周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

楽音寺文書49

    四九 頼源法印置文

 

                        (安芸豊田郡)

 一就新発意契約、潤月御影供、為反役其支度、釜山」下六斗代段銭二重共、

  米参拾貳俵御礼ニて、末代」法持院寄進申候、反銭一重者何之新発意成共、

                         (小早川)  (景盛)

  契約」首尾号二 御影供銭進之置候、彼田之儀、 隆景様御判」小田殿拜見、於

  御納得給候条、至後々末代迄相違有間」敷候、若於違背者、以此目録

  可御沙汰候、為堅書記置候、

 一潤御影供、雖御油断有間敷候、如此之趣中台院へ茂」書記進置候、」

  常州筑波根小田住僧頼源、二世悉地成就之志令進上候、」於後々末代

      梵字

  御両院主様⬜︎字一返可預廻向候、」

  六十余夢中 息風出理幾 為五躰分離 自然遊大空

     (六十路)

     むすちすき 一とせおくる けふまても

     わすれすかへる もとの故郷

 (一五八六)

 天正拾四年〈丙戌〉卯月八日 権大僧都頼源法印宥忍大和尚位(花押)

 法持院 御同宿中

 

 「書き下し文」

 一つ、新発意の契約に就き、閏月御影供、反役を其の支度として、釜山下の六斗代の段銭二重とも、米三十二俵を御礼にて、末代法持院へ寄進し申し候ふ、反銭一重は何の新発意成るとも、契約の首尾御影供銭と号し之を進らせ置き候ふ、彼の田の儀、隆景様の御判を小田殿拜見し、御納得し給ひ候ふの条に於いて、後々末代に至るまで相違有るまじく候ふ、若し違背に於いては、此の目録を以て御沙汰有るべく候ふ、堅く書き記し置かんがために候ふ、

 一つ、潤御影供、御油断有るまじく候ふと雖も、此くのごときの趣を中台院へも書き記し進らせ置き候ふ、

  常州筑波嶺小田住僧頼源、二世悉地成就の志進上せしめ候ふ

後々末代に於いて御両院主様□字一返廻向に預かるべく候ふ、

  六十余り夢の中 息風の出づる理に幾し 五体分離せんがため 自然大空に遊ぶ

     六十路過ぎ 一年送る 今日までも

     忘れず帰る 元の故郷

 

 

*難しすぎて、まったく解釈することができませんでした。

 

 

 「注釈」

「反役」─未詳。反銭(段銭)のことか、あるいは半役を意味するか。

 

「釜山村」

 ─現三原市沼田東町釜山。末広村の東南にあり、沼田川支流天井川の南に立地。古くは負田釜山村と称した。南接する渡瀬村との間に標高300メートルの山が連なり、北麓に天井川の支流生田川(おいだ)・水田川・本谷川などが流れ、谷を形成。丘陵の緩傾斜面に六世紀末の横穴式石室をもつ釜山大塚古墳・中山古墳がある。「芸藩通志」には、当村と末光・両名の三ヵ村を井迫郷というとあり、井迫を「井廻」の誤記とし、「和名抄」所載の沼田郡今有郷に比定。

 西部の生田谷は永寿寺(現世羅郡世羅町)蔵の大般若経奥書に「永和五年二月十三日 一交了、安芸国沼田庄生田住侶金剛仏師澄覚」「沼田庄於老田寺」とあって、中世には沼田庄に属したことがわかる。村山家檀那帳(山口県立文書館蔵)天正九年(1581)分の小泉の項に生田寺が見えるので、生田谷は沼田小早川氏一族小泉氏の勢力下にあったものと考えられる釜山の地名は継目安堵御判礼銭以下支配状写(小早川家文書)の文明十二年(1480)分に「一貫文釜山寺迫坊」と見える。(中略)

 生田権現山と釜山権現山が御建山で、大左右池(おうそう)があり、社寺には生田に熊野本宮、釜山に熊野新宮、生田に生田寺跡、釜山に釜山寺跡があり、両寺はともに熊野権現別当寺で、天正十年ごろ三原に移されたと記す。生田寺跡の五輪塔残欠は南北朝時代後期の造立とされる(『広島県の地名』平凡社)。

 

常州筑波根小田」

 ─「常陸国筑波嶺(筑波山)小田」、現在の茨城県つくば市筑波町小田のことか。三村山西南麓に所在。北は小和田村。村域の小田田向遺跡からは縄文後期の土器・石器が出土、小田古墳群には石室が残る。古代には「和名抄」筑波郡三村郷に属し、中世には小田氏の本拠地となり、長島家蔵の室町期の石造灯籠(件指定文化財)など多くの文化財が残されている。また現新治郡新治村の東成寺祖師堂の伝広智上人坐像膝下の永仁六年(1298)の墨書銘(発願文)に「南野庄小田之住人藤原氏」とあり、南野庄に属していたと思われる。なお文保三年(1319)の常陸国総社造営役所地頭等請文目録(総社文書)には「一通 筑波社三村郷地頭小田常陸前司」と見え、小田の地名は確認できない。

 鎌倉初期に常陸守護八田知家が織田を本拠とし、その子孫は筑後氏・小田氏を称したが、小田氏の支配は戦国期には不安定となり、佐竹氏の南下に抗しきれず、天正十八年(1590)ごろまでには完全に崩壊した。その後、佐竹麾下の太田資正、梶原政景親子、佐竹一門の小場義宗の支配を経て、慶長七年(1602)の佐竹氏秋田移封によって天領、同十二年に近江高島藩佐久間氏領、元和二年(1612)旗本横山興知の知行地、慶安二年(1649)一部が土浦藩領、元禄十一年(1698)すべて土浦藩領となって廃藩置県に及んだ。(中略)

 万松院竜勝寺は曹洞宗で、慶長七年に村内で三十石の朱印地を与えられた(寛文朱印留)。医王山遍照院長久寺は真言宗豊山派で、鎌倉後期の石造灯籠は県指定文化財。富岡山石上寺延寿院は真言宗豊山派で、天文七年(1538)の銘をもつ石像五輪塔は県指定文化財。他に浄土宗の勢至山一心院解脱寺がある。土浦藩西郷組大全帳によれば竜勝寺末の関雲山宗安寺・洞雲山金竜寺、長久寺門徒の威徳院、真言宗の持福院・延命院・宝蔵院・徳寿院、真言宗山伏の宝教院・花蔵院・宝性院があったがいずれも廃寺。さらに年物小屋三、浅間・新宮・蛭子宮・桑山宮・諏訪・八幡神社・天王(八坂神社)・天神(天満宮)・愛宕などがあった。桑山宮は南野庄惣社桑山社で(新治郡の→南野庄)、現在は八坂神社に合祀されている(『茨城県の地名』平凡社)。