周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

桜井著書1

  桜井英治『交換・権力・文化 ─ひとつの日本中世社会論』(みすず書房、2017年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

序論

P19

 ポトラッチの目的とは、モースの最後の一文にあるとおり、高い身分や社会的地位の獲得にあった。そして、それが可能なのは、身分が流動的で固定していない社会にかぎられる。だからこそ、そこでの勝利や名声がその人物の身分や社会的地位を上昇させえたのである。

 

 →過剰な消費によって、何らかの地位を得るという事態は、動物のオスが必要以上に華美になり、メスを惹きつける様子に似ている。動物が、見た目などという無駄な要素にエネルギーを注げるほど、生命力・繁殖力に長けていることを示しているように、財産をすべて使い尽くしても、それでもやっていける、そこから経済的に復活できるポテンシャルを示しているのではないか。その意味で、動物的であり原始的であると評価できそう。

 

 ここで中世日本にたちもどると、本書第四章などでも述べているように、中世日本─あるいはもっと広く前近代日本といっても大過ないだろう─は基本的に身分制社会であり、非ポトラッチ社会である。そのような社会においてこれ見よがしにおのれの力を見せつける行動は、名声を高めるどころか、むしろその評価を落としかねない。そこは、双方の身分や場面に応じて何をいかほど贈るべきかがあらかじめ決まっていて、それ以上でもそれ以下でもいけない社会なのである。

 ただし、そのような社会にあってもポトラッチ的行為(ポトラッチそのものではない)、衒示的、蕩尽的消費が許容された時期は何度かあった。それらに共通するのは権力・秩序の交代期であって、そのような変革期には一時的に社会の身分的流動性が高まり、財力や権勢を露骨に誇示する行為が「リーダー制の起動装置」として機能しえたのである。中世でいえば、そのはじまり(院政期)とおわり(織豊期)にあらわれた劇場型の政治がまさにそれにあたるであろうし、一四世紀の後醍醐天皇足利義満の政治にもややそのような傾向がみられる。

 ただそれはあくまでも一時的なものであって、まもなく坩堝の火は落とされ、開かれた門はふたたび閉ざされる。「リーダー制の起動装置」によって新たな権力・秩序らしきものが芽生えた途端、今度はその固定化が始まるのである。財政構造は放漫から緊縮に転じ、ワンマンたちの気まぐれな行動も年中行事に整序され、儀礼化する。ワンマンの子や孫たちの世代は、規範に縛られて、もはや勝手な行動は許されなくなるのだ。

 

 →最近ではバブルがそう。好景気によって、土地転がしや投資家のようなぽっと出の金持ちが増産されるとともに、いわゆる庶民たちの経済力も高まったことで、金銭を背景とした地位の向上が、日本全土で起きた。

 ZOZOTOWNが50億支払って宇宙旅行に行ったが、その行為が批判的に評価される場合もあったことは、現在の社会体制が固定化していることの表れだといえそう。これがバブルのときに行っていれば、大絶賛の嵐だっただろう。

 室町時代のように長く続いた時代は、序列や基準の厳格化が進むから、逸脱すると恥をかきやすく、ストレスが溜まりやすくなるのだろう。それが殺伐とした社会を生み出したり、自殺者の増加をもたらしたりするのではないか。

 

P20

 こうして政治体制が安定期に入ると、権力と贈与の関係にも変化があらわれる。当初の気前のよさを示していた権力が次第に出し惜しみをするようになる。集められた富の大部分を再分配にまわしていた段階から、徐々にその比率を下げて、多くを手元にプールするようになる。〝与える権力〟から〝受け取る権力〟への変質である。財政の緊縮化ということももちろん無関係ではないが、それは原因というよりは結果かもしれない。要するに、以前のような気前のよさを見せなくても、もはや権威を失墜する心配がなくなり、相変わらず高い意志を保てるようになったということである。室町幕府の「贈与依存型財政」はいわばその延長上にある。(中略)

 将軍への贈与においては細かな物質的収支はもはや問題にしない、それほど広大な恩恵を日ごろからこうむっていると彼らは考えていた─少なくともそのように合理化していたということだろう。要するに安定期の権力は、まさに安定を維持していること(個々の家にとっては所領を安堵してもらえていることがそのもっとも具体的な表象であった)自体が最大の贈与と解釈されたために、より高い次元で互酬性が成立しているとみなされ、気前よく振る舞う必要性は漸減したと考えられる。

 

 →突鼻・没収などを行なえば行なうほど、安堵の効果は高まるということか。

 

P21

 また本書第三章で詳しく述べるように、室町将軍が禅宗寺院に御成すると、寺院は引出物(いわゆる献物)を出すのが慣例であり、これもやがて室町幕府の重要な財源になってゆくが、無論将軍は献物に対して返礼したりはしない。迎える寺院にとっては、将軍がわざわざ足を運んでくれただけでこの上ない恩恵であり、おそらく献物はそれに対する返礼としての意味合いをすでに持っていたのだが、さらには将軍が献物を受け取る行為それ自他も恩恵ととらえられていたことが明らかである。いずれにしても、権力の安定期には、より高い次元で互酬性が成立しているというイデオロギーの構築と共有が進み、それが事実上の一方的贈与を可能にしたと考えられる。

 

P22

 またこの垂直的贈与の構造を補強していたのが「面子」という日本語としてもすでに定着している概念であったことも重要である。「面子は高い地位にある者につねにつきまとう。彼らが下位の者から贈り物を受け取るとき、贈り物の受容それ自体が下位の贈与者に面目を与えると考えられている。」という指摘は、前述の献物をめぐる室町将軍と禅宗寺院との関係にもほぼそのまま当てはまるであろう。時代も地域もまったく異にしながら、ある特定の条件がそろえば(安定した再分配システムがその主要な要素であることは論をまたない)、受け取る側が優位に立った構造が育まれうるということ、そして、そこでは互酬性の原則が骨抜きにされ、ましてポトラッチ的贈与が行なわれる余地などないことは明らかである。

 じつは、同じようなことはすでにホッブズによっても指摘されている。

  A ある人に大きな贈り物をするのは、彼に名誉を与えることである。なぜならば、それは保護を購買し力を認めることだからである。

 

 →贈り物を渡すことで、守ってもらうという契約と同じ。返礼されると保護契約が解消されるから困る。純粋に受け取っていてほしいということ。

 

  B われわれが、自分たちと等しいと考えている者から、報いることができるよりも大きな恩恵を被ることは、偽の愛、実は密かな憎悪を、起こさせる。そして、それは人を絶望的な債務者の状態に置くのであって、彼は債権者を見ることを拒み、彼がもはや決して債権者を見ないようなところへその債権者が行くことを、密かに願うのである。なぜなら、恩恵は貸与する者であり、貸与は束縛であり、したがって、報いることのできぬ貸与は永遠の束縛であって、それは、同等の人に対するときは憎悪すべきものである。

  C しかし、われわれが自分たちよりも優越していると認める者から、恩恵を被ることは、愛情を起こさせる。なぜなら、この貸与は、新しい抑圧ではなく、そしてよろこびにみちた受容(人々はそれを感謝Gratitudeと呼ぶ)が、与えた者に捧げられる名誉であって、一般にむくいと考えられるのである。

  D また、恩恵を受けることが、同等者または劣等者からではあっても、むくいうる望みがあるかぎり、愛情を起こさせる。なぜなら、受ける者の意図においては、この貸与は相互の援助と奉仕の貸与であり、そこから、誰が恩恵において勝るかという競争心、すなわち、可能なかぎりもっとも高尚で有益な競争が生じ、その競争においては、勝利者は彼の勝利を喜び、他方はそれを告白することによって報いるのである。

 

P24

 一方、垂直的贈与には互酬性の原則が(直接には)働かない。Aは下から上、Cは上から下への贈与について述べているが、いずれも実質的には無償であり、一方的な贈与である(Cでは「よろこびにみちた受容」が贈与者への「むくい」とされているが、この理屈についてもたびたび述べてきたとおりである)。Cの上から下への贈与というのは、本書の関心に引きつけて言えば、まさに権力形成期の気前のよさであろう。対等と認識している者からの施しは激しい憎悪をかき立てるが、一目置いている者からの施しは素直な感謝を呼び起こす。気前のよさが「リーダー制の起動装置」となるカラクリである。逆にAの下から上への贈与こそ、いま私たちが問題としているものだが、ホッブズはその意味を見事に「保護の購買」と喝破している。厳密には、保護を受けているから贈与するのか、保護を受けるために贈与するのかも区別しなければならない問題だが、いまは措こう。とにかく室町幕府の安堵にせよ、中国政府役人の庇護にせよ、直接の贈答を越えた一段高い次元での「保護」をもって互酬性が成立しているとみなす点で共通している。

 

P25

 脳科学者である春野雅彦とクリストファー・D・フリスの研究によって、人間が不平等を感じるのは、大脳のうち、進化的に新しい領域である大脳皮質ではなく、原始的な領域である皮質下の扁桃体においてであることが解明されている。扁桃体うつ病の原因でもあるストレスホルモンの放出に関わっており、とくに向社会的な(社会性のある)人ほど、扁桃体の活動が活発化して不平等に強いストレスを感じるという。否むしろ、扁桃体の活動が活発化して不平等に強いストレスを感じやすい人が向社会的になるというべきなのだろう。

 この研究の衝撃的なところは、一つには社会性や公平性のような人類特有の思考と考えられていたものが、思慮深い自己制御の結果ではなく、実は原始的、動物的な反応にすぎないことを浮き彫りにした点である。本研究の最大の成果がこの発見にあることは言うまでもないが、ただ私の関心からいうと次の点もこれに劣らず衝撃的である。それは、不平等には、自分が損をしている場合だけでなく、得をしている場合も含まれているということ、つまり向社会的な人は損をしても得をしてもストレスを感じているという点である。これによれば、唯一平等だけがストレスのない状態ということになろう。中世日本においてはそのような衡平感覚が満たされた状態を「相当」と呼んだが、それが精神的にもっとも優しい状態であることが脳科学的にも証明されたわけである。互酬性の原理が地球上のあらゆる地域、あらゆる時代に見出されるのも、それが文化の多様性に左右されることのない、人類の動物的部分に由来するからだとは考えられまいか。それに対し、巨大な再分配システムのなかで行われている一方的贈与というものは、室町将軍の場合であれ、中国の官僚の場合であれ、自然状態から離れた、非常に人為的、文化的な行為ということになる。

 もっとも最新の研究によれば、不平等は原始的な脳である扁桃体で感じているけれども、罪悪感は新しい脳である。大脳皮質の前頭前野で感じていて、しかも両者の活動は独立しているという。この古い脳と新しい脳との関係の解明は、脳科学においても現在進行中の課題のように見受けられるが、わが歴史学にとってもそれは決して他人事ではあるまい。もちろん個体としての人間と集団としての人間を混同すべきでないことは承知している。しかし、だからといって歴史や文化の表層と基層の関係が新旧二つの脳の関係とまったく無縁であると断言できるだろうか。今世紀の歴史学は、たぶん脳科学とこれまでになく親密な関係を取り結びながら進められてゆくにちがいない。

 

 →理屈から言えば、平等を快と感じる人間は、古い脳の影響が強いということになるのか? そうではなくて、不平等という現象を扁桃体が感知して、ストレスホルモンを放出して、ストレスを感じているということなら、不平等現象に反応しやすくなっている扁桃体の感知習慣のようなものが、何万年という長い時間をかけて身についたしまったことが問題となる。おそらく人類の進化の方向として、個の利よりも、集団の利を選んだ人間の方が生き残りやすかったため、現代人たちも平等快を優先するようになったのではないか。

