周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

「青」の民俗学

  筒井功『「青」の民俗学 地名と葬送』(河出書房新書、2015年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1章 南東からの指摘

P14

 沖縄には、よく知られているようにグスクと呼ばれる場所が至るところにある。漢字で書く場合には、まず例外なく「城」が用いられている。このことからグスクとは、軍事施設の跡だったとずっと考えられてきた。仲松弥秀自身も、そう思い込んでいたという。ところが、多数のグスクを現地で調べてみたら、とてもそうは言えないことが判明したのである。たしかに、南東諸島で「二百から三百に及ぶと思われる」グスクの中には「城的に変化した」ものもあるが、その数は「十指以下ではないかと思われる」としている。残りは「北は奄美諸島から南は八重山諸島までのグスクを踏査した結果」、「古代に先祖たちの共同葬所(風葬所)だった場所ということがわかった」のである。フィールドワークの強みが発揮された研究事例だと言えるだろう。

 なお、仲松は「何故にグスクを城というようになったかについては明らかではない」と述べている。私は、これは軍事施設としての「城」の意ではなく、何らかの構造物で囲まれた境域を指す「城(き)」のつもりで当てた漢字だと思う。

 

P19

 久米島沖縄本島の西方に位置する。そこの東岸沖にも奥武島がある。干潮時には久米島から歩いて渡ることができるし、今は橋もかかっている。古くは「アフ」「アオ」といった。

 角川の(地名)辞典には、「(奥武島は)昔からセジ(霊力)高い島とされ」、「不浄を忌み、死者は対岸に渡って葬ると言われる」とある。

 これではオウ=葬地の指摘とまったく逆ではないかと思われる方も多いだろうが、そうではない。葬所は、一言で言えば死者の霊を浄化して常世(神の世界)へ送り出すところであり、後には聖地へと変化しやすい。

 

P21

 橋口満著『鹿児島方言大辞典』には、「アバ 唖者、おし、口がきけない人」とあり、黒木弥千代著『かごしまお方言集』には、「アバ 唖、聾者」と見えている。同県の他の方言集にも「アバ」が立項され、いずれも「唖者」の意だとしている。

 死者は、もちろん口をきかない。その点では唖者に近い。そうしてアバとアワの音の近似およびアワとアオが相互に他方へ訛りやすいことを考えれば、このアバはもとは単に死者を指していたかもしれないのである。それが年月の経過とともに語義にずれを生じ、方言として残った可能性を想定できると思う。

 

 

P32

 ちなみに野と原とは、その意味が古くは少し違っていた。簡単に言えば、野は山腹の緩斜面を指し、原はそこからもっと下った平坦地のことであった。(中略)ただ、のちには両者の混同が起きてくるので…。

 

 

P34

 古代の東北地方には、「キ」と呼ばれる一種の軍事施設が20カ所以上置かれていた。(中略)これらには初めのころ、もっぱら「柵」の文字が宛てられ、のち(といっても8、9世紀である)には「城」の字が多くなる。そのため今日では「サク」や「ジョウ」と読む場合もあるが、当時はすべて「キ」と言っていた。(中略)

 

P35

 この事実に加え、これから述べる他の例をも参考にすると、キとは何かの構造物で囲まれた境域あるいは、その構造物のことだと言える。東北地方のエミシに備えたキの場合は、立て並べた丸太の塀であったから「柵」の文字を用いたに違いない。また、そこが軍事施設であったため「城」とも書いたのである。(中略)

 墓域のキについて二つほど実例を挙げておこう。

 岡山県倉敷市矢部の楯築遺跡は、弥生時代最大の墳丘墓として知られている。その中心部は三つの巨大な板状の岩で囲まれている。このタテツキとは、「立て石(また盾=楯の意でもあろう)のキ(城)を指していると思われる。すなわち、ここの場合、三枚の巨岩をキとして巡らせたのである。

 

P39

 イヤとは、葬送の地を指す古い言葉らしいからである。

 

P40

 死者を背負う格好をして「弥谷へ参るぞ」と声をかけることは、かつては実際に弥谷(七十一番札所弥谷寺)へ遺体を葬っていたことを暗示しているのであろう。洞穴へ納める遺髪は、遺体の代わりだと考えられる。

