「仏通寺住持記」 その46
(四)
六月ニ始
元亀庚午 慈雲派 二月大地震、面橋再興
住持梵継〈備中国」重玄寺〉 侍真 智通 納所 周柏
向上 文賀 維那 周印
二 辛未 祥雲派 諸役者悉大通院衆也
吉田大通院 浩雲周養禅師 侍真 祥的 納所 周柏
〈向上」得岩〉祖育 観白 光林本禅師 維那 周超
此番僧堂再興、自六月十一日始而八月廿日成就
堅依于輪番拒辞、元亀元年霜月入院
茲歳六月十四日毛利陸奥守逝去、享年七十五歳、
同七月廿八日於于当寺、僧衆三百人之志、隆景
公御弔在之、頓写拈香
三 壬申 長松派
朋山信禅師 再住 侍真 周印 納所 全菊
金龍院主 忠海之浄居庵主
向上 璨忍通禅師 維那 英誾
申歳十月廿日、一笑百年忌於当寺門徒中在斎、
旦那寮之上葺、風呂之再興
元亀四年之六
月開元則
天正癸酉 永徳派 御所城御退、天下再三兵乱
来室永淳禅師 侍真 聖繁 納所 善祝
向上 智岱 観白 長裔禅師 〈維那」代〉周沢
二 甲戌 正覚派 此年天下五十日魃
覚叟等禅師 侍真 周印 納所 周慶
向上 周璉 〈維那」代〉全鶴
「書き下し文」
(四)
六月に始む
元亀庚午、慈雲派、二月大地震、面橋再興す、
住持梵継、備中国重玄寺、侍真智通、納所周柏、向上文賀、維那周印、
二辛未、祥雲派、諸役者悉く大通院衆なり、
吉田大通院、浩雲周養禅師、侍真祥的、納所周柏、向上得岩祖育、観白光林本禅師、維那周超、
此の番に僧堂再興、六月十一日より始めて八月二十日に成就す、堅く輪番拒辞により、元亀元年霜月に入院、
茲の歳六月十四日毛利陸奥守逝去、享年七十五歳、同七月二十八日当寺に於いて、僧衆三百人の志、隆景公御弔ひ之在り、頓写拈香、
三壬申、長松派、
朋山信禅師、再住、侍真金龍院主周印、納所忠海の浄居庵主全菊、向上璨忍通禅師、維那英誾、
申の歳十月二十日、一笑百年忌当寺に於いて門徒中斎在り、
旦那寮の上葺、風呂の再興、
元亀四年の六月に開元則ち
天正癸酉、永徳派、御所城を御退く、天下再三兵乱、
来室永淳禅師、侍真聖繁、納所善祝、向上智岱、観白長裔禅師、維那代周沢、
二甲戌、正覚派、此の年天下五十日魃
覚叟等禅師、侍真周印、納所周慶、向上周璉、維那代全鶴、
「解釈」
四月に始まる。
元亀元年庚午(1570)、慈雲派が番衆を勤める。二月大地震があった。面橋を再興した。
備中国重玄寺の梵継が住持を勤める。侍真は智通。納所は周柏。向上寺住持は文賀が勤める。維那は周印。
二年辛未、祥雲派が番衆を勤める。諸役者はみな大通院の僧衆である。
吉田大通院の浩雲周養禅師が住持を勤める。侍真は祥的。納所は周柏。向上寺住持は得岩祖育が勤める。観白は光林本禅師。維那は周超。
この番で僧堂を再興した。六月十一日から始めて八月二十日に完成した。祥雲派は強く輪番を断ったので、元亀元年十一月に寺に入った。
この年六月十四日毛利陸奥守元就がお亡くなりになった。享年七十五歳。同七月二十八日当寺で、僧衆三百人による供養と小早川隆景公のお弔いがあった。頓写・拈香を行なった。
三年壬申、長松派が番衆を勤める。
朋山信禅師が二度目の住持を勤める。侍真は金龍院主の周印。納所は忠海の浄居庵主全菊。向上寺住持は璨忍通禅師が勤める。維那は英誾。
今年の十月二十日、一笑禅慶の百年忌を当寺で営んだ。門徒中の斎があった。
旦那寮の上葺をした。風呂が再興された。
元亀四年の七月に改元。
天正元年癸酉(1573)、永徳派が番衆を勤める。御所足利義昭様が槙島城をお退きになった。国中でたびたび兵乱が起きた。
来室永淳禅師が番衆を勤める。侍真は聖繁。納所は善祝。向上寺住持は智岱が勤める。観白は長裔禅師。維那代は周沢。
二年甲戌、正覚派が番衆を勤める。この年、国中で五十日の旱魃が起きた。
覚叟等禅師が住持を勤める。侍真は周印。納所は周慶。向上寺住持は周璉が勤める。維那代は全鶴。
「注釈」
「浄居庵」
─広島県竹原市忠海中町の曹洞宗浄居寺(https://sites.google.com/site/tadanoumis/212中世忠海の石塔に見る宇津と脇)。
つづく