 個の利を優先する大脳皮質型人間は、原始的な脳である扁桃体の影響を最小化していけるほど、その利己的選択が成功し習慣化しているからではないか。

 歴史学脳科学とが協働して新たな知見を得ていくという予測は、その通りだと思う。おそらく誰もが気づいていることなのだろうが、こういう偉い先生がきちんと語り、好意的に評価してくれないと、絶対に研究は進んでいかない。やったとしても、他の学問の成果を安易に引用しすぎだとか、たんなる好事家的研究だとみなされ、査読論文では採用もされず、相手にもされてこなかったのが現状だろう。日本人研究者の先例主義・権威主義のダメなところであり、こんなところが、日本でパイオニアが育ちにくい理由なのかもしれない。

 

 

第一章 中世の贈与について

P35

 遠藤基郎の論文「中世における扶助的贈与と収取」は、中世におけるフラットな扶助的贈与慣行であるトブラヒ(訪)について論じた興味深い研究である。たとえば春日祭・賀茂祭近衛使をつとめることは当時の貴族にとって大きな栄誉であったが、反面、この役は出立・還着時に饗宴を催したり、随行する官人に禄物を支給したりと多大の出費を伴うものであった。そこで、貴族のある者が近衛使に指名されると彼の親族・同僚らが贈り物をしてこれを経済的に援助する慣行が発達したのである。この慣行は貴族社会にとどまらず、中世社会のあらゆるコミュニティに見られた。誰かの家が火事にあったとか、任官して補任料を支払わねばならないとか、ともかく仲間の一人がただの出費を余儀なくされるときに、同じコミュニティに属する人々が行なう扶助的贈与を当時、トブラヒとか助成などと呼んだのである。

 

 →こうした慣習があるからこそ、放氏や絶交のような追放刑がものすごい効果を発揮することになる。「酒の粗相で絶交…」と関わる。

 

 トブラヒのシステムは、やがてこのような私的な交際の領域を越えて国家財政の領域にまで及んでゆく。朝廷の行事用途は、承久の乱以後になると、それまで国充や一国平均役による徴収が滞りがちになる反面、成功(売官)やトブラヒへの比重を高めていった。こうして大嘗祭・即位・伊勢遷宮・日吉神輿造替といった主要な朝廷行事のほとんどが、貴族や権門、そして鎌倉幕府からトブラヒによって賄われる構造が生まれ、さらに貴族や権門は、その費用を荘園の荘官たちに転嫁し、また鎌倉幕府も関東御公事として御家人たちに転嫁することによって、トブラヒは在地から国家までを貫く中世的な収取体系を構成するに至る。遠藤が注目したのはまさにこの点であった。

 

 →公事の起源はこれか? 共同負担でなければできないことを扶助的贈与から始め、それが租税化したということか?

 

P37

 これがいわゆる頭役と呼ばれるものであるが、これには莫大な出費が伴ったために、頭役に選ばれた者にとっては、その費用をどう捻出するかが最大の課題となった。頭役制は中世におけるもっともポピュラーな祭礼負担システムの一つであり、それは村の当屋制へと受け継がれて現代にも生き続けているが、頭役の候補者集団のあいだでは将来の頭役選定に備えるためしばしば頼母子や合銭などが行なわれた。そのような金融経済の発達を考える際にも頭役制は大いに注目されてよいシステムである。

 

P38

 自力で頭役を務められないような清貧の僧侶ならともかく、尋尊のような富裕な僧侶を、必ずしも裕福とは言えない人々が援助しなければならなかった理由とは何か、それはやはり、田楽頭役がめでたい役、慶賀すべき神役であったからに他ならないと安田(次郎)はいう。そして安田は次のような印象的な文章で論文を締めくくるのである。

 助成と課役との間に明確な境界線は引けない。両者は一部重なり合う部分があり、その領域で起きるモノの移動は、助成とも課役ともいえる。要は、一つの行為を課役でなく助成として捉えることによって、新たに何が見えてくるかということである。小稿では、当たり前と言われればその通りであるが、助成の背後に神の存在を見たのである。(中略)

 遠藤が注目する有徳銭にしても、その名目で課税できたのは、当初は神事・祭礼にかかわる費目に限られており、しかも本来は完全な税ではなく、あくまでも借用という形式でしか行ないえなかったことを想起しなければならない。この点は負担者の抵抗の大きさを物語るとともに、中世の人々においても〝神への贈与〟という観念が依然として大きな説得力を持ち続けていたことを暗示している。

 〝神への贈与〟という観念自体は汎世界的に見られるものである。神からの返礼をこの世において期待する現世利益型をとるか、この世では一方的に神への贈与に徹し、来世での返礼を期待する来世利益型をとるかという違いはあるものの、いずれにせよ〝神への贈与〟もまた多くは互酬的であり、神からの返礼が期待されていた点に留意するべきだろう。富める者に浄財を強制する有徳銭も、本来はこのような互酬性とこれに由来する富める者の側の自発性を背景にもっていたことは疑いない。前述の頭役制にしても、有徳銭の一形態として、やはり同様の意識構造に支えられていたはずである。

 もっともその有徳銭も、中世後期になると神事・祭礼と即応性を失い、富める者は財を放出すべきだとする民衆の徳政意識とも関連し合いながら、次第に世俗的権力による兵糧米賦課の手段としてゆく。

 

 →租・初穂・年貢は、神への互酬贈与が起源か?

 

P44

 このような贈与の実態に接すると、「助成と課役の間に明確な境界線は引けない」という安田の言葉が改めて実感を帯びてくるのではないか。「例」という一線をめぐる際どい駆け引きに当時の人々は多大のエネルギーを費やしていたのであり、そこからは〝人への贈与〟を支配する「例」の強制力というものをどうしても考えざるを得なくなる。「例」に従うことの恐怖が最初の贈与を躊躇させ、一度開始された贈与を中止できないものにしていることはもはや明白だからである。

 なお、ここでもう一つ注目したいのは贈与における男と女の役割である。男(表・外様)の贈与は鋭利で率直であり、女(奥・内々)の贈与はその曖昧さによって男の贈与のもつ鋭利さを緩和する。「久しく申し入れざる間」といって太刀と馬代を送るのはまさしく慶寿院に割り振られた役割であり、証如がすべきことではなかったことは明らかである。そのような緩衝装置を当事者双方が用意していたことも重要だろう。

 

 →「例」・「傍例・法例」・「法令」はどれも紙一重ということか。慣例・慣習の強制力の恐ろしさも理解しておかなければならない。儀礼社会がストレス社会であることがよくわかる。資本主義を原因としている点でやや違いはあるが、現代も同じようなストレス社会。キレる(激怒する)人間が多いのも頷ける。

 この事例は、男女がセットになって社会生活を送っていた証拠。どんな場面でも女性の役割を想定しておかないと、史実を明らかにすることはできないという顕著な事例。やんわりと断るときに女性が登場し、女性の手紙によって断られた場合、相手側が文句を言うなどというのはルール違反ということか。こうした不文律が社会通念として共有されている。

 

P46

 そして最後を締めるのはやはり正しい書札礼で書かれているかどうかである。中世の日記に馴染んでいる人ならば、当時の人々がいかに書札礼に強いこだわりをもっていたかということは周知の事柄に属するが、当時は書札礼の不適切な書状を送ると相手は書状を突き返してくるのが常であった。まさに贈与と同じルールが書状そのものにも貫徹していたわけである。というより、書状のやりとりそれ自体がすでに一つの贈与行為であった。贈与とはまさに「礼」そのものであり、書札礼や路頭礼など、中世社会に無数に存在した礼節とのあいだにどのようなコードが共有されているかを解読してゆくことが、今後の贈与研究を進めるうえでのカギになりそうである。

 

 →ストレス社会と、身分秩序・儀礼の関係をきちんと結びつけなければ、自殺研究の進展はないか? 都市上層武家ではなく、地方の下層武士の儀礼研究はないのか? 何を見ればそんな研究ができるのか? 中野豈任や薗部寿樹、桃崎勇一郎の研究を読んで考え直すぐらいか?

 

P47

 そこで太刀を含め、これらの贈答品が実際にどのように供給されていたかを見ると、およそ三つのルートが想定しうるように思われる。

 一つは、贈答品の換金市場が開かれていた、つまり贈答品を恒常的に買い取る商人がいたということである。(中略)

 第二の供給ルートは、手元にきた贈答品をそのまま別人への贈与に充てる、すなわち贈答品の流用である。これは当時もっとも一般的に行われていた方法と見られるが、ここでは石田が紹介している『天文日記』の記事を二つほど見てみよう。(中略)

 もう一つは、自分が贈った贈り物まわり回って戻ってきたという笑い話のような例である。(中略)

 「折」とは曲物に入れた詰め合わせ。(中略)

 第一のルートとは異なり、こちらは商品市場を経由しない、まさに贈与世界内部で贈答品が循環する構造である。これは明らかに効率のよい方法であり、食品は別としても、太刀などは半永久的にこの世界を流通することができる。このような品目の場合、その主な供給源は贈答品それ自体にあり、それを保管するかたちで商品市場からの供給があったと考えたほうがよいかもしれない。

 贈与は本来互酬的なものであり、互酬的であるかぎり、致富の手段とはなり得ないものである。したがってこの互酬性が守られている限り、贈答品はひとつ所にとどまることなく、半永久的に人の手から手へとさまよい続けることになる。ここでの贈答品は、ある意味では〝クラ〟的な、社会のコミュニケーション機能を担わされた特殊な財であったと言えよう。武家の棟梁に必須な資質とされる〝気前のよさ〟とは、このような機能をもつ財をつねにフローの状態に保ち続ける行為に他ならないが、だとすれば、室町幕府の経済が贈与への依存を強めたとき、頭領の性格も自ずと変質せざるを得なかったはずである。

 

 →クラ。メラネシア人の行う儀礼的交換。

 

 

P49

 第三のものは、前二者とはやや性格が異なるが、要するに馬や太刀といった現物の代わりに、馬代・太刀代など代銭で贈与を行なう手段である。日本の中世社会は銭を贈与に用いることにまったく抵抗を示さなかった社会であり、そこに今日の汚職の温床を見出すこともあながち的外れではないと思われるが、銭は馬代・太刀代など、現物の代替として贈与されたほか、銭それ自体としてもれっきとした贈答品として通用した。銭は現物の贈答品がもっていた個性、たとえば馬であれば毛色や模様、太刀であれば作者の銘などがそれにあたるであろうが、そのような個性を一切もたないかわりに、他の追随を許さない高い価値尺度機能を備えていた。銭という共通の分母を用いることにより、贈与と贈与の通分が可能になり、贈与の領域にも計算の観念が急速に進入してゆくことになる。そしてその結果、一五世紀に特殊な発達を遂げたのが、折紙だけで贈与を行なう、いわゆる折紙銭の慣行であった。

 

 →幼い頃から、「お年玉」として銭を贈与に利用していれば、それは今日でもタブー視しないはず。銭自体が贈答品になる理由は何か?書いてあったか?