 弥谷(地元住民は、しばしばイヤダンと発音する)には、寺の仁王門をくぐった先に「賽の河原」と呼ばれるところがある。多数の地蔵が並び、周りに小石が積まれている。「賽」は境界域を指す「サエ」という語の訛りに宛てた感じである。「河原」も石のごろごろした地を意味する「ゴウロ」「ゴウラ」(神奈川県・箱根の強羅もこれである)に由来する言葉であって、それは必ずしも大きな川のそばにあるわけではなく、海岸や山中にも多い。弥谷の場合も山中の谷間である。

 

P46

 (茨城県桜川市大字青木の青木古墳群の南側の大字を羽田という)このハネダはどうやら、「ハニダ」の意のように思われる。ハニには普通「埴」の漢字を宛てる。埴輪の埴である。ハニとは何か。

 

  きめが細かくてねばりけのある黄赤色の土。古代、これで瓦、陶器を作り、また、衣に摺りつけて模様をあらわし、丹摺(にずり)の衣を作った。埴土(はにつち)。へな。赤土。黄土。ねばつち。粘土(ねんど)。はね。

 

 しばしば、古墳の周囲に巡らされている埴輪は、ハニでつくった円筒(輪)の意だと考えられる。古い時代の埴輪はだいたいが円筒埴輪で、人形や家形の形象埴輪は、後になって現れたようである。

 ちなみに、ハネダのダはドの訛りだと思われる。ドとは何かがあるところ、何かを産するところのことである。カマドは釜を置く装置であり、イドはイ(水)が出る場所のことだが、そのドである。すなわち、ハネダとは「埴土(粘土)の産出地」を指しているとみられる。

 

P59

 (群馬県利根郡昭和村貝野瀬)右の貝野瀬とは、どんな意味の言葉だろうか。それを知るには、まず「貝」から説明しなければならない。

 「カイ」は、山・丘・崖などに挟まれた廊下状の低地を指す地形語である。(中略)

 今日、普通名詞として用いるときは「峡(かい)」の字を当てるが、地名では「貝」「皆」「海」などとなっている場合が多く、「開」「甲斐」と書くところもある。

 貝野瀬の北西側が接する片品川(利根川支流)は、このあたりで長さ1キロくらいにわたって、高さ数十メートルの険しい断崖を形成しており、もともとはその谷を「峡の瀬」と呼んでいたことは疑いない。谷の深さは、この上にかかる万延橋から下をのぞくと足がすくむほどで、これくらい「峡の瀬」の名にぴったりの地形も珍しいのではないか。

 この、いわば川の形状を指した名は、いつのころかに河岸段丘上にできた人家の群れの名になっている。元来は特徴的な地物を呼んでいた名が、近くに生まれた集落の名に移るきわめて多い。旧村名の大半は、それだといっても過言ではないほどである。現在の国土地理院の地形図を見ても、貝野瀬は集落名のような記載になっている。それは近隣住民の意識のうえでも同じに違いなく、貝野瀬と言えばあくまで集落のことであり、片品川の崖を思い浮かべる人など、もういないと思われる。すなわち、地名が移動したのである。

 

P62

 要するに、もともとは川の地形に発した名が近くの集落の名に移り、やがて行政上の村名に採用されたため、その範囲全体の名に拡大したのである。

 

P65

 ハニ(埴)は、前章Ⅰ節で述べたように瓦や陶器などの製造に用いる赤っぽい色の粘土のことである。ウとは、何かがあるところ、何かが生えているところ、何かを産するところを指す言葉である。トチウ(栃生、よくトチュウとなって「途中」の字が当てられたりする)は、トチノキが生えている場所であり、ワラビウ(蕨生、ワラビュウと訛ることもある)は、山菜のワラビが多い場所のことである。

 要するに、ハニュウ(羽生の字を書くことが多い)とは、埴土の産出地の意にほかならない。そこは人々の暮らしに重要な土地であったから、しばしば地名になって残っている。ハブもこれがつづまった言葉で、埴生、土生、波浮などと文字はさまざまながら、各地におびただしく見られる。

 

 

P70

 それでは、イマキアオサカ(神社の名前)とは何か。(中略)

