なり、而るに実賢死去の後、頼実之を相継ぎ進退領掌するの処、聊か縁に触れ平坂に罷り越すの剋、件の名田に於いては、兄弟等に預け置かしめ畢んぬ」と云々、頼賢の陳ずるごとくんば、「実賢死去の後、頼実・浄密ら弘安の正検に相充たり、勘料・段米を致さず逐電せしむるの間、隆憲頼賢に申し付け、莫大の勘料・段米を沙汰し仕り畢んぬ」と云々、頼実は乱僧たるの上、他領平坂寺に居住せしむるの間、競望其の謂れ無きか、頼賢は師匠の隆憲の手より之を請け取り、勘料・段米の沙汰を致すの上、隆憲付属の弟子として、其の身則ち浄行なり、然れば早く頼賢に彼の寺務を管領せしめ、御祈祷忠勤を抽づべきの状、下知件のごとし、

 

 「解釈」

 正信房頼実と実道房頼賢とが相論する沼田庄梨子羽郷内蟇沼寺院主職のこと。

 右の訴陳の趣旨には、細かい事情が多いけれども、結局、頼実が申すところによると、「親父実賢が蟇沼寺の院主職を拝領したのである。しかし実賢の死後、私頼実がこれを相続し、領有して支配してきたところ、少しばかり縁があって平坂寺に下向したとき、院主職の給田については、兄弟らに預け置いた」という。頼賢が弁明するところによると、「実賢の死後、頼実や浄密らが弘安の正検注に当たって、勘料や段米を支払わずに逐電したので、楽音寺院主であった隆憲が私頼賢に命じて、私が莫大な勘料や段米を支払った」という。頼実は破戒僧であるうえに、他領である平坂寺に居住しているので、蟇沼寺院主職を競望する理由はないだろう。頼賢は師匠の隆憲の手から院主職を請け取り、勘料や段米を支払ったうえに、隆憲付属の弟子として、その身は戒律を守り清浄である。だから、早く頼賢に蟇沼寺の寺務を掌握させ、御祈祷を忠実に勤めるべきである。下知状は、以上のとおりである。

 

 「注釈」

「進退領掌」

 ─領有して支配する(鄭艶飛「『一円進止』と『進退領掌』の四字熟語化について—中古・中世の土地所有語彙の研究—」『訓点語と訓点資料』第130輯、2014・3、https://www.kanken.or.jp/project/investigation/incentive_award/2014.html)。

 

「平坂寺」

 ─現本郷町船木平坂。古代末期から沼田庄の中心寺院であった真言宗楽音寺と関係の深い寺院の一つで、所在地の地名によって平坂寺と呼ばれた。永仁五年(1297)十月二十二日の地頭尼某下知状(東禅寺文書)に見える蟇沼寺(東禅寺)院主職をめぐる争論のなかに、他領の平坂へ行き、平坂寺に居住している僧は院主職を主張する権利はないとある。正和三年(1314)五月十八日付一宮修正会勤行所作人注文(蟇沼寺文書)によると、一宮(現三原市の一宮豊田神社)修正会の初夜導師は平坂寺があたっており、守護人三人のうちにも平坂寺が見える。継目安堵御判礼銭以下支配状写(小早川家文書)の文明十二年(1480)十月分に「御判御礼銭之事」として「一貫文 平坂寺」とあり、同十九年八月二日分に「一貫文 平坂寺御折カミ御礼銭」とある。天正十四年(1586)二月吉日付の小田景盛寄進状(楽音寺文書)では、平坂寺宥忍法院宛に、釜山(現三原市)の二反のうち一反六斗代の反銭などを末代まで寄進するとしている。天正年間小早川隆景が三原城(現三原市)を整備したとき、平坂寺もともに三原へ移ったが、江戸時代に半ばにはすでに廃寺となっている(『広島県の地名』平凡社)。

 

「浄密」─未詳。僧名か。

 

「正検」

 ─大検注、実検注ともいう。領有地全域を対象として行なわれる検注。領主の代替わりに行なわれる。正検注の結果をまとめて、年貢賦課の基準となる定田を確定し年貢を算定して記載した帳簿を正検注目録(正検目録)、丸帳などという(『古文書古記録語辞典』)。

 

「勘料」

 ─中世、荘園・公領において、調査(勘べ)の結果免税地とされること。この場合、勘料を支払うのが通例であったらしい(『古文書古記録語辞典』)。

 

「段銭」

 ─田地一段別に賦課される公事銭。もと臨時課税であったが、次第に恒常的なものに転化した。米で徴収するものは段米。