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いつまで経っても修行中

仏通寺住持記 その41

 「仏通寺住持記」 その41

 

 (1553)

 廿二癸丑 祥雲派   七月陶殿石州吉見殿取懸

      宗山超禅師   侍真 契允  納所 周泰

      向上寺 宗全         維那代 順甫

          (記)「自五月八月

      天文廿二癸丑自五月大旱、其外病事人民矣

            後門廊下檜皮葺作之也、再三興也

 廿三甲寅 長松派   仏殿須弥檀(壇)之再興也、三原町助三

            郎塗師

               (記)「日」

      文海周宗禅師   侍真 如休  納所 智全

      向上寺 祖幸 (記)「乙卯」此年向上寺鐘 維那 珪岳

               町衆寄附也

      甲寅四月自上旬防州芸州取相、毛利当家押領

      至桜尾出張、同年七月廿八日大風

      (頭注)

      「舎利塔之内数之事

        大皿  一ヶ

        小皿  二ヶ

        盞子  二ヶ

       大壺之内九十九仏舎利

       小壺之内七粒、愚中和尚舎利

             (六)

       角壺之内四十立粒

       以上壺数三之内、百五十二粒也

       又、小壺一ヶ有

       天文廿四年乙卯二月十五日、長松派之時同前

       両足派之時、祖等判、住山周宗判、侍真如休判、

       納所智全判、維那珪岳判」

 

 「書き下し文」

 二十二癸丑、祥雲派、七月陶殿石州吉見殿へ取り懸く、

      宗山超禅師、侍真契允、納所周泰、向上寺宗全、維那代順甫、

      天文二十二癸丑(記)五月より八月に至るまで大旱、其の外病事人民に多し、

 二十三甲寅、長松派、後門廊下の檜皮葺之を作るなり、再三興すなり、仏殿の須弥壇の再興なり、三原町助三郎塗師

      文海周宗禅師、侍真如休(記・日休)、納所智全、向上寺祖幸、(記)「乙卯」此の年向上寺の鐘町衆寄附するなり、維那珪岳、

      甲寅四月上旬より防州と芸州取り相ふ、毛利・当家押領す、桜尾の出張に至る、同年七月二十八日大風、

      (頭注)

      「舎利塔の内数の事、

        大皿  一ヶ、

        小皿  二ヶ、

        盞子  二ヶ、

       大壺の内九十九仏舎利粒、

       小壺の内七粒、愚中和尚舎利、

       角壺の内四十六粒、

       以上壺数三の内、百五十二粒なり、

       又、小壺一ヶ有り、

       天文二十四年乙卯二月十五日、長松派の時と同前、

       両足派の時、祖等判、住山周宗判、侍真如休判、

       納所智全判、維那珪岳判」

 

 「解釈」

 天文二十二年癸丑(1553)、祥雲派が番衆を勤める。七月陶晴賢殿が石見国の吉見正頼殿へ攻めかかった。

      宗山超禅師が住持を勤める。侍真は契允。納所は周泰。向上寺住持は宗全が勤める。維那代は順甫。

      天文二十二癸丑(記)五月より八月に至るまで大旱魃だった。その外に疫病にかかる人々が多かった。

 二十三年甲寅、長松派が番衆を勤める。後門の廊下の屋根を檜皮葺にした。たびたび葺き替えている。仏殿の須弥壇を再興した。三原町の助三郎が塗師である。

      文海周宗禅師が住持を勤める。侍真は如休(記・日休)。納所は智全。向上寺住持は祖幸が勤める。(記)翌弘治元年乙卯(1555)、向上寺の鐘を町衆が寄付した。維那は珪岳。

      今年四月上旬から、周防国大内氏安芸国の毛利氏が互いの領地を奪い合った。毛利氏と当小早川家が大内の所領を奪い取った。桜尾城に出向いた。同年七月二十八日大風が吹いた。

      (頭注は略す)

 

 「注釈」

*頭注の文書は「仏通寺文書35」でも紹介しています。

 

 

 つづく