周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

豊町歴史民俗資料館所蔵多田文書5

    五 安芸国豊田郡安直村打渡坪付写

 

  芸州豊田郡安直村〈打渡」坪付〉

堂ノもと                清田

 屋鋪五畝     代四百文     彦次郎

能祖迫                能祖ノ

 畠二反      代六百文     民 部

     以上米一石三舛

    慶長五年(1600)        小方

     二月十八日         太郎左衛門書判

                   三輪

                   加 賀 守書判

                  (蔵)

                   前田

                   加 賀 守書判

                   兼重

                   和 泉 守書判

          多田助七殿

 

 「注釈」

「安直村」

 ─〔中世〕鎌倉期から見える郷名。沼田郡沼田庄のうち。安直本郷ともいう。文永3年4月9日付関東下知状に「安直・本庄・新庄以上三箇所者、右大将家御時、高祖父土肥太郎遠平為勲功賞令拝領畢」とある(小早川家文書)。鎌倉期には沼田郷の後身である本庄、のちに荘園化された新庄と並んで、沼田庄の一単位であったが、やがて本庄に含まれるようになった。鎌倉末期の嘉暦2年10月3日付某充行状によれば「安直本郷政所土居内阿寂跡屋敷」が彦鶴丸なる者に充行われている(反町茂雄氏旧蔵文書)。沼田庄地頭小早川氏は当郷を中心とする沼田川河口の荒野を干拓し新田開発を進めた。南北朝初期、暦応4年10月には小早川本宗家の円照(宣平)が子息貞平に「沼田庄内安直方潟島新田内光包名」「同新田弐町」を譲与している。こののち、当郷地頭職と郷内の新田は小早川本宗家に伝領され、応永21年4月、則平が嫡子持平に譲与した所領のうちに「安直本郷惣地頭惣公文職検断事」「同(沼田)庄安直塩入新田并新開事」が見える。ところが、永享3年に則平は持平の不孝を理由に所領を悔い返し、改めて弟の熙平に与えた。このため、持平・熙平の兄弟間で内紛が起こったが、嘉吉2年には熙平が幕府の安堵を受け、「安直本郷」以下の知行を認められた。永享5年6月日付小早川氏知行現得分注文写に持平預分として「一所 安直郷二百貫文〈本市凡在家三百、土蔵一所〉」とある。文明12年10月日付継目安堵御判礼銭以下支配状写によれば立帰夫銭四貫五百文を当郷が負担している。郷内には、本宗家の経済的基盤となった沼田市場(沼田本市)があった。また、庶子家の所領も存在し、「沼田庄安直方内小泉村地頭公文検断職」は小早川小泉氏の所領として伝領され、永正6年8月には小早川梨子羽元春が「安直本郷内時弘名」を幕府から安堵されている(小早川家文書)。小早川隆景が小早川氏を継いだのち、天文23年10月には「安直郷七宝之内師月田五貫文」が家臣飯田尊継に充て行われ(閥閲録57)、また「安直堤」の修理が磯兼景通らに命じられている。なお、伊勢神宮御師村山家の天正9年檀那帳には「あちか」で御祓を受けた檀那の名が記されている(山口県文書館書状文書)慶長2年10月、米山寺に隆景位牌免田として安直村から米1石3升が多田助七に、4月には畠3反余と屋敷が多田助右衛門に打ち渡された(多田文書)(「安直郷」『角川日本地名大辞典34 広島県』)。