周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

米山寺文書6

    六 泰雲様小早川隆景位牌免田給付状

 

   泰雲様御位牌免        米山寺

                豊田郡

 一拾三石六斗九舛        安直村

                同郡

 一六石九斗八舛         同所之内松江

                同郡    (惣定)

 一貳石壹斗九舛         同所之内宗条

                同郡

 一拾貳石壹斗九舛三合      真良

   以上三拾五石五舛三合

     是者売地分之内石辻也、

                   (豊田)

 一拾九石八舛            従匡眞寺

     是者現米にて候、

    合五拾四石壹斗三舛三合

               (包久景相)

     十月十五日      包次兵(花押)

      十月十五日

       米山寺領之抧

 

 「注釈」

「匡真寺(宗光寺)」

 ─現三原市本町。宗光寺山の南麓、切立稲荷(大島神社)の西にあり、泰雲山と号し曹洞宗。本尊釈迦牟尼仏。もとは雲門山匡真寺と称する臨済宗寺院であった。嘯岳鼎虎禅師語録(山口県洞春寺蔵)所収の天正五年(1577)日頼洞春成室妙玖之拈香によると、小早川隆景が父母(毛利元就夫妻)の年忌を弔うために、天正四年新高山城(跡地は現豊田郡本郷町)の南麓に建立したとあり、近世初期の沼田新高山之図写(県立三原高校蔵)にも匡真寺を新高山城内に記す。なお、小早川隆景が天文十九年(1550)に小早川家を相続したとき隠居させられた繁平(又鶴丸)が薙髪して入った山寺教真寺を、匡真寺に比定する説もある。

 「三原志稿」によると、天正年中、万福寺を移してその跡地に当寺を移し、寺領800石を付し、慶長五年(1600)福島氏が芸備に封ぜられると、養山方育(芳育)を住職として曹洞宗に改宗とあり、このとき宗光寺と改称。近世には当地方の曹洞宗寺院の中心で、末寺三十七ヶ寺、配下八ヶ寺を擁した。享保十年(1725)火災に遭い再建。境内にもと納所の万性寺にあったという永仁二年(1294)と推定される石造七重層塔があり、墓地に福島正之墓・福島正則室墓・浅野忠長夫妻墓などがある。また小早川隆景自筆書状のほか、福島正則・忠清・正信などの書状を蔵する。

 参道を上がった中段に立つ山門(国指定重要文化財)は、匡真寺を移築したとき新高山城の本門を移築したと伝える(増補三原志稿)。四足門・切妻造・本瓦葺で、蟇股などに桃山期の建築様式をよく残す。正徳元年(1711)・明和二年(1765)・文化二年(1805)・天保七年(1836)・明治三十四年(1901)に、葺替え・補強工事が行なわれている。山門の坂の西側にあった塔頭一株院は、「三原志稿」によると、小早川隆景が又鶴丸の菩提を弔うために建立したもので、匡真寺とともに新高山城下から三原に移された。九州への途次匡真寺に宿泊する予定であった徳川家康は、城より高いところに泊まるのは失礼だとして一株院に泊まったと伝える。塔頭には一株院のほか、神光寺・泉光庵(以上は文化末年には存在)、多福院・自得院・桂光院・寿福院があったが、いずれも廃絶(「宗光院」『広島県の地名』平凡社)。