周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

蝶々〜、蝶々〜、大路にとまれ〜♪ ─魂のシンボル─ (Soul symbol)

【史料1】

    永享六年(1434)七月十一日条   (『満済准后日記』下─594頁)

 

 十一日。晴。(中略)

  一去比法性寺大路辺へ白蝶降下云々。豊年瑞之由。諸人申入旨三位法眼申入之間。

   先規若如此事在之歟之由。御尋大外記業忠処。両度例注進之。最初天暦年中黄蝶

   自天降下。聖代豊穣天下安全云々。後度ハ文治年中降下。天下安泰豊饒之由

   申入也。両度共黄蝶歟。今度白蝶云々。先例ハ雖為御祝着。当時之儀旁御恐怖

   云々。(中略)」

  一法性寺大路白蝶降下事。天暦文治佳躅上者。尤珍重存也。

 

 「書き下し文」

 十一日、晴る、(中略)

  一つ、去んぬる比法性寺大路へ白蝶降り下ると云々、豊年の瑞の由、諸人申し入るる旨三位法眼申し入るるの間、先規若しや此くのごとき事之在るかの由、大外記業忠に御尋ぬるの処、両度の例之を注進す、最初天暦年中に黄蝶天より降り下る、聖代豊穣・天下安全と云々、後度は文治年中に降り下る、天下安泰・豊穣の由申し入るるなり、両度とも黄蝶か。今度は白蝶と云々。先例は御祝着たりと雖も、当時の儀旁々御恐怖と云々、(中略)

  一つ、法性寺大路白蝶降り下る事、天暦・文治佳躅の上は、尤も珍重に存ずるなり、

 

 「解釈」

  一つ、先日、法性寺大路に白い蝶が舞い降りたという。豊年の奇瑞だと様々な人々が申し入れてきたことを、三位法眼が伝えてきたので、もしかすると先例にこのようなことがあるのか、と大外記清原業忠にお尋ねになったところ、業忠は二度の先例を注進した。最初は天暦年中(947〜957)に黄色の蝶が天から舞い降りた。村上天皇の御代は豊穣で安全だったそうだ。二度目は文治年中(1185〜1190)に舞い降りた。天下安泰・豊穣であったと申し入れたのである。二度とも黄色い蝶であろうか。この度は白い蝶だという。先例は喜ばしいことであったが、今回の件については、人々は恐れなさっているそうだ。

  一つ、法性寺大路に白蝶が舞い降りたこと。天暦・文治の件が嘉例であるうえは、今回の件も当然、めでたいことと思い申し上げるのである。

 

 The other day, white butterflies landed on Hosshoji-oji street. Innou (the name of a physician) has reported that many people have rumored to be a precursor to a good harvest. When I asked Kiyohara Naritada if there was such a precedent, he reported two precedents. According to the first case, around 947-957, yellow butterflies landed from the sky. This era of Emperor Murakami was a rich and safe era. According to the second case, butterflies landed around 1185-1190. He reported that this was also a rich and safe era. It is not clear whether both cases were yellow butterflies. This time, it is a white butterfly. The two precedents were good signs, but people are afraid of the incident.

 White butterflies landed on Hosshoji-oji street. The precedent that occurred around 947-957 was a good sign, so of course I think this case is also a welcome case.

 (I used Google Translate.) 

 

 「注釈」

「三位法眼」

 ─允能か。?-? 室町時代の医僧。坂士仏(さか-しぶつ)の孫。正長(しょうちょう)元年(1428)称光天皇の難病の治療に成功。永享3年(1431)将軍足利義教(よしのり)の病気をなおした。法眼。著作に「瑠璃壺(るりつぼ)」(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、https://kotobank.jp/word/允能-1057055)。

 

 

*白い蝶々が舞い降りた。ウチの庭にも白や黄色の蝶々は頻繁に飛んでいますけど、いったいそれのどこが珍しいのか、どうして蝶々が吉凶判断に利用されるのかさっぱりわかりません…。そう思って困っていたのですが、こうした事例を集めて分析した論文を見つけることができました(池田浩貴「『吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆 ─黄蝶群飛と鷺怪に与えられた意味付け─」『常民文化』38、2015・3、https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3571&item_no=1&page_id=13&block_id=17)。

