周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

妖怪 女面鯉鳥!

「妖怪 女面鯉鳥(にょめんりちょう)」

(『安位寺殿御自記』42巻─4枚目、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0410000000/0000000975/00

 

【史料1】

  長禄四年(1460)原表紙・六月十六日条

        (『経覚私要鈔』4─216・247頁)

 

 (原表紙、自筆)   伊予守所ニ

 長禄四年六月自鎌倉○注進妖物絵図

        武蔵国

        伊豆国いかこの宮出現

                  云々

    (中略)

  〔十六日〕〔辛丑〕

  □□□、□□、[

    (中略)

 〔一〕

 □[     ]帰来云、関東妖物[    ]可京着云々、希代事□、

 

 「書き下し文」

 長禄四年六月鎌倉より伊予守所に注進する妖物絵図、

        伊豆国いかこの宮に出現すと云々、

    (中略)

  十六日、辛丑、[

    (中略)

 一つ、[ ]帰り来りて云く、関東妖物[ ]京着すべしと云々、希代の事□、

 

 「解釈」

 長禄四年(1460)六月鎌倉より伊予守のところに注進された妖怪の絵図。

        武蔵国五十子に出現したという。

    (中略)

  十六日、辛丑。

    (中略)

 一つ、[ ]が帰ってきていうには、関東の妖怪が[ ]京都に到着する予定だという。驚くべきことである。

 

 A picture of a yokai reported to governor of Ehime Prefecture from Kamakura in June 1460. It is said to have appeared in Ikatsuko, Honjo City, Saitama Prefecture.

 Someone came back and said that the yokai captured in Kanto was scheduled to arrive in Kyoto. That's surprising.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「五十子」

 ─いかっこ。北東流する小山川の左岸、本庄台地の東端一帯と見られる中世の地名。現本庄市東五十子・西五十子付近に比定され、北部を女堀川が流れる。関東管領山内上杉房顕は、享徳の乱を中心とした古河公方足利成氏との攻防に際し、五十子に砦を築いて自ら滞陣し、陣頭指揮をとった。これを五十子陣と呼ぶ。房顕の五十子下向は長禄三年(1459)頃と推定され、「鎌倉大草紙」に「房顕ハ武州五十子といふ所に陣取、成氏衆と対陣して、日々夜々の合戦なり」と記される。五十子は上野の白井(現群馬県子持村)・平井(現同県藤岡市)と武蔵の河越、岩付(現岩槻市)および江戸を結ぶ対古河公方防衛戦のほぼ中央に位置し、利根川に沿って進出する古河公方勢に対する押さえにもなった。以後、房顕は五十子に滞陣するが、寛正七年(1466)二月十一日に戦没した(同書)。なお「鎌倉九代後記」はこれを二月十二日のこととする。寛正元年十一月には「一、社務神守院今月廿八日、上州五十子・同河越江下向在之」(「香蔵院珎祐記録」國學院大学図書館蔵)とあり、鎌倉鶴岡八幡宮若宮別当の神守院弘尊が五十子の陣を訪れている。文正元年(1466)十月には、連歌師飯尾宗祇が五十子陣で千句興行を行ない、長尾孫六連歌指南書「長六文」を与えた。なお現存する同書古写本中の一本は、県立博物館に所蔵されている。

 房顕には世嗣がなかったため、その死後、越後守護上杉房定の子顕定が山内上杉氏家督を継いで関東管領に就任し(年欠六月三日「足利義政御内書写」足利家御内書案など)、扇谷上杉定正らとともに五十子陣に滞陣した。文明三年(1471)には関東管領山内上杉顕定をはじめ、越後上杉氏・扇谷上杉氏や武蔵・上野・相模の諸将七千余騎が五十子陣およびその近辺の牧西・小和瀬・滝瀬・阿波瀬・堀田、榛沢(現岡部町)、手計河原(現深谷市)に陣を張っていたという(松蔭私語)。同五年十一月二十四日、足利成氏が五十子陣を攻め、扇谷上杉政真が戦死している(鎌倉大草紙)同八年暮れ、関東管領上杉顕定の家臣長尾景春鉢形城(現寄居町)に拠って主家に反旗を翻して五十子を攻め、翌年一月十八日にも再度急襲を行なったため、顕定・定正らはいったん上野国に逃れた。しかしまもなく、太田資長(道灌)によって五十子の陣は奪回され、顕定・定正らの復帰を見た(同十二年十一月二十八日「太田道灌書状写」松平文庫所蔵文書、「松蔭私語」など)。なお天正八年(1580)十二月一日に鉢形城北条氏邦は長谷部備中守に上野武田方への塩荷の差押えを命じているが、その定められた範囲のなかに五十子が含まれている(「北条氏邦印判状」長谷部文書)。

 本庄台地を開析する女堀川と小山川に挟まれた三─五メートルの舌状の崖上に、五十子陣の砦跡と見られる遺構がある。五十子城跡とも呼ばれ、平坦な台地は南東方向へ接続し、東方の低地内の微高地上を鎌倉街道が南北に通る。五十子陣の中心と伝える東五十子城跡からは、宝篋印塔や五輪塔、板碑を利用した竈、かわらけや瓦片が出土。東五十子に接する西五十子字台では、おびただしい数のかわらけを出土する堀状遺構二箇所や宝篋印塔など利用した竃、同字大塚・諏訪廻からもかわらけが発見されていることなどから、当時の五十子陣は広範囲に渡っていたと考えられる。なお、「武蔵志」の児玉郡東五十子の項に、五十子古城図が載る(『埼玉県の地名』平凡社・)。

