「仏通寺住持記」 その49
(1585)
十三乙酉 永徳派
長裔慶禅師 侍真 永泉 納所 智易
向上 玖巌玉禅師 維那 智継
十四丙戌 正覚派
覚叟周等禅師 侍真 周賢 納所 智恩
向上納所 永泉 維那 慶闐
戦死者ノ為メニ隆 玆歳施餓鬼江隆景公御参詣アリ、同鎮守上葺、
景公施餓鬼会営ム 亦木屋上葺アリ、又雨百日降、日百日魃
十五丁亥 大慈派
関白九州発足 梅心薫禅師 侍真 浄真 納所 全菊
備前衆当寺破 向上 全守 〈維那」代〉宗宝
損
十六戊子 慈雲派
〈遷化〉 璨忍通禅師 侍真 奝運 納所 全鶴
向上 恵全 維那 周賢
(頭注)
「 制札 仏通寺
右当山中竹木採用之事、堅令二制止一事、
若此旨諸郷違背之村於有之者、従寺家可有注進、
対其地下地中遂糺明、其内族之者則時可処罪科者
也、仍如件、
(1588) (隆景)
天正十六稔六月 日 (花押写)
「書き下し文」
十三乙酉、永徳派、
長裔慶禅師、侍真永泉、納所智易、向上玖巌玉禅師、維那智継、
毛利・小早川伊予に至り出張するなり、諸要害悉く落居、并びに国中の侍衆生害するなり、
十四丙戌、正覚派、
覚叟周等禅師、侍真周賢、納所智恩、向上納所永泉、維那慶闐、
戦死者の為に隆景公施餓鬼会を営む、
玆の歳施餓鬼へ隆景公御参詣あり、同鎮守上葺、亦木屋上葺あり、又雨百日降る、日百日魃、
十五丁亥、大慈派、
関白九州へ発足す、備前衆当寺破損す、
梅心薫禅師、侍真浄真、納所全菊、向上全守、維那代宗宝、
十六戊子、慈雲派、
遷化、璨忍通禅師、侍真奝運、納所全鶴、向上恵全、維那周賢、
(頭注)
「 制札 仏通寺
右当山中竹木採用の事、堅く制止せしむる事、若し此の旨に違背する諸郷の村之有るに於いては、寺家より注進有るべし、其の地下中に対し糺明を遂げ、其の内の族は、即時に罪科に処すべき者なり、仍て件のごとし、」
「解釈」
天正十三年乙酉(1585)、永徳派が番衆を勤める。
長裔慶禅師が住持を勤める。侍真は永泉。納所は智易。向上寺住持は玖巌玉禅師が勤める。維那は智継。
毛利・小早川が伊予に出陣したのである。多くの要害はすべて落城した。あわせて国中の侍衆が自殺したのである。
十四年丙戌、正覚派が番衆を勤める。
覚叟周等禅師が住持を勤める。侍真は周賢。納所は智恩。向上寺納所は永泉。維那は慶闐。
戦死者のために小早川隆景公が施餓鬼会を執行した。
この年、施餓鬼へ隆景公がご参詣になった。同年、鎮守の上葺を行なった。また木屋の上葺も行なった。また雨が百日間降り続いた。百日間、日照りが続いた。
十五年丁亥、大慈派が番衆を勤める。
梅心薫禅師が住持を勤める。侍真は浄真。納所は全菊。向上寺住持は全守が勤める。維那代は宗宝。
十六年戊子、慈雲派が番衆を勤める。
璨忍通禅師が住持を勤める。この年に亡くなった。侍真は奝運。納所は全鶴。向上寺住持は恵全が勤める。維那は周賢。
(頭注)
「 制札 仏通寺
右、当山中の竹木の伐採・使用を厳しく制止させること。もしこの取り決めに違背する諸郷の村があれば、寺家から急ぎ報告しなければならない。その在地の村に対して事実を糺明し、そのうち違反した連中は、すぐに処罰するべきものである。制札の内容は以上のとおりである。」
*頭注の文書は「仏通寺文書44」でも紹介しています。
つづく