周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

田所文書2 その2

    二 沙弥某譲状 その2

 

                 (林ヵ)

 一  惣社二季春夏御神楽料田畠栗⬜︎⬜︎事、

                        (引ヵ)

     田貳町伍反〈[ ]五反爲圖免造[ ]浮免[ ]⬜︎募[ 〉

           (瀬村)

    [   ] 黒⬜︎⬜︎

     麥畠八反 〈安[    而地頭[  〉

           賀茂郡)(佐東郡

     栗林二丁内 〈黒瀬村五反杣村一丁五反〉

 一  同御社四季仁王講畠夏秋各壹町

     件免畠者、刑部阿闍梨嘉憲爲田所代、云田云秋畠麥畠、被

     申立十余町免之間、依正員此名一丁許令立用、田所得分割分

     之者也、

 一 [ ]御修理以下[  ]神主職[

             (爲ヵ)

    [  ]無別得⬜︎自⬜︎⬜︎御[

    佐東郡

     古河村田畠九反

      一所田七反 〈所當者段別単乃米五斗二升代〉 今原

       件名田者飯田三郎入道寂願〈俗名頼長〉傳領之間、雖却下作職

                               (弥ヵ)

       於福光四郎兵衛尉為時、依年来所領、猶以爲⬜︎冨名内

       國檢之時、⬜︎田之殘者令進止

      o但爲時者、依守護家人、不傳本所進止領之由、帯

       國司御擧状、訴─二申子細於六波羅殿之間、被御教書

       爲御沙汰也、然者就落居勘注者也、

       (所畠二反ヵ)

      一[    ]〈⬜︎作[ ]安道地子[      ]友〉

    佐東郡

     八木村畠二反 子細同⬜︎[    作人不定

     安南郡田畠

       田

       畠

      戸坂村田畠一丁七反六十歩

        田一丁五反六十歩

         (二ヵ)

        畠⬜︎反

     [       ]小作人 友近

     當浦入米[

     勧農田夫役梶取[   ]〈[ ]田所職免田[   ]致取沙汰之上者可

                  二重云々、各別之時者不可有別子細者也、〉

     歳末筵料并御采役令勤仕事、子細同前、

     諸運上物雑用缺物事、但近年無沙汰条無其謂者也、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

              

 一  安南郡并原郷散在造府o領公文名主両職兼帯得分事、

                        (宛ヵ)

     作田段別単乃米一斗三升 公物単乃米三斗九升外也、

                       (宛ヵ)

     秋畠地子大豆段別単六升六合 同一斗五升外、

                       (宛ヵ)

     ⬜︎畠[      ]升六合 同一斗二升外、

    [     ]役事、

    [

 

           (者)

     副代官令奉行⬜︎也、

 一  所々散在名田畠

      [

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

   つづく

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「黒瀬村」

 ─「芸藩通志」によると、現(賀茂郡黒瀬町に含まれる十六ヵ村と、北東に続く現東広島市域の馬木村、西南に続く現呉市域の郷原村を含めて十八ヵ村を黒瀬郷としている。正応二年(一二八九)正月二十三日付沙弥某譲状(田所文書)に「惣社二季御神楽料田畠栗⬜︎⬜︎事」として「栗林二丁内黒瀬村五反 杣村一丁五反」と見える。大永三年(一五二三)八月十日付の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「黒瀬 三百貫 大内方諸給人」「黒瀬乃美尾 百貫金蔵寺領」とあり、黒瀬が東西条に含まれており、のちの乃美尾(のみのお)村を含む広域の地名であったことがわかる(『広島県の地名』)。

 

「杣村」

 ─現在の安佐南区沼田町全域と安佐北区安佐町の西部地域を範囲とする中世の村(『広島県の地名』)。

 

「古河村」

 ─広島市安佐南区。中世佐東郡内にあったと思われる村であるが、その地域は不詳(『広島県の地名』)。

 

「国検」

 ─国衙領において国司によって行われる検注。十二世紀になると、荘園・公領の田数を一国単位で掌握する一国検注が行われ、その結果大田文が作成された。この検注をも国検と呼ぶ(『古文書古記録語辞典』)。

 