 池田論文を読んでみると、引用された史料のほとんどで、蝶は群れを成して飛んでいました。したがって、今回紹介した「白蝶降下」も、おそらく群れで飛んでいたと考えられます。またそうであるからこそ、珍しいものとして記載されたのでしょう。

 同論文によると、鎌倉の陰陽師や『吾妻鏡』の編纂者は、蝶が群れで飛んでいるのを凶兆(戦乱の予兆)と捉えていたようです。しかし今回の場合、儒学者清原業忠は吉兆と判断できる先例を注進しています。鎌倉では凶兆と認識され、京都では吉兆と認識されているのですが、こうしたズレがなぜ起きているのかという問題に対して、残念ながら池田氏の論文には明確な解答が用意されていませんでした。同じ時代であっても、吉兆と凶兆の両方の解釈があったのか、鎌倉から室町へと時代が変わるにつれて、凶兆から吉兆へと変化したのか、それとも陰陽師は凶兆と判断し、儒学者は吉兆と判断したのか。いろいろと考えられそうですが、どれも決定打に欠けます。加えて、白蝶と黄蝶では吉凶の判断に違いがあるのか、といった問題も残されています。わからないことばかりですが、なかなかおもしろい話でした。

 

 

 ちなみに、蝶々は人間の魂を象徴したものでもあったようです。

 

【史料2】

    文安四年(1447)二月十九日条    (『経覚私要鈔』1─155頁)

 

  十九日、辛亥、霽、少雪降、(中略)

      〔幻〕                       (幸徳井友幸) 皮

   又昨日夢幼欤不分明、然而自彦喜久蝶出之由見之間、為招魂祭、陰陽師方遣帯并

   料足了、(後略)

 

  廿二日、甲寅、

  如意輪呪千反唱之、法楽太子了、

 一松若下了、彦喜久無為ニ着了、路次之様、無殊儀云々、陰陽師云、自懐蝶出欤之由

  見之、人魂欤、尤招魂可然之由申之、則沙汰遣云々、

 

 「書き下し文」

  十九日、辛亥、霽る、少し雪降る、(中略)

   又昨日夢幻か不分明なり、然るに彦喜久より蝶出づるの由見るの間、招魂祭の為、陰陽師方へ皮帯并びに料足を遣はし了んぬ、(後略)

 

  二十二日、甲寅、

  如意輪呪千返之を唱へ、太子を法楽し了んぬ、

 一つ、松若下り了んぬ、彦喜久無為に着き了んぬ、路次の様、殊なる儀無しと云々、陰陽師云く、懐より蝶出づるかの由之を見る、人魂か、尤も招魂然るべきの由之を申す、則ち沙汰し遣はすと云々、

 

 「解釈」

  十九日、辛亥、晴。少し雪が降った。(中略)

   また昨日、夢か幻かはっきりしない。しかし彦喜久から蝶が出るのを見たので、招魂祭を執行するために、陰陽師幸徳井友幸方に皮帯と費用の銭を送った。

 

  二十二日、甲寅。

  如意輪観音真言を千回唱え、聖徳太子を供養し楽しませた。

 一つ、松若が奈良へ下った。彦喜久は無事に奈良に到着した。道中の様子に、とりわけ問題はなかったという。陰陽師が言うには、「懐から蝶が出たのを見たのですか。おそらく人魂でしょう。当然、招魂祭を執行しなければなりません」と申し上げた。そこで、すぐに招魂祭を執行させたそうだ。

 

 February 19, fine. It snowed a little. (Omitted)
 Yesterday, I saw something that I couldn't judge clearly as a dream or an illusion. I saw a butterfly flying out of Hikokiku's (subordinate's name) bosom, so I sent a leather belt and money to Koutokui Tomoyuki (the Yin-yang master) to hold the Shokonsai (a ceremony to keep his soul from getting out of his body).

 February 22.
 I chanted Cintāmaṇicakra mantra a thousand times and prayed for Prince Shotoku.
Matsuwaka (the name of his subordinate) took Hikokiku to Nara. Hikokiku has successfully arrived in Nara. They had no problems on their way. The Yin-yang master said, "Did you see the butterfly flying out of Hikokiku's bosom? It would be probably a soul. Of course, you have to hold Shokonsai." So I heard that I had a ceremony held immediately.