 このイマキは、「新たなキ」の義ではないかと思われる。キとはアオキやオクツキのキで、要するに「墓域」のことである。アオサカのアオは、本書が仮定している葬地だと考えることができる。サカとは、死後の世界とこの世との境のことだと推測される。坂はいまでは、もっぱら傾斜した道や傾斜面にのみ使われる語だが、もとは境を指していた。山は死者が行く場所であり、里との間が元来のサカであったが、そこが坂になっているので、のちに意味の転化が起きたのである。ヤサカのヤは、既述のイヤと同じではないかと思う。すなわち、イマキアオサカとは、つづめていえば「新墓域」のことである。

 

P71

 (島根県出雲市東林木町字青木の青木遺跡)弥生時代、ここはまぎれもなく葬地であった。

 ところが、奈良時代後半から平安時代初頭(八世紀後半─九世紀前半)には、祭祀・信仰の場になっていた。神聖視される土地になっていたのである。葬送の地が時をへて聖地に転化することは、古代にあっては少しも珍しくなかった。むしろ、ごく一般的だったとも言える。葬地は、先祖を常世(死後の世界であり、神の国でもある)へ送り出す場所だから、後には聖地になりやすいのである。もっとも、死と穢を結びつけるのは中古以来の考え方であり、古代人にとって墓地が聖地の対極にあったわけではない。

 →古代にも浄・穢観はあったろうが、それが古代では政治と結びついてはいなかった。おそらく、墓地(穢)と聖地(浄)に対しては、卑賤・尊貴のような差別的な感覚を持っていたわけではなく、両者ともに畏怖心のようなものをもっていただけかもしれない。

 

P75

 川は、山がそうであるように、彼岸すなわち人が死んだあと行く世界を象徴していた。いや、後に詳しく述べたいが、山と同様、実際に人を葬る場所でもあった。橋は、そこと現世との境であり、山と里とのあいだの坂(既述のようにサカ=境が語源)に相当する。つまり、典型的な境界である。川端にしばしばヤナギが植えられてきたのは、たとえ植えた時代の人々は意識していなくても、ヤナギのもつ性格を暗示していると考えられる。あちこちに柳橋という名の橋がよくあるのも、それと軌を一にしている。

 「ヤナギ」なる言葉の語源については、いろんな説がある。わたしは「ユノキ(斎木)の転訛とする説が最も妥当だと思う。ユには普通「斎」の漢字が当てられる。その語義は、小学館日本国語大辞典』によると次のとおりである。

 

  神聖であること。清浄であること。助詞「つ」を伴って、または、直接に接頭語的に名詞の上に付いて用いられ、その物が神事に関する物であることを表わす。「ゆ庭」「ゆ鍬(くわ)」など、神、または、神をまつるための物を表わす名詞に付く場合と、「ゆ笹」「ゆ槻」など、植物の名を表わす名詞に付く場合とがある。い。

 

 要するに、ユノキとは聖樹のことである。ヤナギは邪気を防ぐため幽明の境に植えられる木であるから、その語義にはよく合うといえる。

 

P88

 (島根県松江市美保関町雲津にある「蜘戸の岩屋(くもどのいわや)」)のクモはおそらく「隈」であり、地名は「奥まった船泊り=津」を指しているのではないか。(蜘戸=隈津)

 

P89

 洞窟の手前には、石ころだらけの浜がある。地元の人は、そこを「サイノカワラ」と呼んでいる。第二章5節にも記したように、このサイはサエ(境)のことで、柳田國男の表現を借りれば「死者の去り進む地」である。カワラはゴウラの語に由来し、「小石原」(箱根の強羅もこれ)を指す。したがって、流れの岸を意味するカワラ(河原)とは別であって、柳田は「磧」の文字を当てている。

 サイノカワラは、だから海岸や山中にあっても少しも不思議ではなく、実際、各地にそのような例は多い。のちには、しばしば死んだ子どもの行くところとされるようになるが、本来は年齢に関わらなかった。要するに、葬所のことである。ふつう「賽の河原」と書いている。雲津の住民も、昔は盆の十七日に賽の河原で石を積んでいた。これは雲津でもやはり、洞窟と浜を一体の葬所にしていた記憶を伝えていると考えられる。

 

 

