周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

藤原良章著書

  藤原良章『中世的思惟とその社会』(吉川弘文館、1997)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

序章 中世の樹の上で

P8

 朝鮮半島においても、樹上とは単に葬場であったわけではなく、「四百年前孝子が手の指に火を点じ、母の蘇生を祈念したところ感応があって、その母再生した」(村山智順『朝鮮の鬼神』p244)という事例に明らかなごとく、樹上は他界との交渉の場であった。そして、日本でも墓地等で再生を願う儀礼として魂呼びを行なったという赤田氏の報告も考え合わせると、樹上葬という特異な葬法が、日本においても、まさしく再生を願い、一度肉体から離れた霊がたやすく、元の肉体に戻ってこられる状態にするため、わざわざ遺体を木の上にあげたものと考えて間違いないだろう。風に吹かれて落ちたりしないだろうか、などという心配は、現代人の〈余計なお世話〉にすぎない。(中略)

 

 さしあたって注目したいのは、無論④の、「心太」のように生まれた行基を、鉢に入れて門の榎のまたに上げて置いたという〈不具の子を捨てる民俗〉である。この場合、木という場の意味を先のとおりに考えるならば、子を樹上にあげることは、樹上葬とはまったく反対に、「不具」で生まれた子の霊を肉体から去らせ、生命を与えてくれた者(神)に還元することを目的として行なわれたものと考えて間違いないだろう。

 つまり、一つの葬所である樹上とは、一度去った霊が戻ってくるときの受け口であり、また「不具」の子の霊を他界へ還元する場合の出口なのであり、霊にとって、一種のアンテナのような機能を果たすものとして捉えられていたものであろう。すなわち、樹上という場を端的に表現するならば、そこはまさしく他界との結節点に他ならない。

 視点を広げてみると、同じく〈不具の子を捨てる〉場であり、また、一般に葬所でもあった「山間浄所」も、やはり木と同様な場所であったろう。(中略)これも、市中に髑髏があるうちは霊が去ることができなかったことを示しており、「深山」に葬してはじめて霊が他界しうるという意識を反映しているものと考えられる。木に霊が戻ってくるという観念が山上他界観にも結びつくものであることはすでに指摘されているところでもあるし、木を依代とする山の神は、また、産神として認識され、生と死に深く関わっているものであったことからも、木と〈山間浄所〉の、場としての同様な機能が考えられるのである。

 とするならば、もう一つの〈捨て場〉でもあり、京都の一大葬地である蓮台野もそうだったのではないだろうか。(中略)その蓮台野の中心をなす船岡山の山頂には、太古の祭祀遺跡が今に残り、また、疫神を祀った御霊会でも、神輿がここに安置されたように、やはり、古くから他界との交渉の場であった。さらに、ここは子の日遊びがなされた場としても有名である。子の日遊びは、正月の子の日に人々が野に出て小松を引き、若葉を摘むもので、長い寿命のある松のように長生きしたいという願いを込めたものである。こうしたことなどから見て、葬地である蓮台野もまた、生と死に密接な関わりをもった神霊の地であり、他界と結節点であったことは疑いないであろう。(中略)

 

 つまり、良源の往生の日に、叡山の上に紫雲がたなびいたというのである。こうした紫雲が(煙)が、この世と他界とをつなぐ力をもつものであったことは、すでに千々和到氏が明らかにされている。つまり、紫雲がたなびいたことが、良源の往生(霊の他界)の証拠となるわけであるが、問題はその出所である。(中略)すなわち、台嶺に立ち昇った紫雲は、他ならぬ「樹上」から出て「昇天」したのであり、まさしく他界との接点である樹上から霊が他界した、とされているのである。(中略)

 そして、このような、樹上を他界との接点と見る習俗と往生思想が絡み合い、さきに見た樹上葬─死んだ人間を樹上にあげて再生せんとするもの─とは全く逆の行為─生きている人間が自ら樹上に昇り往生せんとするもの─をモティーフとする説話さえ登場してくるのである。

 

 