 

 →貨幣価値として見ていない。鎌倉大仏は宋銭を溶かして作った。貨幣に対する価値観・考え方が違う。

 →「銭の病」はインフレ。

 

 

  2 折紙銭

 折紙とは銭を贈与する際の目録のことである。広義には料紙を二つに折ったものを折紙というが、目録にはもっぱらこの折紙が用いられたので、目録のことをたんに折紙とも呼んだのである。(中略)

 (このような銭の贈与に用いられた折紙のことを、他の折紙と区別するために私たちは折紙銭などと呼んでいる。)

 

P50

 現銭が届くと折紙には受領したことを表す合点や裏書が加えられて贈与者に返却されたが、ここでの折紙は、実質的に一種の債務証書、約束手形としての機能を果たしていることが理解されよう。さらにこの折紙は、かぎられた範囲ではあるが、他人に譲渡されることもあり、また現銭を授受することなく折紙のうえだけで計算・相殺されることもあった。こうして当時の貧しい貴族たちは、現銭を準備することなく、日々繰り返される贈与を乗り切ることが可能になった。空売ならぬ空贈与によって、彼らは過酷な贈与を凌いだのである。

 

 *たとえば、最初は折紙だけを贈り、現銭は勝訴判決後に届けるということが可能となった。神仏への祈願も同様。その後、濫発・延滞・踏み倒しが横行したため、一五世紀の末ごろを境にして、折紙の約束手形的な使用法は姿を消してゆく。

 

P51

 折紙方の設置や、あるいは前述の官銭・分一銭の考案などからも窺えるように、一五世紀の室町幕府は急速に贈与への経済的依存を強めていった。この時期、幕府財政に大きなウエイトを占めていたもう一つの財源である土倉役・酒屋役も、有徳銭の系譜を引いている点ではやはり贈与原理に根ざしていた。一五世紀の室町幕府は財源のほとんどを贈与システムに依存した、きわめて特異な権力体だったのである。(中略)

 言い換えれば、将軍は現物を右から左に動かすだけで官寺修理費の支出という国家的機能を全うすることができたわけである。贈答品の流用という行為をそのまま財政的行為として読み替えたもの、それが献物のシステムであった。

 

P52

 将軍御成時に進上される献物は、小袖三重、盆一枚、緞子一端、高檀紙・杉原各一〇帖という具合に、品目・数量ともにほぼ固定化していた。このように贈与がルーティン化した段階においては、どこに何回足を運べばどれだけの収入が得られるかという計算が可能になり、見積り予算化が容易になる。(中略)とくに幕府における現銭ストックは、明が銅銭の頒賜を中止したこともあって、この時期、危機に瀕していた。義政は朝鮮にも銅銭の頒賜を求めているが、不首尾に終わっており、貨幣の節約は幕府にとって喫緊事となった。先ほどの折紙銭や献物、そして次にみる売物もこのような文脈のなかで理解する必要がある。

 

 →物と紙を動かしていれば、現銭を動かさなくても、財政・経済活動は行なわれ続ける。現在の経済も同じ。デジタルな数字を動かしているだけで、商業活動が完結していることもある。とすると、違い何か?システム的にはほぼ一緒と考えればよいか?

 

 →アラブとの交易が銀建てだから、中国が銭建てをやめた。

 

P54

 このように抽分銭は遣明船が持ち帰った唐物の国内評価額の一〇分の一と定められていたのであり、まさに目利きの存在を不可欠の要素として組み込んだ制度だったのである。この方式は一五世紀後半に堺商人が抽分銭の先納方式を打ち出すまで続けられたが、ここで唐物の値を定めたと言われる「博物の人」こそ、献物や売物の価格評価に関与したあの禅僧や同朋衆たちに他なら勝ったであろう。唐物の目利きは、一六世紀の茶人たちにとって最も基本的な素養の一つとなるが、この技術は決して文人的な営みのなかで育まれたわけではなく、紛れもなく財政的な技術として発達したのである。贈与・経済・文化の三者は、ここにおいてまさに三位一体の関係にあった。

 

 

 

第二章 折紙銭と一五世紀の贈与経済

P64

 ところで、この慣習がいつごろからはじまったのかという問題に関心を向けてみると、その端緒はすでに古代銭貨段階にも認めうるとはいえ、個人間の贈答儀礼に貨幣が日常的に入り込んできる時期となると、それは間違いなく室町時代であろう。中国銭の日本への本格流入が始まるのは鎌倉時代であるから、日本社会は貨幣を受容してからさほどの時間を経ずしてそれを贈与品目に加える習慣を身につけていたことになる。

 

 →日本の場合、金銭の贈答まで進んでこそ、貨幣経済の完全浸透と呼べるか。これを機に経済苦による自殺が生じていることがとても象徴的。貨幣が人を自殺に追い込むようになる。貨幣で人の価値が計られるようになる。でも、人間の商品化は、奴隷制がある以上、貨幣流通以前に始まっているといえるか?

 

 →奴隷に落ちれば、食べていける。自殺する必要はない。藤木久志奴隷制。生命維持装置。

 

 

P67

 将軍家に銭を送る場合には1000疋以上が原則で、それ以下の場合には馬代もしくは練貫代の名目をもってしなければならなかったことがわかる。馬代は300疋が相場だと記述も祐心書状とよく一致している。

 

P80

 「折紙方」とは特定の御倉ではなく、「折紙方奉行」を経由する出納ルート、もしくは折紙銭という財源そのものを指しているとみるべきではないだろうか。Eにおいて、「御折紙方御倉ニ申付候」ではなく「以御折紙方、御倉ニ申付候」という表現が、また「御折紙方に申付候」ではなく「御折紙方にて申付候」という表現がとられているのも、そう考えれば納得がゆく。同じことはじつは「納銭方」についてもいえるのであり、「折紙方」と対になって現れる場合には、機関というよりも出納ルートもしくは財源の意で用いられていると考えた方が良いだろう。

 

P83

 それにしても、贈与が折紙の贈与とその精算という二つのプロセスに分離し、しかもその完結までにときとして数年も要するという異常な事態は、その後の折紙の歴史にはおそらく見出せないのではないか。一五世紀に頂点に達し一六世紀にはむしろ沈静化するという点では、割符の流通状況などともよく似ているように思われるが、その点でも「日本における互酬性の問題は貨幣経済の展開と微妙な関係を保って相互に補完しあってきた感がある」という阿部謹也の発言は正鵠を射ていたといえるのである。いったい、ここまで計算が社会に入り込み、人々が証文に踊らされた一五世紀とはいかなる時代だったのか。そしてまた、その世紀末に再び現れた「現脚」への回帰を、私たちはどう評価すべきなのだろう。

 さらに大きな問題は、中世人にとって贈与とはいったい何であったのかである。贈与が名誉の観念と深く結びついていたなら、踏み倒すことをなかば予定しているような折紙の贈与など何の意味ももつまい。それでもなお彼らは折紙を贈りつづけ、また受け取り続けたのである。名誉を重んじる精神文化と、にもかかわらずない袖は触れないという経済的現実と、その葛藤のなかで─おそらくは文書主義的な観念にも支えられて─特殊な発達を遂げたのが折紙銭というシステムだったのではないだろうか。ともかく、贈与・互酬の観念を根強く残していると言われる日本社会の体質がはたして深層文化と言えるほどにいつの時代も普遍でありえたのか、一切の先入観を脱ぎ捨ててもう一度問い直してみる必要がある。ないものが贈られ、空手形が幕府の懐を埋め尽くしていた一五世紀とは、もしかすると贈与がいま以上に虚礼であった時代かもしれないのだから。

 

 →そもそも、なぜそれほどまでに名誉を重んじるような時代になってしまったのか? その説明ができなければ、敗戦後の武士たちが集団自害をする説明ができないのではないか?

 金銭の贈与・互酬については、お年玉・結婚・葬式・法事といった儀式に付随する形で継続しているからこそ、現代でも違和感がないだけ。あえて難しく考えるのではなく、たんなる惰性と考えたほうが、説明として的確になるのではないか。

 虚礼は虚礼で構わないが、貨幣の流通によって、礼が商品化されたとは理解できないか?ひょっとすると、現代以上にさまざまなものごとが商品化した時代だったのではないか?商品化をどう定義づけるかという問題はあるが…。儀礼が虚礼化した社会こそ、成熟した儀礼社会と呼べるか?

 

 

第三章 「御物」の経済─室町幕府財政における贈与と商業

P89

 義持時代には管領亭で催される諸大名の評定会議(将軍は臨席せず)が主要な政策審議の場であったとみられるが、義持時代になるとこのような狭義の評定会議はあまり開かれなくなり、将軍が個々の大名に在宅諮問する形態が一般化する。したがってこれを今谷明のように「重臣会議」と呼ぶのは適当ではなく、私はこれを「大名意見制」と呼びたいと思うが、そこでは大名どうしのヨコの協議は行なわれず、意見状もめいめいに提出されたから、ほぼ同じころ訴訟制度として導入されはじめる評定衆や右筆の意見制にくらべても個別分散性がはるかに強いものだった。評定会議の場合には大名たちが意見を取りまとめ、全会一致を満たしてから将軍に上申されるが、「大名意見制」の場合には全会一致を見る前のばらばらの意見がそのまま将軍に上申されるので、ここでは将軍自身が少数意見者を個別に説得し、全会一致へと誘導してゆく役割を果たす。将軍専制を目指した義教にいかにも似つかわしい形態といえるだろう。(中略)

 永享三年(1431)十二月に義教が下御所から上御所に移住した際には、その費用を守護出銭で賄うことやその分担方法については管領亭での評定会議で審議されている。将軍亭はたしかに政庁としての側面ももっていたが、基本的には将軍の私宅であるから、その移転費を諸大名に負担させることを将軍の方から持ちかけるわけにはいかない。このように将軍は知らないふりをし、あくまでも諸大名の方から自主的に申し出るかたちをとったほうがよい議題については評定会議で話し合われたのである。(中略)

 このことは守護出銭が、諸大名から将軍に対して行なわれる贈与としての本質をもっていたことを示唆している。

 

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 守護出銭は仙洞・将軍亭・寺社以下の造営・修理から将軍家の祈祷・仏事に至るまでさまざまな用途に充てられたが、いずれにしても守護出銭は臨時課税である。義教が山名時熙に語った言葉からも明らかなように、守護出銭にはなるべく頼るべきではないという遠慮が将軍権力の側にも存在していたのである。守護出銭の問題が評定会議という将軍不在の場で審議されたものも、それが諸大名の将軍に対する贈与であってみれば当然のことだろう。ところが義政の時代になると、伊勢貞親・季瓊真蘂らの義政側近グループがこれを決定し、諸大名に命じる形態へと変化してしまう。このような彼らの台頭がやがて文正の政変の遠因をなしてゆくのだが、贈与論的関心から言えば、この変質こそ贈与の「定役」化、税としての純化の過程を物語るものに他ならないのである。

 けれども室町幕府の財源となった贈与慣行のすべてがこのような税としての純化を遂げたわけではない。折紙銭や献物のように、最後まで儀礼としての本来的性格を失わないまま幕府の財源に繰り込まれていたものもあり、とりわけ献物は銭ではなく、モノを媒介物としていたために、財源化に際しては多くの制約をともなった反面、まさにその特殊性ゆえに、後述するようなきわめて柔軟な運用が可能にもなったのである。

 

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 ところで、このように将軍が引物を寺院に寄付することが常態化してくると、逆に引物を将軍に受納してもらえることが贈与者にとって栄誉と意識されるようにある。(中略)永享十二年(1440)四月に義教が雲龍院に御成したときには、義教は引物の盆をよほど気に入ったらしく、これを手許に置き、かわりに手持ちの盆を寄付にまわしたが、この場合も贈与者は大いに面目を施しただろう。なかには将軍に嘆願して無理やり引物を受納してもらう寺院なども現れたが、いずれにせよ引物が将軍に召し置かれることが贈与者の名声を高めたことは疑いない。将軍の頻繁な御成に対しては日ごとに負担感が募るなかで、寺院側に御成を歓迎する何がしかの動機があったとすれば、この名声は間違いなくその一つであった(ただしこの名声はせいぜい五山内部にとどまるものであり、世間に広く喧伝される性質のものではなかった)。もちろんこの名声に預かるためには、将軍の好奇心をくすぐるような名品を贈らねばならない。将軍家「御物」を頂点とする美術品コレクションの階層性はこのような贈与の構造によって必然的に再生産されてゆく側面があったのである。

 