「御挙状」

 ─下位の者が直接上位の者に申状を差し出すことをはばかる場合、あるいは下位の者の申状を上位の者に紹介する場合、あるいは下位の者の行為を上位の者に取り次ぐ場合、あるいは官途受領を推挙する場合などに、下位の者と上位の者との中間に地位する者が、取次あるいは推薦するために出す文書を挙状あるいは吹挙状と呼ぶ。文書の形式としては、書状・請文などの形式をとり、充所は上位者に直接充てられることは少なく、奉行所・奉行人・側近者に充てられることが多いことから、「以此旨御披露候」なる文言を用い、書き止めは書状と同じく「恐惶謹言」を用いる。内容は御家人の大番役勤仕の吹挙、所領所職の安堵の取次ぎ、訴訟のための参上者の紹介など多岐にわたっている。官途を推挙した場合は、推挙した人に対して、推挙した官途を知らせるための文書を発給しているが、この場合も官途吹挙状と称している。しかしのこの場合の吹挙状は充名人に推挙したわけではないので、同じ挙状と称していてもその内容趣旨は異なる。『貞永式目』にも挙状に関する規定がみえる。すなわち鎌倉幕府は、原則として諸国の荘園公領ならびに神社仏寺領の訴訟に口入しなかったが、本所の挙状を帯して鎌倉幕府に訴えた場合は口入できることを定めた第六条、官爵を所望する輩が昇進のため鎌倉幕府の挙状を求めることを禁じた第三九条の規定などがある。なお、挙状を交付されることを「御一行を賜はる」ともいった(瀬野精一郎『国史大辞典』)。

 

六波羅殿」

 ─この史料は正応二年(一二八九)正月二十三日付なので、六波羅探題は北条盛房になります(「鎌倉幕府諸職表」『日本史総覧Ⅱ』)。

 

「八木村」

 ─現安佐南区佐東町八木。「和名抄」の佐伯郡養我郷は養義郷の誤りとして当地に比定する説が有力であるが、その根拠には城山南西の平地の岩見田・椿原・下土居一帯に、今日は消滅したが五町と二町の範囲で条里遺構が見られたことがあげられる。

 

「戸坂村」

 ─現東区戸坂町・戸坂。安芸郡の西北端に位置する。南西は新山村に接し、南は牛田村との境界をなす通称牛田山(二六一・一メートル)、東は標高三三〇─三七〇メートルの尾根に囲まれ、西北に開けた比較的広い谷あいにあり、西北を太田川が流れる。古代には山陽道が東南の中山村から中山峠を越えて当地を通っていた。寛元四年(一二四六)五月二十一日付安芸国司某下知状案(厳島野坂文書)によれば、遠兼なる者が、それまで所有していた戸坂門田内今富名九反の替地として、久武名に属する「戸坂久須木垣内」などの地の領知を国司から認められている。鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)には「戸坂道祖神免一反」と見え、かつて大上字中の畑(現戸坂大上三丁目)にあった幸之神社(現在三宅神社に合祀)は「戸坂道祖神」の後進と考えられる。鎌倉末期の戸坂村には有力在庁官人田所氏の私領田畠が一町七反余あった(正応二年正月二十三日付「沙弥某譲状」田所文書)。

 室町時代は守護武田氏の家臣芥川氏が狐爪木(くるめぎ)を領したといい(知新集)、戸坂氏を名乗る武田家臣もいるので、武田氏の支配下にあったことは確実である。大内氏の武田氏攻撃が本格化した天文八年(一五三九)九月十七日、尼子氏の援軍を加えた武田軍は大内方の毛利軍と戸坂で戦って敗れ(同年十月五日付毛利元就感状「閥閲録」所収岡吉左衛門家文書)、翌年四月には戸坂要害が陥落している(同九年四月二十日付某感状写「芸備郡中筋者書出」所収)同十年の武田氏滅亡後はしばらく大内氏の領地が続いたと思われるが、同二十一年以降は毛利氏の領するところとなり(毛利家文書)川の内水軍の触頭山県就相・福井元信らに戸坂の地が給地として与えられ(「閥閲録」所収山県四郎三郎家文書・福井十郎兵衛家文書など)、他の広島湾頭域の諸村とともに毛利氏水軍の拠点とされた(『広島県の地名』)。

 

「原郷」

 ─「和名抄」高山寺本・東急本ともに「幡良」と記し、前者が「波羅」、後者が「波良」と訓を付す。「芸藩通志」は「今上原村あり」とし、現広島市安佐北区の上原を遺名とするが、「日本地理志料」は「府中田所氏文書、佐東郡原郷注村名萱原、鳥田、大豆田、道末、尾喰、伊与寺」とし、西原・東原両村(現広島市安佐南区)をあて、南下安・北下安・東山本・西山本諸村(現同区)にも及ぶとする。「大日本地名辞書」は「今東原、西原、小田、川内、三川の諸村なるべし」とする。「広島県史」も鎌倉中期の沙弥某譲状(田所文書)に「原郷」が記されるとし、東原・西原を原郷の遺名とする。ただし中世には原郷は佐東郡であるから郡域に変化があったことが考えられる。なお同書は福田・馬木(現広島市東区)に原の地名が多いので、この方面に求める説もあるとする(「幡良郷」『広島県の地名』)。

 

「単乃米」

 ─「単米」(ひとえよね)。年貢徴収に伴う諸費用(検田使得分・沙汰人得分・公文所得分などや交分)を含まず、単位面積に斗代をかけただけの量の米(『古文書古記録語辞典』)。