周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

仏通寺正法院文書7

    七 仏通寺塔頭正法院領田地目録

 

          (証判)(小早川興平)(真田敬賀)

           「(花押)(花押)」

    仏通寺塔頭正法院領田地目録

      合  往古買得分

 源内林                        (弘通)

 一所 参段 各八斗代   〈本郷内     売主真田左京助」

               康正元年乙亥十二月十三日〉

 半迫

 一所 壹段 八斗代    〈真良村     売主末実弘季」

               享徳四年乙亥三月二日〉

 八郎二良垣内ノ道ソヘ

 一所 壹段 八斗代    〈真良村     売主貞利隼人助元春」

               長享三年己酉十一月十日〉

   自是以下六段六十歩者中比是弘方知行、其後還付当院

   自永正五年戊辰于同十八年辛巳夏押領、其際十三ヶ年、

 槙本三透田フケ

 一所 壹段 八斗代    〈真良村末実名之内売主是弘信貞」

               享徳四年乙亥二月十三日〉

 厳島之前

 一所 壹段六十歩 九斗三舛三合 〈同村二分是弘名売主是弘慈縁」

                  寛正五年甲申十月十五日〉

 安恒宮ノ上

 一所 壹段 八斗代        同村二分是弘名売主真田長門守則通

                 〈売主真田治部丞国安」

                  文正二年丁亥三月廿二日〉

                 〈自尾道光厳買」

                  永享四年壬子十二月三日〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目)・・・・・・・・・・・

 八郎二良田橋之ツメ

 一所 壹段 八斗代    〈在所同前    売主同前」年月同前〉

 門田

 一所 貳段 各八斗代   〈真良村末実名之内売主真田常信」

               文明十年戊戌二月廿一日〉

    当御代新御寄進分

    正光名

 一所 参段 各八斗代   〈在所本郷之内売主真田治部丞章通」

               享徳四年乙亥三月八日〉

       御調郡

 一所 備後国杭荘社家之内長河内長楽寺

      (1521)          (源海)   

   于時大永元年辛巳霜月廿七日    慈本(花押)

            ○紙継目ノ裏ニ花押アリ

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「杭庄」

 ─京都伏見稲荷社領の荘園で、現久井町の江木・下津・吉田・莇原(あぞうばら)・泉・和草(わそう)・羽倉(はぐら)一帯を荘域とする。成立の時期などは不明であるが、伏見稲荷正一位に任ぜられた天慶三年(940)以降で、他の同社領荘園の成立とほぼ同じ平安後期と推定される。当庄を伏見稲荷社に寄進した開発領主はこの地に稲荷社(江木の稲生神社)を勧請し、その神官となり荘務を担当したものと思われる。

 観応二年(1351)二月十五日付の足利尊氏下文(三吉鼓文書)によると、三吉覚弁が当庄の北西部を占める泉村地頭職を充行われているが、それは波佐竹四郎二郎跡とあり、荘内に以前から地頭職があったとことが知られる。覚弁は、在地の小文十郎一族が濫妨を働いて地頭職を干犯していると、文和二年(1353)幕府に訴えている(同文書)。応安四年(1371)と思われる四月十六日付の今川了俊書状(熊谷家文書)によると、九州探題で備後・安芸守護職を兼務した了俊の九州下向に三吉道秀が従わなかったため、その処置をすべく熊谷直氏と談合する場所に杭庄を指定している。

 応仁・文明の乱で罹災した伏見稲荷社は、在地支配を強化するため庶子家の確執を理由に帰国する沼田小早川敬平に、杭庄代官職を請け負わせた。敬平は将軍奉公衆として在京して活躍した沼田庄地頭で、明応二年(1493)閏四月十六日付の小早川敬平請文写(小早川家文書)によると、この代官職を毎年公用108貫文とし、在国が不安定な状態にある場合には65貫文を神社に納めるという条件で請け負っている。備後守護職をめぐる山名政豊と山名俊豊の対立で、敬平の子扶平は俊豊方の山内豊成に与した。俊豊は豊成の子直通に対し、豊成の遺跡を安堵している(欠年十一月二十二日付「山名俊豊書状」山内首藤家文書)が、この中に「杭半済」も含まれた(明応五年十月二十一日付「山名俊豊加判知行目録」同文書)。これに対し、政豊方の三吉豊広・江田宗実は、沼田小早川家と対立関係にある竹原小早川弘平を味方にしようと誘いをかけ、その条件に杭庄社家分を国契約の筋目で知行することや、杭半済などを与えることを挙げている。その後、沼田小早川興平のころには竹原小早川家とも融和関係にあり、沼田小早川家による杭庄代官職は行使され、大永元年(1521)十一月二十七日付の小早川興平充行状(佛通寺正法院文書)によると、杭庄社家分のうち一部を毎日霊供料として仏通寺(現三原市)の塔頭正法院へ寄進している。また杭庄は当地方の国人衆を二分した細川氏大内氏の対立抗争の舞台ともなった。