第4章 中世前期の病者と救済 ─非人に関する一試論─

P115

 つまり、癩者ではあっても、一定の代償のもと「在家の居住」が可能だったのであり、重病のため、それが不可能となって家を出され、「無縁」となった場合にこそ、非人集団の中に取り込まれたのであった。

 中世社会において、死期の迫った病者が家等を出され、また、葬地等へ生きながらにして捨て去られるといった風習が存在したことはすでに明らかにされている。

 

P116

 こうした「無縁病者」を収容する〈救済〉施設として、中世には無常堂なるものが特徴的に存在していた。(中略)そして、このような〈救済〉施設無常堂(院)はではどのような〈救済〉がなされたのかといえば、その〈救済〉とは、病者の治療や社会復帰を目的とするのではなく、逆に、病者の極楽往生を目指して念仏を唱えさせ、臨終の行儀を整えさせることに他ならなかった。(中略)

 このように、無常院(堂)は、極言するならば、仏教的価値観においてのみ〈救済〉施設たり得たのである。「仏はこれ医王、法はこれ良薬、僧はこれ瞻(看)病人なり。無明の病を除き、正見の眼を開き、本覚の道を示して浄土に引接すること、仏法僧にしくはなし」と『往生要集』に説く〈病〉観、〈救済〉理念をここで確認しておきたい。こうした価値観の中で、看病は現世的生命の延長を願うものではなく、葬送を前提として、つまりより良き臨終・送終のためにこそなされたのであり、無常院に「来る者極めて多く、還反(かへ)るもの一、二なり」というのも、また当然のことであった。(中略)

 このように、「無縁病者」の〈救済〉施設である無常堂(院)は、病者の臨終の場、いわば〈死の器〉とでもいうべきものであった。そうした性格からか、無常堂は、都市縁辺部の葬地等にも存在していた。(中略)(金沢称名寺結界図)そこに描き出された無常院は、寺域のはずれに、しかもその堂宇だけがことさらに塀に囲まれて存在していた。この場合、その理由を穢の問題(穢を忌避する)に求めるよりは、むしろ往生の場としての聖なる空間ゆえと考えるべきであるかもしれない(千々和到「仕草と作法」『日本の社会史』8)。

 いずれにしても、以上の諸点から見て、無常堂がいわゆるこの世からは隔絶された場という秩序をもっていたことは明らかであろう。つまり無情動とは、此岸とは異次元の場、いわば〈彼岸との接点〉ともいうべきものであった。

 これまでの研究においても、非人集住地が葬地と関連していたという事実が明らかにされているが、このように、中世における〈救済〉が葬送、ひいては葬地と本質的に密接な関係にあったことを見るならば、その事実は、すべての非人が葬送に従事していたことを意味するものではなく、逆に葬送の対象となった非人の存在をも示していると考えられる。

 

P122

 日本でも、頼者はたとえば清水坂等々の「市外」に移り住み、訴訟当事者たる資格、すなわち「市民権」を奪われた存在であった。また、奈良坂に住むある頼者が、毎日のように忍性に背負われて市中に乞食に出たという著名な話や、「重病非人」が「上下町中」で乞食をするのが「京都之習」となっていたことからもわかるとおり、日本の頼者の生活の糧も、乞食に他ならなかった。それゆえ、ヨーロッパにおける「ラザロス」(癩)と同様に、「かたゐ」という語も、乞食と癩者等の病者双方の意味をもっていた。さらに、ラザレット(レプロザリウム/癩病舎・乞食収容所)等で積極的に〈救済〉にあたったのは、フランシコ会などの修道僧だったのであ理、これも、日本の念仏僧・乞食聖等による〈救済〉活動と軌をいつにしているのである。

 このようなさまざまな類似を見るならば、日本において〈病者非人〉と称されるような人々も、やはり、清浄なる都市の〈ハレの大路〉等からキヨメられ、人間社会から生きながらにして葬り去られた人々、正しく、疎外された存在に他ならなかったと考えられるのである。

 

