周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

豊町歴史民俗資料館所蔵多田文書4

    四 備中国賀陽郡八田部郷内打渡坪付写

 

   備中国賀陽郡八田部郷之内四貫文之地田畠坪付之事

 一所田壹段    分四斗五升  国府与三右衛門抱

                かうの

 一所田貳拾五代  分貳斗    孫右衛門

 一所田壹段卅代  分六斗四升  国府与三右衛門

                清水之内

 一所田壹段卅代  分五斗六升  勘左衛門

                大もり

 一所田壹段十五代 分六斗六升  与右衛門

 一所田四拾五代  分四斗五升  同 人

 一所田貳段    分壹石貳斗  同 人

 一所畠壹段    分銭百五拾文 小河与助上給

     以上田畠九段四拾五代

       分銭四貫貳百六拾五文目

 右打渡如件、

 (1577)             河内備後守

 天正五年〈丁丑〉年九月二日       熙資書判

                    (景道)

                 磯兼左近大夫書判

                    (春忠)

                 井上又右衛門尉書判

                   (就栄)

                 岡 和泉守書判

                   (景信)

                 桂右衛門大夫書判

         多田助八殿

 

 「注釈」

「八田部」

 ─現総社市駅前1―2丁目・中央1―2丁目・総社1―3丁目・総社。東は井手村、北は門田村、南・西は真壁村に接する。古代の賀陽郡八部郷(やたべ・和名抄)の遺称地で、中世には国衙領の八田部郷が一帯に成立する。永享元年(1429)の備中国惣社宮造営帳写(池上文書)に、棟別一間に二十文を課せられた国衙領に郷名が見える。戦国末期には宝福寺の寺領十貫文があった(天正四年「宝福寺領検地帳」宝福寺文書)。天正五年(1577)五月二十二日、小早川隆景は郷内他六貫文の田畠一町七反余りを国貞景氏に打ち渡した(「八田部郷内他打渡坪付」萩藩閥閲録)。また九月二日には郷内四貫文の田畠九反余りを多田助八に(八田部郷内打渡坪付)広島県豊田郡豊町歴史民俗資料館蔵)、同十一年八月十二日に畠一町三反余り(分銭三貫文弱)および九月十四日に田一町四反余り(分米七石余り)を清水与衛門尉に与えている(「清水与右衛門先給坪付」黄薇古簡集)。なお応永元年(1394)仮託の吉備津宮惣解文写(吉備津神社文書)では、八田部郷として雑米八十石を海宗長が進めている。(後略)(『岡山県の地名』平凡社)。