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 以上を整理するならば、公方御倉の成立史について次のような見通しが得られるかと思う。すなわち義満時代には阿弥号をもつ者たち、とくに善阿弥とその後継者で「公方銭奉行」とも呼ばれた一阿弥が中心的な役割を果たしていたが、一方では宝聚房のような山徒の土倉も登用されており、将来の公方御倉の担い手としては二つのコースがあり得た。そのうち前者は義満・義持交代期に脱落し、後者が公方御倉への主要なコースになるが、さらにその内部でも宝聚房のようなそれまで優勢であった土倉が後退し、禅住房・正実房らが新たな公方御倉として抜擢されるに至った。これら一連の動きの背景には、すでに先学が指摘しているように公方御倉と納銭方との一本化をはかろうとする幕府の要請があったのかもしれないし、あるいは義持時代の初頭におこなわれた人事刷新の一環であったかもしれぬ。ともかく公方御倉は以上のような過程を経て義持時代の応永二十年(1413)前後にそのありようが定まったと考えてよいだろう。(中略)

 そう仮定すると、現銭の出納・保管に専従した山徒系土倉とは異なり、遁世者系の倉は進物の出納・保管にもかかわっており、その機能がのちに進物の出納を務める同朋衆とその保管を務める御倉奉行籾井とに分化していったというコースも想定しうるのではあるまいか。いずれにせよ遁世者系の内蔵のその後と御倉奉行籾井の出自との接点を探ることがこの問題のカギであることは間違いなく、以上の仮説はそのミッシングリンクが埋まるまでの断定的な試案に過ぎない。

 

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 以上のような機能に注目するとき、将軍家「御物」は同家の私有財産であると同時に、貴族社会全体にとっての共有財産としての側面ももっていたと言えよう。将軍が本来の〝気前のよさ〟を発揮できなくなったいま、「御物」は将軍に残された数すくない名誉の資本だったのである。したがって義政が財政難からやむなく「御物」の売却に踏み切ったとき、将軍権力は貴族たちの窮地を救う術を失い、経済的求心性を大幅に喪失してゆくのである。(中略)

 それにしても、将軍自身が土倉から借銭をする際にも質物が必要とされていたというのは興味深い事実であろう。それが伝統的なあり方なのか、それとも将軍の返済能力に問題が生じたためにとられるようになった新たな措置なのかは不明だが、少なくともこのころには、将軍といえども税制上の立場を離れれば土倉の一顧客にすぎず、あくまでも商慣行に則って土倉に接することが要求されたのである。しばしば兵粮料の名目で土倉の富を食い荒らした諸大名と比較すれば、室町幕府は権力としてあまりにも上品すぎたといえるが、それでも権力の財政が商慣行によって規定されていたことの持つ意義はけっして小さいとは言えまい。人々に礼節(贈与)を要求する権力は、自らもまたその軛に囚われるのである。

 

 

第四章 宴会と権力

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 宴会と権力の関係という場合、そこには二つの側面が考えられる。ひとつは宴会そのもののもつ政治性・劇場性であり、宴会が権力闘争の舞台になっているとか、権勢を見せつけるデモンストレーションの装置になっているとか、要するに宴会が衒次的で、権力形成の直接の手段になっているようなケースである。この種の宴会には必然的に多くの参加者や目撃者が伴うことになろう。もう一つは宴会を通じて極秘情報が交換されたり、特定の人脈が形成されたり、あるいはまた酒の席で物事が決まっていったりする側面であり、この場合の宴会は衒次的であるよりはむしろ密室的であり、参加者もごく少数に限られる。宴会と権力の関係を論じようとすれば、これら二つの側面をともに検討する必要があるが、ここではさしあたり前者を中心に二、三考えるところを述べ(結果的には宴会の衒次性に一定の疑義を差し挟むことになろう)、しかるのちに後者について若干の見通しを述べることにしたい。

 

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 →宴会の費用負担法

 ホストは宴席を設けるだけでなく、ゲストに引出物も出さねばならない。ゲストは相応な手土産を贈る。これを一次的互酬関係と呼ぶ。晴の宴会は多額の出費が必要だから、親類・縁者・友人たちから金品の経済的援助を受けたり、調度品などは貸借で済ましたりする。これが助成。宴会が終わった後、ホストであればゲストから贈られた手土産を、ゲストであればホストから贈られた引出物をそれぞれの支援者に分配する。これを一次的互酬関係に対して、二次的互酬関係と呼ぶ。

 逆に言えば、「助成」がなければ、宴会を催すことも参加することもできない。社会生活を営むうえで、親類・縁者・友人関係といった人間関係が、今以上に大切であったことがわかる。そうすると、「絶交」「放氏」などは、政治的に抹殺されるのと同じことになる。

 

 

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 以上の晴の宴会に対して、褻の宴会、内々の宴会の構造を図示したのが図5である。こちらはその費用が参加者の均等負担になっているが特徴である。ここでは会議を提供する者はいるものの、費用まで含めれば、彼がもてなしているわけではないから、ホストとは位置づけられない。晴の宴会のようなシンメトリックな構造はこちらには認められないのである。

 

 →具体的な費用の分担法は「順次」(ローテーションで負担し、最終的に負担を均す)と「持参」(文字通りの持ち寄り)。どちらも参加者の均等負担原則が貫かれている。

 

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 したがって、中世日本の宴会には、ホスト一人に蕩尽を強いるようなポトラッチ的要素は元来希薄であったといえよう。

 では、そのような社会をどのように位置づければよいかといえば、ごくありふれた言い方になるが、やはり「成熟した儀礼社会」という以外にないのではあるまいか。これはとりわけ晴の宴会に当てはまることだが、そこは宴会の規模や形式は身分や家格によってある程度決まっており、過度の突出はあらかじめ防止されていた。そこでは極端な質素さ・卑屈さも、逆に極端な蕩尽さ・尊大さともに非難の対象になる。

 

 →極端な蕩尽さ(気前のよさ)は、時代の変わり目に現れる(補註)。

 室町殿も、暗黙の了解を含めた儀礼に束縛されていた。礼に束縛されたストレス社会こそが室町時代だった。キレやすいのも当然。社会の示す基準が厳格すぎれば、その厳格さを内在化する人間も増える。基準を満たせないことは自己の恥となり、置き換え反応として激怒か抑うつが生じる。精神的に病んだ人間が多かったのではないか。

 

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 →永享二年(1430)12月5日。足利義教接待の成功を祈って祈祷を行うというのは、貞成親王の小心っぷりをあらわすともいえるが、貴人を迎える際の(礼節)のプレッシャーは一般化してもよいのではないか。これが「成熟した儀礼社会」の現実。中世もストレス社会と見てよいのではないか。

 

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 未一点(午後一時ごろ)

 

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 両度目礼。「お先にいただきます」という合図。

 

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 実は、宴席で嘔吐することは当時まったく憚られておらず、むしろそれは一種の座興とさえ考えられていた節がある。人目を忍んで吐くようになるのは戦国時代の武家社会に始まる可能性があろう。ロドリーゲスの『日本教会史』に見えるような飲み競べが出てきて、はじめて嘔吐が憚られるようになったと考えるとわかりやすいかもしれない。

 

 →『看聞日記』を見ていると、酒宴には「比興」がセットで出てくるが、これらはすべて「おもしろい」で理解してよいのか? もしそうであるなら、晴であろうと褻であろうと、宴会は非日常の場であると考えなければならない。なぜなら、二日酔いによる勤務中の嘔吐は、一族から絶交されるほどの不適切な行為だから(「酒の粗相で絶交…」参照)。

 

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 →宴会成功の祝賀に、九条満輔と醍醐寺三宝満済が使者をよこした。皇族・貴族・門跡の間にもいわゆる近所付き合いがある。武家社会では紛争が発生すると近隣の武士が駆けつけて仲裁を行なう慣習があり、これを「近所の義」などと呼んだが(藤木久志「戦国方の形成過程」『戦国社会史論』)、その背景にも同じような日常レベルでの交際を想定することができよう。

 

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 貞成親王は永享7年(1435)12月に伏見から一条東洞院の新御所に移っている。

 

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 「梅花盃」は中央に一枚、周囲に5枚の土器を配置し、それを梅花に見立てて何杯飲めるかを競ったもの。「藤花盃」は、13枚の土器を藤の房状に配置してそれを何房飲めるかを競ったもの。

 

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 「十度飲(呑)」は盃を受け取ってからお銚子を次の人に回すまで、物も言わず、肴も食べず、口も拭わない。失敗したら「とがおとし」(罰ゲーム)。中型・大型の盃で飲ませられる。

 

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 遊びのない単純な飲み競べが進出してくるのは、人前での嘔吐が憚れられるようになるのと同じく、やはり戦国時代の武家社会においてではなかったろうか。

 

おわりに

 褻の宴会の特徴は、ホストとゲストのいる晴の宴会よりも共同飲食の色彩がはるかに強かったことにある。晴の宴会の構造がシンメトリーであるとすれば、褻の宴会のそれはサークルであり、そのことは費用負担のあり方にも端的に表れている。

 褻の宴会のもう一つの特徴は遊びの自由度の高さであろう。たしかに晴の宴会にも連歌や芸能、風流などの要素は伴うが、その自由度はアドリブや逸脱に満ちた宴会には遠く及ばなかったと思われる。そして、すでに久留島典子も述べているように、褻の宴会は、これら共同飲食・遊戯の記憶の累積による連帯性の確認の場であり、権力論的には一揆的な宇宙として位置づけられるのである。

 ただし同じ共同飲食でも神事や祭礼のそれは、褻の宴会ではなく、晴の宴会と解釈される。ここには神仏の有無や宴会の頻度などが晴と褻を分ける別の要因として介在してくることになるが、同じことは晴の宴会そのものにもいえ、当初堅苦しく始まった宴会も時が経ち、酔いがまわるにつれて次第に場が和み、褻に近づいてゆく。宴座と穏座の関係はそのことをよく示しているが、このように晴と褻と区切れないケースが多々あることも宴会を考える際の難しさであろう。

 

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 そこでこの問題(褻の宴会)について最後に一つだけ論点を提供しておくと、伏見時代の貞成は幕府との交渉や情報収集のために頻繁に近臣を京都に派遣していたが、とくに重大な案件があるときにかぎって彼らは泥酔して帰ってきた。その理由は他でもない、その案件を左右する要路の人物と会って酒を酌み交わしてくるからである。そこで彼らは極秘情報を得、室町殿の以降を探り、口添えの約束を取り付けてくる。泥酔は大概それらがうまくいっている証であった。

 

 →晴でも褻でも、宴会自体が儀礼化していることはないのか。宴会が儀礼化するということは、本当の意味での人間関係が希薄になっている可能性はないのか。宴会が頻発するということは、当時の人間関係がばらばらだということの裏返しではないか。盛り上がった宴会というのは、場の空気やノリの共有(虚構の共有)を読み取り、そのように振る舞おうとした結果ではないか。本当の意味で和んでいない可能性がある。その場にふさわしい行動が要求され、それに応えることで宴会が盛り上がっただけで、宴会が盛り上がることと、人間関係が親密であることは、まったく別の可能性がある。

 

 

第五章 銭貨のダイナミズム ─中世から近世へ

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 さて、十二世紀半ばに大量の宋銭流入によってはじまった渡来銭経済は、途中いくつかの小変動を経験しながらも、十五世紀後半まではほぼ安定的な状態を保っていたとみてよい。ところが十五世紀末になると、それまで三世紀以上にわたって維持されていた渡来銭経済にもようやく動揺の兆しが見え始めた。松延康隆の言葉を借りれば、それまで「円形方孔・表面の文字・銅銭特有の色と感触といった条件を満たす限り、その内部に含有する金属の価値とは関係なく、いかなる種類の銭も「一文」という単位として流通していた」銭たちが、突如、「単一の価値尺度としての機能を失」ってしまったのである。

