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仏通寺住持記 その42

 「仏通寺住持記」 その42

 

 (1555)

 弘治乙卯 永徳派

*元就討陶全  慈雲忠禅師 再住 〈侍真」大慈派〉祖秀  納所 永淳

 姜     向上寺 慶貴        〈維那」大慈派〉聖育

       (記・頭注)

       「天文廿四乙卯十月朔日、陶討毛利当家、於厳島塔岡被及戦場、

                      (河)

        御弥山御取退死去候、同弘中三川守同前候、其外防州衆数千人

        (討)        (珂)

        打死候、同十三日於玖河、是も七八千人討死、其外数不知候」

      (記)「長松派」

 二 丙辰 両足派

      覚簠等禅師 肯派  侍真 周等 納所 周慶

      〈観白」肯派〉全桑  向上寺 永林 〈維那」肯派〉文賀

(ママ)

*三 丁巳 大慈派    巳二月千畝和尚之百年忌

      義葩仁禅師 黄梅院  侍真 玄亮  納所 宗麟

      向上寺 全昌  維那 天沢聖育

 永禄元年戊午             (川)

 仏殿上葺、大 巳二月毛利元就父子、小早河隆景発向、防州

 檀那平隆景公、 山口御屋形様者至長州昌福寺御生害

 施主旦那原田 巳之六月、毛利元就父子、小早川隆景三家、於

 備前守綱通、 厳島万部、自十四日至廿四日成就、当山五十人

 同施入主傘井         

 五郎三郎倫吉、 出、門徒寺共経堂者百四人於観音堂也、

 自三月十六日       (元就)ノ

 至八月廿日相 巳十月晦日、隆景大方妙玖十三回忌就于当寺頓

 調     写宿忌、当住焼香、拈香者竹原法常寺、其外竹

 但シ檜皮葺也 原五家寺衣申、同都合百俵百貫也

 

 「書き下し文」

 弘治乙卯、永徳派、

*元就陶全姜を討つ、

      慈雲忠禅師再住、侍真大慈派祖秀、納所永淳、向上寺慶貴、維那大慈派聖育、

       (記・頭注)

       「天文二十四乙卯十月朔日、陶毛利と当家を討つ、厳島塔岡に於いて戦場に及ばる、御弥山に御取り退き死去し候ふ、同弘中三河守同前に候ふ、其の外防州衆数千人討死し候ふ、同十三日玖河に於いて、是れも七、八千人討死す、其の外数知らず候ふ」

 二丙辰、両足派(記・長松派)、

      覚簠等禅師、肯派、侍真周等、納所周慶、観白肯派全桑、向上寺永林、維那肯派文賀、

*三丁巳、大慈派、巳の二月千畝和尚の百年忌、

      義葩仁禅師、黄梅院、侍真玄亮、納所宗麟、向上寺全昌、維那天沢聖育、

 永禄元年戊午仏殿上葺す、大檀那平隆景公、施主旦那原田備前守綱通、同施入主傘井五郎三郎倫吉、三月十六日より八月二十日に至るまで相調ふ、但し檜皮葺なり、

  巳の二月毛利元就父子、小早川隆景発向す、防州山口御屋形様は長州昌福寺に至り御生害、巳の六月、毛利元就父子、小早川隆景三家、厳島に於いて万部、十四日より二十四日に至り成就、当山五十人を出だす、門徒の寺ともに、経堂には百四人、観音堂に於いてなり、巳の十月晦日、隆景の大方妙玖十三回忌、当寺に就き頓写・宿忌、当住焼香、拈香は竹原法常寺、其の外竹原五家寺衣を申す、同都合百俵百貫なり、

 

 「解釈」

 弘治元年乙卯(1555)、永徳派が番衆を勤める。

毛利元就陶晴賢を討った。

      慈雲忠禅師が再び住持を勤める。侍真は大慈派の祖秀。納所は永淳。向上寺住持は慶貴が勤める。維那は大慈派の聖育。

       (記・頭注)

       「天文二十四年乙卯(1555)十月朔日、陶が毛利と当家を討伐した。厳島塔の岡で交戦した。弥山に後退し死去しました。同じく弘中隆包も討死しました。その外、防州衆は数千人が討死しました。同十三日には周防国玖河で、これも七、八千人が討死した。その外の戦死者の数は分かりません。」