第6章 対岸の古墳

P96

 興味深いことに、宮崎市青島の対岸近くでは、最も青島を臨みやすい標高9〜10メートルの丘に円墳五基からなる青島古墳群がある。三基はすでに消滅し、いちばん保存状態がよい一基が「青島歴史文化の広場」という公園の一角に、わずかに姿をとどめている。それは石室の一部で、そう言わなければわからないほど傷みが激しい。しかし、とにかく青島を遥拝する位置に、古墳が築造された事実は確認できる。

 これはおそらく、葬所が聖地に転化したあと、そこを伏し拝める場所に墓所を設けた結果であろう。ここでは、その転換が古墳時代にまで遡ることになる。こう言えば、飛躍ではないかと思われる向きも少なくあるまい。しかし、青島の対岸に古墳がある例は、偶然とは考えにくいくらい多いのである。

 

P98

ここで話が本題からずれるが、ニビだとかカルビだとか、ずいぶん妙な地名だなと気になって仕方がない方もおられるかもしれないので、ごく簡単に私の推測を述べておきたい。

 各地におびただしくみられる地名で丹生というのがある。いまはだいたいニウ、ニュウと発音するが、古くはニフであった。この地名の場所には、しばしば水銀鉱が存在した。ニは元来は「赤」「赤い」を意味する古語である。それが転じて「赤土」をも指すようになる。地名に付くときは、特別の赤土すなわち辰砂(しんしゃ・水銀の材料)のことが多い。ウ(フ)は前にも記したとおり、「何かが生えているところ」「何かを産出するところ」である。要するに、ニウとは辰砂の産出地のことであり、ニビはそのもとの音ニフがニブを経て転訛したものではないかと考えられる。

 カルビなる地名は、たとえば前にも取り上げた島根県松江市美保関町雲津の東隣にもある。そこでは「軽尾」の文字を当てている。これはおそらく、カルフから変化した言葉ではないか。カルフとは、何か重いものを背負うことを意味する古語である。山越えの峠道の入り口には、よくこの語がついた地名が見られる。長野県東部の避暑地、軽井沢をはじめ同じ地名は各地に珍しくない。これを「カルフ沢」の訛りであろうと初めて指摘したのは柳田國男であった。柳田は、馬が通わないため、人が背中に荷物を負って山越えをするような沢沿いの道、後にはその足溜りになった場所を、そう呼んだと考えたのである。

 沢がなければ単にカルフの名詞形カルヒと言ったとしても不思議ではない。その語尾が濁音化すればカルビになる。彼は実証には欠ける推測だが、少なくとも右の二つのカルビは、そのような条件に合っているように思える。

 

P104

 青島は、その墓地での葬送儀礼において、すでに重要な位置を占めていた可能性がある。それはおそらく、水葬につながるものではなかったか。突然、こんなことを言えば不信を抱かれることになるだろうが、このあとおいおい述べていく事実によってまったくの妄想でもないことが、わかっていただけるのではないかと思う。(中略)」

 (宮城県南三陸町)この青島と葬送との関係は確かめられないが、ずっと昔から神聖視されてきたことは間違いない。島は1500本のタブの巨木に覆われている。タブはイヌグスともいい、クスノキに似た芳香(樟脳のにおい)をもつ暖帯性の照葉樹である。しばしば神社の神木とされ、折口信夫などは古代の榊とは、この木のことであったとしている。東北地方では一般に大きくならないのに、巨木が林立するのは保護されてきたために違いない。今でも島にあるものは、木でも石でも取ってきてはいけないとされ、それが守られているのである。古代の葬所がのち聖地になり、それとともに立ち入りを制限される例が少なくないことは、すでに述べたとおりである。

 

 

第7章 常世浜は村の先に位置する

  1 山口県下関青井浜のこと

 このあたりには、昔から人家はなかった。耕地もない。特別の漁場でもなかったらしい。そんなところに、なぜ権力者たちの墓地が設けられたのだろうか。私は答えは一つしかないと思う。古墳が築かれる前から、浜が葬送の場所であったからである。それは当然、水葬であったろう。涌田の海民たちは、ここから死者を舟に乗せて、海のかなたの常世へ送り出していたに違いない。先祖は、この浜から旅立って氏の神になったと推測される。実際は、青井浜は、そのような雰囲気をたたえた渚である。

