「仏通寺住持記」 その26
(1501) (二)
文亀辛酉 慈雲派 三月廿九改 (記)「安久名神事当」
天祐妙麟禅師〈嗣元哉」号霊鷲院〉 侍真 祖恩 納所 周全
向上 梅渓為霖 観白 智宗 維那 周誾
二 壬戌 祥雲派 春、今雪隠造立
東陽周寅禅師雲中嗣 侍真 智成 納所 周文
向上 仰之妙湛 維那 恵継
三 癸亥 長松派
古芳禅英禅師千畝嗣 侍真 慈勲 納所 明音
向上 玉翁周珪 維那 恵沢
(頭注)
「中元畢」
(1504)
永正甲子 永徳派 二月晦改 此秋為二是弘方一当寺領奪取
自レ秋啓二案内一僧堂堂鐘鋳レ之
慈渓祖恩禅師別伝嗣 侍真 智棟 納所 聖嗣
向上 津仲永梁 〈維那」再〉本信
(頭注)
「下元始」
二 乙丑 正覚派
〈肥前州」玉田寺〉 徳叟善道禅師 〈侍真」長派〉浄源 納所 善牧
向上 玉諸周璉 維那 梵守
(安)
二月廿一日高山被奪即日切還、当寺領案堵状出、
使者真田備中守与二是弘方一入レ寺諍論、
任両奉行真田備中守・土屋備前守
「書き下し文」
文亀辛酉、慈雲派、三月廿九改む、安久名を神事に当つ、
天祐妙麟禅師、元哉を嗣ぐ、霊鷲院と号す、侍真祖恩、納所周全、向上梅渓為霖、観白智宗、維那周誾、
二壬戌、祥雲派、春、今の雪隠を造立す、
東陽周寅禅師、雲中を嗣ぐ、侍真智成、納所周文、向上仰之妙湛、維那恵継、
三癸亥、長松派、古芳禅英禅師、千畝を嗣ぐ、侍真慈勲、納所明音、向上玉翁周珪、維那恵沢、
(頭注)「中元畢んぬ、」
永正甲子、永徳派、二月晦改む、此の秋是弘方として当寺領を奪取す、秋より案内を啓す、僧堂の堂鐘之を鋳る、
慈渓祖恩禅師、別伝を嗣ぐ、侍真智棟、納所聖嗣、向上津仲永梁、維那再び本信、
(頭注)「下元始る」
二乙丑、正覚派、肥前州玉田寺、徳叟善道禅師、侍真長派浄源、納所善牧、向上玉諸周璉、維那梵守、
二月二十一日高山奪はれ即日切り還す、当寺領安堵状出づ、使者真田備中守と是弘方とを寺に入れて諍論す、両奉行真田備中守・土屋備前守に任す、
「解釈」
文亀元年辛酉(1501)、慈雲派が番衆を勤める。三月二十九日改元。安久名の得分を神事の用途に充てる。
元哉符契を継いだ天祐妙麟禅師(霊鷲院と称した)が住持を勤める。侍真は祖恩。納所は周全。向上寺住持は梅渓為霖が勤める。観白(方丈)は智宗。維那は周誾。
二年壬戌、祥雲派が番衆を勤める。春、今の便所を築造した。
雲中祥沢を継いだ東陽周寅禅師が住持を勤める。侍真は智成。納所は周文。向上寺住持は仰之妙湛が勤める。維那は恵継。
三年癸亥、長松派が番衆を勤める。千畝周竹を継いだ古芳禅英禅師が住持を勤める。侍真は慈勲。納所は明音。向上寺住持は玉翁周珪が勤める。維那は恵沢。
(頭注)「中元が終わった。」
永正元年甲子(1504)、永徳派が番衆を勤める。二月晦日改元。この秋、是弘氏が当寺領を奪い取った。秋から押領の実情を尋ね申し上げた。僧堂の堂鐘を鋳造した。
別伝を継いだ慈渓祖恩禅師が住持を勤める。侍真は智棟。納所は聖嗣。向上寺住持は津仲永梁が勤める。維那は再び本信が勤める。
(頭注)「下元が始まる。」
二年乙丑、正覚派が番衆を勤める。肥前国玉田寺の徳叟善道禅師が住持を勤める。侍真は長松派の浄源。納所は善牧。向上寺住持は玉諸周璉が勤める。維那は梵守。
二月二十一日高山城が奪われ、その日に反撃した。当寺領の安堵状が出た。使者真田備中守と是弘氏とを寺に入れて言い争った。両奉行真田備中守敬賀・土屋備前守元相に任せた。
「注釈」
「玉田寺」
─佐賀県神埼市千代田町用作にある曹洞宗大福山玉田院のことか。応永二十四年(1417)開基(『佐賀県の地名』平凡社)。
つづく