周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

酒匂著書

 酒匂由紀子『室町・戦国期の土倉と酒屋』(吉川弘文館、2020年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

序章

P2・3

 土倉・酒屋の定義が曖昧。土倉・酒屋が金融業を独占的に行なっているわけではないので、土倉・酒屋を別の視角から検証することが必要。土倉・酒屋を金融業者とみなさずに論を進めていく。

 

P6

応仁の乱後の京都には、多数の土倉・酒屋が存在したのか。

②京都近郊の村落住民がわざわざ京都の土倉・酒屋に米や銭を借りにきたのか。

③土倉・酒屋が存在する場所には、どのような特徴があるのか。

④応仁・文明の乱を画期に、「法体」の土倉から、「俗体」の土葬へ変化する認識されてきたが、このことはどのような意味をもつのか。また、乱はどのように画期として作用していたのか。

 

P8

 改めて述べると、土倉・酒屋を通して京都の社会構造を考察するには、幕府による土倉・酒屋役や山門との関係のほか、京都に存在する諸権門との関係も考慮しなくてはならない。土倉・酒屋の実態を明らかにするには、幕府や山門だけでなく、諸権門やその他京都を構成する要素とどのような関係で繋がっていたのかということを総合的に検討していかねばならないといことになろう。

 

 

第1章 戦国京都の「土倉」と大森一族

P16

 林屋・仲村・桑山の土倉・酒屋評価(京都経済の中心)と仁木・早島の評価(経済縮小)の相違を、大森一族の身分の再定義によって克服する。

 

P19

 先行研究において「土倉」とみなされてきた者とは、

山門と室町幕府による土倉・酒屋役注文や、古記録などにて「土倉」の肩書きを有している者、

また、質屋業(質物を取り銭を貸し付ける)および倉庫業を行っていたことが確認できる者、

そして、「土倉」としての倉号(屋号)を所有していたことが判明する者を対象にしてきていた。

すなわち、銭や米を貸し付けた事例のみでは、その者が「土倉」であったことの根拠とはならないのである。

 

P28

 これらを踏まえて大森一族の活動を分析したところ、同一族は、京郊に拠点をおいたいくつもの家の同名中にて構成され、被官を通して村や村人、在地とのつながりをもっていたことが明らかになった。つまり、大森一族は、京都市街に蔵を所有し、質物を取りつつ銭を貸し付けていた「土倉」のような金融業者ではなく、他のカテゴリーに分類されるべき者だったのである。

 

P32

 つまり、桑山氏が大森一族を「有力な土倉」とした条件とは、研究史上の「在地領主」、とくに「土豪」の概念と合致する者だったのである。したがって、大森一族は、京都市街の「土倉」ではなく、京郊の「土豪」であったといえよう。また、大森一族が「土豪」であったということは、天文15年の分一徳政令史料において、山本や渡辺、そして大森一族と同様の貸付を認められる者も「土豪」であった可能性が高いということを意味している。

 

【西島論文】

・朽木氏の代官職入手に興禅寺が貢献していること。

・臨時の碑文を在地にかけないとの六角定頼の下知状および稙綱の一行書出があるにもかかわらず、近年それが守られず、門跡へ公用も納められていないこと、前代官大森氏が捨て置かないで訴え出たこと、百姓の懈怠、下代の申し掠めを必ず糾明し、門跡の裁定があることなどが窺える。

 

P40

 したがって、天文15年の分一徳政令史料に見える「従去々年借用也」の文言が指す天文13年、14年の京都および京郊は、度重なる天災により年貢を納入できる状態になかったと言える。ここから年貢納入を目的とした関係が生じたことを想定できる。

 

P46

 一方で、こうした大量の貸借が発生したことについて、銭主である京郊の「土豪」から捉えた場合、多くの借主から利子を徴収できるだけでなく、貸借の際に担保となっていたであろう所々の借主が所有していた土地職?を集積していく機会となったことが考えられる。したがって、天文15年の分一徳政令史料とは、天文13、14年の天災が、京郊の「土豪」などの経済を変動させる機会をもたらしたことを示す史料であると言える。

 

P49

 すなわち、分一徳政令を発布したころの幕府は、目前に迫る戦に向けて、人夫や資金に逼迫した状態になったのである。こうしたことを踏まえると、幕府が天文15年の分一徳政令をこのタイミングにおいて京郊の在地に向けて発布した主たる理由を、天文13年、14年の天災によって疲弊した在地の救済であったと評価することは軽率だろう。

 

 