P123

 日本中世社会において、病者等と並んで非人視されていた人々として、囚人・放免等といった人々が存在していた。この、一見たいして関係のなさそうな二つの集団の本質的共通点といえば、両者共に所謂罪人として認識されていたことに他ならない。病や「不具」は、現在・過去に犯した「罪」の報いであったし、囚人・放免についてはいうまでもあるまい。それは中国や、既に見たヨーロッパの病者等にも共通することである。(中略)

 このように、病等を罪の報いとする認識が一般的に存在したのであるが、それはまた、病が「非日常的な不浄なものであると」認識されていたともいうことができる。そして、犯罪の発生が、同じく穢=不浄の発生と認識され、たとえば日本中世社会においても、犯罪によって生じた荘園内の災気を除去するために犯人が領内から追放されたことを見るならば、病者等と犯罪者は、ほとんど同じレヴェルで、穢れた「罪人」として把握されたことであろう。

 →病人・不具者は過去・現在に罪を犯している。彼らは不浄で穢れている。

  そのアナロジーとして、

 →罪人は過去・現在に罪を犯している。彼らは不浄で穢れている。

  中世びとの間で、こうしたアナロジーが生み出されたことによって、「罪穢意識」が発生したのではないか。

 

 さて、この両者の関係を確認するために、まず自ら積極的に非人に習おうとした明恵高弁の例について見ておきたい。明恵が自ら「非人高弁」と称したことは周知の通りであるが、彼はそのために自らの手で自分の耳を切り落としたと言う。その理由は「片輪者とて、人も目も懸けず、身も憚りて指し出でずんば、自らよかりぬべしと思」い、「眼をくじらば、聖教を見ざる歎きあり。鼻を切らば則ち、涕洟垂りて聖教を汚さん。手を切らば、印を結ぶに煩ひあらん。耳は切ると云ふとも、聞えざるべきには非ず。然ども五根の闕けたるに似たり」と考えたからであった。そして、その「五根の闕けたる」「片輪者」になることによって、「形をやつして人間を辞」することを意図した行為であった。ここに出てくる「人間」が、「ひとあひ」と訓じ、「人付き合い」等を意味するものだとすれば、この行為は、まさしく〈無縁〉の存在になることを目的としたものと換言でき、ここに、〈無縁〉の「片輪者」こそ非人である、という意識を見ることができるのである。

 

P125

 こうした点を踏まえて、獄舎の囚人等に目を向けてみると、たしかに手足を切られた囚人や、獄舎のあたりに住む両足を切られた放免が確認される。また、小田雄三氏は、犯罪者は獄中では本鳥を切られた蓬髪の状態であったことを指摘され、こうした本鳥を切ることが、片鬢剃りと並んで、社会の中において、人間を社会から追放するという、一種の民事的な死を負わせるものであったと位置づけておられる(「中世の法と身分の一考察」史学会第79回大会報告)。すなわち、彼らもまた、まさしく肉刑によって人にして人に非ざる非人とされ、やはり社会から追放された人々だったのであり、同じく非人視された病者等と囚人等とは、ともに「罪」の報いとして可視的に「五体非常」・異類異形とされた「罪人」として把握された人々だったと規定されよう。

 

P126

 この〈赤〉は、太陽・火・血等の表象色で、人間がはじめて手にした色の一つであり、15万年から20万年前の氷河期には、すでに呪術的な力をもつものとして使われている。こうした〈赤〉のもつ意味の一つとして注目したいのは、〈赤〉が、断罪・贖罪等の「罪」を象徴する色となっていたことである。たとえば『旧約聖書レビ記には、病の癒えた「癩者」をキヨメる儀式に必要な小道具として「緋の糸」があげられている。この「緋の糸」は、もう一つの小道具である小鳥の血に浸されることから見ても、贖罪の表象色であることはまちがいない。この他、英語で緋を意味するスカーレット(scarlet)は、高等法院判事の着る服の色であったし、同時に、そのスカーレットという単語自体が罪悪や犯罪を意味しており、たとえば、「緋の女(Scarlet Woman)」といえば売春婦を意味し、売春婦は「緋文字のA(Scarlet letter A)」、すなわち、姦通(アダルタリー)を表すAの緋文字を胸につけて公衆の面前に立たされた。また、身近なところでは、シャーロック・ホームズシリーズの第1作が『緋色の研究(“A Study in Scarlet”)』だったことからも、〈赤〉の犯罪の象徴としての意味が理解される。