 (I used Google Translate.) 

 

 「注釈」

「彦喜久(彦菊)」

 ─経覚の召使。文安四年四月二十一日死去(『経覚私要鈔』1─190)。

 

「招魂祭」

 ─① 死者の霊魂を招き寄せてとむらう式典。魔、病よけにも行なった。招魂まつり。② 招魂社で行なわれる、国事に殉じた人々の霊をとむらう祭典。各地の護国神社で行なわれるが、ふつう東京の靖国神社で行なわれる春季大祭(四月二一~二三日)、秋季大祭(一〇月一七~一九日)をさしていう(『精選版 日本国語大辞典https://kotobank.jp/word/招魂祭-79214)。この史料の場合、彦喜久はまだ死んでいないので、抜け出しそうになっている魂を肉体に戻すため、招魂祭を執行しようとしたと考えられます。つまり、これは「魂呼(たまよばい)」と呼ばれる儀礼だったということになります。「魂呼」としての「招魂祭」は古代に始まり、鎌倉時代になると陰陽道祭として頻繁に行なわれるようになったそうです(山田雄司「生と死の間─霊魂の観点から」小山聡子・松本健太郎編『幽霊の歴史文化学』二松学舎大学学術叢書、思文閣出版、2019、16頁)。

 

「幸徳井」

 ─幸徳井は院政期に出た賀茂成平の子で従四位図書頭漏刻博士周平を祖とし、応永ころ(1394─1427)には、刑部卿陰陽助定弘なる人物が出で、安倍一族の友氏二男友幸がその弟子となり、応永26年(1419)養子入りをして賀茂姓に改めた。その住地は南都の幸町で、往古神水の井あり、幸徳井と字した。吉備真備の墓は、それより東方遠からずにあり、もともと陰陽家にゆかりの場所であった。よって爾来幸徳井の姓を称するに至ったのである。『平城坊目考』には、幸町のほか、山上・吉備塚・梨原をあわせて南都四家陰陽家の住地とあり、吉備塚辺のものは奈良の市内に移りいま陰陽町(いんぎよまち─「いん」の部分にアクセントをつけて発音する)と呼ばれるのはその旧跡と伝える(村山修一「近世における陰陽道の趨勢」『日本陰陽道史総説』塙書房、1981年、426頁)。

 

「如意輪呪〜法楽太子了」

 ─十二世紀末には聖徳太子如意輪観音同体説が生み出され、太子廟で如意輪根本大呪が唱えられていたそうです(清水紀枝「半跏思惟形の如意輪観音像の成立と醍醐寺」『院政真言密教をめぐる如意輪観音の造像と信仰』2012年、26頁、https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3271&item_no=1&page_id=13&block_id=21)。

 

 

*「蝶・魂」をネットで検索すると、「蝶」は魂の化身であるとか、死者の魂そのものであるとか、仏教では極楽浄土に魂を運んでくれる神聖な生き物であるとか、本当にいろいろなことが書いてあります。ただ、どの記事を見ても史料的・学術的根拠がまったく書いてないので、こうした情報が何に基づいて書かれたものかがさっぱりわかりません。今のところ、関連する史料や学術論文を、自力で見つけることができていないので、ひとまず、この【史料2】から考えられることだけまとめてみようと思います。

 

 【史料2】の記主は、興福寺別当・大乗院門跡を務めた経覚です(『角川新版日本史辞典』)。僧侶である経覚は、召使の彦喜久から蝶が飛び出す幻影を見たので、招魂祭の執行を陰陽師幸徳井友幸に依頼しています。そして、陰陽師も蝶を人魂だと見なしており、招魂祭を請け負っています。

 このことからまず、室町時代の奈良・京都あたりでは、僧侶も陰陽師も、蝶を魂の象徴と見なしていたことがわかります。次に、経覚は招魂祭を依頼しているわけですから、蝶が懐から飛び出す幻影は「死だけ」を暗示していること、また、その幻影を不吉なものと見なしていることがわかります。かりに、極楽往生の瑞祥と見なされていたならば、招魂祭を依頼することはなかったはずです。前述の「極楽浄土に魂を運んでくれる神聖な生き物」という認識は、何を根拠に語られたものかはわかりませんが、少なくとも室町時代にはそのような社会通念はなかったと判断できそうです。