 その動揺はまず特定の銭種のみを選好して、それ以外の銭種の受け取りを拒否する撰銭行為となって現れたが、16世紀に入ると、当初のように低銭を流通から完全に排除してしまうことは少なくなり、かわって精銭よりも低い価値を与えたうえで流用させる慣行が一般化する。その背景には低銭の横溢と精銭の相対的希少化という事態の進行があったと考えられるが、どの銭種がどの程度の価値水準で評価されるかは、地域ごとにばらつきがあり、ここに16世紀を特徴づける貨幣の地域性が浮上してくることになる。

 銭の嗜好は時期によっても変わりうる。ある時期に低銭と評価されていた銭種が、次の時期にも引き続き低銭の地位にとどまることは限らない。16世紀から17世紀初頭にかけて見られたおおよその傾向は、一つは、かつて低銭とされていたものが次第にその価値を上昇させてゆく傾向であり、もう一つは、多いとき・ところで四─五階層に分散していた銭の価値帯が次第に二─三階層程度に収斂してゆく傾向である。どちらの背景にも、究極的には黒田明伸が指摘した中国からの銭供給の途絶という事態があったと考えられるが、この事態はとくに西日本においては中・高額取引分野における銭遣いを破綻させ、1570年前後には銭遣いから米遣いへ、続く16世紀末から17世紀初頭には米遣いから銀遣いへの転換を継起することになる(ただし少額取引では銭遣いが存続する)。石見銀山をはじめとする良質な銀山に恵まれていたことと、貿易を通じて東アジア世界に広く開かれていた地理的環境が、西日本に国際通貨としての銀をいち早く普及させたのである。他方、銭が比較的豊富に存在した東日本では、高額取引分野への金の進出は見られたものの、基本的に銭遣いの破綻は起こらなかた。ただ、中国から銭供給の途絶による銭の希少化はここでも確実に進行しており、長期的には、この慢性的な少額貨幣不足が江戸幕府による寛永通宝発行の背景となる。と同時に、それは16世紀以来の貨幣の地域性が終息し、全国的な貨幣統合に向かう過程でもあった。

 中近世移行期の貨幣史研究に関して、私が一応の共通理解と考えているのは以上である。ここまでは私たちが現に分かち合えている、ないし分かち合うべき地平といってよいのではなかろうか。

 

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 櫻木晋一によれば、九州地方南部や東北地方北部では、15世紀段階の遺跡から大量の私鋳銭が出土しているというから、15世紀の「悪銭」に少なからぬ量の私鋳銭が含まれていたことは動かしがたい。見解が分かれるとすれば、その私鋳銭に占める中国産、国内産の比重をそれぞれどの程度と見積もるかだが、櫻木が整理しているように、国内遺跡からの私鋳銭の鋳型の発見例が14世紀中葉にまで遡り、その後16世紀後半まで連続して報告されていることからすれば、国内産私鋳銭も15世紀にはすでに安定生産の段階に達していたと考えてよさそうである。(中略)

 13世紀後半、1270年代に宋から元への王朝交代と元が採用した紙幣専用政策の影響で、大量の宋銭が中国から周辺諸国へと流出し、それを受けて日本でも年貢の代銭納制の普及に代表される銭遣いの飛躍的拡大が起こった。それは12世紀半ばに渡来銭経済が始まって以来、最大の出来事と言ってよい。

 けれども溢れ出した水にもやがて尽きる日が来る。明くる14世紀に入ると13世紀後半のインフレーションは終息し、日本は一転して銭荒(銭不足)・銭貴(銭高)に見舞われることになった。松延康隆が明らかにした14世紀の著しい地価下落は、そのような銭荒・銭貴の進行を直截に示す現象であろう。この地価下落については南北朝の動乱に原因を求める見解もあるが、主因はやはり貨幣要因に求めねばなるまい。後醍醐天皇の貨幣発行計画がこの銭荒・銭貴に便乗して企てられたであろうことについては別稿で触れたが、14世紀後半には高麗・朝鮮やヴェトナムでも銅銭や紙幣を自前で発行する動きが強まることを重視すると、14世紀には東アジア規模で銭荒・銭貴が進行していた可能性が高く、その原因が中国からの銭流出の鈍化にあったことももはや論を俟たないところであろう。中国との窓口にあたる博多からの出土銭が14世紀後半に減少するという櫻木の指摘もこの理解を支持しているように思われる。

 

 →銭の価値が上がったため、相対的に物価・地価が下落した。

 経済が活発化したから貨幣経済になったのではなく、銭の供給量が増えたから貨幣経済になっただけ。因果の逆転か。

 埋納銭の研究はどうなっているのか?

 

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 備蓄銭の慣行が一四世紀後半ごろから日本各地で本格化するのも、おそらくこのことと無関係ではない。松延は備蓄銭慣行の広まり、すなわち銭が富の蓄蔵機能を獲得したことが、銭の退蔵を促し、それが銭荒・銭貴の原因になったと推測したが、これは原因と結果が逆である可能性が高く、むしろ長期的な銭荒・銭貴傾向のなかで将来の銭供給にたいする不安とさらなる銭貴への予測から、備蓄銭の慣行が広まったと解釈したほうがよさそうである。

 一五世紀後半にも、百瀬今朝雄が指摘したように、米価に長期的な低落傾向がみられ、これも同じく貨幣要因によるとすれば、銭荒・銭貴傾向は一四─一五世紀を貫く長期的トレンドと考えてよいことになる。であれば、この長期的な銭貴傾向がそこに一定の利潤動機を与えていたことになる。(中略)

 私鋳銭のうち良質なものは精銭のなかに潜り込み、巧みに同化したであろうが、粗悪なものは精銭から区別され、老朽化した官銭とともに「悪銭」として括られることになる。次に問題となるのはその「悪銭」がどのように扱われたかが、京都とその周辺では、一五世紀に関するかぎり「悪銭」は排除の対象として出てくるケースが圧倒的に多い。精銭がまだ大量に流通し、「悪銭」がマイノリティであった時代の余裕を反映しているといえよう。これとは対照的に、九州地方南部や東北地方北部では、一五世紀段階の遺跡から個別出土銭・一括出土銭を問わず、大量の私鋳銭が出土しているが、これは「悪銭」が日常的な少額取引にとどまらず、富の蓄蔵手段や高額取引の領域にも進出していたことを物語る。その背景としては、精銭の地域的偏在性という問題が当然考慮されるべきだが、ちょうど両地域の中間に位置するのが伊勢地方であろう。

 

 →銭荒・銭貴傾向が一14─15世紀を貫く長期的トレンドということになれば、銭価高騰に振り回されて、経済苦を理由に自殺する人間が現れてもおかしくない。

 インフレとデフレ、スタグフレーションでは、経済苦による自殺は変わるのか?

 そもそもどうすれば、中世の各時期をインフレ・デフレなどと確定できるのか? 日本全土を1つの経済ブロックとみなすことはできないから、京都・奈良、あるいは荘園・村落のような地域経済圏で定点観測するしかないか。

 当時の商人には、総合商社的な人間もいたはず。酒屋をしながら金融業もやる、というようなイメージ。酒屋をやるために酒屋の座に属していただけで、他の商売をやっていても何ら問題はないのではないか。

 

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 以上のように、貨幣の地域性がすでに一五世紀段階からあらわれてくることは注目に値するが、一六世紀の貨幣動向を検討するに先立って、もう一つ考えておいてもよい問題は一四─一五世紀における中国国内の宋銭残存量である。一四世紀の東アジア諸国における銭荒・銭貴が中国からの銭流出の鈍化に起因していたことは前述したが、当の中国でも皇慶年間(一三一二─一三一四)以降は「民間に残存する江南の銅銭は宋代に較べて、その十分の一」と言われるような状況であった。

 

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 もっとも原料銅を持ち込んだかどうかはともかく、この時期にも室町幕府が依然として明に銅銭を求め続けていたことは動かしがたい事実であり、その原因としては、さしあたり国内の私鋳銭生産が幕府とは別個の主体によって行われていたこと、および国内の私鋳銭生産に精銭を安定的に作り出せる技術がまだ備わっていなかったことの2点を想定する必要が出てくる。国内私鋳銭生産の主体と技術力の解明は、黒田というよりは、私たち全員に課せられた課題というべきだが、明銭論争の行方も結局はそこにかかってくるのではなかろうか。

 

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 ところが16世紀段階になると、「悪銭」を流通から完全に排除してしまうことは少なくなり、代わって精銭よりも低い価値を与えたうえで通用させる慣行が一般化した。この変化が黒田のいう「銭流通の階層化」にあたる。ここでは日常の少額取引には「悪銭」を用い、富の蓄蔵や高額決済・遠隔地決済には精銭を用いるというように銭種間に分業関係が生まれる。黒田のいう「補完的な関係」である。

 

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 ともかく日本においても十五世紀末には確実に銭流通の階層化が起きており、それは私鋳銭流通が優勢であった南北の辺境地域(九州と東北)から波及した可能性が強い。他方、畿内とその周辺では、撰銭令に即してみた場合、銭流通の階層化を認めたのは永禄十二年(1569)の織田信長撰銭令が最初であり、それ以前の撰銭令は幕府・戦国大名を問わず、少なくとも建前上は等価値使用の原則、すなわちいったん使用を許した銭種については、銭種間の区別立てを認めず、あくまでも一枚一文の等価値で扱う原則を堅持していた。

 

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 ところで悪貨が排除の対象から一転して通貨として認知される─つまり銭貨流通の階層化が起きる─誘因は何であろうか。現時点ではほとんど仮説の域を出ないが、私は飢饉や戦争による米価の高騰がそのきっかけになった可能性を予測している。米価の高騰が低銭の地位を一気に押し上げた例は、天正18─19(1590─91)ごろの奈良において実際に見出すことができるが、それに類するような、それまで排除の対象でしかなかった低銭の動員を不可避にする何らかの要因が関与していたことが考えられるのである。近年高木久史が主張している撰銭令と食糧需給政策との関係も、そのような角度から改めて捉え直してみる必要があろう。

 

 →米価が高騰すると、その支払いに大量の銭が必要となる。悪貨を流通から排除していては売買ができなくなる。

 帳簿類に記載されていない少額取引で、悪銭を利用しているのではないか。

 

P161

 しかし、このような多層化の事実を指摘しただけでは近世につながる銭貨統合の契機を見落としてしまうことになる。いったん多層化した銭流通は次に再び収束への道を辿るからである。その具体的な過程は奈良のビタについて見たとおり、下位の階層に属する銭が価格上昇の結果、上位の階層を飲み込むかたちで進行したと考えられるが、この現象は、永楽一貫文=京銭(ビタ)四貫文=金一両の公定レートを定めた慶長十三年(1608)令の大前提となる。少なくともこの法令が意味をもつためには、それまで存在していた複数の階層が一つに収斂し、ほぼ永楽の4分の1の価格帯に集中する大きな銭種群(京銭・ビタ)を作り上げていなければならないからである。それが安国良一のいう「京銭による銭貨統合の時代」の前提でもあった。

 

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 ごく常識的な理解になるが、戦国期東日本で流通していた永楽銭のなかには、たしかに東日本で鋳造された私鋳銭もあったには違いないが、西日本から東漸してきた官銭・私鋳銭も少なからぬ量で含まれていたと考えたい。

 

 

第六章 中世における物価の特性と消費行動

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 中世においてモノやサービスの価格は、いかなるメカニズムによって決定されていたのだろうか。結論を言えば、中世においてもモノの価格は基本的に需給バランスによって決定されていたのだろうか。結論をいえば、中世においてもモノの価格は基本的に需給バランスによって決定されていたとおぼしく、その点では今日と大きな隔たりがあるわけではない。ただ一方で、賃金などのサービス価格は硬直的で、需給関係に左右されにくかったことも知られている。この点に注目するならば、中世においては、サービス(労働力)はいまだ完全な商品化を遂げていなかったといわねばなるまい。その背景にある労働観を探ることも重要なテーマではあるが、中世の価格に関しては、このほかにも季節的変動や地域間価格差の問題など、多くの現象が、メカニズムはおろか、実態すら明らかにされぬまま放置されている。

 

 →人身売買が行なわれていたということは、人間はすでに商品化していたことになるのか?

