「仏通寺住持記」 その47
(1575)
三 乙亥 大慈派
大翁奕禅師 再住 侍真 泰月 〈納所」代〉智参
向上 恵允 〈観白」代〉周沢 維那 全守
毛利小早川至二備中口一出張、松山尾州生涯、其外国中侍衆生涯也、
又追罰是多矣、旱前年同也、
四 丙子 慈雲派
朋山信禅師 再三住 〈侍真」永派〉智泰 〈向上」肯派〉極楽寺
向上納所 全鶴 〈維那」代〉齢寿 納所 宗玉
五 丁丑 肯心派
華屋曇禅師 侍真 智泉 〈納所」代〉祖菊
向上 全寿 〈維那」代〉祥淳
天正五年三月十八日、於厳島万部、同廿八日結巻、当山五十員出門徒中
之僧呂百十人、経堂観音堂也
六 戊寅 長松派
璨忍智通禅師 侍真 玄菊 納所 長琳
向上 全普 観白 安心菊禅師 維那 全鶴
(記・天正八年ノ項ニアリ)
七 己卯 永徳派 「玆歳捴門之上葺瓦改之、百二十六貫文入目也」
玖巌玉禅師 侍真 智継 納所 智岱
向上 長裔 〈維那」代〉全智
卯歳芸州与宇喜多引分、隆景至作州越年、備中備前両国間戦場半也
「書き下し文」
三乙亥、大慈派、
大翁奕禅師再住、侍真泰月、納所代智参、向上恵允、観白代周沢、維那全守、
毛利小早川備中口に至り出張、松山尾州生涯、其の外国中の侍衆生涯するなり、又追罰是れ多し、旱の前年に同じなり、
四丙子、慈雲派、
朋山信禅師再三住す、侍真永派智泰、向上肯派極楽寺、向上納所全鶴、維那代齢寿、納所宗玉、
五丁丑、肯心派、
華屋曇禅師、侍真智泉、納所代祖菊、向上全寿、維那代祥淳、
天正五年三月十八日、厳島に於いて万部、同二十八日結願、当山五十員出だす、門徒中の僧呂百十人、経堂は観音堂なり、
六戊寅、長松派、
璨忍智通禅師、侍真玄菊、納所長琳、向上全普、観白安心菊禅師、維那全鶴、
(記・天正八年の項にあり)
七己卯、永徳派、「玆歳捴門の上葺を瓦之に改む、百二十六貫文入目なり」
玖巌玉禅師、侍真智継、納所智岱、向上長裔、維那代全智、
卯の歳芸州と宇喜多引き分く、隆景作州に至り越年す、備中・備前両国の間戦場半ばなり、
「解釈」
大翁奕禅師が再び住持を勤める。侍真は泰月。納所代は智参。向上寺住持は恵允が勤める。観白代は周沢。維那は全守。
毛利・小早川が備中口まで出陣した。松山尾張守が自害した。その外、国中の侍衆も自害したのである。また後から罰することも多かった。日照りは前年と同じである。
四年丙子、慈雲派が番衆を勤める。
朋山信禅師がたびたび住持を勤める。侍真は永徳派の智泰。向上寺住持は肯心派の極楽寺が勤める。向上寺納所は全鶴。維那代は齢寿。納所は宗玉。
五年丁丑、肯心派が番衆を勤める。
華屋曇禅師が住持を勤める。侍真は智泉。納所代は祖菊。向上寺住持は全寿が勤める。維那代は祥淳。
天正五年三月十八日、厳島に於いて万部経会を行なう。同二十八日に結願した。当山から五十人を出した。門徒中の僧呂は百十人。経典を読むお堂は観音堂であった。
六年戊寅、長松派が番衆を勤める。
璨忍智通禅師が住持を勤める。侍真は玄菊。納所は長琳。向上寺住持は全普が勤める。観白は安心菊禅師。維那は全鶴。
七年己卯、永徳派が番衆を勤める。「この年、総門の上葺を瓦に改めた。費用は百二十六貫文である」(記・天正八年の項にあり)
玖巌玉禅師が番衆を勤める。侍真は智継。納所は智岱。向上寺住持は長裔が勤める。維那代は全智。
今年、芸州毛利と宇喜多が引き分けた。小早川隆景は作州にやって来て、そこで年を越した。備中・備前の両国の間は、戦場の中間地点であった。
「注釈」
「極楽寺」
─未詳。現広島県庄原市西城町八鳥の極楽寺のことか。蟻腰城跡の東麓にある。仏通山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。「芸藩通志」に「天文年間、当村故城主東兵部政幸創立、天正甲戌、僧白翁中興、政幸の位牌あり」とみえる。
蟻腰城主東政幸の創建になり、その後衰微し天正二年(1574)菅の徳雲寺(現東城町)僧白翁が再興したというが、享保十六年(1731)の火災で縁起などを失ったため詳細は不明である。なお東政幸の法名は極楽寺殿丈安正室大居士で、当寺に伝わる「当寺開基丈安正室居士」の位牌は「国郡志下調書出帳」にも載るが、年号は記されていない(『広島県の地名』平凡社)。
つづく