四八 小早川弘景自筆書状
御寺領夫丸侘事」之由承及候、然者」日からおもわ敷候ハね共、」ふと渡海御祈」念
奉レ期候、為二御布」施一免除申候也、雖下無二」御等閑一候上、弥御祈念」奉レ憑
候、連々」陣中より可レ申候、」暮之十日十日罷」出度候へ共、存二子細一候間、」
与風罷出候、留守中」奉レ憑候、恐惶敬白、
(異筆)(1464)
「寛正五年十月八日戊子中段余」
十月七日
御同宿中
(異筆)(寛正五年)
「甲申歳 (河) (教弘)(京)(細川勝元)
守山重見神野通春ニ弓ヲ引時、大内殿景兆
為二合力一与州渡海ス、又竹原弘景為二大内合力一渡海之時状也、」
「書き下し文」
御寺領夫丸侘事の由承り及び候ふ、然らば日柄思わしく候はねども、ふと渡海の御祈念を期し奉り候ひ、御布施として免除し申し候ふなり、御等閑無く候ふと雖も、いよいよ御祈念憑み奉り候ふ、連々陣中より申すべく候ふ、暮れの十日罷り出でたく候へども、子細を存じ候ふ間、ふと罷り出で候ふ、留守中憑み奉り候ふ、恐惶敬白、
(中略)
「甲申の歳
守山・重見、河野通春に弓を引く時、大内殿京兆に合力せんがため予州渡海す、又竹原弘景大内に合力せんがため渡海の時の状なり、」
「解釈」
御寺領に賦課された夫役を辞退したいという歎願を聞き及び申し上げました。そうであるならば、日柄は好ましく思いませんが、急ぎ、渡海のご祈祷をお願い申し上げまして、お布施として夫役を免除し申し上げます。われわれはごく親しい間柄ではありますが、ますますご祈祷をお頼み申し上げます。たびたび陣中からご祈祷の依頼を申し上げるつもりです。十日の夕暮れに出発したいのですが、伊予の事情を考えますと、急に出発するかもしれません。留守中、お頼み申し上げます。以上、謹んで申し上げます。
(中略)
「甲申の歳(寛正五年・1464)
森山(守山)・重見両氏が河野通春に弓を引いたとき、大内教弘は管領細川勝元に合力するため伊予国に渡海しようとして、同じく竹原小早川弘景は大内教弘に合力するため渡海しようとしたときの書状である。」
「注釈」
異筆の追記を信じれば、この書状はいわゆる「寛正伊予の乱」に関連する史料になります。川岡勉「中世伊予の山方領主と河野氏権力」(『愛媛大学教育学部紀要. 第II部, 人文・社会科学』vol.36 no.1, 2003.9, 19〜21頁、https://opac.lib.ehime-u.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=6311&direct_target=catdbl&direct_key=%2554%2544%2530%2530%2530%2530%2533%2539%2530%2531&lang=japanese#catdbl-TD00003901)によると、「寛正伊予の乱」は、管領細川勝元に対して、彼を後ろ盾に伊予国を事実上制圧していた予州家河野通春が敵対したことによって起きたそうです。河野通春を攻撃した森山氏・重見氏とは、道後平野の南部に位置する伊予郡や浮穴郡などの山間地域を拠点とする「山方領主」に分類される勢力で、当時、細川氏との関係は密接であったことが明らかになっています。
*その他、「四 河野教通と同通春との抗争」(『愛媛県史 古代Ⅱ・中世』1984、データベース『えひめの記憶』、http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7831)参照。