 

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 古代─中世において価格や相場を意味するもっとも基本的な用語は「和市」であった。古代─中世前期には「沽価」の語も用いられたが、「沽価」というと何らかのかたちで公定された価格を示すのが普通で、市場価格・実勢価格・時価をさすばあいにはもっぱら「和市」が用いられた。(中略)

 過去の換算率=済例。

 

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 現代語の「相場」が登場するのは「和市」よりもはるかに後れ、16世紀も後半に入ってからにすぎない。米・麦・豆などの穀類や絹・綿などの繊維製品に幅広く用いられた「和市」に対し、「相場」は当初、金─米比価に限定して用いられる特殊な用語であった可能性が高い。その用途が拡大し、最終的に「和市」に取ってかわるのは近世のことである。

 

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 →米の和市が高い・多い・太い(=米高)のときは、代銭額が減少する。逆であれば、代銭額が増加する。この米高・米安状況は、地域の市場によって異なるから(例えば、洪水被害に襲われた地域の米価は高くなり、豊作地域では安くなる)、それを見極めて売買できれば、蓄財することができる。これが代官に求められた経済能力ということになるのか。

 

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 以上、「和市」の具体的な用例をいくつかみてきたが、総じて「高」「多」「太」などポジティブな語を伴う場合には対銭比価の上昇を、「下」「少」「細」などネガティブな語をともなう場合には同じく下落を示したのである。つまり銭遣いが普及した13世紀後半以降、「和市」においては一貫して銭が基準貨幣とされていたのである。しかも米遣いが主流になった16世紀段階でもこの用法に変わりがなかったことは注意すべきだろう。この段階ではじめて登場してくる「相場」が米を基準貨幣としていたことを想起するとき、「和市」と「相場」とは明らかに異世代の産物であった。

 ところで、「和市」が穀類や繊維製品に幅広く用いられたことは事実だが、すべての商品価格が「和市」とよばれたわけではなさそうである。たとえば油や塩の「和市」というものは管見に触れないし、紙や土器の価格が「和市」とよばれた例も寡聞にして知らない。これらの商品価格は「油代」「紙代」などごく単純に「代」と表現されるのが普通であった。「代」は、穀類や繊維製品を含むあらゆる商品に使われた点で、「和市」よりもさらに汎用性の高い概念であったといえる。

 一方の「和市」は、とくに主要な年貢品目や貨幣機能の強い商品に用いられる傾向があり、たんなる価格というよりは交換相場というニュアンスをより強く含んだ概念であった。「代」はこのようなニュアンスを含まない。「代」は単純な価格概念であり、その単純さゆえに他の語に取って代わられることもなく、現在まで生き延びてきたのであろう。

 また、別の角度から見ると、結果的に「和市」は穀物取引の比重が高い農村市場を象徴し、「代」は奢侈品など多彩な商品が氾濫する都市市場を背負うと要する語だということにもなる。

 

P186

 『諸芸才売買代物事』は各商品の販売単位についての知見も与えてくれている。たとえば味噌は五十貫目、漆は一駄、油は一荷、糸は十把、炭は一かい(荷または抱)を単位として値が建てられていたが、漆については「一駄ハ四桶一桶分六升」との説明があり、「駄」の下に「桶」という単位があったこと、一駄が二斗四升に相当することなどがわかる。同じように油一荷は「二斗」、糸十把は重量で「一貫六百目」、炭一かいは「三束」に相当するとの注記があり、商品ごとに成立していた多様な単位の存在を知りうる。白粉物の計量に「はんのけ」という特殊な器物が使われていたとの記述も目を引こう。

 販売単位に注目することによって見えてくる事実は多い。たとえば綿はブランドごとに価格のみならず販売単位も異なっており、美濃綿は二百匁、坂東綿は百二十五匁、越中綿は百二十匁単位で販売されていた。したがって、見かけの価格は美濃綿が高いが、匁あたり価格は美濃綿上品が八・五─九文、坂東綿上品が十二文、越中綿が九・二文となり、実は坂東綿が最も割高である。輸送費の影響と見るべきだろう。

 紙は「唐紙師」「紙漉」「紙」の三項目に分けて記載されているが、特殊な装飾紙である唐紙はともかくとして、鳥子紙・打曇・薄様などの斐紙(雁皮紙)と引合・杉原・檀紙・薄白などの楮紙とがそれぞれ「紙漉」と「紙」とに区別されている点は注意される。この事実は両者が原材料だけでなく、生産主体や販路のうえでも異なる商品であったことを物語る。両者は販売単位も異なっており、廉価な楮紙が一束単位で売買されたのに対し、高級紙である斐紙の売買は薄様を除いて一枚単位であった。ところが同じ高級紙でも唐紙は斐紙とは異なり、100文につき何枚という別の単位で値が建てられていた。

 

P191

 まず七挺・十四挺・九挺・十二挺という場合の「挺」は明らかに蝋燭の個数を表す助数詞である。これに対し、三挺蝋燭、六挺蝋燭、四挺蝋燭、五挺蝋燭というのは蝋燭の規格で、数字が大きくなるほどサイズは小さくなることがわかる。すると、蝋一斤で三挺蝋燭が七挺製造できるというのだから、三挺蝋燭一挺に要する蝋は七分の一斤(約二三匁)となり、かりに一挺蝋燭というものがあるとすれば、それを一挺つくるのに要する蝋は七分の三斤(約六九斤)となる。

 

P192

 山本紀子によれば、「連」は10世紀ごろ釘20隻(本)を単位とする助数詞として登場して、15世紀ごろからは100文で買える釘の連数が「四連釘」「八連釘」の如く釘の品名としても使用されるよういなるという。(中略)

 漆問屋と見られる柳三郎の証言によれば、漆は元来価格変動の激しい商品であったらしいが、たしかに漆の供給は陸奥・越後・隠岐・備中などの遠隔地に大きく依存していたから、諸国の治安状態にも左右されやすい。いきおい京都への供給は不安定にならざるを得なかったであろう。その点は原料となる水銀の流通量に連動し、「水金未到来時ハ又高直ニなり候、到来時ハやすし」という動きを示した白粉物も類似の性格を帯びた商品であったといえる。

 一方、漆のような稀少性の高い商品は需要側の影響も受けやすく、わずかな需要量の増加がその価格を跳ね上げてしまうこともありうるのである。実際、右の一節が言及する漆価格の急騰も、足利義満の北山亭造営によって引き起こされたものである可能性が高い。

 

P194

 炭の価格は夏季に下落し、冬季に上昇した。冬季には炊事用に加え、暖房用の需要も増えることから、このような季節的変動が生じたのであろう。

 

P195

 油の原料となる胡麻・荏胡麻の収穫期はいずれも晩秋であるから、出荷のピークはそれ以後になる。(中略)したがって、新油の出荷が本格化し、「下直之時節」を迎えるのは冬から春ということになろう。油価格が冬から春に下落し、夏から秋に上昇する傾向があったことは、後掲の表6からも読み取ることができる。(中略)

 柴は正月か二月に購入せよ。

 

P196

 製塩は夏から秋にピークを迎える産業である。代表的な塩の荘園である東寺領伊予国弓削島庄でも年貢塩の本来の納期は八月・九月であったから、塩が秋に最安値をつけるのは自然なことであろう。ただし、瀬戸内など比較的遠方に主産地を抱えていたことや、製塩が胡麻・荏胡麻栽培などよりも天候に左右されやすい産業だったこともあって、先に見た漆や白粉物と同様の不確定要素がつきまとうことになった。(中略)

 (塩に賦課された)升米は100分の1の税なので、この数値を100倍すれば、そのまま月別の平均塩価格(おそらく兵庫価格)になるはずだが、だとすれば同じ塩でもブランドによって価格水準も価格変動の波も微妙に違っていたことになる。

 

P198から

 賃金は、少なくとも見かけのうえでは一年を通じて一定であった。では労働力価格の季節的変動はどのようなかたちで起こるのだろうか。次の史料を見てみよう。(中略)

  一 朝者従辰剋入木屋、夕者限入日可帰宿之事、

ここでは、労働開始時刻については定時法がとられているが、終了時刻については日没までという不定時法がとられている、これならば一日の労働時間は夏季に長く、冬季に短くなり、作業に要する日数は逆に夏季に短く、冬季に長くなる。蓮如が夏季のほうが短期間で完成できると述べた前提にはこの不定時法があったのである。

 

P199

 永井規男らによれば、中世における工人の労働時間は原則として日の出から日没までであり、それは「昼作夜止」(賦役令・昼作夜止条)という古代以来の労働慣習に基づくものであった。ところが古代においては日の長さにしたがって長功・中功・短功の段階が定められ、賃金もそれに応じて変動したのに対し、中世になるとこのような時間給的な考え方は放棄され、日給的な考え方が支配的になったという。

 中世における最も標準的な工人賃金は100文から110文であり、さらにこの100文は平安時代の大工の標準賃金である米一斗に由来するという。中世における賃金がいかに硬直的だったかがうかがえよう。この硬直性を利用して労働力の搾取が行なわれたのである。中世の工人は、同じ賃金を受け取りながら、夏季にはいつもより余計に働かねばならなかった。価格の季節的変動という観点から言えば、彼らの労働力価格は冬季に上昇し、夏季に下落したのである。真珠庵衆議定書の第十六条がそのなかでも特に八月を選んだのは、労働力価格が下落する時期であったことに加え、好天が続く月との判断も働いたのだろう。天候に左右されやすいという点で建築業は製塩などとよく似た産業だったのである。また同条が栗板を7月中旬以前に購入するよう指示したのも、実は栗板に限った話ではなく、あらゆる建築用材がこの時期を過ぎると作事の集中に伴って一斉に高騰したのではなかろうか。

 以上見てきたように、中世の消費者は物価の季節的変動に極めて敏感であった。彼らは明確な収穫期をもつ農産物のみならず、さまざまな加工品や労働力の価格にも季節的変動があることを知悉しており、なるべく安い価格で購入しようと努めていたのである。

 他方、生産者や商人たちは、これとは逆になるべく高い価格で売り捌こうという志向をもっていたはずである。それは、ある程度貯蔵の利く商人の場合には出荷調整によって比較的容易に達成されたであろう。今回この問題について詳細に論じる余裕はないが、たとえば後述の東寺鎮守常燈方関係史料から読み取れる油価格の季節的変動は、表4に見える胡麻通関量の季節的変動に比べると、明らかに緩慢である。そこに大山崎神人による生産ないし出荷調整の介在を想定することはけっして不可能ではあるまい。

 

 →有徳人の蓄財の仕組み。

 

P204

 つまり、「祐算合」「此方合」「京合」「京延」と多様な表現がとられてはいるが、それらは実は全て同一の枡であり、唯一「山崎合」だけが異なるというのが結論である。

 

P206

 つまり山崎油と京都油の価格差は価格上昇期(夏から秋)に小さくなり、下落期(冬から春)に大きくなる傾向が認められるのである。このことは京都油の価格が山崎油のそれよりも硬直的であったことを意味している。

 

 →京都の油の最高値が決まるのは、一種のギルド的規制。具体的に言えば、それは消費者が山崎に流れるのを防止するために、京都の油商人・問屋たちが申し合わせた自衛手段だったのではないか。(最安値が決まるのもギルド的規制。座商人間で客の取り合いにならないようにするため)。

 

 山崎の油商人と京都の油商人は同じ大山崎神人ではあったが、経営は分離しており、互いに競争し合う存在でもあったのである。

 