 こうしたシンボリズムは中国にも見られ、たとえば、「罪」により誅された一族は「赤族」と称せられ、また、秦律でも、労役刑を課せられた「罪人」に「赤衣」を着せ「赤氈(赤頭巾)」を被らせるよう規定している。この赤頭巾は、日本においても、村の掟を破った者の制裁に用いられており、この他、片鬢剃りの刑が施行されるに際し、受刑者の鬢を剃り、そして朱を塗って引き回した例も存在し、やはり断罪に際し、朱、すなわち〈赤〉が登場してくるのである。

 以上の諸例から見て、地獄のシンボルカラーであり、また、使庁の看督長、非人の長吏層が用いた〈赤〉が、罪の象徴であったことは疑いなく、色彩シンボリズムの面からも、この三者が、断罪者、或いは「罪人」の監視者としての共通性をもっていたことが確認される。

 このように、使庁の看督長と囚人等との関係、そして、非人の長吏層と病人非人等との関係とは、まさしく、地獄の構図、つまり、断罪者または監視者と「罪人」という構図そのものの投影として理解される。すなわち、この世における囚人等、および病者等の非人というのも、そうしたいわば地獄の思想をもとに、そして、その「五体非常」・異形であるがゆえに、罪を償うべき「罪人」、人にして人に非ざる「罪人」として認識されていた人々に他ならなかったと考えられるのである。そして、こうした認識は近世にも及んでおり、たとえば十八世紀に成立した『嬉遊笑覧』にも、非人の説明として「非人とは悪行ありて人にあらぬ者の名なり」とされているのである。

 

P130

 さて、以上のように、病者非人の登場は十二世期のあたりであると考えられるが、それ以前に存在していた非人の例を見てみると、古く九世紀の承和の変に際し、「本姓を除き、非人姓を賜」って伊豆国流罪となった橘逸勢をはじめ、十一世期の半ばに、苛酷な使庁の使を「非人の長吏たるか」とした例、『江談抄』に、放免は「非人の故、禁忌を憚らず」とされた例など、すべて、此岸の「罪人」、人間の手による断罪に属するものなのである。すなわち、前に見た、囚人等の非人と、病者等の非人を時期的に比べると、まず初めに非人として登場したのは、前者、すなわち囚人・方面の類だったのであり、この世での非人視が、使庁・獄舎の周辺で発生したことが確認される。既述のとおり、地獄のイメージが、まさしく使庁のそれであったことから見ても、地獄における半牛半人の「非人」と、この世で断罪され、「異形」とされた囚人等とは、最も結びつきやすいものだったであろう。

 とすれば、こうした囚人等に対する非人観が拡大されるにつれて、十二世紀ごろ、「罪」の報いなどによって病となり、「不具」となった人々をも「非人」視するようになった、と想定することも容易である。仏教的価値観から見れば、人間の手により「断罪」された非人よりも、むしろ、病や「不具」等、神仏のいわば見えざる力によって「断罪」された非人の方が、より「罪」深き非人として捉えられたであろうし、そのパラドクスとして、より積極的な〈救済〉の対象ともなり得たであろう。そうした非人観の観念的肥大化とでもいうべきものにより、同じく「罪人」であり、「五体非常」という可視的な標識をもつ病者(特に癩者)・「不具者」が、最も「罪」深き非人として意識されるようになったと考えられるのである。

 

