周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書53

    五三 毛利輝元寄進状写

 

      寄附状

 一楽音寺山林境内      一町四反四畝

 一寺領百石余

   内北方之内寺内     四拾石余

    甑社領        拾貳石余

    山王社領       八石余

    龍王社領       三石余

    山崎領        七石余

    二尊領        三石余

    善入寺領       四石余

    光台寺領       一石余

    観音寺領       一石余

    天福寺領       一石余

    釜山両権現社領    拾石余

    橘八幡社領      貳拾石余

 右任先例之旨附之訖、配当之通寺納可之候、然上者弥可

 抽四海静謐之精祈候者也、

   (1600)

   慶長五年          毛中納言

    庚子四月            輝元

        楽音寺本願殿

     ◯本文書ト次号文書ハ一紙ニ書カレル

 

 *書き下し文・解釈は省略します。

 

 

 「注釈」

「甑天満神社

 ─現本郷町下北方岸ヶ岡。茅ノ市北側丘陵上、字岸ヶ岡に鎮座。祭神は菅原神・宇気母智神・速玉男命。伝えによると、延喜元年(901)菅原道真大宰府へ赴く途中、この地で使用した甑を里民に与えたので社を建ててこれを納め、道真を祀ったという。そのとき道真が自ら掘った井戸と伝える甑天神霊泉が、宮の東麓、海道より少し北にある。

 今川了俊の「道ゆきぶり」に「此川(沼田川)にそひて西に、としふるげなる松山の中に、神の社一たてり、こしきの天神と申となり、これはかの御神つくしへうつされ給ひける時、こゝに旅のかれ飯まいらせたりける物の具に、こしきといふものゝ残とゞまりて、今の世まで侍けるなるべし、やがてそのこしきをも八代に祝たてまつりて、かたはらにをき侍なり、又そこにめでたきし水(清水)あり、これもかの天神の御手づから掘りいだし給けると申」と記される。昔は社傍に槙の大樹があり、大槙天神とも称した(芸藩通志)「安芸国神名帳」の沼田郡栢樌(かやのもり)明神にあてる説もある。大正二年(1913)宮尾神社・速戸(早戸)神社を合祀(『広島県の地名』平凡社)。

 

「善入寺村」

 ─現本郷町善入寺。下河内村(現賀茂郡河内町)の南にそびえる用倉山の東と南の山間部に展開する村。沼田川の支流梨和川が南東流して形成する善入寺谷と、その支流の前畑・後畑・および入野村(現河内町)との境を流れる葛子川(かずらこ)流域の正広谷などに棚田が開かれる。沼田庄梨子羽郷に属し、「芸藩通志」は、当村は下北方村からの離郷とする。慶長五年(1600)四月の毛利輝元寄進状写(楽音寺文書)に、楽音寺領一〇〇石余のうちに、「善入寺領 四石余」と見える。(中略)

 「芸藩通志」には善入寺村とあり、(中略)御建山に用倉山、麦飯山(善入寺跡ありという)、池に広沢田池、神社に大歳神社・荒神社・畑神社・正広神社、廃寺に勧現寺を記し、佐々木金平(一説に源平)の居城と伝える正広城跡があると記す。善入寺谷には天文二年(1533)に二十四人が造立した逆修供養碑と、同二十年刻銘の磨崖地蔵像がある(『広島県の地名』平凡社)。

 

橘神社

 ─現本郷町本郷麓。沼田川西岸に位置する橘山に鎮座する。祭神は応神天皇神功皇后玉依姫命。旧村社。「国郡志下調書出帳」によると、応神天皇豊前国より帰洛のときこの山に仮伯した故事により元慶年中(877─885)に創建したと伝え、沼田次郎以後、小早川隆景まで社領七五貫文が付されたといい、本郷・船木・上北方・下北賢・善入寺の五ヶ村が氏村であると記す。「豊田郡誌」所収の棟札写によると、永正十年(1513)に小早川小法師丸(興平)が再興し、天文四年(1535)に小早川又太郎(正平)、永禄十三年(1570)に小早川隆景が再建、延宝元年(1673)には近隣四ヶ村が再建、安政三年(1856)に本殿を建立している。境内社に高良神社・稲荷神社などがある(『広島県の地名』平凡社)。

 

