「仏通寺住持記」 その25
(1497)
六 丁巳 英昌派 〈幹縁芳孫今方丈改レ萱為二板葺一〉
旗庵永幡禅師〈桂岩嗣」有牌〉 侍真 賢長 納所 周珪
(記)「叢」
〈向上」再〉 春叟 〈塔主」諱禅英〉古芳 維那 智薫
七 戊午 円福派
義海再住 侍真 本信 維那 智棟
〈向上」再〉聖継 納所 永梁
八 己未 正覚派 〈風呂上塔造立、願主」肯心派善喜〉
春江元育禅師蘭翁嗣 納所 恵琮
向上 善牧 〈侍真」再〉 祖財 維那 善久
四月十一日咲翁逝去、歳四十七、治世二十八年、咲翁闍維導師捴持寺
東堂、点渇者玉観西堂、収骨者蔵中当寺雇唱レ之、点茶清泰淳首座、
念誦者栖真当住、挙維者蹄首座、
九 庚申 大慈派 〈八月八日巨真寿倫生害」十月廿三夜兵庫助敬康生害〉
(記)「当今御即位」瑞華継曇禅師〈香林嗣」有牌〉 侍真 礼心 維那 瑞永
向上 智玄 観白 正悟 〈維那」再〉正曇
「書き下し文」
六丁巳、英昌派、幹縁芳孫今の方丈萱改めて板葺と為す、旗庵永幡禅師、桂岩を嗣ぐ、牌有り、侍真賢長、納所周珪、向上再び春叢、塔主諱禅英、古芳、維那智薫、
七戊午、円福派、義海再住、侍真本信、維那智棟、向上再び聖継、納所永梁、
八己未、正覚派、風呂の上に塔造立す、願主肯心派善喜、
春江元育禅師、蘭翁を嗣ぐ、納所恵琮、向上善牧、侍真再び祖財、維那善久、
四月十一日咲翁逝去、歳四十七、治世二十八年、咲翁闍維の導師は捴持寺東堂、点渇は玉観西堂、収骨は蔵中当寺にて雇ひ之を唱ふ、点茶は清泰淳首座、念誦は栖真当住、挙維は蹄首座、
九庚申、大慈派、八月八日巨真寿倫生害、十月二十三夜、兵庫助敬康生害、
当今御即位、瑞華継曇禅師、香林を嗣ぐ、牌有り、侍真礼心、維那瑞永、向上智玄、観白正悟、維那再び正曇、
「解釈」
六年丁巳(1497)、英昌派が番衆を勤める。幹縁芳孫は今の方丈の萱葺を改めて板葺とした。桂岩周昌を継いだ旗庵永幡禅師が住持を勤める。位牌がある。侍真は賢長。納所は周珪。向上寺住持は再び春叢が勤める。塔主は古芳禅英。維那は智薫。
七年戊午、円福派が番衆を勤める。義海が再び住持を勤める。侍真は本信。維那は智棟。向上寺住持は再び聖継が勤める。納所は永梁。
八年己未、正覚派が番衆を勤める。風呂の上に塔を造立した。願主は肯心派の善喜。
蘭翁世春を継いだ春江元育禅師が住持を勤める。納所は恵琮。向上寺住持は善牧が勤める。侍真は再び祖財が勤める。維那は善久。
四月十一日咲翁が亡くなった。歳は四十七。治世は二十八年。咲翁の火葬の導師は捴持寺東堂。点渇は玉観西堂。収骨は蔵中守宝が当寺で雇うように主張した。点茶は清泰淳首座。念誦は栖真当住。挙維は蹄首座。
九年庚申、大慈派が番衆を勤める。八月八日巨真寿倫が自殺した。十月二十三日の夜、真田兵庫助敬康が自殺した。
後柏原天皇が御即位になった。香林智縁を継いだ瑞華継曇禅師が住持を勤める。位牌がある。侍真は礼心。維那は瑞永。向上寺住持は智玄が勤める。観白(方丈)は正悟。維那は再び正曇が勤める。
つづく