 青井とは「青江」の訛りだと考えらえる。青の江すなわち葬送のための江の意であろう。平凡社山口県の地名』の「涌田村」の項によると、元亀三年(1572)正月二十七日付の毛利輝元御判物に、「脇田之浦之内、青井并佐屋浦之事」なる一文が見えるという。脇田は涌田のことだが、青井と併記されている「佐屋浦」とは青井浜のことではないか。サヤとは、サイノカワラなどのサイと同様、サエ(境、あの世とこの世のとの境界)の意の可能性がある。たとえ、この想像が当たっていないとしても、青井浜が古代の葬送の地であったことは、まず間違いないと思う。

 

P119  3 そこは常世浜であった

 一つひとつでは状況証拠にさえならなくても、たくさんの事例を挙げることによって、全体が有力な証拠になる場合がよくある。柳田國男の言葉を借りれば、重出立証法である。

 

P120

 岩手県大船渡市の大船渡湾は、南から北へ向かってフィヨルドのように深く切れ込んでいる。東側の陸地の先端を尾崎という。地図には尾崎岬とあるが、岬は重複である。

 尾崎の「尾」は、この岬を神聖視して付けられた敬語の「御」であって、すなわち御岳(おんたけ、みたけ)などの「御」と異ならない。

 

 

第8章 日本水葬小史

P135 

 (長野県伊那市美篶の)青島・川手・大島の北方に広がる旧氾濫原を六道原と呼ぶ。「六道」は六つの冥界を意味する仏教用語だが、民俗語としては要するに葬地のことである。これらの地名は、以前この一帯が水葬の場所であったことを示唆している可能性がある。

 

P137

 (東伯郡湯梨浜町浅津の浄土真宗香宝寺の住職によると、上浅津と下浅津とに)一カ所ずつ野天の火葬の場があり、遺体はそこで焼いたうえに、灰を東郷池に注ぐ小川にまいていたという。昭和四十年代までのことである。

 

P138

 浅津から東へ12キロくらい、鳥取市青谷町山根や河原あたりにも、ほとんど墓がない。

 両地区の住民は一部を除いて、山根の浄土真宗願正寺の檀家である。彼らのあいだで死者が出たときは、火葬場で荼毘に付したあと骨を骨壺に入れて持ち帰り、願正寺の納骨室(地下に掘った大きな穴)に骨だけを投げ入れる。当然、中の骨はすぐ、誰のものか分からなくなる。(中略)」

 古い日本語で、人を葬ることを「はふる」(放る)、墓地を「すたへ」(棄辺)ともいった。のちに述べるように、それがおおかたの庶民の葬制だったろう。山陰地方の一部には、いまもそれが残っていると言える。

 

P140

 コラム④でも触れたように、鴨川のもっと下流、現京都市伏見区桂川との合流点付近は古くから「佐比河原(さいのかわら)」と呼ばれていた。貞観十三年(871)閏八月二十八日付の太政官符には、ここはもと「百姓葬送之地、放牧之処」なのに、近年、耕地化されつつあることを禁止する旨が記されている。百姓は庶民といったほどの意味だが、その葬送も川への投棄ではなかったかと思われる。

 一五〇〇年ごろ成立の『七十一番職人歌合』の三十六番は、「いたか」と「穢多」の組み合わせになっている。その絵に見えるイタカは一種の下級宗教者で、鴨川にかかる五条橋のそばで木片を削って作った卒塔婆を売っていた。詞書に「流れ灌頂、流させたまへ」とあるので、この卒塔婆を故人の供養のため鴨川に流す習俗があったのだろう。これは、かつての水葬の記憶を反映していると考えられる。人形流しは、遺体を流す代わりの行為、そのはるかな名残りの可能性が強いからである。近年まで、あるいは今日も各地に残る流し雛も、結局はそれではないか。これを裏付けると思われる興味深い民俗事例があった。

 →流し雛行事は「祓」であって、葬送とは別と考えるべき。もともとは同じような意味(未分化)だったのかもしれないが、中世では祓と葬送に分化したとみなすべき。

 

P143

 ヒルコは、だいたいは「骨なし子」「不具者」「発育不良の子」などと解釈されている。私は、そうではなく「流産した子」のことだと思う。古代人は生まれて間もないころまでの子どもには、まだ魂が入っていないと考えており、それで子(人の意味である。ただし、イザナギイザナミの子だから神でもある)の数に加えなかったのである。