「本郷村」

 ─現本郷町本郷。下北方村の西に位置し、「和名抄」所載の沼田郡沼田郷の地で、沼田本郷とも称した。古代から中世には沼田庄の中心となり、近世には豊田郡の「郡本」が置かれた。北に位置する船木村から南流する沼田川が東村の南部で大きく東に向きを変え、流域にはかつての氾濫原である低地が広がる。村の北部は古高山・新高山などで真良村(しんら・現三原市)・船木村に接し、南は沼田川で松江村・小原村・納所村(のうそ・現三原市)に接する。古山陽道の真良駅と梨葉駅の間にあり、近世には村の南寄りを西国街道山陽道)が東西に横断した。

 建永年間(1206─07)に東国より沼田庄に来住した地頭小早川茂平は、村の北に高山城を築き、南麓の塔ノ岡に居館を構えた。茂平が独自の支配地の拡大を求めて、嘉禎四年(1238)沼田川下流域の塩入荒野の干拓に取り掛かって以来、当村域でも木々津新田(きぎつ)・本郷塩入新田・中新田などが干拓、水田化された(小早川家文書)。沼田本郷は茂平の三男雅平を祖とする沼田小早川惣領家に相伝され、永享五年(1433)六月日付の小早川知行現得分注文写(同文書)によると、常建(則平)知行分のうちに沼田本郷四十五貫文があった。応永二十一年(1414)四月十一日、則平は本郷惣地頭職と惣公文職・検断権をいったん長男持平に譲ったが(「小早川常嘉譲状案写」同文書)、後に悔い返し永享十二年七月六日の管領細川持之施行状(同文書)によると、改めて持平の弟煕平に譲り替えている。応永三十年九月二十一日の足利義持安堵御判御教書案写(同文書)によると、本郷塩入本新田三町などが小早川興平に安堵されている。また年不詳四月九日付小早川隆景書状(「譜録」所収磯兼景秋家文書)に本郷堤の普請を堅固に整えるようにと書かれており、隆景の頃沼田川の堤防が整備されたことが知られる。天正三年(1575)の「中書家久公御上京日記」に「左方ニ高山とてぬた(沼田)の城有、こはい川(小早川)。殿へ(衍字ヵ)の御座所の(とヵ)人いへり、其麓にぬた川とて渡賃」とある。(中略)

 「芸藩通志」によると、神社には、橘山の八幡宮(現橘神社)、天正十九年に土生景治建立と伝える穀神社(こう・片山荒神)などがあり、寺院には、小早川宣平追善のため、その子貞平が応安年中(1368─75)に創建したと伝える円光寺(曹洞宗)、嘉吉元年(1441)小早川則平が堂を建て護身仏を安置したと伝える明智寺(曹洞宗)、小早川隆景の建立と伝える東蔵寺(現廃寺)、天文十八年(1549)僧祐円の開基と伝える寂静寺(現浄土真宗本願寺派)、文禄(1592─96)の頃(一説に永正五年)僧道清の建立と伝える西念寺(現浄土真宗本願寺派)があり、廃寺に、大善寺・宗光寺・香積寺・浄品寺があり、ともに三原に移ったと記す。寂静寺の八世道振は京都学林(跡地は現京都市下京区)に学んだ学僧で、「易行品敬持記」「往生論詮覆本決」など多くの著書があり、また江戸時代中期の儒者平賀晋民は幼時に同時の僧遊外に指示したという。なお、正和三年(1314)五月十八日の一宮修正会勤行所作人注文(蟇沼寺文書)に見える江良寺は、江良鎮守山の麓付近にあったものと思われる。三太刀山は、三振りの太刀がこの山に天降るのを夢見た小早川遠平が瑞祥として名付けたと伝えるが、「御館」の転訛で中世の居館跡と考えられる。

 高山城跡の西裾、沼田川の境には縄文後期の土器片や石鏃などが出土した片山遺跡があり、塔ノ岡遺跡は弥生時代後期の遺跡で石包丁・土器片が出土した。沼田川西岸には貝塚を伴った弥生後期の土器片が出土する麓遺跡のほか、新庄庵遺跡、土壙墓などの墳墓群が見られる陣べら遺跡がある。村の西部の標高120メートルの丘陵末端部には平安時代の西野田経塚があり、鋳銅製経筒と八稜鏡など鏡三面が出土している。