 当庄は天文年間(1532─55)に毛利氏の領国に組み入れられ、天文十七年三月十五日付の毛利元就書状(「閥閲録」所収小寺忠右衛門家文書)には、杭公文分の諸役は竹原(小早川隆景)に言い付けて調えさせるようにとある。しかし、のちに沼田小早川家も相続した隆景は、年不詳六月二十四日付の正親町天皇綸旨(小早川家文書)によると、度重なる綸旨によっても社納を遅怠、必ず社納するよう命じられている。慶長三年(1598)八月十五日付の備後国御調郡杭稲荷社御祭御頭注文(山科文書)によると、名が領家方・地頭方にほぼ二分されており、下津・吉田・莇原・泉の一部と羽倉は領家分、江木・和草・黒郷(和草の枝郷)・泉の一部は地頭分で、下地中分が行なわれていたと推定される。なお、前掲の明応五年の山名俊豊加判知行目録などからは半済が実施されていたことが知られる(「杭庄」『広島県の地名』平凡社)。

 

「真良村」

 ─現三原市高坂町真良。別迫村の西から西南に位置した大村。安芸国豊田郡に属した。耕地は、高山と毘沙門山の間を抜けて南の本郷村(現三原市本郷町)に至る沼田川の支流仏通寺川流域の低地と、船木村(現本郷町)へ流れる二瀬川上流域に形成された標高170メートル前後の馬井谷、北部に広がる標高200─350メートルの鹿群高原に展開する。

 北部丘陵末端部と南部丘陵東斜面から弥生時代後期の弥生式土器・鉄刀子が出土。仏通寺川流域の丘陵斜面には多くの古墳が築造され、横穴式石室をもつ後期古墳は大陣古墳群・小陣古墳群・真良古墳群などがある。「和名抄」所載の沼田郡真良郷の中心で、村内を古代山陽道が南北に走り、馬井谷に真良駅が置かれたと考えられている。

 中世には沼田庄に属し、本郷村・船木村との境に位置する高山城には沼田小早川氏が拠った(豊田郡本郷町の→高山城跡)。正安二年(1289)閏十月九日付の関東下知状写(小早川家文書)によると、正嘉二年(1258)小早川茂平が妻浄仏に譲った所領のうち真良および吉野屋敷八町門田は、娘松弥に譲るとされていたが、譲渡に際して相論があった。吉野屋敷は高山城の東麓にあった蔵王権現付近と思われ、同社は吉野権現を勧請したと伝え、吉野の地名も残る(芸藩通志)。文安五年(1448)十二月三日付の領家納入公用目安写(小早川家文書)には、一貫文を納めた吉野殿の名が見える。延徳三年(1491)八月六日付の小早川敬平自筆所領目録(同文書)に真良村が記され、沼田小早川家相伝の地であった。文明十一年(1479)二月二十七日付小早川敬平充行状(「閥閲録遺漏」所収国貞平左衛門家文書)によると、小早川氏一族の国貞永禅は真良村にある在木九郎右衛門給田畠を充て行われ、延徳三年八月六日付の小早川敬平安堵状(同文書)で永禅知行分の真良内屋敷田畠等は国貞敬国に安堵された。国貞氏はもと真良氏を名乗り、室町時代の小早川氏一族知行分注文(小早川家文書)に真良五十貫文とある。明応四年(1495)六月九日付の小早川敬平安堵状(「閥閲録」所収乃美仁左衛門家文書)で真良村の小泉兼弘知行分は乃美是景の本領とされている。大永元年(1521)十一月二十七日付の仏通寺正法院領田地目録(仏通寺正法院文書)によると、真良村分の二分方是弘名の安恒宮ノ上、厳島ノ前、末実名槙本三延田・門田、半迫などが真田氏・是弘氏・末実氏などから正法院へ売られている(中略)。

 「芸藩通志」によると、戸数199・人口837、牛50・馬20、御建山に橋畝山、三原浅野氏の御建山の毘沙門山、御留山に八幡山、半迫池・燕池など四池があり、字宮ノ下の八幡宮(現大多良神社)は土肥(小早川)遠平が鎌倉鶴岡八幡宮から勧請したと伝え、永禄八年(1565)に小早川隆景が再建、高山の若宮八幡(明治二十四年大多良神社へ合祀)は遠平の子惟平を祀るともいい、他に蔵王神社・厳島神社などを記す。寺院には仏通寺川沿いの真言宗常楽寺(現廃寺)、明応三年小早川扶平の建立でのち三原城下へ移されたが、本尊十一面観音だけはそのまま当地に安置して「旧香積寺」とも称した曹洞宗鳳翔山香積寺、真良新三郎康近の子浄祐が山南(さんな・現沼隈郡沼隈町)の光照寺に赴いて僧となり、永禄九年に開いた高谷山福泉寺(現浄土真宗本願寺派)など、名称に屏風岩を記す。高山城跡の東部丘陵上にある前土井山城跡は国貞氏の居城と考えられ、村の中ほど西側の大陣山・小陣山は天文十三年(1544)十月、尼子氏が高山城を包囲したとき在陣したところと伝える。南部の仏通寺川流域吉野付近は蛍の多いところで、節分から120日目の頃に蛍が飛び交うさまを、蛍合戦と称した(国郡志下調書出帳)(『広島県の地名』平凡社)。