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仏通寺住持記 その58

 「仏通寺住持記」 その58

 

 (1610)

 十五庚戌 両足派

      安渓慶全禅師  〈侍真」永派〉全鶴 納所 守㵎

                       維那 徳岩

     (コノ行ママ、実ハ寛永十五年)

     「将軍家光公命諸将討城殺切支丹三万六千人」

 十六辛亥 大慈

      福翁全智禅師  侍真 慶全  納所(ママ)

               〈維那」肯派〉慶叟全瑞

 十七壬子 肯心派

      悦堂祥淳禅師 〈侍真」大慈派〉全智 〈納所」後改」智霊〉令順

                      維那 周易

 十八癸丑 長松派

      暉運周噋禅師  〈侍真」肯派〉悦堂 納所 全易

                  〈維那」肯派〉寿慶

 十九甲寅 永徳派

      仙叔全鶴禅師  〈侍真」肯派〉悦堂 納所(ママ)

                   〈維那」肯派〉令温

 (一六一五)

 元和乙卯 肯心派 仏通寺住持職之事、任先例可被守務之状如件

          慶長廿年乙卯三月廿五日 全鶴(花押影)

          進上 肯祥庵 衣鉢閣下 此状壱通有永徳院

 住持肯祥庵  慶叟全瑞禅師  侍真 祥淳  納所 永秀

                    維那 永泉

      将軍秀忠公以諸国軍兵大坂落城、五月八日秀頼公伏誅

       (頭注)

      「今歳慶長廿乙卯十一月、十方近郷鳴化啄、以一粒半銭志含暉院

       諸堂大普請成就、 来年十月廿六日普請止供養畢、皆悦堂和上依

       苦労処也云云、肯心林甫、曹源秀龍、瑞雲祖順、長松玄貞、

       林廣守杲、其外皆骨折不可数有之、見肯心之勧進

       周林、令温、寿慶、玄栄等皆大骨折也」

 二 丙辰 正法派

      福翁全智禅師  〈侍真」肯派〉悦堂 納所(ママ)

                   〈維那」自派〉禅養

 三 丁巳 肯心派

      元仲林甫禅師  〈侍真」正法派〉全智 納所 周厳

                       維那 玄祝

 

 「書き下し文」

 十五庚戌、両足派、

      安渓慶全禅師、侍真永派全鶴、納所守㵎、維那徳岩、

 

       (この行ママ、実は寛永十五年)

       「将軍家光公諸将に命じて城を討ち、切支丹三万六千人を殺す、」

 十六辛亥、大慈派、

      福翁全智禅師、侍真慶全、納所(ママ・記載なし)、維那肯派慶叟全瑞、

 十七壬子、肯心派、

      悦堂祥淳禅師、侍真大慈派全智、納所令順、後に改む、智霊、維那周易

 十八癸丑、長松派、

      暉運周噋禅師、侍真肯派悦堂、納所全易、維那肯派寿慶、

 十九甲寅、永徳派、

      仙叔全鶴禅師、侍真肯派悦堂、納所(ママ・記載なし)、維那肯派令温、

 元和乙卯、肯心派、仏通寺住持職の事、先例に任せ務めを守らるべきの状件のごとし、

          慶長二十年乙卯三月二十五日 全鶴(花押影)

          進上 肯祥庵 衣鉢閣下 此の状壱通永徳院に有り、

 住持肯祥庵慶叟全瑞禅師、侍真祥淳、納所永秀、維那永泉、

      将軍秀忠公諸国の軍兵を以て大坂落城、五月八日秀頼公伏誅、

       (頭注)

      「今歳慶長二十乙卯十一月、十方近郷化啄を鳴かして、一粒半銭の志を以て含暉院諸堂の大普請成就、 来年十月二十六日に普請止み供養畢んぬ、皆悦堂和上の苦労に依る処なりと云々、肯心林甫、曹源秀龍、瑞雲祖順、長松玄貞、林廣守杲、其の外皆骨折数ふべからざること之有り、肯心の勧進帖に見へたり、

       周林、令温、寿慶、玄栄等皆大いに骨折るなり、」

 二丙辰、正法派、

     福翁全智禅師、侍真肯派悦堂、納所(ママ・記載なし)、維那自派禅養、

 三丁巳、肯心派、

     元仲林甫禅師、侍真正法派全智、納所周厳、維那玄祝、

 

 「解釈」

 慶長十五年庚戌(1610)、両足派が番衆を勤める。

      安渓慶全禅師が住持を勤める。侍真は永徳派の全鶴。納所は守㵎。維那は徳岩。

 

       (この行そのまま。実は寛永十五年(1638)の記事。)

       「将軍徳川家光公が諸将に命じて城を攻め、切支丹三万六千人を殺した。」

 十六年辛亥、大慈派が番衆を勤める。

      福翁全智禅師が住持を勤める。侍真は慶全。納所(僧名の記載なし)。維那は肯心派の慶叟全瑞。

 十七年壬子、肯心派が番衆を勤める。

      悦堂祥淳禅師が住持を勤める。侍真は大慈派の全智。納所は令順。後に智霊に改められる。維那は周易

 十八年癸丑、長松派が番衆を勤める。

      暉運周噋禅師が住持を勤める。侍真は肯心派の悦堂。納所は全易。維那は肯心派の寿慶。

 十九年甲寅、永徳派が番衆を勤める。

      仙叔全鶴禅師が住持を勤める。侍真は肯心派の悦堂。納所(僧名の記載なし)。維那は肯心派の令温。

 元和元年乙卯(1615)、肯心派が番衆を勤める。仏通寺住持職のこと、先例に任せて職務を全うなさるべきである。

          慶長二十年乙卯(1615)三月二十五日 全鶴(花押影)

          進上 肯祥庵 衣鉢閣下 この補任状一通は永徳院にある。

 住持は肯祥庵慶叟全瑞禅師が勤める。侍真は祥淳。納所は永秀。維那は永泉。

      将軍秀忠公が諸国の兵卒らを使って大坂を落城させた。五月八日豊臣秀頼公が処罰された。

       (頭注)

      「今年慶長二十年乙卯(1615)十一月、寺僧らが近郷のあらゆる場所の民家の門を叩き、寄進された一粒半銭の志によって含暉院の諸堂の大普請を完成させた。来年十月二十六日に普請が終わって、供養も終わる。すべて悦堂和上の尽力によるものだという。肯心派の林甫、曹源秀龍、瑞雲祖順、長松玄貞、林廣守杲、その外、みなの尽力は数えられないほどあった。この内容は、肯心院の勧進帳に見える。

       周林、令温、寿慶、玄栄らみなが大いに尽力したのである。」

 二年丙辰、正法派が番衆を勤める。

     福翁全智禅師が住持を勤める。侍真は肯心派の悦堂。納所(僧名の記載なし)。維那は自派禅養、

 三丁巳、肯心派が番衆を勤める。

     元仲林甫禅師が住持を勤める。侍真は正法派の全智。納所は周厳。維那は玄祝。

 

 「注釈」

「鳴化啄」

 ─未詳。啄木鳥が木をつつくように、「寺僧らが民家の門を叩いて」と訳しておく。

 

「自派」─未詳。

 

 

*以下、史料はまだまだ続くのですが、近世についてはまったく興味がないので、ここで紹介を止めておきます。