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仏通寺住持記 その57

 「仏通寺住持記」 その57

 

 (1609)

 十四己酉 永徳派

      仙叔全鶴禅師  〈侍真」長派〉周噋  納所(ママ)

                     〈維那」肯派〉寿慶

      (コノ行ママ、実ハ寛永十四年)

     「於肥前国島原切支丹宗一揆構城」

       (頭注)

       「隆景公十三回忌

            (ママ)        (川)

        新盧山巨真禅寺者、嘉禎元年小早河茂平法名本仏祖元大居士為

                          (璿)

        三代将軍菩提草創之、中興開祖曰應庵祖叡大和尚、二世曰寂室閑

        和尚、三世琴江令薫、四世不白白英、五世寿倫殊椿、

        六世宝洲祖騮、七世玉岩珠、八世千峯壡、九世万年和尚、

        十世義天和尚、十一世曰西岩令周、

        西岩令周者俗姓小泉左京三男、前住真如東福栗棘派下之西堂也、

        西岩西堂末後寂于栗棘庵故塔在東福不二庵、西岩周西堂慶長五年

        兵乱之時当本庵栗棘之輪番在京師、同年安芸中納言毛利輝元

        被貶八州為二州、而後入萩城矣、慶長十四年当隆景公十三回也、

        巨真十一世西岩周西堂慕毛利家至萩城、毛利輝元使巨真寺居小早河

        故臣乃美孫兵衛之旧宅焉、

        元和某年隆景公之室小早川正平女法名慈光院殿月渓永智大姉

        卒于防州山口問田村、于時称問田大方様、毛利家使巨真寺西岩

        作秉炬仏事、而後改問田大方君居処為寺更称黄梅山隆景禅寺、

        従山口遷萩城下、今隆景寺也、」

 

 「書き下し文」

 十四己酉、永徳派、

      仙叔全鶴禅師、侍真長派周噋、納所(ママ・記載なし)、維那肯派寿慶、

      (この行ママ、実は寛永十四年)

     「肥前国島原に於いて切支丹宗一揆城を構ふ」

       (頭注)

       「隆景公十三回忌、

        新盧山巨真山寺は、嘉禎元年小早川茂平法名本仏祖元大居士三代将軍菩提のため之を草創す、中興開祖を應庵祖璿大和尚と曰ふ、二世を寂室閑和尚と曰ふ、三世を琴江令薫、四世を不白白英、五世を寿倫殊椿、六世を宝洲祖騮、七世を玉岩珠、八世を千峯壡、九世を万年和尚、十世を義天和尚、十一世を西岩令周と曰ふ、

        西岩令周は俗姓小泉左京三男、前住真如東福栗棘派下の西堂なり、西岩西堂末後栗棘庵に寂す、故に塔は東福不二庵に在り、西岩周西堂慶長五年兵乱の時本庵栗棘の輪番に当たり京師に在り、同年安芸の中納言毛利の輝元八州を貶されて二州と為る、而して後萩城に入る、慶長十四年隆景公十三回に当てや、巨真十一世西岩周西堂毛利家を慕ひて萩城に至る、毛利輝元巨真寺をして小早川故臣乃美孫兵衛の旧宅に居さしむ、

        元和某年隆景公の室小早川正平の女法名慈光院殿月渓永智大姉防州山口問田村に卒す、時に問田大方様と称す、毛利家巨真寺西岩をして秉炬の仏事を作さしむ、而して後問田の大方君の居処改めて寺と為して更に黄梅山隆景禅寺と称す、山口より萩の城下に遷る、今の隆景寺なり、」

 

 「解釈」

 慶長十四年己酉(1609)、永徳派が番衆を勤める。

      仙叔全鶴禅師が住持を勤める。侍真は長松派周噋。納所(僧名の記載なし)。維那は肯心派寿慶。

      (この行そのまま。実は寛永十四年(1637)の記事)

     「肥前国島原で切支丹宗の一揆が城を構えた。」

       (頭注)

       「隆景公十三回忌である。

        新盧山巨真山寺(のちの米山寺)は、嘉禎元年(1235)小早川茂平法名本仏祖元大居士が三代将軍源実朝の菩提を弔うために創建した。中興開祖を應庵祖璿大和尚という。二世を寂室閑和尚という。三世を琴江令薫、四世を不白白英、五世を寿倫殊椿、六世を宝洲祖騮、七世を玉岩珠、八世を千峯壡、九世を万年和尚、十世を義天和尚、十一世を西岩令周という。

        西岩令周は俗姓小泉左京三男である。前の住職真如は東福寺栗棘庵派下の西堂であった。西岩西堂は最後に栗棘庵で亡くなった。だから塔は東福不二庵にある。西岩周西堂は慶長五年(1600)関ヶ原の戦いのとき、本庵栗棘庵の輪番に当たって京都にいた。同年安芸の中納言毛利輝元は八カ国を没収されて二カ国の領有となった。その後、萩城に入った。慶長十四年(1609)は隆景公十三回忌にあたるか。巨真寺十一世西岩周西堂は毛利家を慕って萩城にやってきた。毛利輝元は西岩令周を小早川家旧臣乃美孫兵衛の旧宅に居住させた。

        元和某年、隆景公の正室である小早川正平の女、法名慈光院殿月渓永智大姉が、周防国山口の問田村で亡くなった。当時は問田大方様と名乗っていた。毛利家は巨真寺西岩に火葬の仏事を行なわせた。その後、問田の大方君の居所を改めて寺として、さらに黄梅山隆景禅寺と名付けた。その後、山口から萩の城下に戻った。今の隆景寺のことである。」

 

 「注釈」

「問田村」

 ─現山口市大字大内御堀。姫山の東南、小鯖川(問田川)の流域にあり、北は御堀村、東は矢田・小鯖両村・山口宰判に属した。

 鎌倉時代初期、大内盛房の次男長房がこの地を知行し、地名を負うて問田三郎と称した。問田氏の居館は代々、下問田の金花山の北麓にあったという。大内弘世が貞治四年(1365)に再建した松崎天満宮(現防府市)棟札の結縁衆の中に問田多々良弘有の名が、応永二三年(1416)の三浦家文書には周防国守護代問田入道がみえ、この頃の興隆寺文書にも、問田氏の名が散見する。

 矢田正左衛門家文書(「閥閲録」所収)によれば、矢田摂津守幸盛は足利義満の時、山名氏清らが起こした明徳の乱の内野合戦での功によって、房州四ヵ村三千四〇〇貫を領したとあるが、そのうちに問田村がみえる。(中略)

 村域内には真言宗御室派多聞寺、浄土宗光厳寺、曹洞宗の地蔵院・仁平寺があり、神社としては仁平寺の鎮守社であった日吉神社、志多里八幡宮がある。

 明治四年(1871)御堀村に合併された(『山口県の地名』平凡社)。

 

 

 つづく