 アワシマについて説得力のある解釈を下した研究者は、いないのではないか。卑見では、これは不吉な詩を象徴している。アワシマ=アオシマが現実に葬送の地であった事実が、このような仮託を生んだのであろう。そう考えて初めて、第一子がヒルのようにぬめぬめした、だが人間であり、第二子が島であるという、ちぐはぐな比喩の意味が理解できる気がする。

 いずれであれ、ヒルコは葦舟に乗せて(たぶん海のかなたに向け)流し捨てられている。その舟を出す場所をアワシマとかアオシマと呼んでいたのかもしれない。

 

P144

 うつぼ舟の伝説の根底に、水葬の記憶がひそんでいることは間違いあるまい。乗っていた人は多くの場合、神との関わりをもっており、これは死んだあと船に乗せて海のかなたへ送り出した先祖の霊が神として帰ってきたことを暗示していると思われる(赤穂市坂越の大避神社の祭神秦河勝和歌山市賀田の淡島神社の祭神は住吉明神の妻で、婦人病の神様)。「うつぼ」「うつろ」も「虚ろ」であって、棺のことだと考えられる。要するに、葬送が神迎えに形を変えているのである。

 

P154

 タやダは田のこととは限らない。何かがある場所の意の「処(ト、ド)」も、そう訛る場合が少なくないのである。現在の青田は、ふつうアオタと発音している。(中略)

 (阿見町)青宿の資料上の初出は鎌倉時代末の元徳元年(1329)で、当時は「青谷」と表記していた。他の中世文献には「青谷戸」としたものもある。両方ともアオヤトと読んだことは間違いない。ヤトはヤツ、ヤチともいい、湿地帯のことである。実際、この一帯には霞ヶ浦に面した低湿地が広がっており、そのあいだに小丘陵が点在している。鹿島神社も、そのような丘の一つに所在する。

 要するに、青宿は青谷戸の当て字であって、この文字を使いはじめたのは江戸期以後のことである。結局、青宿(青谷戸)とは青(墓地)に接した湿地帯を指していると思われる。それはおそらく丘の下の村か田んぼに付いた地名であったろう。

 

P156

 (行方市青沼)このヌマは、おそらく沼のことではない。一帯は霞ヶ浦と北浦との間の丘陵になっていて、地内に沼や池は見当たらないからである。傾斜地を指すノマという地形語があるが、これかもしれない。

 

 

第10章 墓地と葬送の場は違う

P166

 両墓制(埋め墓と詣り墓)の本質は埋め墓の方にあったと、私は思う。これは既述の徳島県吉野川市阿波市境の粟島や鳥取県東伯郡湯梨浜町浅津、鳥取市青谷町山根・河原などで行われていた(あるいは、いる)「放置葬」と都宇呈する部分が少なくない。言葉は悪いが、あらかじめ決められた一角に遺体または意ことを捨てていたのである。すなわち、古語にいう「はふる(放る)」、「すたへ(棄辺)」に対応する葬法である。これが中世までの庶民の一般的な葬送だったのではないか。

 

P177

 古代中国の柩は二重になっていて、内側を棺、外側を槨といった。日本では今日と同様、一つだけだったのであろう。冢は塚と同時で、盛り土の墓のことである。「停喪」はおそらく、その冢に遺体を治めるまでの状態を指していると思う。すなわち死後、十数日のあいだ肉食を避け、遺体の前で遺族は哭泣(書紀で「ミネたてまつる」と呼ぶ儀礼)し、他の者はまわりで歌舞飲酒したのである。これが19世紀末ごろまで沖縄で見られた「わかれ遊び」と同一の儀式であったことは、いうまでもない。

 それでは、なぜこんな葬礼が生まれたのだろうか。それは古代人の魂というものに対する考え方によっていたと思われる。彼らは、死んだばかりの人間の魂は荒れすさんでいて、いつ生者に祟るかわからないと信じていたのである。

 古代、葬礼の場で重要な役割を担っていた遊部と呼ばれる部民(権力者に隷属した職業集団)がいた。古代の法典『養老令』の注釈書『令集解』(10世紀前半の成立)には、「遊部。隔幽顕境。鎮凶癘魂之氏也」と述べられている。

 遊部は「凶癘魂(きょうれいこん)」を鎮めることを職掌としていたのである。彼らは天皇家に奉仕する部民であったから、神とされていた天皇でさえ、崩じた直後の魂は凶癘と見られていたことになる。ちなみに、「癘」とは癩病ハンセン病)のことである。