第2章 応仁・文明の乱以前の土倉の存在形態

P55

 土倉の「座」に関する史料は、これまで見つかっていないし、利権の存在も確認できない。さらに、他の商工業者は同業者ごとの拠点地があるが、土倉にはそれがない。

 

P56

 つまり、先行研究は、土倉=都市の金融業者という定義に立脚し、土倉の存在形態について商工業者の存在をモデルケースとして検討しようとしてきたのである。しかしながら、結果的に土倉の存在形態は、商工業者のものと相違していることが明確となったのみであり、依然として不明のままなのである。(中略)

 言うなれば、これまでの研究における土倉とは、史料上で「土倉」と表記される者と、実は土倉ではなかった者を混同したものだったのである。このことこそ、これまでの土倉の存在形態をよくわからないものにしてきた原因の一つになっていたのではないだろうか。

 

P59

 これらの記事から看取される貞成と宝泉の関係とは、代々の伏見宮へ宝泉が奉公することと引き換えに、所職や坊号を安堵してもらうというものであった。そうした土倉「宝泉坊」は、一つのイエが継承していくものであったことも判明した。

 

P60

 宝泉の在所は、相国寺末寺の伏見大光明寺内称名院で、伏見宮菩提寺

 

P61

 注目したいのは、地下損亡により段銭を納められなかった殿原らが段銭を支払うために「両土蔵」へ借銭の交渉をしたのではなく、あくまでも主家である貞成が「両土蔵」へ立て替えさせたことである。つまり、「両土蔵」は、主家の意志によって、銭を調達したのである。

 

P62

 宝泉は、伏見御所において小川禅啓と同じく「地下」身分であったが、地下のうちでも侍とは別の立場に位置していたことを意味する。「内之奉行」? 酒宴を執り行っている。

 

P64

 土倉の羽田能登坊は万里小路家に収支報告を行なっている。

 

P65

 能登坊は浄花院に関係が深かった。浄花院は万里小路家の菩提寺であったほか、勧修寺流吉田一門の菩提寺であった浄蓮華院とともに万里小路家財政を統括していたという。

 

P68

 以上のことから、万里小路家が土倉能登坊に期待した職務とは、万里小路家へ銭を貸し付けることではなく、万里小路家の抱えた負債を立て替えられる者を探し出し、交渉することだったことがわかってきたのである。(中略)浄花院は土御門室町にあった。

 

P69

 したがって、能登坊は時房と直接的な主従関係にあったというよりも、能登坊が仕える浄花院が万里小路家における財政面の運営を担って関係で、万里小路家に関与していたと捉えるべきだろう。

 

P72

 この事例にて注目すべきは、「両土蔵」の「北蔵」の担当として伏見宮に仕えていた「等持」が、延暦寺の山徒でもあったということである。しかも、等持は円明坊の同宿であったことから、両者が同じ法脈上の関係にあったことも看守できた。こられのことは、等持が貞成をはじめ、伏見御所の人々と関係を有しながらも、一方で僧籍の法脈関係が疎遠だったわけではなかったことを意味している。

 

P74

 二つの事例から、土倉の者やその家が僧籍の寺院とのつながりを保ちながら、公家の当主や、またその菩提寺に奉公していたことがわかった。土倉と僧籍の寺院との繋がりは、あくまでも法脈に関係するものであったと考えられる。

 一方で、その繋がりによって現出する集団は、土倉同士が僧籍の寺院へ奉仕し、職商人として利権を得るべく同業者集団を組んだものと見なすことはできない。ゆえに、土倉と僧籍の寺院との繋がり、職商人の「座」に比肩するものではなかったといえる。

 

P75

 その結果、『看聞日記』と『建内記』に見える土倉に共通したのは、土倉が日記の記主の家の菩提寺の下で奉公していたという意外なものであった。

 

P76

 他方で、本章で取り上げた土倉には、僧籍の寺院、とりわけ法脈との繋がりが存在し続けたことも認められた。そうした法脈による関係が、弟子や兄弟弟子の家の内情も熟知するようなものだったのであれば、師や兄弟弟子は、富裕な家の出自である弟子や兄弟弟子を紹介することが可能であろう。

 

 

第3章

P89

 つまり、頼山陽は『日本外史』以外の著作においても『読史余論』の内容を引用しており、さらに中世の事象を近世の事象に当てはめるという論理によって説明していたことが浮き彫りとなってきた。だが、本章で注目したいのはその点ではなく、「土倉」が富裕な金融業社であったとする見解や、室町幕府が「土倉」に商業税を賦課していたという史料解釈が、江戸時代の新井白石によって説かれていたものだったということである。さらに、基にした史料は、一次史料とはいえない軍記物『応仁記』であり、しかも資料の誤読によって生まれた解釈だったと考えられるのである。