 →祐深には油価格が上昇したときには少量の、下落したときには大量の油を買い付ける傾向があったことが読み取れる。

 

P207

 中世の輸送費は一般に積荷の価格に関係なく重量に応じて算定されると考えられているが、(中略)つまり輸送額が大きいほど輸送費は割安になるのである。これまで随所で指摘してきたサービス価格の硬直性ということが、輸送費にも当てはまることが理解されよう。(中略)

 なお念のためにいえば、輸送費はただ単純に輸送額を増やせば割安になるというものでもなかった。表6の購入量と輸送費の額からみて、祐深が雇用した人夫は常に一名であったとみられるが、購入量をあるところまで増やすと人夫を二名に増員しなければならない臨界点に達する。それは輸送費が一気に跳ね上がる点でもある。輸送費は人夫の人数に応じて階段状に上昇してゆくものなのである。(中略)要するに輸送費が跳ね上がる直前、すなわち人夫の増員が必要になる直前の購入量でとどめておくことが輸送コストの節約につながるのである。

 

P210

 〜(山崎で油を購入し京都で売ろうとした)商人の純益は最大でも京都の小売価格の30%程度ということになろう。また、既述のとおり、山崎油と京都油の価格差は価格の下落期ほど開く傾向があるので、この数値も価格の下落期に大きくなり、上昇期に小さくなる。価格の上昇は商人にとってもけっして望ましい状態ではなかったことが明らかになるのである。

 

五 中世における労働観の問題

 

 祐深は京都での購入経費と山崎での購入経費の差額を「理順」〔133号〕、または「理潤」〔134号〕と表記している。本来なら「利潤」と書くべきところだが、あえて「理」の字を当てたところに私は祐深の気概を感じる。祐深にとって利益の追求とは、誰からも批判される筋合いのない合理的な行動であり、利潤とはその合理的な行動に対して与えられる当然の報酬であったのだろう。かつて東大寺伊賀国司の言動を「商客児女之謂」と批評したごとき時価への卑賤視は、彼において完全に克服されているのである。

 商人と消費者のいずれもが「利」は「理」に通じるとの信念をもち、季節間・地域間で生じる差益を我が物にしょうと競い合う状況が中世後期の京都には存在した。とりわけ、大口消費者層の間には物価変動のメカニズムをよく研究し、具体的な消費戦略を立てる者まで現れたのである。もちろん、それが消費者のごく一部に過ぎなかったことも認めねばならない。年間の購入計画を立てられるだけの財力がない者には、季節間価格差など最初から縁のない現象であったろうし、個人の消費者が地域間価格差を利用しようとすれば、「迎買」を禁じる商人の慣習法と抵触して荷物を没収される危険性が極めて高かったと思われる。差益を稼ぐということ自体がすでに特権的なのだという評価は、その意味で全く正論である。

 

P211

 ところで本論でも随所で触れたとおり、中世ほどサービス(労働力)価格が硬直的であった時代はない。それらは古代の方がむしろ弾力的で商品的であったように見える。これはおそらく労働観と貨幣観の双方にまたがる問題だが、事の本質をもう一度よく見極めておく必要があるだろう。

 櫛木謙周によれば、八世紀における雇夫賃金の長期的変化を追ってゆくと、710年代に1日一文であったものが70年代には十五文まで高騰するものの、この間の米価上昇率を考慮すると、常に1日二─三舛の均衡が保たれているという。つまり古代の賃金は米建てでほぼ一定であり、実際に支払われる銭額の変化はもっぱら米銭相場に起因していたということになる。これに対し、中世の賃金は、工人の場合なら一日100文から110文と逆に銭建てで一定となり、実際の支払いも多くは銭で行なわれた。ただしその100文ないし110文で購入できる米の量は米銭相場に左右されて日々変化したというわけである。となると、古代が米建てで、中世が銭建てという違いはあるものの、賃金がほぼ一定であること自体は共通していたことになる。さらに言えば、近世工人の標準賃金も、実際の支払いは銀などで行なわれていたにせよ、米建てでは一日約六升であり、再び古代と同じように米建てで一定になる傾向が復活するという。長期的な賃金上昇は、資本主義経済のもとでのみ起こりうる極めて特殊な現象なのである。

 中世が古代や近世と違っていたのは、賃金が米建てではなく、銭建てで一定であった点である。中世の賃金はなぜ米と訣別して銭をパートナーに選んだのであろうか。結局のところ、古代や近世にも銭は遣われていたけれども、中世ほどその価値が安定していた時代はなかったということであろう。さらに銭は、価値が安定していただけでなく、遣いやすさという点でも米にまさっていた。中世の賃金が米との連関を失ったのは、一つには工人がより高い流動性を選好した結果でもあろう。要するに、中世の銭は米のもつ貨幣機能を圧倒し、ほとんど単一通貨呼んでもよい地位にまでのぼりつめたのである。

 ただ、米との連関を失ったにせよ、需給バランスによっても賃金は高下しうるはずだが、中世にはそれすらもほとんど見られなかった。想像するに、賃金と米の関係が断ち切れたのちも、一日に一定額を給付するという伝統は、銭に転写されて生き続けたのではなかろうか。だが、古代との違いは米か銭かという問題だけにはとどまらない。中世の人々は、古代の人々が持ち合わせていた柔軟さ、すなわち長功・中功・短功という時間給的な考え方すらも放棄してしまったのである。労働力の価値を正確に計算しようという意識自体が後退していることは明らかであろう。中世においてはサービスや労働が、商品とはまったく異なる枠組みのもとで把握された実態が改めて浮き彫りになるのである。したがって、その枠組みを探ることが次なる課題になってくるが、それはほとんど中世の賃金がしばしばたんに「酒直」と呼ばれていたことの意味をもう一度洗い直してみる必要があるかもしれない。というのも、土木や運搬などの諸労働に対し、「酒直」のような贈与名目でしか報いることのできなかった発想そのものが、実は労働力の数値化・商品化を阻んでいた最大の桎梏であったとも考えられるからである。

 

 →人間の労働が商品化される以前とは、まさに資本主義が始まる以前のこと。人間の労働はどのように捉えられていたのか? マルクスは、そのへんをどのように定義づけていたのか? 国家や領主に尽くせば税と呼ばれ、雇い主(労働の買い手)に尽くせば…? 必ず酒直(チップ)が混じるということは、贈与だということが言いたいのか?

 現代のように、人間の労働が商品化すると、替えが利くにようになるため、リストラもしやすい。労働に人格性がなくなることになる。だが、完全に商品化できないということは、労働に人格性があることになる。これはどういうことか? 贈与論をもう一度読み直さないとならないか?

 

 

第七章 精銭終末期の経済生活

P222

 毛利一憲論文はまた、ビタの進出に反比例するかのように姿を消し、わずかに観念上にのみ残存する銭種があることにも注目している。精銭の系譜を引く計算貨幣「本銭」がそれである。「本銭」の特徴は、米に対して100文=2斗という極めて高い、しかも固定した相場をとるところにあるが、もし「本銭」が通貨として実際に流通していたならば、価値変動の激しい米との比価が常に一定ということはあり得ない。そこから毛利論文は、「本銭」を、かつて精銭として通用していた銭がその後通用しなくなり、実際の支払いが代米で行なわれるようになった後も、いくつかの品目についてはその銭を基準に価格を計る慣例が残ったものと推測したうえで、その費目として「一、布施・捧物・安居合力銭・礼物・進物等の宗教行事及び生活習慣上の使途をもつ場合。二、織賃・染賃・墨研賃・作料・麺代価・人夫賃等の主として労働力に代価が支払われる場合。三、屋敷地子銭・綿代価・年貢得分等の年貢に関連する場合。」の三つを挙げている。

 

 →100文=2斗の固定相場の成立時期は、元亀2年(1571)か永禄10年(1567)5月ごろ。

 

P223

 このように、「本銭」の性格および成立時期についてなお議論の余地を残すものの、精銭の空位化と、それにともなう下位の通用銭(ビタ)の価格上昇、そしてその通用銭にも及んでいた希少化の波、という十六世紀後半の最も基本的な貨幣動向が既に押さえられている点は見事という他はない。

 

P232

 ただ、同時代人の認識を問題とするならば、彼らは100文=2斗の固定相場を後年「未ノワシ」(未は元亀二年にあたる)とも呼んでおり、元亀二年(1571)の和市が固定化したものという認識が存在した。元亀二年ごろといえば、浦長瀬隆が西日本における銭遣いから米遣いへの転換期と位置づけた「一五七〇年前後」にあたり、黒田明伸がその原因を中国からの銭供給の途絶に求めた貨幣史の一大画期であるが、ほぼ同じ認識を同時代の奈良の人々ももっていたことになる。精銭はまだときどき市場で見かけることはあったが、もはや中国銭経済を維持できる量ではなかった。精銭の希少化がその閾値を超えたという意味で元亀二年はやはり記憶されるべき年だったのであろう。

 

P233

 ビタの希少性については、精銭からビタへの通貨の切り替えが必ずしも順調ではなく、大幅な米遣いを伴ったことにもあらわれている。米の取引は、精銭がまだ流通していた永禄十二年(1569)ごろから増えはじめ、元亀二年以降、大幅に拡大する。ビタ銭は、後のビタに当たる100文=4升4合の「悪銭」が出現し、天正四年(1576)十二月ごろからビタの名で呼ばれるようになる(天正四年十二月十六日条)。ビタの使用が本格化するのはこれ以降であり、これ以前の取引のほとんどは米で行われていた。米は、精銭経済が崩壊してから、次のビタ遣いが軌道に乗るまでの数年間、そのタイムラグを埋める媒介的役割を果たしていたのである。ただし、これ以後もビタが単独で使用されていたわけではなく、米も引き続き使用された。つまり、かつて精銭がもっていた通貨機能はビタだけに引き継がれたのではなく、ビタと米によって分掌されていたというのが実態に近い。ここにもビタの希少性が見てとれよう。

 また、高額取引については金銀が進出してくることにも触れておかねばならない。金銀による支払いは永禄十年ごろから見えはじめるが(永禄十年五月六日条)、急増するのはやはり元亀二年以降である。中世の単一通貨であった精銭の希少化・消滅に伴い、それが担っていた高額取引と中規模・少額取引のうち、前者の機能が金銀に、後者の機能がビタと米によって代替されたと考えればよい。金銀銭の三貨に貢租としての米が結びついた近世経済の基本構造が次第に形作られつつあったのである。

 

P238

 撰銭令と凶作の間に相関関係があることはすでに指摘されているが、凶年には米選好の裏返しとして、特定の銭というより銭一般が忌避され、その中で要求される銭の条件も厳しくなる(難癖をつけられる)傾向があったのではあるまいか。撰銭のメカニズムもその辺にありそうである。

 

 →凶作の場合は、食料としての米の需要が高まるし、かりに転売すれば、より多くの銭に交換できるから、米が選好されるということか。もし銭と交換するのなら、より高価な精銭としか交換したくない、ということか。

 

 塩一駄=(1石3─4斗)

 

P242

 とりわけ味噌の醸造も手がけていた英俊にとって、塩はその原材料としても座視できぬ商品だったに違いない。

 

P243

 中世の労働力価格の硬直性については本書第六章でも触れたところだが、とくに中世後期の建築工の場合、季節(労働時間)に関わりなく1日100文というのが長く普遍的な相場であった。この額は十六世紀に入ってからもしばらくは維持されることになるが、すでに述べたように十六世紀には精銭の希少化を背景にゆっくりと銭貴が進行していたから、そのなかで銭建て賃金が一定であることは、実質賃金の上昇を意味した。職人にとっては有利な時代が到来したのである。

 

P244

 これと一日一斗との関係はよくわからないが、前述のとおり、天正十二年が凶年であったことを考慮すると、より標準的なのは一日一斗の方であり、一日六升は凶年の特例であった可能性も考えられよう。