 二年丙辰、両足派(記・長松派)が番衆を勤める。

      肯心派の覚簠等禅師が住持を勤める。侍真は周等。納所は周慶。観白は肯心派の全桑。向上寺住持は永林が勤める。維那は肯心派の文賀。

*三年丁巳、大慈派が番衆を勤める。今年の二月は千畝和尚の百年忌。

      黄梅院の義葩仁禅師が住持を勤める。侍真は玄亮。納所は宗麟。向上寺住持は全昌が勤める。維那は天沢聖育。

 永禄元年戊午仏殿の上葺を行なった。大檀那は平隆景公、施主旦那は原田備前守綱通、同じく施入主は傘井五郎三郎倫吉。三月十六日から八月二十日に至るまで調整作業をした。ただし檜皮葺である。

  今年の二月、毛利元就父子と小早川隆景が出陣した。防州山口御屋形様大内義長は長門国長福寺にやってきて御自害になった。今年の六月、毛利元就父子と小早川隆景の三家は、厳島で万部経会を営んだ。十四日から二十四日までの期間で結願した。仏通寺からは五十人の人員を派遣した。門徒中の僧侶とともに、法会を営んだお堂には百四人が集まった。観音堂で行なわれたのである。

  今年の十月晦日、隆景の母妙玖の十三回忌を仏通寺で行ない、頓写・宿忌を営んだ。当住は焼香役、拈香役は竹原法常寺、その外竹原の五家が法衣を用意し申した。費用の合計は百俵百貫文である。

 

 「注釈」

「黄梅院」

 ─現広島県三次市吉舎町雲通。丸田村の東南、三𧮾郡の東南端に位置する山村で、南は世羅郡と境を接する。馬洗川の支流戸張川流域に耕地と民家があるほか、水呑山(557メートル)の麓の水呑谷や葛籠谷に飛脚がある。(中略)

 当地の諏訪神社建御名方神を祀り、肥前国長崎の諏訪神社を勧請したものという。旧社。臨済宗仏通寺派霊蓋山黄梅院は、文明四年(1472)の創建と伝え、もと村内梅の木谷にあったが、天文四年(1535)現在地に移ったと伝える(「雲通村(うづいむら)」『広島県の地名』平凡社)。

 

「法常寺」

 ─三原市西宮町。三原八幡宮の北西丘陵南麓にある。東日山と号し曹洞宗。本尊釈迦如来。「三原志稿」によると、もと天台宗で東日山法輪常転禅寺といい、賀茂郡新庄村(現竹原市)木村城跡の北にあった竹原小早川氏の菩提寺。天文十八年(1549)小早川興景が大休を請じて曹洞宗に改宗。元亀二年(1571)七月三日付毛利氏奉行人連署打渡状(当寺文書)に「三原之内法常寺」とあり、この頃には移されていることがわかる。文禄二年(1593)十一月十七日付の小早川氏奉行人連署書状(同文書)に法常寺山境が示される。慶長二年(1597)隆景の葬儀は当寺で行われた(『広島県の地名』平凡社)。

 

「昌福寺」

 ─長福寺の誤記か。現下関市長府豊浦村の功山寺。長府地域の西部にあり、総門をくぐると左に地蔵堂、坂を登ると三重門の山門があり、前方に仏殿がある。右に法堂と鐘楼、仏殿の裏には長府藩主の墓所がある。曹洞宗で金山と号し、本尊は釈迦如来

 「豊府志略」によれば嘉暦二年(一三二七)虚庵玄寂により開創され、当時は臨済宗で長福寺といった。

 弘治三年(1557)大内義長の自刃の場となってから戦乱で荒廃したが、のちには一八〇石四升八合の寺領を与えられている(毛利氏八ヶ国時代分限帳)。(中略)

 功山寺仏殿は国宝で嘉暦二年の創建といわれるが、内陣柱上部に「此堂元応二年卯月五日柱立」の墨書がある。二重屋根の化粧棰は放射線状に配置されていて扇棰と称し、入母屋造の屋根は曲線を描き、唐様建築の特徴をみせる。ほかに県指定有形文化財として木造地蔵菩薩半跏像があり、市指定文化財として山門・旧境内地・輪蔵・書院がある(『山口県の地名』平凡社)。

 

 

 つづく