 

 

補論 室町時代の東寺執行方公人

P106

 橋本初子氏によれば、執行とは、「平安時代以来の修理別当の職を濫觴とし、堂塔伽藍および境内の管理・修理等に関わる実務を担当した」者だという。また、「寺内諸堂において行われる諸法会の、道場荘厳や燈明・施食布施にいたる種々の支度は、常に執行方が管掌するところであった」とする。

 

P110

 したがって、中門御供養に関与していた執行方公人らは、仮名を有しており、法会や行事の支度のほか、宝蔵兵士を勤めることが職務であったことがわかった。

 

P113

 仮名は屋号。(中略)

 つまり執行方公人には、当時から住宅提供の特典があったのである。

 

P114

 したがって、執行方公人は、東寺の寺院組織のなかにおいて下部に位置する存在だったものの、社会的にみれば、身分や住居、給田などさまざまな点で東寺から保証を受けており、奉公人を雇うことまでもできる存在だったといえる。

 

 八足とは?

 

P115

 「此子細〜不作之間」?

此の子細は当座共に畠を好みて更に家を所望に不作の間、地下富貴のため公人中へ下知し了んぬ、後、百姓に充行い之を付くるなり、

 

この取り決めは、いま屋敷地に住んでいる人々がみな畠を好み、さらに家を建てることを望んで作物を作らないこともあるので、屋敷地を望む地下の裕福な者のために、公人中へ承知するように下知しました。あとで、百姓に充行いその土地を与えるのである?

 

P119

 ところが、室町中期ごろになると、公人の中に武家被官になる者が出現したり、百姓に借銭して、その抵当として当時から充行われた田畠を取られる者まで出てきたのである。

 一方、こうした流れについて評価するならば、どのような身分の者でも別当や執行の許可さえあれば、寺院組織の構成員として新たな身分を手にすることができる状況になっていたといえる。それは、洛中洛外に住居や田畠を望む者が公人身分を入手することによってそれを叶えることができる状況である。

 

 

第二部 第1章 神宮御倉と室町幕府

P122

 興味深いのは、当該期の「神宮御倉」を務めていたのが『八瀬童子会文書』や『蜷川家文書』といった京都の土倉・酒屋関係史料において「酒屋」の一つとして確認できる「小原」だったことである。

 

P123

 ここで注目したいのは、「小原」が「神宮御倉」に就任した応仁・文明の乱後は、右にみたように遷宮の滞っていた時期に重なることである。

 

P124

【史料1】

造営御用脚を預かり置くにより、

 

①大工たちは造営用脚を誰かから受け取り、それを神宮御倉に預け置いた。そして伐採・運送作業に従事する人間の給分に相当する割符を美濃の山(作業場)において振り出して、人夫らに渡した。そして人夫たちは神宮御倉に割符を持ち込み、給分をもらう。

 そのほかに造営用脚が足りないときは、先に割符を神宮御倉に立て替えて振り出してもらい、その割符を人夫らに渡して、材木を送付した。用脚が整えば、大工から御倉に立替分が返却される。

 

P127

 (この割符は)いうなれば、中世において「切符」と表現される、為替手形を意味しているものであることがわかる。

 

P128

 よって、神宮御倉の役割は、神宮造替料の保管と頭工による下行指示に従い、費用を渡していたものであることがわかった。頭工や配下の工らが通常は伊勢にいたことからして、ここに見える神宮御倉は、伊勢に存在していたとみるべきだろう。

 次に、京都に存在した神宮御倉について、その職務を分析したい。

 

P131

 よって、神宮御倉とは、伊勢神宮遷宮に伴う費用を預かり置く倉であり、役夫工米の徴収権を有した室町幕府があった京都と、伊勢神宮のある伊勢の両所にあったことがわかってきた。しかも、神宮御倉の者は、朝廷・幕府の両者から諸役免除の特権を得ることができたことも明らかになった。

 

P132

 よって、神宮御倉は、少なくとも応永4年に成立していたと考えられる。

 

P138

 史料①が義政から政知に宛てられているものであることからして、政知の指揮下にある関東武士の所領が役夫工米の賦課対象になっていることを窺い知れる。つまり、ここで役夫工米を賦課した先は、この時点で義政や幕府と関係の深い者であったといえる。

 

P145

 これらのことを総合すると、神宮御倉小原は山名一門の被官だったと捉えられ、将軍の外様衆である小原と異なるものであったと考えられる。

 

P149

 

第2章 禁裏御倉と室町幕府

P159

文安元年(1444)辻御倉初見。

文正元年(1465)後土御門即位。禅住坊と正実坊が即位費用の出納を行う。

文明11年(1479)土御門内裏に還御。

文明18年(1486)に辻襲撃。いつ復活したのか?

