「仏通寺住持記」 その36
(1537) (記)「之夜」
六 丁酉 慈雲派 十二月八日○永徳院炎上
心月忠禅師〈仙英嗣」万歳庵〉 侍真 恵乗 納所 智広
〈向上」肯派〉金渓恵菊 観白 祖慶 維那 祖典
七 戊戌 肯心派 (記)「永徳客殿小早川詮平造立也、住持諱
智参、字見外、納所見忠」
(記)「巌」
栄岩智盛禅師 侍真 祖等 納所 宗全
向上 文屋周賢 維那 周泰
六月一日正法院回禄、十月十一日永徳客殿立、
十一月三日正法客殿立
八 己亥 長松派
広山恵沢禅師〈備中」重玄寺〉 含暉 玄信 納所 恵駿
向上 珪序 維那 智通
高山在城奉行 当家雲州手還而防州一味、現形三石之取懸、四月
田坂四郎右衛門 廿六日、同廿八日防州衆大勢打上テ
尉
九 庚子 永徳派
見外智参禅師 〈侍真」長派〉如休 〈納所」代〉慶貴
向上 慶讃 観白 祖易 維那 祖玉
「書き下し文」
六丁酉、慈雲派、十二月八日の夜、永徳院炎上す、
心月忠禅師、仙英嗣ぐ、万歳庵、侍真恵乗、納所智広、向上肯派金渓恵菊、観白祖慶、維那祖典、
七戊戌、肯心派、(記)「永徳客殿小早川詮平造立するなり、住持の諱智参、字見外、納所見忠、」
栄岩(記・巌)智盛禅師、侍真祖等、納所宗全、向上文屋周賢、維那周泰、
六月一日正法院回禄、十月十一日永徳客殿立つ、十一月三日正法客殿立つ、
八己亥、長松派
広山恵沢禅師、備中重玄寺、含暉玄信、納所恵駿、向上珪序、維那智通、
高山在城奉行田坂四郎右衛門尉、
当家雲州の手に還りて、防州一味三石の取懸に現形す、四月二十六日、同二十八日防州衆大勢打ち上りて
九庚子、永徳派、
見外智参禅師、侍真長派如休、納所代慶貴、向上慶讃、観白祖易、維那祖玉、
「解釈」
天文六年丁酉(1537)、慈雲派が番衆を勤める。十二月八日の夜、永徳院が炎上した。
仙英徳種を継いだ万歳庵の心月忠禅師が住持を勤める。侍真は恵乗。納所は智広。向上寺住持は肯心派の金渓恵菊が勤める。観白(方丈)は祖慶。維那は祖典。
七年戊戌、肯心派が番衆を勤める。(記)「永徳院の客殿を小早川詮平が造立したのである。住持の諱は智参で字は見外。納所は見忠。
栄岩(記・栄巌)智盛禅師が住持を勤める。侍真は祖等。納所は宗全。向上寺住持は文屋周賢が勤める。維那は周泰。
六月一日正法院が火事に遭った。十月十一日永徳院の客殿が完成した。十一月三日に正法院の客殿が完成した。
八年己亥、長松派が番衆を勤める。
備中重玄寺の広山恵沢禅師が住持を勤める。含暉院院主は玄信。納所は恵駿。向上寺住寺は珪序が勤める。維那は智通。
高山在城奉行は田坂四郎右衛門尉是実。
小早川家が雲州尼子勢に属したことで、防州大内氏の一味は船木常平の三石城攻めに姿を現した。四月二十六日、同二十八日に防州衆が大勢攻め上ってきた。
九年庚子、永徳派が番衆を勤める。
見外智参禅師が住持を勤める。侍真は長松派の如休。納所代は慶貴。向上寺住持は慶讃が勤める。観白(方丈)は祖易。維那は祖玉。
「注釈」
「万歳庵」─未詳。
「真如院」─未詳。
「舎利記」
─信仰の対象となっていた高僧の舎利の納入記録簿のことか。わざわざ「含暉舎利記」と書いてあることから、仏通寺では、塔頭ごとに「舎利記」が作成されていたものと考えられる。
つづく