 その一日六升がむしろ標準的な賃金だったと、見られるのが屋根葺である(ただし時期的に見ていずれの事例も京枡であり、奈良十合枡に換算すると七升二合程度になる)。

 

P246

 米高なら一日五升、米安なら一日六升というざっくりした計算だったのではなかろうか。(中略)

 その他、一日五升が支給されている者に肉体労働者たる人夫がおり、また笠張と米搗は一日三升と最も安い(ただし時期的に見て笠張の事例は奈良十合枡、米搗の事例は京枡と見られる)。作業内容が非熟練的で肉体的苦痛も最も少ないからであろう。

 

P247

 毛利論文は「本銭」が計算に使われた費目として、「一、布施・捧物・安居合力銭・礼物・進物等の宗教行事及び生活習慣上の使途をもつ場合。二、織賃・染賃・墨研賃・作料・麺代価・人夫賃等の主として労働力に代価が支払われる場合。三、屋敷地子銭・綿代価・年貢得分等の年貢に関連する場合。」の三つを挙げていたが、一言で言えば、贈与・賃金・収取とまとめられよう。(中略)けれども、100文=二斗が適用されているケースのより根本的な共通点は何かといえば、それは、ごくわずかな例外を除いて、いずれも本来精銭で支払うべきところを代米で支払っているケースがほとんどであり、時期的に当然のことだけれども、その逆はないということであろう。これが「本銭」の性格を考える際、最も重要な点だと思われる。つまり、本来銭で受領したがっている相手が何とか米での受領に応じてくれるように、一種の打歩(プレミアム)として用意されたものが、「本銭」と呼ばれた有利な固定相場だったのではなかろうか。

 相手が銭で受領したがる典型的なケースは、銭払いの先例があるケースである。年中行事であれば古記録が、また収取であれば年貢納帳などの帳簿類が先例を知る鏡となるわけだが、それらに精銭で収めたことが記録されていれば、代米で受け取る際にも100文=二斗の適用を受ける十分な理由になったのである。

 

P248

 では「本銭」の消滅はいつのことか。ビタの高騰によって「本銭」がその価格帯に呑み込まれてしまう天正二十年(1592)正月とみる考え方もありうるが、私はむしろ京枡への転換が行なわれた天正十四年十月を大きな画期と見たい。

 

P254

 →最終的に精銭は、たんなる「ピン札」と化したのではあるまいか。

 

 

第八章 借書の流通

P263

 中世後期に特徴的な手形に割符と呼ばれていたものがある。割符には今日の為替手形に相当するものと、約束手形に相当するものの二種類があったようだが、割符の最大の特徴は1つ10貫文という定額のものが圧倒的に多いということ、しかもその額から分かるように、かなり高額な手形であったということである。

 

P265

 私は以前、中西聡らとまとめた『新体系日本史12 流通経済史』のなかで次のように指摘した。

  手形決済がもともと貨幣経済(金属貨幣経済)のもとで発生した技術ではなく、むしろ実物経済(商品貨幣経済)のもとで現物輸送の負担を軽減化、省力化するために発生したものであることはすでにブローデルやポランニーによって指摘されている。日本においても十世紀後半という金属貨幣の空白期に手形決済が発達したのはまったく同じ理由からであり、渡来銭が本格的に流入する十二世紀後半にそれらが衰退に向かったのもこのことと無関係ではない。

 

P268

 以上のようにみてくると、貨幣の理解はかなり混沌としてくる。物々交換・商品貨幣と信用経済は隣り合わせの関係にあり、少額の信用貨幣といわゆる原始的貨幣・擬似貨幣との隔たりもそう大きくはない。そしてここまで来ると、銭の問題ともようやく接点が出てくることになる。銭も地金を上回る価値で流通していたわけだから、記号・標章である。そもそも「原始的貨幣」とか「擬似貨幣」というのは、たんに金属貨幣でないということを表現しただけの外観的な概念に過ぎず、本質は銭と何一つ変わらないというべきだろう。

 物々交換あるいは米や布のような商品貨幣を使っていた社会がその後、信用経済を発達させるか、記号・標章的貨幣を採用してゆくかは、実際のところかなり偶発的で、少なくとも社会の発展段階の差に帰することはできないというのが私の率直な印象である。

 

 

終章 中世における債権の性質をめぐって

P291

 一例目で尋尊(借主・債務者)が借書保持者(宗薫)への返済を拒否しえたのは、関係者がたまたま配下の人物(懐尊・直接の貸主・債権者)であったからで、二例目のように、関係者がこの範囲を越えてしまえば、返済に応じなければならなかったと考えられる。その点では、例外的なのは一例目の方であり、中世後期とは基本的に債権が譲渡可能な社会であったとみてよい。

 一般に、一例目のような理屈がまされば債権が流通しにくい時代になり、二例目のような理屈がまされば債権が流通しやすい時代になると考えられる。

 

P292

 では、債務不履行が発生した場合、つまり最後の借書保持者が債務の履行を求めたにもかかわらず、債務者が応じなかった場合には、誰がどう弁償するのであろうか。

 はじめにも述べたとおり、中世には債務不履行者に制裁を加えるような強力な制度とか、司法当局とか、同業者団体といったものは存在しないか、あっても脆弱なものであった。そのような環境下で借書所持者が取りうる手段は自力での解決しかない。つまり当事者主義である。具体的には、借書が流通してきたルートを逆に遡って追及してゆくことになるので、遡及主義と呼ぶことも可能だが、これは中世の法律用語で「手継を引く」と呼ばれた行為にやや似ている。盗品や逃亡下人を、その事実を知らずに購入した者が、盗犯の嫌疑を晴らすためには、誰から購入したかを申告することが求められた。この申告行為を「手継を引く」といったが、名指しされた売り手は、自分が盗人でないことを証明するためにさらに「手継を引」かねばならない。こうして購入した相手の名を芋づる式に言わせていき、その名を言えないものまで遡ったところで、その者を盗人と認定し、処罰するのである。

 手形の場合もこれに似ているが、司法当局の積極的関与がなかったため、より当事者主義的に進行した。室町時代の代表的な手形である割符が不渡りになったものを「違割符(ちがいさいふ)」といったが、違割符の所持者は直前の譲渡者に弁償を求め、その譲渡者はさらにひとつ前の譲渡者に弁償を求める。こうして違割符はいままで流通してきたルートを逆に遡っていって弁償させるのが常であった。これは、裏書制度の有無を別とすれば、今日の約束手形における遡及義務と基本的に同じ考え方である。もちろん、いつでも譲渡者を捕捉できるとは限らない。途中で足取りが途切れてしまうこともあろう。途切れたところにいた者に弁償させるのも一つの手段だが、そこをあたかも鯉の滝登りのように、強引に遡ってゆく手段もなかったわけではない。それが、あるいは寄沙汰であり、あるいは国質・郷質、所質などと呼ばれた第三者に対する質取り行為であった。

 以上をまとめると、譲渡された借書の決済は、それが成功するときには文書主義的に成功する、つまり顔の見えない関係として決済されるが、失敗したときには顔の見える関係を探して、それが見つかるまで、もと来たルートを遡上してゆく。この非対称性が当該決済システムの特徴である。そしてそれは、借書の譲渡性が完全な法的保護下にない状態と対応している。司法当局は借書の譲渡性を肯定もしていなければ否定もしていない。それがまさに当事者主義に帰結した所以でもあるわけだが、実例が十数件も確認されている以上、たとえ完全な法的保護下になくても、債権譲渡が広く行なわれていたこと自体は疑う余地がない。

 

P295

 最後に、これも繰り返し主張してきたことだが、一六世紀に入ると社会は借書の譲渡を認めない方向へ再び舵を切ってゆくように思われる。これは借書だけでなく、割符にも、また贈答の折紙にも言えることだが、だいたい文書の譲渡・流通ということが全体的に盛んになるのが一四─一五世紀であり、一六世紀に入ると明らかに純化・沈静化に転じる。だから、この時期にさまざまな分野で顔の見えない関係から顔の見える関係へ、匿名的な関係から対面的な関係への回帰が起こったことは疑う余地がない。債権譲渡を意味するとみられる「相伝」の禁止条項が一六世紀の禁制に出てくるのも時期的に付合するし、国質・郷質・所質等の禁止事項がやはり一六世紀の市場法に頻出するのも無関係ではないかもしれない。そして、その原因はおそらく経済構造の変化だけでは説明できないだろうといのが私見である。

 債権・債務関係が人格に固着していると考える社会では債権の譲渡は起こらない。それが起こるのは債権・債務関係が人格から切り離しうる─そして多くの場合、文書に固着しうる─と考える社会においてである。中世後期の日本はそれらがかなり極端に表出した社会であり、贈与のようなもっとも人格から切り離しがたいと考えられている関係をも、極限まで非人格化してしまった。

 

  →人格固着の対義語は、非「人格固着」ではなく、文書固着。対比関係を考えるときに要注意。文書フェティシズムが生まれるのも、この時期だった。

 

P296

 そのようなことがなぜ起こるのか、またそのようなことが起こる社会にはどのような特徴があるのか─これはかなりの難問であり、とうてい短時日で答えが出せるとは思えないが、たとえば次のようなところから解決の道が開けてはこないだろうか。すなわち人格的な関係は絶えず更新していないと消滅してしまうものであり、その点で非常に大きなエネルギーを要するものだということである。

 代表的なものとして主従関係を考えてみよう。主従関係が形成された第一世代では主人と従者の関係は強固であるが、世代交代を重ねるにつれて、主人の従者に対する信頼も、従者の主人に対する忠誠心も、ともに大幅に減退することが避けられない。だから安定した社会では、それを家格に固着させ、忠誠心の深さなどとは無関係に継承されてゆくシステムに移行するのであろう。債権・債務関係が人格を離れて文書に固着するのも、それとまったく同じとは言えないまでも似たような現象であり、成熟した社会は早晩そのような省エネ社会に向かわざるを得ないのではあるまいか。

 

 →ということは、成熟した社会とは、さまざまな社会関係から人格的な要素が薄れ、システマティックに処理されるようになった社会を指すことになるのか。官僚主義が徹底され、無責任主義が蔓延した近現代社会と何が違うのか?近代官僚システムという規定が間違いで、官僚システムは、各時代の最盛期には必ず現れる合理性を追求したシステムということか。古代官僚システムも中世官僚システムも、近世官僚システムも、近現代官僚システムも、程度の差・時代的特質の差こそあれ、すべてに効率性・合理性が共通するのではないか。

 

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 年貢米は一般に通行税免除とされたが、途中で替米が行なわれた場合には免除対象にはならないというのが関所側の主張である。その理由は明白だろう。替米は富田・篠木両荘の産米ではないからである。まさしくその荘園から届いた米でなければ年貢米とは認めがたいとする理屈が出てくるのは決して意外なことではあるまい。結果的に幕府禅律方頭人はこの主張を却けたけれども、人だけでなく、米のような非人格的なものについても指名的か匿名的かという同様の問題が発生し得たことは重要である。

 こうなると、ことは人格性の問題ではなく、オリジナルとその等価物を同一視できるかどうか、純粋に交換価値だけで物事を考えることができるかどうかという互換性認識・抽象化能力一般の問題に帰することになろう。そして中世人の不敵さは、この点において人を何ら特別視しなかったところにある。

 銭貨を流通させることなどは、さしずめその最も初歩的な一歩であったろうが、中世人はその後も実にさまざまなものを交換の場に投じていった。このドライで合理的な精神がどのような歴史的環境のなかで培われたのかを考えたとき、序論で触れた脳の営みのことなどがまた頭をもたげてくるのを覚えるが、本書の考察はここでひとまず終える。忌憚のないご批判を賜れば幸いである。