長享3年(1489)には、公方御倉(たぶん玉泉坊)と籾井が代行?

 

明応6年(1497)までは野洲が代行し、それ以降は大橋が代行。

文亀2年(1502)野洲が禁裏御倉就任。

文亀3年(1503)大橋は臨時の禁裏御倉。

大永元年(1521年)後柏原即位。大橋と玉泉坊が即位費用の出納を行う。

 

P162

 したがって、これらのことを考慮すると、酒屋土倉注文に見える土倉・酒屋とは、幕府の都合で動く者らのリストであった可能性が浮かび上がってくる。言うなれば、応仁・文明の乱後に幕府が編成していた洛中洛外の居住者ということになろう。先に述べたように当該期の幕府は、地域を問わず幕府に加担していた者らに臨時役を付加していた。このことを踏まえるならば、『蜷川家文書』の酒屋土倉注文に現出した土倉・酒屋役とは、応仁・文明の乱後の京都における商業支配が目的というより、そのときの幕府に加担していた者らに課した臨時役の一つだったということが考えられる。

 

P163

 小括として、禁裏御倉の辻の職務と特徴、そして臨時の禁裏御倉の野洲・大橋との違いについてまとめておきたい。

 

P168

 よって、野洲が勧修寺藤子被官となった理由は、禁裏御倉に復職することを吹挙してもらうことであり、その目的は、土倉・酒屋役の免除にあったということが窺える。

 

P173

 野洲は、父子で幕府方に奉公しつつも、公家の山科家にも奉公していたことが判明した。そこで野洲善秀は、山科言国の人脈を頼り、後奈良天皇の母にあたる勧修寺藤子の被官になることで、御倉再就任を天皇に推挙してもらうことが可能となって御倉の再就任に成功している。

 山科家に奉公する以前は、東寺執行の公人として東寺「寺内」に居住し、鍵取の役についていたことも判明した。また、同時に山門の日吉神人でもあったことがわかった。

 東寺の史料から野洲を確認できなくなるは延徳3年であり、『山科家礼記』に「さるや」「同子」として登場するのが明応元年である。このことから、野洲が当時との関係を絶ってから山科家に奉公したように見えるが、「上のさかや」「下のさかや」が野洲を示しているものならば、野洲は、東寺の執行公人でありつつも、上京にも拠点を構え、山科家に奉公していたことになる。

 本節で明らかになった成果としては、野洲父子の奉公先が多重になった契機が応仁・文明の乱ではなかったことである。

 

P175

 つまり、このときの幕府は、従来からの禁裏御倉のほかに、幕府の職務を補佐する禁裏御倉を創設したということになる。

 

 

第3章 応仁・文明の乱後の酒屋・土倉と「武家被官」

P186

 むしろ、武家と酒屋・土倉・味噌屋などと被官関係は、乱以前から存在していたことが浮かび上がってきた。

 

P198

 注目すべきは、「婦女後室」が酒屋を所有しており、それをもって不動産経営していたことである。【史料9】の内容によれば、沢村は「四条大宮酒屋」をイランしているということであったが、ここで割注を見ると、沢村が「四条大宮酒屋」の家具と倉を使用していたと読み取ることができる。このことから、沢村は「婦女後室」の酒屋を家具や倉も含めて代官として期限付きで管領していた可能性が考えられる。つまり、こうした不動産運営につながるような酒屋の運営は、応仁・文明の乱以前から存在していたと言える。

 

P200

 このことに関して、本章において見てきた事例を踏まえるならば、右にあげた在所の者らは、山門側に親兄弟が日吉神人として掌握されている者か、転居を重ねるうちに山門側から日吉神人とみなされる理屈を付されてしまった者と考えられる。翻って、山門側から一度日吉神人であると認められてしまったならば、もし他の寺社領に転居したとしても日吉神人とみなされ続けてしまっていた状態があったことを読み取ることができる。

 

P203

 さらに、日吉神人となっていた武家被官の実態に目を向けると、山名の筆頭被官であった垣屋もいれば、伊勢が管領する所領の公文を担い、丹波と京都の両所より伊勢に奉公していた一族の高屋や片山もいた。彼らは、主人に仕えるために在京する必要があったのである。しかしながら、彼らは在京するにあたり、武家や幕府から役宅が与えられていた形跡がない。そこで、本性の結果を踏まえて浮かび上がってくるのは、彼らの在京のための在所として使用されていた一つが酒屋、土倉、味噌屋などの倉だったということである。