P134

 ここで再び〈赤〉について見ておくと、〈赤〉は本来、生命を象徴するものであるが、そのパラドクスとして、人間の〈死〉の象徴でもあった。たとえば、沖縄のノロの棺には、黒と〈赤〉の彩色がされ、また、中国においても、葬具に惜しみなく朱が塗り込められ、さらに、屍体そのものにも朱、すなわち〈赤〉が加えられていた。こうした〈死〉の象徴としての〈赤〉は、概念的には〈彼岸〉性の象徴としても捉えられるのである(野口武彦「演技する色彩」『色』)。たとえば網野善彦氏は、遊女屋ののれんが柿色だったこと等から、この色が「人ならぬ存在を示す象徴」ではないかと指摘されており、これこそ、まさしく〈赤〉いのれんが〈此岸〉と〈彼岸〉の〈境界〉─場を隔てる象徴的な小道具として機能したことを示していよう。〈赤〉ののれんを潜ることは〈彼岸〉へ入ることであり、松田修氏によれば、〈彼岸〉の住人、遊女は、まさに「人にあらざ」る〈彼岸〉の存在に外ならなかった。そして、「赤」という漢字が、もともと色相を示す字ではなく、火のうえに大(人の正面形)が加えられていることから分かるとおり、本来、焚刑の表意文字であること、その焚刑とは、神に対する穢を祓う一手段であったこと、などの指摘に象徴されるように、〈赤〉がまさしく、「犯罪者」を〈彼岸〉に追いやることによって、「悪」・「犯罪」によって生じた穢・不浄を祓いキヨメることのシンボルであったことは間違いないだろう。それゆえ、病者非人は「市外」へ追放されてキヨメられ、また、河原者も「河原」へ居住しなければならなかったのである。

 →「赤鬼」の赤の謎解きになるか。

 

P143

 注(86)河田光夫氏は、注(4)掲論文(中世被差別民の装い)において、癩者のもう一つの装いである「青衣」について、それが「この世ならぬ冥界の亡者や異類の色に通じる」ものとされている。

 →「青鬼」の青の謎解きになるか。

 

 

第二部 第二章 中世の食器

P187

 (河野眞知郎『古代末〜中世における在地系土器の諸問題』によるかわらけの性格規定)かわらけとは大小の皿型土器であるとはいうものの、それは供膳機能のみをもたされるものではなく灯明皿にも使用されるし、墨書を加えて呪物にもなる。また供膳機能とても、宗教的行事や会食など非日常的機会に、多量に消費されるという側面を見逃せない。つまり洗い直して日常的に使われることは少ないと思われる。こうしたことは、土器論の中では、消費者側の行為ということで見過ごされやすいが、実はそういった消費の様々な様態を見越して、それに量的に対応し、素焼で未使用という清浄さを維持する保守的な生産体制があったことを考えねばなるまい。かわらけが必要とされるような機会が多くあるところには多く供給され、必要の少ないところでは少量を搬入するにすぎないということである。これは古代の土器とは決定的に異なる点であり、都市や交易の中心的邑、寺社や居館などにはかわらけが入るが、農村や人口集中の少ないところでは当然ながら出土する機会が少ないのである。

 河野氏が中世土器論の特殊性として論じられたものは、このような〈かわらけ〉消費の特殊性、一般的・日常的食器とは趣を異にするこうした特殊性に基づいている。簡単に言ってしまえば、〈かわらけ〉は、使い捨ての食器であった。

 

P189

 ところで、こうした(かわらけを割る)事例は、いずれにしても性、特に女性をシンボライズするものであることは言うまでもないが、そうした意識は、明らかに中世社会にもその起源を求めることができる。しかも、近世的な〈戯れ〉をそれこそ微塵も感じさせない、真摯な態度においてであった。

 その一つは、出産の場面に登場する甑落としである。保立道久氏によれば、「御胞衣とゝこほる時のまじなひ」とされ、難産の時は胞衣の排出に限らず、甑落としがが行なわれた。保立氏は、こうした儀礼について、〈かわらけ〉、あるいは甑が「女性の性器そのものを意味して」おり、「これらの土器によって女性の性器を象徴させ、それを割ることによって難産を避けようという一種の類感呪術を見ることができる」とされている。