 人が死んで間もないころの荒魂は生者に祟りやすいが、遺体が白骨化するまでには和魂に昇華して常世へ旅立つ用意ができている。これが古代人の信仰であった。だからこそ、凄まじい死臭に耐え肉親の遺体に「膿沸き蟲流る」(イザナミの遺体について述べた書紀の表現)恐ろしい光景をしのんだのである。それが死者に対する供養であり、祈りであった。

 

P182

 西日本には「ヤ(谷)」という言葉は存在しない。これは東日本でのみ使われてきた地形語で、ヤツ、ヤチ、ヤトなどと同様、湿地帯を意味している。西日本でそういうところを指すときはノダ、ニタなどを用い、九州あたりではムタとなる。ヤの使用地域に厳密な境界線は引けないが、おおよそ新潟県西部と静岡県西部を結ぶ線より東側である。

 したがって、鳥取県で谷をヤと読ませている場合、不適切な当て字ということになる。この件に限らず、大抵は本来なら「屋」であろうと考えて、まず間違いない。実際、右の青谷も江戸時代までは「青屋」と書いていた・すなわち、この地名は何らかの建物によって付いた可能性が強いと言える。

 

P183

 (茨城県石岡市の青屋神社)ここには、もともと社殿などはなく、毎年6月の名越(夏越)の祓いごとに「青竹、青すすきを以て」(「常府巡覧記」)斎場が設けられていただけであった。そこに明治維新後、小祠が建てられ、のちいくぶん大きくなったのである。(中略)そこを、なぜか青屋と呼んでいたのである。斎場づくりに「青竹、青すすき」を用いたとするのは、この名に影響された結果であろう。竹はどれでも、枯れないかぎり「青い」はずだからである。

 注目されるのは、江戸時代まで斎場づくりは「夜丑の刻ごろ二人にて互いに無言にて」(前記文書)作業を行なったことである。真夜中に「二人が無言」で進める行為というのは、第8章4節でも述べたように、しばしば葬送儀礼に関わっている。これと「青屋」なる名から考えて、そこには元来は喪屋(殯屋)が建っていた可能性が強いように思われる。

 

P186

 つまり、黄泉比良坂と阿波岐原は、あの世とこの世の中間にあったことになる。(中略)

 右でまず注目されるのは、阿波岐原のアワキ(古い音ではアハキ)とアオキとの音の近似である。それは単に音が近いだけではなく、青地名の中にはもとアワ(粟や淡と表記されることが多い)といったり、いまも両方が重なっていたりする例が珍しくないことは、すでに記したとおりである。さらに後述するように、イザナギは死後、記では「淡海の多賀に坐すなり」とし、紀では「幽宮を淡路の洲に構りて、寂然に長く隠れましき」とされている。神話がイザナギの他界訪問や、永遠の地とのかかわりで採用した阿波岐原、淡海、淡路の三つの地名に、いずれも「アワ」の語が含まれているのである。

 しかし、それを取り上げる前に、阿波岐原と同様、あの世とこの世のあいだに位置づけられている黄泉比良坂について触れておきたい。

 ヨモツヒラサカの「サカ」が「境、境界」を指す語であることは、ほぼ定説となっている。「ヒラ」とは、私は「坂、斜面」のことだと思う。これは現在の共通語とは逆の意味になるので、多少の説明がいるかもしれない。それには柳田國男・倉田一郎『分類山村語彙』中の「ヒラナカ」の項が簡にして要を得ているので、そのまま引用させていただく。

 

 〈山の側面をヒラという語は全国に行き渡っている。それから転じてすべての傾斜面が皆ヒラで、頗る平の字を当てたヒラと混雑する。伊豆三宅島でもヒラまたはヘラが傾斜地、南は薩摩の桜島等で特にこれをヒラナカと言っているのは、たぶんは平地のヒラと区別するためであろう〉

 

 そのヨモツヒラサカは、記では「今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」とある。イフヤザカの比定地は知られていないが、このイフヤ(イウヤ)の音はイヤにごく近い。第二章5節で述べたように、「イヤ」は葬送の地を指すとの指摘があり、それに当たるらしい例も二、三挙げておいた。