 こうした彼らに対し、山門が馬上役を、そして幕府が酒屋・土倉役を賦課していたのであるから、そもそも在京する武家被官は裕福なものしか務まらなかったという実態が見えてくる。さらに、その富の源については、高谷一族のように苗字の地との密接なつながりを持つ者の存在から勘案するに、彼らが京都で捻出したものというより、在地における彼らの富が京都に持ち込まれていた可能性を考えなくてはならないだろう。

 こうした社会がいつからできあがっていたのかということについては、今後検討していきたい。

 

 

補論 戦国期の蔵人所御蔵と洛中の住居

P219

 したがって、土豪や国人らが在京して生計を立てていくには、京都内での身分を得る必要があるということがわかってきた。その身分に付随する職務に伴って、住宅を手にすることができていたのである。他方、そうした身分や職務に就くものがいなくては、その職務が回らなくなるわけである。本論で見たように、朝廷側が真継の作成した偽の譲状などでその身分を安堵した背景には、権力者による鶴の一声もさることながら、その職務に携わる者がいなくなることが困るということもあったのではないだろうか。

 

 付論1 中世の節供

P230

 「御節供」とは、祇園社で行われていた節日行事(上巳の節句端午の節句重陽節句)を指していた。その実態は、各節日の節供料所となっていた祇園社社領から運上された供物を社頭へ祀り、のち、祇園社構成員へ配分されるものであった。「御節供」は、祇園社構成員が祇園社から得分を得る機会となっていた一方で、「御節供」を「沙汰」する者は、社頭を知行できていることを同社構成員へ示す機会ともなっていたと考えられる。

 

 他方、「節供」については、顕詮自身が支払う「節供」料足を指しており、その内容は2点存在した。一点は、執行職の役として別当力者に対して払う銭であり、もう一点は、顕詮が配下の者へ振る舞う銭や酒であった。

 したがって、『祇園執行日記』における「御節供」は、祇園社を中心にした行事であったことに対して、「節供」は、顕詮を中心にした行事であったことが明らかになった。顕詮は、これらのような意味を込めて「御節供」と「節供」をかき分けていたのである。いずれにしろ、節日は祇園社において、当人が帰属する神社や人から、物や銭が下賜される日であったことは指摘できよう。

 

P231

 これまでみてきた『祇園執行日記』記載されている「御節供」「節供」の記事は、実は、おしなべて行事が通常通りに行われなかった場合の内容であったことに気づく。つまり、節供行事は、行事次第を毎回記録しなくてはならいような公的なものではなかったと看取できる。他の自社の史料群においても、この行事の記録がほとんどない理由は、ここにあったのではないだろうか。

 

終章

P248

 このことが意味するのは、応仁・文明の乱によって停滞していた祇園会が復興したとされる明応9年(1500)には、土倉・酒屋を中心とした「町衆」とされる人々が幕府や幕府の権力者の命令に従う立場の者であったということである。

P249

 これらのことを踏まえると、土倉が権力者に関与したのは、所属する寺院における職務を果たしていたにすぎないとも評価できる。ここから見える土倉の社会的立場や職務は、『八瀬童子会文書』をはじめ、当該期の史料より多くの土倉、そして酒屋が寺社境内に存在したことを認められることから、それら多くの土倉や酒屋にも敷衍できる可能性がある。

 こうした結果からは、室町期の土倉の人脈が所属する寺社や、得度した寺院など、自らの身分を証明する権力体の下を中心に広がっていたといえる。すなわち、室町期の土倉の実態からは、他の寺社の土倉等と「町衆」のような集団を結成する必要性が全く見えてこないのである。

 

P250

 大森一族については、従前、少額債権を多数所持していたことを論拠として、「金融業者」である土倉と位置づけられてきた。しかし、本書での検証により、その大森一族は洛北の土豪であったことが判明した。

 本研究の結果から浮かび上がってきたのは、従来の研究において史料用語であるはずの「土倉・酒屋」が、大森一族の事例のように、概念用語として使用していた研究も少なからず存在しているということである。このことは、研究者によって「土倉・酒屋」と位置づけていたものの基準が異なっていたことを意味している。今後の研究においては、関連資料に即して銭主の社会的立場を注視していく必要があると思われる。

 

P252

 これらのことを踏まえて考慮すると、当該期の土倉・酒屋役は、幕府が洛中・洛外の商人に課した商業役と解釈するよりも、幕府寄りの武家の被官に対して幕府への忠誠を示させるために要求した献金の意味を含む課役とみなす方が妥当なのではないかと考えられる。