「仏通寺住持記」 その48
(1580)
八 庚辰 両足派
笑岩周慶禅師 〈侍真」東昇院雇〉全鶴 納所 周憶
向上 周璉 維那 清存
棟札有之
殿司聖誾、衣 友山周善禅師 侍真 長裔禅師 〈納所」清泰〉全守
鉢侍者周珍、
祠堂恵信、茶 向上 文操 観白 周沢 維那 全智
堂周量、浴司
文篤、仏餉周
慶、飯頭周珍、
汁司周倫、菜
司昌吟
十 壬午 慈雲派 玆歳客殿再興、始木屋組替瓦始而葺也
(記)「巌」
雪岩継禅師〈再住」重玄寺〉 侍真 齢寿 納所 令順
向上 仁仲 維那 元菊
羽柴於備前・備中境陣取、輝元・隆景相陣張之処、
(ママ)
六月二日於京之二条本能寺信長生害、則右之対陣引
十一癸未 肯心派 玆歳風呂之再興、山門之上葺始而瓦改焉也
慶祝賀禅師 侍真 智継 〈納所」代〉周宗
向上納所 祖鶴 維那 祥淳
十二甲申 長松派
安心菊禅師 〈侍真」代〉周賢 納所 全鶴
向上納所 奝運 維那 齢椿
(河) 天正十二年斯年干魃百六十日也、同鐘楼再建立
与州高野六十 同伊与国主河野四郎通直当国江渡海、五月十二日着岸
五代之主君也
「書き下し文」
八庚辰、両足派、
笑岩周慶禅師、侍真東昇院雇ひ全鶴、納所周憶、向上周璉、維那清存、
九辛巳、大慈派、天正九年含暉仏殿の上葺、曾木の檜皮相調ふるなり、棟札之有り、
殿司聖誾、衣鉢侍者周珍、祠堂恵信、茶堂周量、浴司文篤、仏餉周慶、飯頭周珍、汁司周倫、菜司昌吟、
友山周善禅師、侍真長裔禅師、納所清泰全守、向上文操、観白周沢、維那全智、
十壬午、慈雲派、玆の歳客殿再興、始めに木屋を組み替ふ、瓦に始めて葺くなり、
雪岩継(記・雪巌継)禅師、再住、重玄寺、侍真齢寿、納所令順、向上仁仲、維那元菊、
羽柴備前・備中の境に於いて陣取る、輝元・隆景相陣を張るの処、六月二日京の四条本能寺に於いて信長生害、則ち右の対陣を引く、
十一癸未、肯心派、玆の歳風呂の再興、山門の上葺始めて瓦に焉を改むるなり、
慶祝賀禅師、侍真智継、納所代周宗、向上納所祖鶴、維那祥淳、
十二甲申、長松派、
安心菊禅師、侍真代周賢、納所全鶴、向上納所奝運、維那齢椿、
天正十二年斯の年干魃百六十日なり、同鐘楼再び建立、同伊与国主河野四郎通直当国へ渡海、五月十二日に着岸、
与州高野六十五代の主君なり、
「解釈」
天正八年庚辰(1580)、両足派が番衆を勤める。
笑岩周慶禅師が住持を勤める。侍真は東昇院が雇った全鶴。納所は周憶。向上寺住持は周璉が勤める。維那は清存。
九年辛巳、大慈派が番衆を勤める。天正九年、含暉院の仏殿の上葺を行なった。檜皮を用意した。棟札がある。
殿司は聖誾、衣鉢侍者は周珍、祠堂は恵信、茶堂は周量、浴司は文篤、仏餉は周慶、飯頭は周珍、汁司は周倫、菜司は昌吟。
友山周善禅師が住持を勤める。侍真は長裔禅師。納所は清泰全守。向上寺住持は文操が勤める。観白は周沢。維那は全智。
十年壬午、慈雲派が番衆を勤める。この年、客殿を再興した。はじめに材木小屋を作り替えた。初めて瓦で葺いたのである。
重玄寺の雪岩継(記・雪巌継)禅師が再び住持を勤める。侍真は齢寿。納所は令順。向上寺住持は仁仲が勤める。維那は元菊。
羽柴秀吉が備前・備中の境に陣取った。毛利輝元と小早川隆景がともに陣を張っていたところ、六月二日に京の四条本能寺で信長が自害した。すぐに右の陣を引いた。
十一年癸未、肯心派が番衆を勤める。この年風呂を再興した。山門の上葺を行なった。初めて瓦に改めたのである。
慶祝賀禅師が住持を勤める。侍真は智継。納所代は周宗。向上寺納所は祖鶴。維那は祥淳。
十二年甲申、長松派が番衆を勤める。
安心菊禅師が住持を勤める。侍真代は周賢。納所は全鶴。向上寺納所は奝運。維那は齢椿。
天正十二年、この年干魃が百六十日続いた。同年、鐘楼を再建した。同年、伊与国主河野四郎通直が安芸国へ渡海してきた。五月十二日に着岸した。
「注釈」
「東昇院」
─東広島市西条町郷曽。小比曽にある臨済宗仏通寺派御許山東昇院は、仏通寺(現三原市)の塔頭を明治三〇年(1897)に移したもの。本尊は薬師如来(「小比曽大河内村」『広島県の地名』平凡社)。
「曾木」─檜のことか。
つづく