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仏通寺住持記 その53

 「仏通寺住持記」 その53

 

 (1597)

 二 丁酉 永徳派

  〈住持」文哉寺〉 梅心薫禅師 再住  侍真 全智  納所 全鶴

      向上 永泉             維那 祖伝

      大庫裡再建立之事、前年十一月二日釿始アリ、翌年三月九日造畢、

      同十三日有殿申

      大檀那隆景公六月十二日尅御逝去、荼毘有七仏事

 

       (付紙)

      「天文二十辛亥十月十三日、毛利之三男高山入城、両新田牢籠、

       高山城易同廿一壬子年六月十一日新高山普請始、同廿六日隆景

       ワタマシアリ、

       文禄元年ニ関白様高麗国取懸ル、隆景公舟木新高山ニ住ルコト

       五十年、則慶長元丙申年迄也、同閏七月九日ゟ十二日迄大地震ユル、

       同閏七月含暉客殿・庫裡再興作事始ル、同秋新高山之城三原江

       御引キニ付、高山御台所ヲ引キ、同十一月二日佛通寺大庫裡御釿

       アリ、三原之御城慶長元年之冬出来仕候、御怱キ被遊候故、昼夜

        (ママ)

       人夫年申候、石垣大石不残舟木城山之石御引キ取被遊候、慶長二年

       春三月九日庫裡造立畢ヌ、同十三日有御殿申御参詣被遊候、同六月

       十二日未刻御逝去有七仏事

       右之様子、明和二年六月御代官早速六郎殿江御目ニ懸ケ申候」

 

 「書き下し文」

 二丁酉、永徳派、

  住持文哉寺梅心薫禅師再住、侍真全智、納所全鶴、向上永泉、維那祖伝、

     大庫裡再び建立の事、前年十一月二日釿始、翌年三月九日造り畢んぬ、同十三日殿申アリ、

      大檀那隆景公六月十二日未尅御逝去、荼毘、七仏事有り、

 

       (付紙)

      「天文二十辛亥十月十三日、毛利の三男高山に入城す、両新田牢籠す、高山城に易へ、同二十一壬子年六月十一日新高山普請始まる、同二十六日隆景移徙有り、

       文禄元年に関白様高麗国へ取り懸かる、隆景公舟木・新高山に住まること五十年、則ち慶長元丙申年までなり、同閏七月九日より十二日まで大地震揺る、同閏七月含暉客殿・庫裡再興の作事始まる、同秋新高山の城三原へ御引きに付け、高山の御台所を引き、同十一月二日佛通寺大庫裡御釿あり、三原の御城慶長元年の冬出で来仕り候ふ、御怱ぎ遊ばされ候ふ故、昼夜人夫申し候ふ、石垣の大石残らず舟木城の山の石を御引き取り遊ばされ候ふ、慶長二年春三月九日庫裡造立し畢んぬ、同十三日御殿申(をんとのもをし)有り御参詣遊ばされ候ふ、同六月十二日未刻御逝去し七仏事有り、

       右の様子、明和二年六月御代官早速六郎殿へ御目に懸け申し候ふ、」

 

 「解釈」

 慶長二年丁酉(1597)、永徳派が番衆を勤める。

  文裁寺の梅心薫禅師が再び住持を勤める。侍真は全智。納所は全鶴。向上寺住持は永泉が勤める。維那は祖伝。

     大庫裡を再び建立すること。前年十一月二日に釿始(起工式)があった。翌年三月九日に造り終わった。同十三日小早川隆景様へ完成を知らせ申し上げた。

      大檀那小早川隆景公が六月十二日未の刻にお亡くなりになった。荼毘に付した。忌日法要が行われた。

 

       (付紙)

      「天文二十年辛亥(1551)十月十三日、毛利の三男隆景が高山城に入城した。二人の新田氏が没落した。高山城に替えて、同二十一壬子年(1552)六月十一日に新高山城の普請が始まった。同二十六日に小早川隆景公がお引越しになった。

       文禄元年(1592)に関白豊臣秀吉様が高麗国へ攻めかかった。小早川隆景公は舟木や新高山に留まること五十年、つまり慶長元丙申年(1596)までである。同閏七月九日から十二日まで大地震があった。同閏七月含暉院の客殿と庫裡再建の作業が始まった。同秋、新高山城から三原城へお引越しになることにつけて、(新?)高山城の御台所もそのまま引っ越した。同十一月二日仏通寺大庫裡の竣工式が行なわれた。三原城は慶長元年(1596)の冬に完成しました。お急ぎになりましたので、昼夜を問わず人夫働かせました。石垣の大石は、舟木城の山の石を残らずお取り寄せになりました。慶長二年(1597)春三月九日庫裡が完成した。同十三日に小早川隆景様へ完成を知らせ申し上げた。当寺へご参詣になりました。同六月十二日未刻にお亡くなりになり、忌日法要を行なった。

       右の出来事は、明和二年(1765)六月に御代官早速六郎殿へお目にかけ申しました。」

 

 「注釈」

「文哉寺」

 ─現広島県世羅郡世羅町大字赤屋の文裁寺。高山(564メートル)の南麓に位置し、曹洞宗。鳳栖山と号し、本尊十一面観音。「芸藩通志」に、高山(こうやま)城主天野能久(法名鳳栖院文裁道周)が建立し、のち和知時実が修理したとあり、里人の伝えとして曾我兄弟の菩提を弔うため尼になった大磯の虎と化粧坂の少々の開基で、両尼の遺物という古笈を蔵し、本尊は虎が負い来たものと記す。赤屋川上流、谷の西側の明覚寺跡の石塔群のうち、宝篋印塔二基を両尼の墓と伝える(「文裁寺」『広島県の地名』平凡社)。

 

「(御)殿申」

 ─未詳。ここでは(御)殿・小早川隆景に、大庫裡の完成を知らせ申し上げたと訳しておきます。

 

 

 つづく