 

 

【史料2】

  同年六月十五日条

   (『臥雲日件録抜尤』124頁・『静岡県史 資料編6中世二』1148頁)

 

         (景浦寿睦)     (利根)

 十五日、─等持寺睦蔵主来、因話、関東ト子河出怪物、面女人、身鯉魚、

                 田方郡

 足似鳥、口能言、里落相送、今在伊豆三島、其形為図画、伝于京師、又話、

        コケヤノ ト

 京六条有倉、曰後家屋倉、々主妻、腰以下為蛇体云々、

   (中略)

                       ル シ   サメ   キ シ

 此皆因淫雨之訛言也、又聞、山婆生四子、一曰春好、二曰夏雨、三曰秋好、四曰

  サメ

 冬雨、此依今夏多雨也、

 

 「書き下し文」

 十五日、等持寺睦蔵主来り、因みに話す、関東利根川に怪物出づ、面は女人、身は鯉魚、足は鳥に似る、口能く言ふ、里落相送り、今伊豆三島に在り、其の形図画に為し、京師に伝ふ、又話す、京の六条に倉有り、後家屋の倉と曰ふ、倉主の妻、腰以下蛇体たりと云々、(中略)

 此れ皆淫雨の訛言に因るなり、又聞く、山婆四子を生む、一は曰春好と曰ひ、二は夏雨と曰ひ、三は秋好と曰ひ、四は冬雨と曰ふ、此れ今夏多雨に依るなり、

 

 「解釈」

 十五日、等持寺景浦寿睦蔵主がやってきた。ついでに話した。関東の利根川に怪物が出現した。顔は女人で、身体は鯉、足は鳥に似ている。人語を話すことができる。村人が届けてきて、今は伊豆国の三島にいる。その姿を絵に描き、都に伝えてきた。また話した。京の六条に倉がある。後家屋の倉という。倉主の妻は、腰から下が蛇体であるという。(中略)

 これらの話は、すべて長雨の戯言によるのである。また聞いた。山婆が四人の子どもを生んだ。一人目は春好と言い、二人目は夏雨と言い、三人目は秋好と言い、四人目は冬雨と言う。このような噂話も、今年の夏の大雨が原因である。

 

 On June 15th, Keihozyumoku from Tojiji Temple came. he spoke in passing. A monster appeared in the Tone River in the Kanto region. It has the face of a woman, the body of a carp, and the feet of a bird. It can speak human language. It was delivered by a villager and is now in Mishima City, Shizuoka Prefecture. The picture depicting the monster has been passed down to the capital.

 He told another story. There is a financial company in Rokujo, Kyoto. Its name is Gokeyanokura. He heard that the owner's wife has a snake-shaped lower body.

 These stories are all rumors spread due to the long rains. He told another story. Mountain witch gave birth to four children. The first person's name is Haruyoshi, the second person's name is Natsusame, the third person's name is Akiyoshi, and the fourth person's name is Fuyusame. This rumor was spread due to the heavy rains this summer.

 (I used Google Translate.)

 

 

【考察】

 長禄四年(1460)六月、鎌倉から驚くべき情報が飛び込んできました。なんと、武蔵国の五十子(現在の埼玉県本庄市)で妖怪が捕らえられたのです。伝聞情報だけであれば、たいして珍しくもないのですが、今回はその妖怪の図像も伝わっているのです。しかも、百鬼夜行絵巻のような創作物ではなく、寺僧の日記に書き残されているところが本当に珍しい。

 この妖怪の情報ですが、やや錯綜しているようです。【史料1】と【史料2】の情報を、整合性をつけながらまとめてみると、武蔵国五十子で村人によって捕らえられた妖怪は、伊豆国三島に送られ、いずれ都に連れて来られるはずだ、ということになります。

 さて、注目すべきは、この妖怪の形象描写です。【史料2】によると、「面は女人、身は鯉魚、足は鳥に似る」と記載されています。上記掲載の図像を見てみると、「身体は鯉、足は鳥」という説明には納得できます。ただ、「顔が女」だと言われても、はいそうですか、とはなかなか納得できません。絵画史料論を専門にされている研究者が見れば、女だと気づけるのかもしれませんが、私のような素人では、「面は女人」という表記がなければ、女の顔などとは思いもしなかったことでしょう。やはり、図像だけでは見誤るし、言葉だけでは正確に想像することができないのです。言葉と図像がセットで伝来しているというのは、本当にありがたいことだと思います。

 ちなみに【史料2】には、この妖怪(「女面鯉鳥〈にょめんりちょう〉」と命名)の話題以外にも、二つの怪奇譚が記されています。一つ目は、土倉の妻の下半身が蛇体であるという噂。富裕のシンボルである「倉」、その倉主の「妻(女性)」、「蛇体」というキーワードが揃えば、これは福徳の神「宇賀神」を意味していると見て間違いないでしょう。宇賀神は弁財天の別名でもあるので、おそらく土倉の妻は、宇賀神や弁財天の化身と考えられていたのではないでしょうか(宇賀神については、「室町時代の都市伝説」参照)。

 二つ目は、山姥が子どもを産んだという噂。一人目は春好(はるよし)、二人目は夏雨(なつさめ)、三人目は秋好(あきよし)、四人目は冬雨(ふゆさめ)。春と秋は天候が良く、夏と冬は雨が多いので、このような名前を付けたということなのでしょう。山姥も、なかなか小洒落たキラキラネームを付けるものです。